The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 40 .胸騒ぎのトライアングル |
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厚いカーテンに陽の光が遮られ、まだゆるやかに微睡んでいる茶館。 私はジャケットやスカートの皺を確認して、胸に留めたリボンタイの飾り石に手を触れます。 もちろん、高価な石などではありません。 艶やかなエメラルドグリーンの石から、指先に感じるのは硬くヒヤリとした 感触。心を落ち着けて静かに深呼吸していると、茶館に飾られている絵の囁きが聞こえてくるようです。 今日は、どんな一日になるのでしょう。ぱっちりと目を開けて、最後に黒髪を飾る大切なバレッタを確かめると、胸元へ両手をあてて一日の無事を祈ります。 午前十時三十分は開店の時間、私はさっと窓のカーテンを開けました。 お店の中へと差し込む眩しい光、窓に映るのは今日も変わらぬ時を刻む街の景色……。 開店前の準備をする為に扉へと向かう私は、弾む心のままに軽くステップを踏んで、くるりとターンを決めるのです。 「はい、綺麗に決まりました!」 ぽん! と手を打ちます。 お店の中には私一人だけ、遙さんの姿は見えません。はしゃいでいる私の姿に、遙さんは栗色の大きな瞳を柔らかく細めて「あらあら……」って、微笑んでいるかもしれません。 さぁ、いちばん始めに力仕事です。 「よいしょっ!」とイーゼルを持ち上げて、お店の外に出さなければなりません。 背丈ばかり高くて力が無い私には、大型のイーゼルはとても重たくて、なかなか大変なのです。 慎吾さんがいらっしゃるときは、片腕でひょいっと持ち上げて下さるので、私はいつも目を丸くしてしまいます。 今日は木曜日。 ここのところ慎吾さんは、木曜日には決まって朝から姿が見えません。仕方なく、ひとりでうんうん言いながらイーゼルを抱えて外へ出ると、お店の入り口に立つ女性の姿。 黒いテーラードジャケットにタイトスカート、足元はヒールではなく普通の革靴です。 そして肩に下げていらっしゃるのは、とても大きなトートバッグ。 その雰囲気は颯爽としていて、仕事をばりばりこなしてしまいそうなワーキングウーマンです。 「おはよう。あら、大変そうね?」 「え? あ! お、おはようございます!」 驚きました。お店の前に立っていたのは、先週の木曜日に私に詰め寄った彼女でした。 確か、麗香さんというお名前の女性です。 彼女の「ライバル宣言」を、挑戦状を忘れてはいません。 私は麗香さんにとって憎き恋敵です。不機嫌そうなご様子でしたので、まさかまた茶館にいらっしゃるとは思っていませんでした。 ですから私はあまりにも慌ててしまって、 取り敢えずご挨拶しようとしてバランスを崩し、イーゼルを抱えたままぐらりとよろめきました。 「ああっ!」 「ほぉら! 何やってるのよ、危ないじゃない!」 倒れそうな私の体を、さっと麗香さんが支えて下さいました。 「あなた、トロいわね。そんなので大丈夫なの? それともドジっ子キャラの演出?」 「は、はあ……。いえ、あ、有り難うございます」 ええと、この間もそうでしたが、何となくお話の内容が理解しづらいのです。 麗香さんは、私とは違う人種なのでしょうか? 私は心の中で首を傾げながら、彼女に頭を下げました。彼女はひょいとメニューを書いた黒板を手に取り、イーゼルの上へと置いてぱんぱんと手をはたきます。 「さ、お終い。お店、もう入ってもいいの?」 「あ、はい! どうぞ!」 慌てて案内しようとすると彼女はお店の中をぐるりと見渡して、さっさと窓際へと歩いて行かれます。麗香さんはお店の一番奥、窓際のテーブルの位置が気に入ったのでしょう。彼女がテーブルへ落ち着くと、私はおしぼりとお水を満たしたグラスを運びました。 「いらっしゃいませ」 改めて、丁寧にぺこりとお辞儀をします。 「あなた、名前は?」 「はい?」 「だから、名前よ。あなたのな・ま・え!」 「は、はい! な、名前ですね、み、水無月 瞳子と申します」 「……珍しい姓ね。うん、分かったわ」 麗香さんは、何度か口の中で私の名前を反芻したようでした。 「じゃあ瞳子、ブレンドお願い。それからこの席だけど、毎週木曜日はリザーブって事にしてくれない?」 「ええっ!? よ、予約席にですか?」 「そ、私専用」 茶館はとても小さなお店、そんな大きなレストランのようなサービスなんて。 私は考えた事もありません。 「開店から閉店までね。来ることが出来ない日は、ちゃんと連絡するわよ。それに、食事もここですればいいでしょう?」 「ええと……あの、そ、それはですね……」 麗香さんの、畳みかけるような口調。 先週、麗香さんが私に突き付けた「ライバル宣言」を思います。 