The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 34 .黒衣の画家(前) |
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あ……暑い。 夏の日差しは容赦なく、私の体をじりじりと灼く。周囲の木々から聞こえてくるのは、みんみんと、じ〜わじ〜わと、耳にまとわりつく蝉の声。 はいはい。我慢するから頑張りなさい、与えられた短い時間を精一杯生きるのよ。うるさいけど、心の隅で応援してあげるわ。 ふんわりとのんきな雲が浮かぶ、目に染みるような青空。ぎらぎらと輝く太陽を見上げる勇気もなく、ただひたすらに足を前に踏み出す事だけを考える。 もう少し……もう少しで、自分の部屋へと辿り着く。どのくらい住んでいるのかしら? と、首を傾げた。朽ち果てた大きな洋館。幽霊が出そうな建物でも、私の心休まる大切な場所。 シャワーで汗を流してすっきりした後、ちべたい板張りの床に寝転がって、アイスをむさぼるように食べるのよ。 ああ……早く頭に響く、きーんとした痛みを感じたい。 心の中で身悶えしながら嬌声を上げてみる。 でも、冷蔵庫に買い置きがあったかしら? 一抹の不安が脳裏を過ぎる。しばらく部屋に帰っていないから、冷蔵庫の中身を覚えていない。と、言ってもアイスクリーム以外は、買ってないんだけど……。 今ならコンビニに寄って、好きなだけ買って帰る事が出来るわね。 ううん。やっぱり駄目、体と精神に余裕が無いわ。 そんな寄り道していたら、本当に体が溶けちゃう。 この暑い中、みんなよく外出なんかしていられるわね。ああ、私もそのうちのひとりか。 あはは、この暑さで頭のネジが緩んでいるみたい。 老若男女問わず道を行く人達が、私と擦れ違う度に目を丸くしている。 もう……何なのよう鬱陶しい。ひょっとして、私の美貌に見とれている訳っ!? ああっ! やめて、そんなに私を見つめないでっ! 熱い視線が私の体を焦がすのよっ! 体温とテンションが上がるじゃないっ! はぁ……やめやめ。 いいの、私自身が一番よく分かっているから。 みんなの視線は、間違いなく好奇の視線よね。 帽子も手袋も、シャツもパンツもヒールも……黒。 下着は……言わなくてもいいけど黒よ、く〜ろ。 私はアレよ。 寄席の舞台袖で顔を隠して、かしこまっている黒ずくめ。黒子さんのようですわよ。 おまけに黒い外套を身に纏っているものだから、風が通らなくて暑いのなんのって。 仕方ないの、私はこうしてなきゃならないから。お願いだから、黒い色が好きって事にしておいて。 ああ、頭がくらくらしてきたわ。 夏……この季節の弓状列島は嫌なのよ。 あいつの頼みじゃなきゃ絶対に来ないわ。でも仕方がないの、あいつには世話になっているしね。 それにしても……。 足が重い。 喉が渇いた。 幻影かしら、美しいオアシスが見えるわ。 よよ、と電信柱にすがりついてみる。 もうアパートまで、数メートルなの。 ごめんなさい。 遊んでないで、早く帰るわね。 ☆★☆ 足を引きずりながら古びた門をくぐる。看板に記されたこの洋館の名前なんて、もう消えかかっていて読みとる事が出来ない。庭いっぱいに咲いている、大きなひまわりが私を歓迎してくれている。 陽を向いて力強く咲く大輪の花、その明るく眩しい姿を見習いたいものね。 久しぶりに仰ぎ見た洋館の姿に変わりはない。どんなに刻を経ても、ずっとこの姿は変わらないでしょう。 たくさんのひまわりを愛でて和んだら、ふらふらとした足取りで建物に足を踏み入れる。 ひんやりとしたエントランス。 