ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 32.旋律 |
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大陸の創世期以後に小国として興ったグランウェーバーの歴史は古い。 礎となったその土地に元々存在していた小国は、僅かながら創世戦争の災禍から逃れていた。そんな地の利は戦乱を逃れた多くの人々を集め、大陸各地の復興と共に次第に力を蓄え国としての力を増していったのだ。 刻み込んだ歴史を感じさせる王城……。 グランウェーバー国を包む夜は、静かに更けていく。 人気のない回廊を歩めば、ゆらゆらと揺れる灯りに照らされて、足下から伸びた長い影法師が踊る。 新しい夜着、湯桶と清拭用の布を用意して王の寝所を訪れたフェルメーレ。 王の寝所を警備する二人の兵は、フェルメーレを確認すると長槍を下げ、扉を開けて彼女を通した。 フェルメーレは、王を世話する側用の侍女だ。そばかすだらけの地味な顔立ち、くすんだ金色の髪ひとつに編んで背中に流している。 「陛下、夜着をお着替え下さいませ」 「フェルメーレか? すまぬ。しかし夕刻に湯浴みも済ませている、いくら磨き上げたとて、若返りはせぬぞ?」 「陛下……」 寝所でベッドから身を起こしたハインリッヒは、フェルメーレに手を貸して貰いながら夜着を脱いだ。 露わになる王の上半身を、フェルメーレが湯で温めた布で拭いていく。 賢王として讃えられるハインリッヒ王は、勇猛で武芸にも秀でており、鋼のように鍛え抜かれた体をしていた。 しかし、数年前に起こった不可思議な出来事が突然、王の体の自由を奪い去ったのだ。 王の体中に浮かび上がるのは、傷が癒える時に盛り上がる肉芽のような痕。 縦横無尽に皮膚の上を走るその痕は、魔術の文様にも見える。しかし高名な司祭でも、どうして王の身体に現れたのか、また何の為の術なのか解明が出来ないのだ。 丁寧に王の体を拭く、フェルメーレの表情が曇る。 恐ろしい呪いの類ではないかと危惧もされている。事実、ハインリッヒの体は急速に体力を失いつつあるのだ。 素晴らしい統治、見事な国の舵取りをする王を呪う輩など存在するのだろうか? いや……何事も常に二面性を持つものだ、賢王の元では暮らし難さを感じる闇の住人もいるのかもしれない。 「フェルメーレ。体の文様が恐ろしいか、無理をせずとも良いのだぞ?」 「いいえ、決してそのような事はございません!」 気丈に笑ってみせるハインリッヒに、フェルメーレは声に力を込めて言った。それは嘘偽らざる本心だ、王の身を案じる侍女はきゅっと口を引き結び、湯に浸した布を固く絞る。 「我がこのような姿になっても、臣下がこの国を支えてくれている。……我は、いつ天に召されてもよいわ」 「そのような事を仰らないで下さいませっ!」 思わず大声を上げたフェルメーレに、ハインリッヒは少し驚いたようだ。フェルメーレの顔を見つめた後、肩を震わせて笑った。 「なんと。お前の真剣な顔はまるで我が娘、エクスレーゼのようだったぞ」 「陛下、畏れ多いです……」 「うん? すまぬ。困らせてしまったようだな、『鷹の剣姫』と怖れられた我が娘は、いったい何処へ行っておるのか」 ハインリッヒが細めた瞳には、皇女エクスレーゼの姿が映っているのだろう。体を拭き終わり、フェルメーレが新しい夜着を広げると、さっぱりとした表情のハインリッヒがゆっくりと袖を通す。 「己の正義を信ずる、激しい娘でな。あれの事だ、今も何処かで戦っておるやもしれぬ……」 寝台に体を横たえた王は皇女の身を案じているように、深い吐息を漏らした。その独り言のような呟きを、フェルメーレは寝台の側に寄せた椅子に腰掛けて、静かに耳を傾ける。 「いつも我の心にあるのは、エクスレーゼ……キルウェイド。我の大切な、絆……」 「陛下っ!?」 何時の間にやら、王は静かな寝息を立てていた。フェルメーレはそっと顔を寄せ、ハインリッヒの呼吸を確かめた。手を取って脈を測ると、指先に感じた鼓動は変わりがない。 王の規則正しい寝息に、ほっと胸を撫で下ろす。 「お休みなさいませ、陛下……」 深々と頭を垂れたフェルメーレは、王の寝所をそっと後にした。 ☆★☆ グランウェーバー国の領土に横たわる長大な山脈は北壁と南壁に別れているが、双方でその表情はまったく異なる。 北壁は厳寒の地だ、その国境付近に駐留するのは北部方面基地。 色のない真っ白な外の景色と違い、暖色で視覚的にも温められた室内。厳しい冷気も駐留基地の最深部へと届く事はない。 緩やかなウェーブ、ほのかな光を放つような青年の銀髪が揺れている。 すらりとした体、整った顔立ちはまるで、芸術家の手による美しい彫刻のようだ。上質な白い上着に縫い付けられた金紗、左胸には軍の最高司令官を表す勲章。 形の良い眉を僅かに寄せ、瞳を閉じた微かな苦悩の表情。 とても上品なのだが、無機質で潔癖さすら感じさせる部屋に流れているのは、青年が自ら奏でるヴァイオリンの音色だ。 弓を手にする青年の美しい指が揃った手。ゆらり、ゆらりと体を揺すり、切ない旋律を奏で続ける。 「殿下!」 凜とした声に、青年……皇太子キルウェイドは、ぴたりと弓を止めた。 紫水晶のような瞳を静かに見開く。 彼の視線の先には、軍服を纏う一人の女性士官が立っていた。 「ああ、フランシェスカ……」 フランシェスカ・シャンティーヌ少尉。 