ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


48.青い瞳の挑戦者

 目次
 街の上空に大気を振動させる轟音が響き渡った、耳に届いたその音に子供達が頭上を降り仰ぐ。
 都市に設けられたゲートを、レースに参加しているウインドシップが華麗に通過していく。目をいっぱいに見開いて、その姿を追う子供達の笑顔が弾ける。憧れと手に届かぬ未知の世界に想像を膨らませ、胸を高鳴らせているのだろう。
「ヴァンデミエール、主動力炉の出力を絞る。補助動力炉全開……ゲート通過後、着陸の態勢を整える」
「了解しました。ゲート接近、進路クリアです」
 蒼い翼を大きく左右に広げて減速したシルフィードが、通過確認ゲートに接近する。ここ幾日かで行程に時間的な余裕が生まれ、フリードもやや落ちついた心持ちで操縦桿を握っていた。
「街は賑やかそうだよ、祭りでもあるのかな?」
 眼下に広がり始めた街、湧き上がる熱気に煽られるようだ。
 街一番の大通りへ溢れる人波を眺めるトールが、うきうきとした口調で言った。
「無駄口を控えなさい。着陸態勢に入った、操舵の害になる」
「何を言っているんだよ、フリードがそんなヘボ操舵手なもんかっ!」
 ヴァンデミエールに注意されてカチンときたのか、トールがすぐさま唇を尖らせて抗議する。その一言はくるりと弧を描いてヴァンデミエールの額にぶつかった。
「そ、そんな事は、あなたに言われなくても分かっています!」
 少年の抗議が勘に障ったのだろう、眉をつり上げたヴァンデミエールが砲手席からトールを睨む。
「二人とも、やめないか」
 繰舵室内にばちばちと火花が散る。飽くことなく毎日のように繰り返される少年と少女のやりとりに、フリードはこめかみのあたりに鈍い痛みを覚えた。
 冷静に見えるヴァンデミエールだが、どこか無理をしているのかもしれない。トールに突っかかられると、とたんに冷静さを欠いてしまうようだ、些細な言葉に反応してぴりぴりている。
 フリードにしてみれば、そんな反応を見せるヴァンデミエールが微笑ましいのだが。
 レースに挑む為には心をひとつにしなければならない、ぎくしゃくとした関係は、チームとして大いに問題があるのだ。
「通過確認信号を受領します、進路を固定……」
 丁寧に機器を操作する、ヴァンデミエールの表情が突如強ばった。
「後方より機影、高度を下げて下さいっ!」
 ヴァンデミエールの警告にフリードが素早く反応した、主動力炉を全開にしたシルフィードが逆噴射で速度を殺して高度を下げる。
 その瞬間だった、シルフィードの進路に被さるように後方から突出してきた機体が、尾翼の先端を掠めて前に出た。
「うわ、あっぶねぇ!」
 すんでのところで激突は免れた。首を竦めたトールが目を丸くし、的確な操舵で素早く危険を回避したフリードが、大きな吐息をついた。
「あ、危なかった」
 シルフィードを掠めて追い抜いたのは、鋭い剣のようなシルエットを持つ機体だ。それにしても質が悪い、ひとつ間違えば衝突しかねない行為である。
 もう一度機体を安定させ、ゲートを無事に通過したシルフィードが静かに駐機場へと着陸する。
 駐機場は地上ではなく、滑走路と駐機スペースが幾つも積み重ねられ、建物は塔のように空へ向かって伸びている。そのうち最上階のフロアがまるまるひとつ、ウインドシップレースに提供されていた。
 パーガトリー国の首都ドレープ・アレナは貿易都市でとして栄えており、昼夜を問わずウインドシップが航行している。そんな地域柄であるからなのだろう、ウインドシップレースに対する人々の関心も高い。
 古来より、大陸に点在する国家を繋ぐのは『貿易交路』と呼ばれる陸路だった。しかしウインドシップが普及し始めた現在では、新たな輸送手段として空路の利用も盛んになっている。
