Monochromatic 〜The Story of Art Gallery Coffee shop〜
「光と影の色調」
/ Scene2.螢のアトリエ
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 ――斜陽。
 秋の日暮れは早く。切なさを感じさせる、縦長の大きな窓から差し込む茜色の光。次第に薄闇の紫色に変わりつつある空。閑静な住宅地の一角にひっそりと建つ古びた洋館の姿はもの悲しく、やがて迫り来る闇に包まれようとしていた。
「――螢。おい、螢!」
「はい?」
 背中から名を呼ばれて、瑞原 螢(みずはら けい)は仕方なく手を止めて、柔らかな髪をふわりと揺らして振り返った。夕日でオレンジ色に染まっている痩躯を包むさらさらとした生地のシャツ、皺を浮き上がらせる影は深い紫色だ。
 薄い焦げ茶色の瞳を細めた螢の左手には、ティッシュに包まれた黒色のコンテが握られている。休日の穏やかな時間。心ゆくまで素描きを楽しみたいのだが、まさか先輩を無視する訳にもいかない。
 螢の先輩である高木恭一(たかぎ きょういち)は、椅子にだらしなく腰掛けて煙草をふかしている。
「……なぁ螢。それ、何を描いてるんだ?」
 ほうっと煙を吐き出した恭一にぽつりとそう問われ、螢はがっくりと細い両肩を落として大きな溜息をついた。
 のろのろと顔を上げて苦笑する。このアトリエで一時間以上も螢が描いている絵を眺めていて、何が描いてあるのか聞くなんてと思うのだが。
 数回の瞬きをし、瞳を隠す長い髪を掻き上げた螢は、形の良い眉を寄せてイーゼルへとセットしたキャンバスから身を引いた。こうして距離を取ることで、絵の全体像を把握するのだ。おかしなところはないかと、姿勢を変えながらしばらくキャンバスを眺める。
「うん、大丈夫」ようやく自信を取り戻し、螢は背筋を伸ばした。
「山芍薬を、描いてみたんですよ」
「ヤマシャクヤクだぁ?」
「はい」
 片方の眉を上げて問う恭一の表情がとても可笑しい、くすりと透明な微笑みを見せた螢は得意げに返事をした。コンテを持ったままの右手で、壁に貼ってある数枚の小さな写真を指す。
「ヘアサロンへ行った時に、オーナーから写真を数枚貰ったんです。山芍薬、美しい花でしょう? 春先に山道を散策をしていたら、横手の茂みに咲いていたそうです。自然の優しさと、命の力強さを感じますよね」
「はぁん」
 恭一は手にした灰皿に煙草の灰を落としながら、微塵も興味のない顔をしている。
「写真からの描き起こしだから、ちょっと表現が平坦な仕上がりですけど……。僕としては満足しているんです。ちょうど秋の公民館祭があるから、品評会に出そうと思って……」
「おい、螢よ」
 話の腰を折るように恭一が口を挟んだ。螢は口をぱくぱくさせて、喉の奥に言葉を押し込む。
「だから、さっきから何なんですか」
「ヘアサロンって。お前は散髪するのに、美容院なんかに行ってるのか?」
「いけませんか?」
 何か気に触ったのだろうかと小首を傾げた螢を、恭一は忌々しそうに細い目で睨んでいる。痩せていて眼光鋭いが、下がり気味の眉毛に愛嬌がある。髪には軽くパーマを当てていてちょっと怖いが、見た目と異なり根はとても優しい。
 最近では熱を上げていたパチンコから足を洗い、新築したばかりの我が家できちんとマイホームパパに励んでいる。螢は学生の頃から、恭一にずっとお世話になりっぱなし。頼りになるが、少々世話が過ぎるのが玉にキズだ。
「その頭は、いつ刈ったんだ?」
「ええと、三日前ですね。先輩、ヘアサロンで『刈った』とは言いませんよ」
「まったく、妙にふわふわと長い髪をしてると思ったら、そう言う訳か。男ならすぱっと短くしろよな、だからお前は生っちろくて、女の子に間違われるんだ」