情報部上がりの士官でキルウェイドの側近、彼の身辺警護を務めている。 軍服に包まれている均整の取れた体には、女性ながらものびやかで強靱な腱、筋肉が備わっている。 隙のない仕草で姿勢を正し、キルウェイドへ一礼したフランシェスカ。 肩までの黒髪に碧眼、ふくよかな唇を彩るのは紅い色。 無粋な士官に、演奏を中断させられた事など気にも止めない様子で、キルウェイドはヴァイオリンをそっと、テーブルの上で開いたままのケースへと入れた。 「殿下、申し訳ございません。『SILPHEED』を、未だに発見する事が出来ません」 「ん?」 フランシェスカの恐縮した様子を見て、キルウェイドは小首を傾げた。 「北部方面基地所属の研究所で起きました失態、巡洋艦サレージより動力炉『SILPHEED』及び、対をなす「制御体」が逃走した一件です。現在、部隊構成を再編し……」 「ああその件か、覚えているよ」 説明の途中で、軽く手を上げてフランシェスカを制したキルウェイドは、柔らかく微笑んだ。 「魔術師達の技術もあの程度か、笑わせてくれる……。気にする事はないよ、フランシェスカ。オリジナルの『SILPHEED』は強力だが、稼働させたと ころでまだ欠点が多くて使い物にならない。それに、複製品があるからね。機能は限定されるが、制御体を必要としないほどに従順で、扱い易い……」 キルウェイドは優しい口調でそう言うと、優雅な仕草でさっと銀髪を掻き上げた。 「焦る必要は無いよ。そうさ『SILPHEED』には彼女がついている。ならば、いつか僕の前へと現れるはずだ。その理由があるのだからね、彼女は必ず家族を取り戻しに来る。うん、家族とは大切なものなのだろう?」 キルウェイドはそう言って、形の良い手をじっと見つめる。 彼女が取り戻そうとするもの、家族……絆か。 失念していた、自分もその絆を持っているではないか。 「フランシェスカ。姉上の行方は、まだ分からないのかい?」 キルウェイドは、フランシェスカにぽつりと問い掛けた。 しかし彼の口からこぼれ出たその声から、家族の身を案ずるような愛情や温かみは、まったく感じられない。 「エクスレーゼ様の行方につきましては、情報部が全力を挙げて捜索しておりますが、未だに何の手掛かりもありません」 「……そうか、しばらく姉上と会っていないから寂しいな」 そう言うキルウェイドの表情は、まるで無垢な心を持つ幼子のようだ。 最後に姉と会ったのは、いつだったのだろう? キルウェイドには、もうその場所すら思い出せない。 たゆとう心を弄んでいるキルウェイドの胸を満たしかけたものは、彼の意志を支配している思考の奔流に押し流されて、あっさりと消え去った。 「そうだ……巡洋艦サレージを含む、旧型の戦闘艦は全て廃棄処分とする。そう全軍に通達してくれ」 「で、ですがそれでは! 各国との軍事バランスが……」 「それは分かっているよ、いいかい? 数だけ揃えていても、底が知れていれば抑止力にはならない。旧型艦は新しいシステムに順応出来ないからね、新型の配備は各国で進んでいるよ。無能な王達は大喜びで、ボーウェン社の新型機と強化部品の導入を進めているようだ」 キルウェイドは秀麗な顔に一瞬だけ、危険な薄い笑みを浮かべた。 「ふふ、『シルフィード』はどんな姿で現れるのかな? フランシェスカ、ボーウェン社に動力炉『SIGUNUM』の調整を急がせてくれ。それから時期 を見て、彼にも支度をさせないとね。計画に狂いはない、楽しみだな……。建造中の四神が完成すれば、世界から争いなど無くなるさ」 フランシェスカに歩み寄ったキルウェイドは、すっと彼女の腰に手を回して抱き寄せた。 「で、殿下……」 頬を染めるフランシェスカに顔を寄せると、キルウェイドはその紅い唇に口づけをした。 そして、熱い吐息を漏らすフランシェスカの耳に、そっと歯を立てる。 「竜騎士達の『飛竜』と『旗艦ヴェルサネス』は、指揮を取る姉上が居ないのだからね、飾りも同然さ。姉上の信奉者達は苦手なんだ、好きにさせておけばいい。ただ、竜騎士隊の隊長、リヴル・スティンゲート大尉にだけは注意しておくんだ」 「は、はい、承知いたしました」 キルウェイドの左手が、フランシェスカの黒髪を優しく弄ぶ。 上気した頬、緊張からなのか体を固くしているフランシェスカの反応を楽しんでいたキルウェイドは、そっと耳元で囁いた。 「僕の大切なフランシェスカ……。君は、ずっと僕の側に居てくれるよね?」 「は、はい、この命が続く限り、お仕えいたします……」 恍惚とした表情のフランシェスカ。 その答えに満足したのか、キルウェイドはフランシェスカの体を放した。 ゆっくりとした足取りでテーブルへと近づくと、再びヴァイオリンを手に取り、そっと肩に当てて紫水晶の瞳を閉じた。 ゆっくりと、弓を持ち上げる優雅な仕草。 細くて長い指が弦にそっと添えられ、部屋の中は再びキルウェイドの想いを乗せたメロディで満たされる。 途切れる事のない旋律、巧みなレガート。 彼の演奏、その技能は完璧だ。 しかし彼が奏でるその旋律は、人の心へと響くのだろうか。 優雅で、美しい旋律。 しかし、心を震わせる何かが足りない。 そうだ――。 皇太子キルウェイド。 彼の心には、人として大切なものが足りないのだ。 「虹の翼のシルフィード」 第二章 <了> |
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