静まり返っていて、人の気配なんか全く感じない。ああ、ここはいつもそうなのよ。自由という甘美な果実が、無造作に転がっているわ。高い吹き抜け構造の天井には豪奢なシャンデリア。 正面に見える階段が、二階で建物の左右に分かれて伸びている。 階段正面の両脇に置かれている、大きな花瓶は空のまま。季節毎に綺麗な花が活けられているわ、誰が活けてるのか知らないけど。 もう少し前に帰ってきていたら、たぶん綺麗な水仙が鑑賞出来たのにね。 花瓶の脇を通って、ぎしぎしと頼りない音を立てる階段を昇り、右側の棟へ。 ええと、私の部屋は……あった! すり減って丸みが強調されたノブに手を掛けて、ぐるんと回すとあっさりと扉が開いた。 鍵なんて無いわ、この洋館では必要ないのよ。 部屋の主が許した者しか、立ち入ることは出来ないの。久しぶりよね、ぐるりと部屋の中を見回す。留守にしていたから、やっぱり埃っぽい。 苛烈な陽の光を浴びてたっぷりと熱を吸収した外套を脱いで、部屋の片隅に鎮座するソファへと放り投げた。メイク落としを手に取って、バスルームへ向かいながら次々と服を脱ぎ散らかす。 裸になって浴室に入り、シャワーのコックを捻った。いきなり水なんか浴びたらびっくりして死んじゃうから、少しぬるめのお湯に調整する。 気持ち良い、なにしろ干物になるすんでのところだったんだもの。 体の曲線に沿って流れ落ち、排水口へと流れてゆくお湯をただ見つめる。 その光景に、何か安っぽい哲学めいた言葉を思いついたけど、あいにく私は小説家じゃない。 溢れ出た言葉には少しの興味も感じないから、流れるに任せたわ。キャンバスを彩るひらめきなら、心にしっかりと留め置くんだけどね。 何もかもリフレッシュしたので、金色をした取っ手を捻る。お湯を止めるのに、ちょっとしたコツが要るのよ。柔らかな湯気をかき分け、バスタオルを体に巻いてバスルームから出る。ぺたぺたと裸足で歩きながら、長い髪をタオルで優しくマッサージするようにして水気を取る。 うん、メイクを落とした顔も突っ張っていない。 嫌なのよね、あの肌の突っ張りって。 髪をきちんと乾かして、そしてお待ちかね……と、言いたいけど。 さすがに何か着ないと、誰か来たら慌てなきゃならない。 床にぽつねんと残されていた黒いブラを、足の指に引っかけて脱衣所にぽーんと放る。 ゆったりとした黒いブラウスとブラックジーンズを、クローゼットから引っ張り出した。 着替えが済んだら出窓を押し開いて、留守中の淀んだ空気を入れ換える。埃臭さが薄れ、部屋に吹き込んでくる熱せられた空気の匂いを鼻腔に感じた。 さて、準備完了。 ひやっほう! と、弾む足取りでキッチンへ。 ガチャリと勢いよく冷凍庫を開けると、お気に入りのアイスクリームを取り出す。 ビニールの包装から、えいやっ! と、抜き出して聖剣のように頭上へと掲げた。 手に伝わる冷気、目にしみる清涼感、安っぽい香料。 少しの感動、ゴロンと床に寝転ぶ。 ふぁさっと広がる長い黒髪。柔肌が感じる、ひんやりとした堅い床……痛い、床はやっぱり堅いわ。 私は煤けた天井を見つめながら、無心でアイスクリームをかじった。 がりっ! きーん! おおぅ、キタキター! あたまイテー! 一瞬、がっくりと知能が下がったわ。 ごろごろごろと、部屋中を転がってみる。 あ……。 体も冷えたし、遊んでばかりもいられないわね。 私は今、人を探している。 この弓状列島で、やっとその存在を感じる事が出来た。焦らなくても大丈夫、もうすぐ見つけられる。 あ、悔しい、またはずれ。 食べ終わって残った木の棒を、ゴミ箱へ放る。 