 無事に駐機したシルフィードの動力炉が停止する。風防が開くと同時に、外したベルトのハーネスを投げ出したヴァンデミエールが、機体に足を掛けて飛び降りた。
「どういうつもりだっ!」
 黒髪を逆立てる少女は細い肩を怒らせて、先に駐機していた細剣のような機体を目掛けて突き進む。その勢いは、床を踏み抜いてしまいそうだ。
「危険行為だ、謝罪を要求する!」
「ああん?」
 ヴァンデミエールが翠の瞳で睨み付けた長身の相手は、不機嫌そうな声を発しながら振り返った。先ほどシルフィードを無理矢理に追い抜いた機体の搭乗者だ。
 豪奢な金髪はまるで獅子の鬣を思わせる、切れ長の瞳から発せられる光は剣の切っ先のように鋭い。そして赤く染められた唇が、濡れたように光っている。
 起伏がくっきりとした肢体に纏うのは、黒い革製のドレスだ。
「謝罪だってぇ?」
 ヴァンデミエールを見下ろした操舵手の女性は「ぷ」と、吹き出した。
「あははははっ!」
 腹を押さえ、身を捩って大きな笑い声を上げる。
「何が可笑しいっ! 街の中心、その上空で激突事故でも起こせばどうなるか。ウインドシップを扱う者ならば、分からぬはずがないだろう!」
「はん!」
 女性はヴァンデミエールの抗議を、すらりとした足で無造作に蹴り飛ばした。腰に手を当ててぐいっと胸を反らせる。
「甘っちょろい事をお言いでないよ! 目の前をちんたら飛んでいられたら鬱陶しいのさ。分かっているのかい、これはレースなんだよ、レース!」
 ヴァンデミエールを見下ろして、その鼻先に人差し指を突きつける。
「こいつ、口で言って分からないなら!」
 悪びれた様子もない相手の態度がよほど腹に据えかねたのだろう、姿勢を低くしたヴァンデミエールが威嚇するように唸る。
「ヴァンデミエール!」
 睨み合う二人の元に駆け寄ったフリードは、今にも飛びかかろうとするヴァンデミエールの肩を引き寄せると、背中に庇った。
「おやおや、きゃんきゃんうるさい子犬ちゃんのご主人が登場かい? 迷惑なんだよ、ちゃんと首輪を付けておきな!」
「な、なんだと、もう一度言ってみろっ!」
「やめないか、ヴァンデミエール!」
「フリード、離して下さい!」
 フリードは怒りも露わにもがく少女を落ち着かせようと、全身を使って押し止める。
「はぁん……。あんた、ルーキー君だね? はっ! ウェンリーの奴も酔狂な事だよ、こんな坊やがお気に入りだなんてさ」
 鼻から息を抜いて皮肉げに笑う女性は、フリードを値踏みするように一瞥した。
「初めまして、お坊っちゃん。一応名乗っておくよ、あたしはエントリーナンバー13……イルメリア・セオルーシェさ、よろしくねぇ」
 甘い声を出すイルメリアは手を伸ばし、長い人差し指の指先でフリードの顎を撫でる。眉根を寄せたフリードが、逃れるように身を引いた。
「なんだい、生意気なお坊っちゃんだね」
「僕はパートナーの意見が正しいと思っています。謝罪を要求するとまでは言いませんが、街で暮らす人々の安全には十分に配慮すべきです。規定にも記されていたのではないですか?」
 フリードが述べた正論に、イルメリアの青い瞳が半眼になった。
「理屈っぽいガキが、イライラするんだよ」
 そう言ったイルメリアの瞳に危険な輝きが宿る。突然、勢いよく足を踏み出すと右腕を下方から振り上げた。琥珀色の瞳に残る紅い爪の奇跡、瞬時にその動きを捉えたフリードは、ヴァンデミエールを抱いて飛び退いた。
「何をするんです!」
「へぇ、お坊ちゃんにしては、なかなかやるじゃない」
 フリードの抗議に眉ひとつ動かさず、イルメリアは紅く染めた唇をぺろりと嘗めた。
「このあたしに喧嘩を売ったんだ、それなりの覚悟を決めてもらうよ」

 熱気溢れるドレープ・アレナの街は、年に一度の祭りの日を迎えている。
 貿易港として人や物資の流入が多く、その上にウインドシップレースの開催が重なった事もあり、多くの観光客がつめかけて街は飽和状態だ。
