The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

32 .Artist Brand (4)
 目次
 部屋の中から突然溢れ出した、目映い光に思わず目を細める。その光の中から鈴の音のように澄んだ声が、彩人の耳に届いた。
「初めまして、沢渡君」
 明るさに慣れてきた目が正確に映像を結ぶ、声の主は彩人と同じ年の頃の女の子だった。驚いた彩人は、思わず目を見張った。まるで、その体から輝きを放っ ているようだ。白いスーツに身を包み、上品で柔らかな微笑みは知的で大人びた雰囲気を感じさせる。整った顔立ちにさらさらとした長い黒髪、強い光を帯びて いる髪と同じ色合いの瞳。
「ありがとう、貴子さん。後は、私が話すから」女の子が微笑む。
「はい」
 龍崎は丁寧に一礼した後、通路に出て扉を静かに閉めた。
 広いフロアに二人きり。戸惑っている彩人の様子に女の子はぱちぱちと瞬きしたが、すぐに形の良い唇に笑みを浮かべた。
「私は、本城美咲(ほんじょうみさきといいます」
 そう名乗った彼女……美咲は「ごめんなさい、訳も話さずに連れてくるような事になってしまって」と、両手を体の前で重ねて丁寧にお辞儀をした。
 彼女からいきなり謝られ、抗議しようと少しだけ用意していた言葉が消え失せた。彩人は「沢渡です、沢渡彩人」と、これまた丁寧にお辞儀を返す。
 ……この女の子は誰だろう? 
 以前に話した事があるのだろうか? 彩人にはまったく心当たりがない。
 しかし、目の前の彼女は自分の名前を知っているようだ。
(本城グループ……。ん、本城美咲?)
 不意に一階の受付で見た、社名が入ったプレートを思い出した。 
「珍しいわ。私の事を知らないみたいね、プラス十点! 何点満点で、あなたが今何点獲得しているかは秘密」
 美咲は、悪戯っぽくそう言った。
「何だよ、その点数は……」
 いきなり点数を付けられて、ちょっと不機嫌な彩人を見た美咲は、また楽しそうに笑った。花の蕾がほころんだような、魅力的なその笑顔。
「あなたと言葉を交わすのは初めて。同じ学校なのよ、沢渡君とは学部もゼミも重ならないからかな……」
「え?」
 彩人はぽかんと、口を開けた。
 祐二ならば、ちゃんと知っているのだろうが、こんな綺麗な子が同じ大学に在籍していたとは全く気付かなかった。いや、今はそんな事を考えている場合ではない。
「俺に用があるなら、早く済ませて欲しいな……その」
 時計の針が指し示す時間を確認した彩人は、思わず口ごもる。
 まさか、誤魔化すわけにもいかないだろう。
「合コンに行かなきゃならないんだ」
 彩人自身が本意でないからだろう、ちょっとぶっきらぼうな口調になった。
「……マイナス三十点! でも私も強引だったから、プラス五点」
 美咲は一度つん! とそっぽを向いたあと、彩人を見つめて小首を傾げた。
「沢渡君、そんなに合コンが気になるの?」
「いや、合コンなんてどうでもいい。ただ、約束をすっぽかすと心配する友人がいるからさ。合コンには興味がない、俺はただの客寄せパンダだから」
「そう。あなた、パンダなんだ?」
 くすくすと笑う彼女は、パンダの意味が分かっているのだろうか。
 そこで納得されても、微妙な心持ちになってしまう。
「実はね……私もその合コンに出席する予定だったの、沢渡君に少し話を聞きたくて。でも、やっぱり合コンなんて自分には似合わないと思ったからこうして……」
「俺を誘拐したのか?」
「誘拐? そうね、誘拐よ! 今からびっくりするくらいの身代金を要求するわ!」
 美咲が肩を震わせて笑う。
 こんな事をしなくても、普通に声を掛けてくれれば面倒が無かったのに。
「そんな価値は無いって。身代金はともかく、話なら出来るよ。何が聞きたいのか分からないけど」
 楽しそうな美咲の笑顔を正面から見られなくて、彩人はついっと視線を逸らした。
「お話……ね、焦ることもないけど。ん、とりあえずプラス十点! でも、私から目を逸らせたからマイナス五点」
 げ、減点? ……よく見ているんだな。
 査定の基準もよく分からない点数を付けるのは正直やめて欲しい、苦笑した彩人は肩をすくめる。美咲は手を背中に回して背すじを伸ばし、大きな窓から外を見ながらとんとんとリズム良く歩く。
「沢渡君は美術科で洋画コースよね、それから葛西先生のゼミでしょう?」
「ああ、葛西先生の講義は面白いよ、課題の締め切りと評価は厳しいけどね」
 どうやら、すでに基本情報は調査済みらしい。
 彩人は確認にしかすぎない質問に苦笑した。
「ん〜じゃあ質問するわ、沢渡君は苦手な画材ってあるの?」
「パステルが苦手かな、ハードもソフトも。あの画材は頼りなくて、どうにも扱いづらい」
 美咲はひとつひとつ確かめるように、彩人へと質問する。
「やっぱり、油彩画が一番?」
「そうだね、扱い慣れているからかな。でも、水彩の魅力だって理解しているつもりだ」
 彩人は、愛用している画材を思い浮かべる。
「各種のメディウムを利用して、その性質を理解して使いこなせばアクリルも多彩な表現が出来るよ。一部では、主流になりつつあるんじゃないかな」
 美咲の質問は、モチーフや技法、技巧の深い話題にまで及ぶ。
 彩人は高校生の頃は静物画が主だったが、現在はモチーフを限定しないようにしている。