「いくらなんでも、それはありません」
 恭一が言うとおり、体の線が細い螢は逞しいという印象はない。
 それでも、あまりといえばあまりの言い種ではないか。螢は恨めしそうに前髪を掻き上げて、恭一をジト目で睨んだ。口には出さないが、やっぱり気にしているのだ。
「あああ、さらっと髪を掻き上げるなよ鬱陶しい! しかも、髪の毛が錆びてるときたもんだ。ああ、嫌だねぇ……」
 螢の訴え掛けるような視線を、恭一は少しも酌んではくれないらしい。
「さ、錆びてるだなんて酷いです。少しメッシュを入れてるだけですよ、この方が良いって言われたから」
 螢はチーフスタイリストの沙耶に気に入られていて、サロンに行くと必ず彼女が担当してくれる。自由自在に髪のスタイルを調える沙耶の小さな両手は、まるで魔法でも使っているようだ。
 しかし、いくら話しても理解は得られないのだろう、螢は不機嫌そうな恭一を言葉で宥める事を諦めて、コンテを丁寧にサイドテーブルの上へと置いた。
 集中力が途切れてしまった、このままではとても描き続けられない。気分転換とご機嫌取りをセットにして、コーヒーでも入れようと思い立つ。
 絵を描くという至福の時間を過ごすお供にと、昨日馴染みの喫茶店で高い豆を買ったのだ。ちょっと奮発してみたのだが、絵を描く事に熱中してすっかり忘れていた。
「先輩、今コーヒーを淹れますから。ああ、床に煙草の灰を落としたりしないで下さいね。それと、火には充分注意して下さい。いつも言うように、この洋館は僕の所有物じゃ無いんです」
 ちくりと恭一に注意をする、煙草の灰でも落ちれば大変だ。
「ああ、分ってるよ」
「ホントに、分かっていますか?」
「うるさい。燃える物なんて、お前の画用紙くらいじゃないか」
「が、画用紙って……。この紙、高いんですよ?」
 螢は頬を膨らませたが、恭一は知らん顔だ。ぷかーっと吐き出された煙が何かの形を想像させる前に、小さなシャンデリアが吊られた天井にぶつかって霧散した。
「奥さんに、煙草はやめてって言われてるんですよねー?」
「ああ、分かった分かった」
 少し意地悪な螢のひとことに、愛する妻と目に入れたって痛くない息子の笑顔が頭に浮かんだのだろう。恭一は苦笑と共に、灰皿の縁に煙草の先端を押しつけた。揉み消された煙草から立ち上っていた細い煙が揺らいで消える、喫煙の習慣がない螢は、この瞬間が一番臭いと思う。
 恭一を相手に室内禁煙を宣言する訳にもいかない、少し寒いがわずかに窓を開けて換気をする。
「なぁ。お前の先生は、まだお出掛けしたままなのかよ。こんな立派な洋館を放っておくなんて、やっぱり不思議な人だよなぁ」
「え? ええ、はい」
 室内を見回しながら問う恭一に、螢は曖昧な返事をした。ジーンズのポケットに入っている、この洋館の大きな鍵の重さをずしりと感じた。
 螢の長い指がスイッチに触れると、コーヒーメーカーが豆を砕く音が、古い調度品が並ぶ部屋に響く。
 絵を嗜む螢は、師である画家からこの洋館の管理を任されている。
 周囲は閑静な住宅街。この大きな洋館は部屋に入る明かりも柔らかで、気温や湿度など館内の変化が少ない。だから、あまり丈夫ではない螢の体にも優しい。気持ちが落ち着くこの洋館を、螢は自分のアトリエにしていた。
(先生は、どうしているかな……?)
 芳しい香りが鼻先をくすぐる。
 螢は師の悪戯っぽい笑顔、勝ち気な性格を伺わせる黒燿石の瞳を思い出してい
た。

 
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  1. 割れた鏡
  2. 螢のアトリエ
  3. 瑠璃子