The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

 47.mai・マイ・舞!
 目次
 しなやかな脚が力一杯に地面を蹴る。
 息を弾ませ、艶やかな長い髪をなびかせて走る少女。軽やかに踊るスカートのプリーツ、少し子供っぽいと思っているデザインの制服とも、高校生になればお別れ出来る。
 舞は秘かに心を躍らせながらも、受験という自分自身にとって初めて訪れた人生の岐路に、高まる緊張を余儀なくされる毎日を過ごしている。
 しかし舞の快活な性格は、どんな状況においても彼女の存在をきらきらと輝かせていた。
「ただいまー!」
 少しずつ大人へと近づいてはいるものの、まだまだ無邪気な少女の幼さを見せる笑顔。勢い良く玄関のドアを開けて家に飛び込んだ舞は、スリッパを引っ掛けてキッチンへ向かおうとしたが、廊下できゅっとブレーキを掛けた。
(わわわっ、ダメ、ダメ)心の中でつぶやいて慌てて玄関口へ戻ると、鞄を廊下へ置いて靴の向きを変えてきちんと揃える。
「うん」
 ちょっと小首を傾げて満足そうに頷いた。案外、母のお小言は厳しい。
「きちんとしなさい、まったく子供みたいなんだからっ!」なんて叱られたくない。
 慌てていると時々忘れてしまう。素直に反省した舞は小さな手を握って、頭をこつんと叩いた。キッチンから、とんとんとリズミカルな包丁の音が聞こえてく る、ほんのりと漂ういい匂い。母は夕食の準備の真っ最中だろう。舞のお腹がきゅうと鳴って、控えめに空腹を宣言した。誰かが見ている訳では無いけれど、頬 を染めてお腹をさすった舞は洗面所へと向かう。
 少し手を濡らしてから、液体石鹸のポンプを数回押す。
 手の平に載せた石鹸の液をもこもこと泡立てて、丁寧に手を擦る。流れる水で泡を流して綺麗に手を拭き終えたら、ガラスのコップを手に取って水を汲み、口に含んでうがいをする。
 上を向いて、がらがらがら……。
 近づいてくる受験に、本人以上にぴりぴりしている両親は、舞の体調に気を配ってくれている。少々窮屈さも感じるが、それは仕方がない。風邪でもひいて試験勉強に遅れが出たりしたら大変だ。
 帰宅してからのお決まり事を一通りすませた舞は、キッチンへひょいっと顔を出した。
「ただいま、お母さん」
「はい、お帰りなさい。ほら、手は洗ったの? うがいは済ませた?」
「えへへ、ばっちりだよ」
 舞は自慢げに答えて、食卓の椅子へと腰を下ろした。
「はい、よろしい」
 うんうんと肯きながらネギを刻んで、ことこと音を立てて煮える鍋の蓋を取って様子を見たりと、手際良く料理を続ける母の後ろ姿を見つめる。
「お母さん、何か手伝うよ?」
「ん、ありがとう。もうすぐ終わるわ、大丈夫」
「ふーん」
 舞はテーブルへと頬杖をつく。
 ちょっと前まで、母の隣には瞳子さんの姿があった。手が空くと、振り返って微笑んでくれた。
「ね、ね、ね、お母さん。瞳子さんから、電話あった?」
「無いわよ」
「えー」
 母のあっさりとした答えに、舞はがっくりとして肩を落とした。
「瞳子ちゃんもお仕事しているの、真面目だから一生懸命じゃないのかしら? 体を壊したりしてなきゃいいんだけど……」
 そう言った母親は舞の顔をちらっと見ると、「大丈夫よ。瞳子ちゃん、ああ見えて結構丈夫だから」そう付け加えた。
「お母さん、わたしに気を使ってる?」
「馬鹿言わないの」
 む! と、母に睨まれて、舞は首を竦める。
(瞳子さん、どうしてるかな……)
 菓子鉢に並んでいるお煎餅が目に止まったが、舞はお煎餅を視界の隅に追いやった。少しお腹がすいているけど、もうすぐ夕食の時間になる。
 未だに馴れない、何か物足りない風景。舞は家の中のどこを見ても、瞳子を思い出してしまう。瞳子がこの家を出ていってから、まだそんなに経っていないのに。舞はまた溜息を付いた。
「ほら。いつまでも制服を着ていないで、早く着替えて来なさい」
「はぁい」
 舞の部屋は二階だ。ゆっくりとドアを開けて静かな部屋に入ると、机の上に鞄を置いてベッドにすとんと座る。足下の大きなクッションを拾い上げて、ぎゅっと抱きしめると舞は目を閉じた。
 瞳子が初めて川澄家に来たのは、舞が小学生の時だった――。
 当時、川澄家は身寄りのない子供達が暮らす「あすなろ園」の園長に頼まれて、巣立った子供が自活出来る力を身に付けるまでの、仮住まいを提供していた。
「こんにちは」
 大きなバッグを両手で持って、にっこりと微笑み掛けてくれた綺麗なお姉さん。
 舞は瞳子と顔を合わせるのが気恥ずかしくて、家の中をあっちに隠れ、こっちに隠れしていた。でも、舞が瞳子の事を大好きになるのに、そんなに時間は掛からなかった。
 舞は、ぱふっとクッションに顔を埋める。