何を考えていらっしゃるのでしょう? ひょっとして、これは作戦なのでしょうか? 麗香さんの考えが理解出来なくて、目を白黒させていると。 「……と、いうことで。はい、決まり、じゃ宜しくね!」 「ええっ!」 何が「……と、いうことで」なのか、私には分かりません。 でも麗香さんは澄ました顔で、ぱっちりとウインク。すると、もう私の姿など目に入らぬように、バッグからノート型のパソコンと書類の束をテーブルの上へ並べ始めます。 そして、呆気にとられている私をちらりと見ると。 「何をぼんやりしてるのよ……ほら、ブレンドは? あなたも早く仕事をしなさいよ」 ぽかんとしてしまっていた私を急かす麗香さん。まるで、ジェットコースターにでも乗っているような気分です。 私は慌ててカウンター内へと入ってポットを火に掛け、コーヒー豆の保存容器を開けます。 準備をしながら麗香さんを見ると、もの凄い早さでキーボードを叩いています。驚きました、手元なんてまったく見ていらっしゃいません。 ご職業は、文筆業をなさっているのでしょうか? きりっとした、麗香さんの表情。鮮やかなルージュを引いた唇を引き結んで、パソコンに向かう麗香さんの姿は、とても素敵に見えます。 その姿をぽーっと眺めていると、しゅんしゅんと騒ぎ出すポット。 あら、お湯が沸いたみたいです。 私はドリッパーに、ゆっくりとお湯を注いでいきます。時間を掛けて、ゆっくりとコーヒーの粉を蒸らして……。 遙さんのように「美味しくなーれ、美味しくなーれ」と、心を込めておまじないをかけます。 良い香りを漂わせる、褐色のコーヒーをカップに注いでソーサーに乗せ、ぴかぴかのティースプーンをそっと添えて。 お仕事ですもの……挑戦状なんて気にしません。 銀のトレイで、おもてなしの気持ちと一緒に運びます。 「お待たせしました」 麗香さんの傍らにカップを置くと、彼女はパソコンをテーブルの隅に寄せて。 「ありがと」 小さな声で言って、丁寧にカップを持ち上げました。 細くて長い指、綺麗に手入れされたピンク色の爪、ネイルサロンで手入れされているのでしょうか。 ちょっと羨ましいです。 水仕事が多い私の手は、ちゃんと気を付けていないと、すぐに肌が荒れてしまいます。 慎吾さんが食器洗い機を入れようって、言って下さるのですけど。お疲れ様のお皿やカップは、自分の手で洗ってあげたくて。 ……あ、物思いに耽っていてはいけません。 目を閉じて香りを楽しみ、ほーっと長い息を吐いた麗香さん。 ティッシュを取り出して、赤いルージュを押さえてから……そっとひとくち。 「うん、美味しい……なるほど、あなたらしい味よね」 「え?」 「なんでもなーい」 麗香さんは、つん! とそっぽを向くとカップをソーサーに戻し、またパソコンを手元に引き寄せました。 隣に座って、お仕事をなさる様子を見ていたかったのですが、お邪魔になってしまいそうで。ちょっと残念です。 私は仕方なく、洗い物をしようとカウンターへ戻ります。 そこで、私はまた「ライバル宣言」を思い出していました。その挑戦状を思い出すと、やっぱり胸のあたりがもやもやします。 大きく深呼吸して、胸に溜まったもやもやを、ぱっぱっと追い払います。 スポンジをきゅっきゅっと揉んで泡立てて、サーバーを手に取ると。 「それで瞳子……慎吾とは、どこまでいってるのよ?」 がっちゃーん! 「は、はい?」 いきなり麗香さんに問われ、私は手を滑らせてサーバーをシンクの中へと落としてしまいました。 胸の鼓動が早くなり、どきどきと高鳴っています。 「ど、どこまでって……し、商店街の集会所……ま、までですっ!」 「……あなた、何を言ってるの?」 パソコンの画面から目を離し、口をへの字に結び半眼で私を見つめた麗香さんは、 「まぁいいわ。その様子じゃねぇ」 そう言って、にやりと笑うとまたパソコンの画面を睨んで、カタカタとキーボードを打つ作業に没頭し始めました。 どうしてなのでしょう、ちょっと悔しいです。 ああ、いけません。 気持ちを入れ替えようとして、ぴしゃっと両手で頬を叩いた私は「ひゃっ!」と小さな悲鳴を上げます。顔中が泡だらけ、洗い物の途中だということを、すっかり忘れていました。 「ねぇ、慎吾は朝何時頃起きるのー?」 タオルで顔を拭っている私に、ぽーんと飛んでくる麗香さんの質問を、ちょっと及び腰で受け止めます。 「し、七時過ぎですね、お店には八時三十分頃お見えになります」 「朝ごはんって、食べるんだっけ?」 「……ホットサンドを作って差し上げますわ。たまにフレンチトーストを、後はサラダに卵の料理、コーヒーですね。体が大きいから、たくさん食べて下さいます」 「……あ、あいつ、コーヒーが好きよね」 「朝はいつも、ブラックで二杯です」 「ふ、ふーん……そ、そうなの……」 あ、麗香さんの眉間に縦皺が出来ました。