 腕も、頭も凝り固まってしまうからだ。座学も得意で様々な画材に詳しい彩人は、丁寧に美咲へと答えていく。
「あのね、じゃあグラフィックデザインに興味はあるの? プロダクトデザインとか環境デザインは? デザイン学科でも有名なのよ沢渡君って」
 デザイン学科か、情報源は……二、三人の講師の顔が浮かんで消えた。
 まあ、特に困ることでもない。
「学内で俺が関わっている事を、知ってるみたいだね。なら付け加えるけど、パソコンを使ったコンピューター・グラフィックも嫌いじゃない」
「たくさんの興味を持っている訳ね、十点上げてもいいかな……」美咲は頬に指を当てて、小首を傾げてみせる。
 彩人はそこで言葉を切った。美術史学や映像学など、卒業までに出来る限り様々な事を吸収しようとしている。胸の中にある大切な想い、彩人は母から絵の手ほどきを受けた。短い間だったが、その時間を彩人は忘れない。母は精一杯、彩人に色々な事を教えてくれた。
 しかし、まだ幼かった彩人には難しい事も多く、あの頃聞いた母の言葉は彩人の中でぼんやりとした輪郭だけしか残っていない。
 彩人は母の言葉を、確かな形としたかった。だから……。
「どうしたの、減点するわよ?」
 自分の足跡を思い出し、黙り込んだ彩人。
 母と同じ栗色の瞳を、美咲が興味深げに覗き込んでいる。
「ねぇ沢渡君、私達に出来る事って分かる?」
「え?」
 美咲の瞳が、突然輝きを増したように感じられる。
「私達はね、心の中のイメージを形に出来るわ、自分自身の感性を使って。そして、自分が持っているイメージを表現して欲しいという人達に、力を貸してあげることが出来るのよ」
 こつこつと靴音を響かせて歩く、美咲の存在感が強く大きくなっていくように感じられる。
「その人が、何を表現して欲しいのか見極める事。コミュニケーション能力も重要ね、洞察力や理解力も必要なのよ。そして伝えられた言葉をイメージに変えて、アーティストとして作品へ投影する」
 顔は上を向いて、黒い瞳は遠い何かを見つめている。
「私はもうすぐ会社を起ち上げるつもりなの、今までずっと準備を続けてきたわ。それこそ日本の、いいえ世界中のデザイン画や絵画、様々なデザインスタジオの最前線をしっかりと見て、感じて来たのよ!」
 美咲は彩人へと向き直り、ばっと両手を大きく広げて見せた。
「これが私の夢なの! このオフィスがアトリエよ。私と私が見込んだアーティスト達と共に、ここから全世界へ豊かで優れた感性を発信するの! 様々なデザイン、彫刻、絵画……世界中を私達の感性と作品で埋め尽くして見せるわ!」
 美咲は熱っぽく語る。その言葉にはまるで、彼女が抱いている全ての夢を現実にしてしまう、大きな力が宿っているように感じられる。
「……今はまだ父の掌の上、この会社で仮住まいだけど。すぐにこのフロアを全て買い取ってみせるわ」
 社長令嬢……。だが、しっかりとした独立心を内に秘めているようだ。
 拳を握りしめて息巻く美咲の表情は、生気に満ちて輝いている。
 そして、少し子供っぽい無邪気さと、危うさを彩人は感じていた。
 ……放って置いて大丈夫かな?
 そんな心配が、心の中で頭をもたげてくる。
「沢渡君自身の未来像はどうなの? あなたの将来には何が見えている? それを私に聞かせて」
「俺の未来……」
 興奮気味の美咲に見つめられた彩人は、後に続ける言葉を飲み込んだ。
 胸に秘めたその想いはあやふやで、彩人自身も未だに掴み切れていない。
「はっきりしないのね、マイナス五十点!」
 美咲は厳しい表情で最大の減点を宣言し、彩人に指を突き付けた。
 しかし、ふっと微笑んだ美咲は、その手を柔らかく開き彩人へと差し伸べる。
「でも、これでちょうど百点! 沢渡君、一緒に未来を見つけてみない? 私の会社『アーティスト・ブランド』で!」
 強い光を帯びた黒曜石の瞳。
「私はこの出会いを、運命だと思うわ」
 彩人は瞬間的に、その瞳の輝きに魅入られた。
 ……運命? 
 智一の言葉がふと、脳裏に浮かぶ。
(未来を手に入れる……か)
 差し伸べられた美咲の手を、そっと取った彩人は心の中でそうつぶやいた。

 ☆★☆

 綺麗にカップを洗って。はい! これでお終いです。
 閉店後の後片付け、私は洗い物の手を止めて水道の蛇口をきゅっと閉めました。
「……遙さん?」
 カウンターに座っている、浮かない表情の遙さん。
「どうしたんですか?」
「歯車が、回り始めたみたいね……」
「え?」
 カウンターに座っている遙さんは頬杖をついて、じっと窓の外の闇を眺めています。
 そんな遙さんの姿がとても儚げで、私は少し心配になりました。
「……あの子ったら」
 憂いを映す大きな栗色の瞳を伏せて、そっと呟いた遙さん。今日は朝から、店内に飾られた絵達がざわめいています。
 私は布巾で手を拭いて、リボンタイで輝くエメラルド色の飾り石へと指でそっと触れました。指先に伝わる冷たい感触、心に微かな不安が芽生えます。遙さんが何を感じていらっしゃるのか私には分かりませんが、今それを遙さんに問い掛けてはいけないような気がします。
 ただひとつだけ、幸せなこの時間が永遠に続いて欲しい……。
 私は心に、そう強く願っています。
 
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