 美味しいお菓子作りや、とっても難しい編み物、勉強だって。
 そう……。瞳子さんは、色んな事を教えてくれた。
 いつも側にいて、優しく笑ってくれる。
 記念写真には、必ず一緒に写って貰った。

 そのひとつひとつが、舞の大切な思い出だ。
 薬指で光る指輪に触れて、優しく微笑んでいた瞳子の姿を思い出した舞は、ぎゅうっと強く唇を噛んだ。初めて見た瞳子の涙、あの日の事を忘れない。
 瞳子さんがお嫁さんになるって、やっと納得したのに。
 私が正義の味方だったら、絶対にあの男を許さないのに……。
 舞は胸を締め付けられるほどに憤ったが、瞳子の前でいつまでもその話題に触れたくなかった。
 だから、舞は一生懸命に瞳子を元気付けようとしたが、どうしてもうまくいかなかった。それが悔しくて、お風呂の中で何度も泣いた。
「瞳子さん……」
 ぽつりとつぶやく。
「会いたいなぁ」
 舞の胸中で芽生え、少しずつ成長した願いの木。瞳子を思い出す度に、舞はその木にせっせと水をやっていたのだ――。
 
 チクタクと時を刻んでいる時計の針。父が仕事から帰宅すると、家族みんなで食卓を囲む。母の手料理が並ぶ食卓。一日を無事に終えて家族が集まり、その日 の出来事を話し合う。温かく大切にしなければならないひとときだ。新しい発見があり、経験は記憶へと刻まれ、何より家族としての絆を確かめあう。
「ねぇ、お父さん、駄目ぇ?」
「ま、舞……。い、いきなり何を言い出すんだ」
 テーブルに手を突いた舞は、向かい側に座る父向かってぐっと身を乗り出す。
 心安らぐ我が家に帰ってお楽しみの晩酌、コップの中で弾けるビールの泡。その半分ほどを一気に喉の奥に流し込んだ父は、口の端に泡を付けたままで目を白黒させた。
「ねぇ、お父さん、良いでしょ? 瞳子さんに会いに行きたいの!」
「でも、画廊茶館って隣町なのよ。お父さんも私も、月末で忙しいから……」
 ほわんとした湯気を上げている味噌汁のお椀をテーブルへ置き、困ったように小首を傾げてみせる母。舞は握った両手をぶんぶんと上下に振った。
「だって、はやく瞳子さんに会いたいんだもの!」
「そんなに慌てなくても、瞳子さんは逃げたりしないよ。確か、画廊茶館は木曜日が定休日だろう。ん〜出来れば来月の休みまで待ちなさい」
「ええ〜っ! 来月なんてっ!」
 舞は一生懸命に両親の説得を試みるが、娘を心配する父と母はなかなか首を縦に振ってくれない。母は早々と、父の意見に賛成するつもりのようだ。それが分かっている舞は、真剣な眼差しで父の顔を見つめる。
「……ん」
 舞が注ぐおねだりの視線は、父の首を縦に動かすのに十分な威力を発揮する。しかし居心地が悪そうに身動ぎした父は、舞の期待通りの返事をしてくれなかった。