 あちこちで開かれている様々な催し。色とりどりの紙吹雪が舞い、パレードが大通りを華やかに進む。食欲を刺激する、美味しそうな料理を店先に並べた露店には順番待ちの客が立ち並んでいる。
「それにしても、どうしてこんな事になったんだろう?」
 景気良い街の雰囲気とは裏腹に、げんなりと沈み込んだ表情のフリードは、目の前にうず高く積み上げられたホットドッグの山を見てつぶやいた。
 隣には、大きな水差しを両手で抱えたヴァンデミエールが立っている。唇を真一文字に引き結び、フリードを見つめる翠の瞳は真剣だ。フリードの向かいのテーブルにはイルメリアが座っており、彼女の前にもまた山のようにホットドッグが積み上げられている。
 その他にもホットドッグの山を前に勢揃いしているのは、大食いが自慢だとひと目で分かる体格の老若男女。頭上には『大食い大会』と赤い字で書き殴られた、大きな横断幕が掲げられていた。
 祭りの主会場で開かれているこの大会は名物らしい。制限時間内に、誰が一番たくさん食べられるかという、シンプルなことこの上ない競技だ。
 テーブルの上に用意されているのは、切れ目を入れたパンに香り立つハーヴが効いた大きなソーセージを挟んであるホットドッグ。ケチャップとマスタードを入れた容器が一本ずつ、それから水を満たしたコップ。
「どういうつもりなんです?」
 フリードはあまり馴染みがない、ホットドッグの山を見ただけで満腹になりそうだ。胸焼けを堪えてうろんな目を向けると、腕組みをしているイルメリアが「はん!」と、鼻で笑った。
「ウェンリーのお気に入りが、どれほどの男なのか根性を試してやるよ。お坊ちゃん、覚悟しなって言っただろう?」
 豪奢な金髪を手櫛で梳いて、犬歯と共に敵意を剥き出しにする。
 分かりやすいイルメリアの挑発。観客や参加者、周囲の熱気に当てられたフリードが、口をへの字に曲げた。
「フリード、乗せられたら駄目だよっ!」
 観客席の最前列に陣取ったトールが、大声を張り上げた。
「同意するのは甚だ不本意ですが、トールの言うとおりです」
 フリードの傍らに立っているのは、水差しをぎゅっと抱いた臨戦態勢のヴァンデミエールだ。まさか、大食い大会のサポートまでしてもらうことになろうとは。
「いいですか、フリード。よく聞いて下さい。なるべく咀嚼をしてはいけません。ホットドッグを口にねじ込んでひと口大に噛み契ったら、すぐに胃袋へ押し込むのです! この競技はスピードが勝負を分けます。満腹を感じる前に、とにかく詰め込まなければなりません」
「どこからそんな情報を仕入れるんだ、君は……」
 ヴァンデミエールからの、熱がこもったアドバイス。
 フリードがぼそりとこぼすと、オーバーヒート気味のヴァンデミエールが翠の瞳をぱちぱちとさせた。
「何を言っているのですか! どんな戦いにおいても、完全勝利への活路を見いだすためにその術を模索し、導き出した最良の策を、さらに練り上げるのは当然です」
「ああ、分かった。そうだね、君の言う通りだ」
 もはや反論する気力もない。もしかすると、ヴァンデミエールは激しい気性の女の子ではないのだろうか? フリードはつい最近、そう思うようになった。
 会場の雰囲気は、今や絶頂。参加者達の血走った目がホットドッグを捉え、餓えた胃袋が高らかにファンファーレを鳴らす。
「参加者の皆さん、よろしいですか? それでは競技を開始します。用意……」
 大会の進行役がすうっと右手を掲げる。会場が一瞬、水を打ったように静まり返った。
「スタートっ!」 
 その掛け声を合図に戦いの火蓋が切って落とされた、参加者達が一斉にホットドッグの山へと手を伸ばす。
「いけーっ! フリードっ!」
 湧き上がる観衆と共に拳を空に突き上げて、大声を張り上げるトール。
 ヴァンデミエールのアドバイスを頭に置いたフリードは、掴んだホットドッグを大きく開けた口にねじ込んで噛みちぎる。ろくに噛むこともなく喉の奥に押し込むと、再びかぶりつき、喰いちぎって無理矢理に飲み込む。