口の中に残った甘い後味が我慢出来なくて、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。ペットボトルのふたを開けて水をひとくち含むと、部屋の隅に転がっている、傷だらけの革製トランクを引き寄せた。 トランクの鍵を開けて、蓋を開く。 人探しをしていても、探偵業なんかじゃないわ。 私は絵描きよ、旅をする絵描きなの。 大きなスケッチブックを取り出して、新しいページを開いてテーブルに置いた。 絵が描きたければ、鉛筆と紙さえあればいい。新聞広告の裏だって、立派なキャンバスよ。 子供の頃、わくわくしながら夢を描いた事があるでしょう? トランクを開くと、幾つもの棚がせり上がる仕掛け。棚の中にきちんと納められている、たくさんの絵の具。この絵の具は、簡単に手に入れられる品ではないの。 そう、『あいつ』のお店でしか入手出来ない。 この世界の、ありとあらゆる色を凝縮したものよ。 星が瞬く夜空の色。 紅の光と混じりあう、薄墨を溶かしたような黎明を表現する色。 暗雲の中を走る雷光、爆ぜる火の粉、激しい炎の色、そして純真純白の雪。 萌え出る草の芽、草原を渡る風、うねる海、凪いだ海の色。 人の心に感じる喜び、怒り、悲しみ、嘆き、妬み、優しさ、慈しみ。 ……そして、絆。 私はたくさんの特別な色を使って、キャンバスへ豊かにその想いを表現出来る。 あら、少し脱線したわね。 目標とする人物の位置を特定するために、最後の捜索を始める。 右手をぱっと開き、その秘められた力を借りるために絵の具へとかざす。 心を集中して、強く深くイメージする。 『あなたは何処に居るの』と、静かに問い掛ける。 心に浮かんでくるのは、冷たい寒色。 それは悲しい、涙の記憶。 ……これは、早く見つけてあげなきゃならないわね。 ぐう〜。 あん、もうちょっとなのに。 柄にもなく力んだせいか、思いっ切りお腹の虫が抗議の声を上げた。 さっきアイスを食べたばかりなのに。私、こんなに燃費が悪かったかな? 「仕方ない。ひとまず中断、晩ごはんを食べに行こう」 壁の時計が示しているこの世界の時刻を確認した私は、立ち上がると黒いジャケットをふわりと羽織る。 窓の外に広がるのは私が羽織るジャケットと同じ色、深い宵闇だった。 ☆★☆ 人の気配が無かったこの洋館も、食事時になればとたんに賑やかになる。中央の棟、階段の下をくぐった先には、食堂があり入居者が気ままに利用している。 ぶらぶらと食堂に入ると、先客達の視線が私に集中した。 「お、瑠璃子ちゃん! 帰ったのかい?」 「久しぶりじゃないか!」 「おいおい、元気か? 相変わらず真っ黒な衣装だなぁ」 私の顔を見たみんなが、口々に歓迎してくれる。 「だから、真っ黒はやめてよ。何だか腹黒いって言われてるみたいじゃない」 私は手を挙げてみんなに答えながら、自分のお気に入りの席へと座った。 本当に久しぶり。どれくらい久しぶりなのか、私も覚えていないくらい。 食堂に集まる顔ぶれは、変わっていない。 クーおじさんは、お酒と野球が大好き。レンさんはいつ見ても、ラーメンばかり食べている。揚げ出し豆腐が好物のナツメおばあちゃんは、猫を抱いてうつら うつら。トウマ君は、気取った仕草でナイフとフォークを使い、ヒメコさんは、もう酔っぱらってけたけたと笑っている。料理を運ぶのはユキナちゃん、器量良 しの働き者だ。 長い間留守にしていても、ここには何も変わらない暖かさが満ちている。 不意に歓声が耳を打った。 何事かと思えば、テレビから流れているのはプロ野球中継。 「おう! 瑠璃子、久しぶりじゃないか! 何食べるんだ?」 厨房から顔を覗かせた、料理人のおじさんが「にっ!」と笑った。 