 そして、次の日。
「ね、舞! 講習の前に、何処か寄って行かない?」
「え? あ、う〜ん……」
 考え事をしていた舞は、仲良しの理絵から声を掛けられて曖昧な返事をした。親友である理絵はそんな舞の様子に気付いて、きゅっと眉根を寄せた。
「どうしたのよ?」
「うん……」
 心ここにあらず。
 俯いた舞は、真剣に考えていた。
(今から瞳子さんに会いに行こう。うん! だって、こんなに会いたいんだもん)
 ばっ! と、顔を上げた舞を見ていた、理絵が驚いて大きく目を見開いた。
「ど、どうしたの、舞!?」
「ごめんね理絵っ! わたし、今日は用事があるから、ごめんっ!」
「用事があるって……。ちょ、ちょっと舞っ!」
「またねっ!」
 拝むように両手を合わせた舞は、目を白黒させている理絵にしゃべる間を与えない勢いでまくし立てると、身を翻してぱっと駆け出した。踊る髪の毛先が光を弾き風に揺れる、目標を定めた舞は気持ちと共にぐんぐんと加速してゆく。
(お店の名前は画廊茶館。うん、覚えてる。中央通り商店街、うん、大丈夫っ!)
 頭の中で財布の中のお金を数えた舞は、今にも発車しそうだったバスへ飛び乗った。息が弾む、胸に手を当てて何度も深呼吸を繰り返す。
(瞳子さんに会ったら、何を話そうかな……)舞は車窓から流れる景色を見つめながら、瞳子の優しい笑顔を想像していた。