同時に、ガタガタと揺れ出すパソコン。麗香さんがキーボードを叩く音が乱れて、だんだん大きくなってくるような気がします。 「そ、そうそう煙草は……」 「以前は一日にひと箱くらいでしたけど、最近は煙草を吸ってらっしゃる姿を見ませんね」 「さ、最近は、よく仕事に出て行くの?」 「お仕事ですか? ええと、それは……」 私は沈黙するしかありません。なにしろ私は、慎吾さんのお仕事を知らないのです。 「ふふん」 私を流し目でちらりと見た麗香さんが、得意げに鼻で笑いました。 どうしてなのでしょう、何だかとっても悔しいです。 「あいつ、良い腕してるのよ。それなのにマイペースっていうのかしら、見ていると苛々するわ。才能があるのに無駄にしてるなんて、私にはとても考えられない」 テーブルへ肘をついて、ぶつぶつと慎吾さんへの不満を漏らす麗香さん。 慎吾さんの良い腕とは、何の腕なのでしょうか? ま、まさか……以前見た夢が、頭の中へと甦ります。 い、いいえ、そんなことはありませんよね。 麗香さんに尋ねてみたいという興味はあるものの、何故か言葉が喉につかえて口から出てきません。 それに、麗香さんの問いに答えていて感じたのですが。 私が知っているのは、慎吾さんの生活リズムだけなのです……慎吾さんの心の中は謎のままで、知らない事の方が多くて。 不意に、心の隅に生まれた不安。 知らない事が多いのは当然なのかもしれないのですが。 でも、私の心に芽生えた不安は心を縛り付けて、さらに蔓を伸ばしていくのです。 どうしてなのでしょう。 慎吾さんとの間に、縮められない絶対的な距離があるように感じてしまいます。 それは時間や、お互いに交わす会話などでは縮められない……。 慎吾さんが意図的に作っている、私との心の距離なのでは……。 急に落ち着かなくなった気持ちに、不安がいよいよ大きくなってきました。息苦しさを感じ、シンクに両手を付いて深呼吸を繰り返します。 思い出したくない感情、忘れたはずの彼の言葉、冷たい指輪……。 私の心を深く切り裂いた鋭いナイフが、ゆっくりと心の奥底から浮き上がって来る感覚に脅え、どうにもならなくなった時でした。 「……瞳子」 麗香さんに名を呼ばれ、我に返った私は何とか顔を上げました。 「……知らないって事に、こんなにも不安を感じるなんて」 「あいつは、慎吾は自分が思っている事を、ぺらぺらと話す奴じゃないのは分かっているでしょう? まぁ、もともと口数も少ないわよね……でも、あいつがどんな奴かって事は、ちゃんと感じているでしょう?」 麗香さんは体の力を抜いて、すっと足を組むと、カップを持ち上げて揺すります。 「心と心の距離なんて、誰にも測れないわ……」 カップの中で揺れる、コーヒーを見つめる麗香さん。 「私は仕事での関わりがあるの、あなたと反対の立場ね。だからそれ以外の事は知らない。それはあなたと同じ事、お互い同じカウントなんだから安心しなさい」 カップをソーサーに戻して、縁をなぞる綺麗な人差し指。 そのまま頬杖を付いて、じっと私を見つめる眼差し、深い琥珀色に見えるその瞳。 「あいつ、考えが読めないところがあるから。いちいちぐらぐらしていたら身が持たないわよ」 麗香さんはくすりと笑うと、またパソコンに向かいます。 「ねぇ、お昼には生クリームのフルーツサンドイッチが食べたいな、出来るかしら? 頭を使うとね、どうしても甘い物が欲しくなるのよ」 「は、はい、かしこまりました」 「楽しみにしてるわ」 今日は、麗香さんのペースに乗せられっぱなしです。でも、いつの間にか心にのし掛かっていた、あの辛い感情は消えていました。 「しっかりしなさいよ。あなたがそんな様子だと、勝ち負けが見えていて面白くないわ」 そう言って肩を竦め、苦笑した麗香さん。 麗香さんの余裕……なのでしょうか、先週のような刺々しさがありません。 「嫉妬の炎を燃やすなんて、みっともないのもごめんだわ。私はね、いつでも凜とした姿でいたいの」 そう言って微笑む麗香さんの表情に、私はどきりとしてしまいました。 彼女の口振りから、それだけの自信が感じられます。 「胸を張っていなさい。あ・な・たは、わ・た・しと正反対……とても面白いわ。私が持っていないものを、たくさん身に付けていて……だからこそ、ふふ、言わなくても分かるわよね」 すっうと瞳を細める麗香さん。 その瞳の輝きは挑戦的なのですが、何処か親しみも感じてしまいます。 「さ、取り敢えず元気付けてあげたんだから。サービスしなさいよ」 ……前言を撤回します。 したたかな彼女。 ひょっこり顔を出した、麗香さんの黒くて尖った尻尾がはっきりと見えました。 |
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