 右手に握ったホットドッグを食べ終える前に、左手を伸ばして次を掴み取る。ケチャップもマスタードもかけている暇などない、もちろん味なんかまったく分からない。
 喉に詰まりかけると、コップを掴んで口に水を含む。
「フリード、最初から水を口にしてはいけません! 適度にマスタードを使って下さい、舌に異なる刺激を与えて食欲の減退を防ぐのですっ!」
「ぶはっ!」
 ヴァンデミエールにそう言われても、パンはもさもさとして水でもなければ飲み込みにくい。
 喉につかえ、苦しくなると拳で胸を叩いて強引に飲み下す。空になったコップをテーブルへと叩きつけるように置くと、隣で控えていたヴァンデミエールが、すぐさま水を満たしていく。
 掴んでは口にねじ込み、掴んでは口にねじ込むの繰り返し。顔を真っ赤にしたフリードは、形振り構わずホットドッグの山に挑みかかる。
 ……とても、貴族の御曹司とは思えない。
 他の挑戦者も皆同じ必死の形相だ、凄まじい勢いで貪るように食べている。いや、詰め込んでいく。その様子が滑稽なのだろう、観客席から爆笑の渦が広がる。
 そして、その爆笑は程なく感嘆の声に変わっていった。
 ホットドッグの山が見る間に減っていく。フリードとイルメリアがホットドッグを食べるスピードは、他の参加者を大きく突き放し始めたのだ。
 参加者の中には思わず手を止めて、抜きん出たフリードとイルメリアを呆然と見つめている者もいる。
「フリード、頑張って下さいっ!」
 がむしゃらにホットドッグと格闘するフリードの傍らで、ヴァンデミエールが声援を送る。しかしその声が届いているのかもう定かではない。
 ホットドッグの山が三分の一以上減った頃だった。休むことなく口を動かすフリードが、琥珀色の瞳でちらりとイルメリアの様子を窺う。
 青い瞳を剥いたイルメリアは、たてがみのような金髪をさらに逆立てて、猛然とホットドッグに食らいつく。その姿はまるで獣、まさに人外の生物だ。飛び散ったケチャップとマスタードが、顔中にべったりと極彩色の斑模様を作り出している。
 戦場たる会場で一瞬生じた空白の最中に、フリードとイルメリアの視線が交錯する。
 お互いの衝撃的な姿に驚いて、ホットドッグを喉に詰まらせたフリードとイルメリアが、胸を叩きながら顔を真っ青にして目を白黒させる。
「ぐうっ……」
「うぐぐっ……」
 息が止まり、目の前でちかちかと光が瞬いている。
 コップを取ろうと伸ばした手が空を掴み、フリードはテーブルに突っ伏した。かろうじて両手で上体を支えると、ふんぬと背筋を伸ばす……が、そこまでだった。
「フリード、しっかりして下さい。フリードっ!」
 ヴァンデミエールの声援も空しく、胃袋の許容量が限界を越えていたフリードの体がぐらりと傾く。
 しかし、それはイルメリアも同じような状態だったらしい。
 フリードとイルメリアは、ホットドッグを口にくわえたまま、全く同じタイミングで椅子から転げ落ちた。
 微かに体を痙攣させている二人の様子を確かめた審判が残念そうに失格を宣言し、フリードとイルメリアはあえなく敗退となった。
「こ、こんな中途半端な終わり方なんて、私は納得が出来ません!」
 地団太を踏んで悔しがるヴァンデミエールが、どん! と大きな音をさせて水差しをテーブルに置いた。
 興奮して振り乱した黒髪もそのままに、額に手を当てて首を振っている。
「あいつ、無茶言ってら」
 観客席を降りて、気を失ったフリードを引っ張り起こしたトールは、ふと白目を剥いているイルメリアを気の毒そうに見遣った。
 ホットドッグの大食い競争は、フリードとイルメリアの相打ちで幕を下ろした。
 担架に乗せられて退場する二人は何とも情けない姿だったが、大会の盛り上がりに一役買ったフリードとイルメリアへ観客から盛大な拍手が送られた。
 
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