 ☆★☆

 茶館の大きな窓から射し込む、柔らかな光。
 影はただ黒いだけではなく、光の反射を含む様々な色彩を含んでいるのよと、遙さんはおっしゃいます。ゴムの木に元気を与えている光が作る影法師が、時間と共に角度を変え長く伸びてゆく様子……。
 あら、今日は心に浮かぶ言葉が弾みます。
「かしこまりました、本日のケーキセットですね」
 本日のケーキセットは可愛らしい苺のショートケーキ、コーヒーは真名井珈琲工房の特製ブレンドです。
 週末のお昼下がりに、ゆっくりとした時間を楽しむ人々。思えば茶館を訪れて下さる、常連のお客様も随分と増えました。今日はテーブルの間を歩くその足取りがとても軽くて。お客様にいただいた注文を書き留めたメモに、思わず可愛いハートマークを書いてしまいます。
 襟元で輝くエメラルドグリーンの飾り石。リボンタイをふわりと整えたとき、ドアベルが大きな音を立てて響きました。
 店内に響いたその音は、私の胸の鼓動を早めます。何かの予感に、ふとお店の入り口に目を向けた私は、茶館の古い木製の扉を開けたままで佇んでいる、女の子の姿に驚きました。
「……ま、舞ちゃん?」
 私の声が届いたのでしょう、女の子……舞ちゃんの顔が歪みました。
「瞳子さん……」
 ぐっと両手を握りしめ、体を屈めたせいで長い髪が顔を隠します。細かく肩を震わせていた舞ちゃんが、勢い良く顔を上げました。
「舞ちゃんっ!」
 間違いありません。見開かれた舞ちゃんの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ出します。
「瞳子さんっ!」
 確かめるように、もう一度私の名を呼んだ舞ちゃんが、胸に飛び込んできました。
「瞳子さん、瞳子さん、瞳子さんっ!」
 私は困惑しながら、何度も何度も名前を呼ぶ舞ちゃんの背を撫でます。私の名を呼ぶその涙声に、周囲のお客様も壁に飾られている絵達も驚いているようでした。
「ここまで一人で来たの?」
「……うん」
 テーブル席で少し落ち着いた舞ちゃんの前に、ホットミルクを置いてそっと訪ねます。
 涙のせいで張りつめていた糸が切れたのでしょうか、ハンカチを手にぼんやりとしている舞ちゃんが、こくりと頷きました。
「お母さんには、ちゃんと話したの?」
「ううん、話してない」
「それじゃあ……」
 俯いてしまう舞ちゃん、おばさんはとても心配なさっているでしょう。私には無茶な彼女を責める事など出来ません。舞ちゃんはこんなにも思い詰めた表情で、私を訪ねてくれたのですから。
 でも、取り合えず無事を連絡をしておかなければいけません。
「ちょっと待っててね」
 席を立った私は「心配ないから」と、舞ちゃんの肩にそっと手を触れます。
「瞳子……」
「あ、慎吾さん。あ、あの、すみませんっ!」
 電話をしようとカウンターに入ると、椅子から立ち上がった慎吾さんに声を掛けられて、私はびっくりしてしまいました。今はお仕事中、私事に手を取られていてはお客様に失礼です。
 慌てて頭を下げる私の肩をぽんと叩いた慎吾さんは、店内をぐるりと見回します。
「ちょうど客足がひいている。今日はもう終わりにしよう」
 慎吾さんはそう言って、テーブル席でぽつんと座っている舞ちゃんを眺めると、優しい微笑を浮かべました。
「せっかくお前を訪ねて来たんだ、相手をしてやるといい。それから、あの子の家の電話番号を教えてくれ、俺が連絡しておくよ」
「慎吾さん……」
「ほら、ちゃんと笑顔にしてやらなきゃな?」
「あ、ありがとうございます!」
 胸一杯に嬉しさがこみ上げてきます。
 私は慎吾さんに、もう一度深々と頭を下げました。
「瞳子さん……」
「はい、お店はおしまい」
「ごめんなさい」
 私はそう言って肩を落とす、舞ちゃんの両手を取って優しく握ります。
「ありがとう。会いに来てくれて、とっても嬉しい」
 舞ちゃんの向かい側の席に落ち着くと、口を引き結び真剣な表情をしている彼女の瞳が、わずかに揺れました。
「瞳子さん。あのね、あのね……」
 舞ちゃんの『あのね』……。胸の中にたくさんたまっていたのでしょう。その言葉を皮切りに、想いの奔流が私に押し寄せてきます。
 私はひとつひとつの言葉を聞き逃したりしないように、真剣な舞ちゃんの瞳を見つめて聞き入ります。学校のこと、友達のこと……。テーブルの上に置いた私の両手を握りながら、舞ちゃんは一生懸命に話して聞かせてくれます。
 私にとって新しい生活へと踏み出した一歩は、精一杯の勇気を振り絞ったものでした。私が選んだ道は正しかったと思っています。ですが同時に私は今の自分を思い、深く反省しました。
 なぜなら……。こんなにも私を慕ってくれる、舞ちゃんの寂しい気持ちに少しも気付かなかったのですから。
 私は丁寧に頷きながら、舞ちゃんの記憶と重ならない部分を埋めてゆきます。
 そうしてどのくらいの間、話していたのでしょう。窓から差し込む陽の光が茜色に染まり、そろそろ夕暮れが近くなった頃でした。
「話は尽きないだろうが、そろそろ帰った方がいい。親御さんが心配されるだろう」
 慎吾さんの言葉に、はっとした舞ちゃんが唇を俯いて身を堅くします。私の手をぎゅうっと握って唇を噛んでいるその姿に、私の胸はきゅっと締め付けられてきます。
「瞳子」
「は、はい……」
 突然、慎吾さんに名を呼ばれて顔を上げた私は、思わず黒い瞳を見つめてしまいました。頬が火照るのを感じて、私は慌てて視線を逸らせます。
「週末だから、お前も休暇を取ればいい。これまで、まとまった休みを取らせてやれなかったからな」
「え……?」
「休暇だよ。たまに臨時休業したって、茶館は潰れたりしないさ」
 慎吾さんはさらりと言った後、茶館の扉へと向かい大きな手で押し開かれました。「そうだよ」と、ドアベルが優しい音を立てます。
「俺は車を持ってくる。お前は早く泊まり支度をしてこいよ」
 慎吾さんは少しだけ振り向くと、
「ご馳走を作って、待っているそうだ」
 肩越しのウインク。そう言って、茶館を出て行かれました。

 慎吾さんが運転する黒い車が、滑るように闇の中を疾走します。茶館でうたた寝をしていたときに見た夢を思い出して、私は思わずくすりと笑いました。
「瞳子さん、どうしたの?」
「ちょっとね……」
 後部座席に並んで座る舞ちゃんが、不思議そうな顔で私を見つめます。
 車窓に流れるのは、様々な光が乱舞する幻想的な夜の風景。ポツポツと灯る街灯の明かりが、視界に光の筋を引いて流れゆきます。私は川澄のおじさんとおば さんの顔を、ふんわりと思い浮かべます。どうしてでしょう。巣立ったのはつい最近の事なのに、もう何年も会っていないような気がしてしまいます。
「一緒にお風呂に入ってね、それからね……」 
 嬉しそうに話す舞ちゃんの横顔を見つめながら、私は 迎えてくれる温かな場所があるということが、とても嬉しくて。寄り添う舞ちゃんの髪を、優しく撫でました。
 今夜は、夜更かしをしてしまいそうですね……。
 
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