「はぁい、おじさん元気?」 「ありがとよ。これ以上無いくらい元気だぜ」 さて……。 何を食べよう。いや、この食堂で私が注文するのは。 「ハンバーグ定食!」 「またかよ。子供かお前は」 おじさんの一言で食堂中に、どっと笑いが起こった。 「だって、おいしいんだもん」 ふふふ、おじさんのハンバーグを侮るなかれ。 香ばしい焼き色、溢れる肉汁。デミグラスソースの、豊かで深い味わい。 でも、気取った味じゃない。 優しくて、懐かしくて……。とにかく、私の大好きなメニューなの。 付け合わせはアスパラと人参のソテーに、フライドポテト。トマトサラダのボウルに、お味噌汁。そして大振りなお皿には、大きなハンバーグが、でん! と載っている。 あ、駄目。涎が出そう。 口元を気にしていると、「お帰りなさい、瑠璃子さん」お水を運んできてくれたユキナちゃんが、にっこりと笑った。 「何処へ絵を描きに行っていたんですか?」 「ううん。仕事じゃなくて、絵の具を買いに行っていたのよ」 「ああ、あの人の画材店ですか!」 ユキナちゃんが納得したように、ぽむ! と手を打った。 「そう。行きたいと思っても、なかなか行けないの」 あいつのお店に行くのは、私ですら一苦労なのよ。 「そうだったんだぁ。じゃあ瑠璃子さん、しばらくここにいられるんですか?」 「ん〜どうかな? ちょっとあいつに、頼み事をされてね」 「頼み事ですか?」 「うん、人探し」 「え! なになに、何ですかぁ?」 興味津々なユキナちゃんが身を乗り出したとき、 「こらユキナ! 仕事しろぉ!」 おじさんの大声が厨房から響いてきた。 「いっけない。はーい、ただいまぁ〜」 ユキナちゃんがとととっと、厨房へと駆け込んでいく。 私はユキナちゃんの背中を、目で追いながら思い出していた。 『こんな事、君にしか頼めないから』 あいつのあんな真剣な顔を、今まで見たことがないわ。 人探しなんて面倒だけど、私はむげに断れなかった。 それは宿命、あいつは自分の意志で自由に動く事が出来ない。 そしてあいつが彼女に抱いた深い愛情を、私は誰よりも知っているつもり。 「あいつの子供か……」 あの大馬鹿野郎。 一緒に居られないのは、痛いほど分かっていたのだろうに。すべて分かっていて……それでも彼女を愛したっていうの? でも、二人を責めるわけにはいかない。お互いの心には真剣な想い、愛があったのだから。 ぽつりとつぶやいた私の目の前に、とん! と置かれたのは。 ああっ! 我が愛しのハンバーグ定食っ! ちくしょー、私が愛しているのは、挽肉をこねて固めて焼いたものかい。 でも美味しそうな匂いに、一気に物思いが霧散する。 しかも、いつもは一個の大きなハンバーグが、二個並んでる! え? 食べていいの? 間違いじゃないわよねっ! 「おじさーん!」 厨房へ向かって声を張り上げる。 「おーう。遠慮するなよ、たんと食え」 おじさんの嬉しいお言葉。 「いただきまーす!」 私は、ぱきんと箸を割った。 とりあえず汁椀を手に取って、お味噌汁をすする。 ああ……この鰹ダシがしみる。三つ葉って大好き。 そして箸でハンバーグを割る。 じゅわ〜これこれ、この肉汁ー! ああ、し・あ・わ・せ! 瞬く間に一個を平らげる、ご飯だってすすんじゃう。 お茶碗の底が見えてくると、「おかわりいかがです?」ユキナちゃんが両手を差し出した。 「うふふ、お願い!」 お茶碗を手渡す。 おいしいご飯、たくさん食べて元気出さなきゃ。 これからたくさんの力を、使わなければならないから。 |
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