The Story of Art Gallery Coffee shop 「EPISODE ZERO」
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 古びた時計が、静かに時を刻む。
 僕はくたびれた装丁の本を、しおりも挟まずにそっと閉じた。
 午後二時三十分――。
 店内に、お客の姿はない。
 お客がいなければ仕事も無い訳で、仕方なくただぼんやりと客待ちをしているのだが。まぁ、それはいつもの様子と言ったところかな。
 「画廊茶館」
 このちっぽけで古びた喫茶店は、今は亡き爺さん自慢の店だった。
 爺さんが亡くなった後、直ぐに閉店した茶館。
 時を経ても、テーブルも椅子も昔のまま。それらから感じるほのかな温もりに、幼い頃の思い出が甦る。
 そして店内の壁をぐるりと見回せば、目に映るのはたくさんの絵画だ。水彩、油彩などの技法を用いて様々なモチーフが描かれており、どの作品からも描き手の気持ちが伝わってくる。飾られているたくさんの絵は、喫茶店の大切な財産だ。
(その他には、何もないけどね)
 僕は小さくため息をつき、横目でそっと隣を盗み見た。
 店内には僕のほかにもう一人。カウンターの奥に置かれた椅子に腰掛け、静かに目を閉じている女性。
 艶のある肩までの黒髪は、大きなリボンを使って背中で一つにまとめられている。色白で整った顔立ちに、唇に引かれた紅いルージュが映える。
「……なんですか? マスター」
 僕の視線を感じたのだろう。不意に彼女、瞳子さんが目を開けて僕に問いかけた。
 開かれた紫色に見える不思議な色合いの瞳に、あたふたとしている僕の姿が映
る。
「あ! いや、ええと、うん、何でもないよ!」
 僕は慌てて取り繕うように言うと、店の外へと視線を移した。
 あれ? 天気雨だ。
 店の窓から外を見れば、通りを行き交う人々が慌てて走り出す。あの幾人かでも、店に入ってきてくれればいいのに。
「そういえば……」
 瞳子さんと初めて出会ったあの日を、僕はふと思い出していた。

 老朽化した茶館を取り壊し、整地したのちに土地を売りに出す。
 鼻息も荒くまくし立てる馬鹿親父の説得に、僕は約三ヶ月の月日を要した。親父も義母も、税金やら店の管理費やらで相当頭が痛かったようだ。
 僕は親父と派手な親子喧嘩をやらかし、売り言葉に買い言葉でなんと、この喫茶店を経営することになってしまった。
 都会で思い出したくもない失恋と挫折を味わい、その傷を抱えたまま逃げるように故郷へ帰ってきた事情もあり、決心しない訳にはいかなかった。
 時間の流れから置き去りにされていたこの店を再び開くことは容易ではなく、僕は金策を含め役所への届け出や手続き等、各方面を駆け回らなければならなかった。
 しかし、不思議といくつもの幸運が重なったこともあり、驚くべき早さで全ての準備が整った。
 これにはもう、神の存在を信じたりもしたんだけど。
 開店を迎えた初日だった。
 それまでの無理がたたったのか、僕は過労から信じられないほどの高熱を出して寝込んでしまったのだ。
 上がりっぱなしの熱を示すいまいましい体温計をぽいと放り投げて、僕はベッドの中でうなった。
「……何でいつもこうなんだよ」
 何をやっても土壇場でうまくいかない、悔しさに恨み言が口からこぼれる。力の入らない拳を握りしめていると、不意に電話のベルが鳴った。
 どうせ馬鹿親父だ、僕を嘲笑したいに決まっている。そう決めつけて黙りを決め込もうとしたのだが、いつまで経っても電話は鳴りやまない。
「ええい、うるさい!」
 電話線を引き千切ってやろうかとも思ったが、すんでの所で思い留まった。
 仕方なく受話器を取る。あの馬鹿親父は、また小馬鹿にするように笑うんだろうなと、腹をくくったとき。
 受話器から聞こえてきたのは、馬鹿親父の嘲笑ではなかった。
『ええと、あの、もしもし。沢渡さんですか? 彩人さんですよね?』
 聞いているだけで癒やされるような、涼やかな女性の声。
 けど、いったい何なんだいきなり。
「……はい。そうですけど、どちら様?」
 一度咳払いをし、なるたけ面倒くさそうに返事をする。何かのセールスやらなんてお断りだ。
『ああ、良かった! いらっしゃらなかったらどうしようかと思いましたわ! やっぱり電話番号を覚えていて良かったです。なにしろ……』
 受話器から言葉の奔流が熱っぽい僕の耳へと、もの凄い勢いで流れ込んできた。
「あ、あの……」
 止める暇もない。
『この街を離れてから随分経ちますから、街並みが変わってしまって……。あ、いいえ、突然お邪魔するのもどうかなと思ったのですが、今日が開店初日なのでしょう? お爺さまには、大変お世話になったんですよ。これは是が非でも恩返しをしなければと決心したのですが。私は方向に疎くて、すっかり道に迷ってしまいました。でも、ご安心下さい。今からそちらに伺いますわ』
 理解力が低下している僕に一方的にまくしたてた相手は、言いたいことを言い終えたのか、ぷっつりと電話を切ってしまった。
 女性は、爺さんの知り合いだと言った。そして今からこの店を訪ねると。
 この店のマスターだった爺さんの知り合いとなれば、知らん顔も出来ないだろう。僕は脱ぎ散らかしていたジャケットを引っかけて、首を傾げながら階下へと降りていっ
た。
 爺さんが亡くなったのは僕が小学生の頃の事だ、その爺さんを知っているなんて。随分と若い声だったけど、いったい誰なんだろう? それに、誰からこの店を再開店させる事を聞いたのだろう?
 幾つもの疑問が、熱でぼんやりとした頭に浮かんでくるが、とにかく待ってみようと思った。
 だが。信じた僕が馬鹿だった、あれから小一時間待っても電話を掛けてきた女性は現れない。
「やられた」
 馬鹿親父の嫌がらせだったのかもしれない、いいや、絶対にそうだ、間違いない。
 芸が細かい馬鹿親父め。
「あーっ、畜生!」
 駄目だ、もう寝よう。
 ふらつく足取りで、建て付けの怪しい店のドアに鍵を掛けようとしていると、いきなりの雨音が聞こえてきた。
 僕は扉を開いて外へ出ると、突然に泣き出した空を振り仰いだ。
「雨か……」
 空は晴れているのに。
 開店初日に過労で倒れ、天気にまで見放されたようで僕は余計に落ち込んだ。
 でも、天気雨だから、そう長くは続かないだろう。
 店内に戻ろうとしたその時、
「ああ、ごめんなさいっ!」
「わぁっ!」
 叫び声と共に突き飛ばされた僕は、もんどり打って倒れ込み、派手に床へと転がっ
た。
「あ、え、えと。あのあの、あ、彩人さんですよね? ご、ごめんなさい、だ、大丈夫ですか?」
 堪忍袋を苦労してなだめながら体を起こし、頷いた僕のうつろな目に映ったのは一人の女性だった。
 僕は驚いて目を丸くした。光の中で霧雨が降っている、細かな雨粒がきらきらと光を反射して、まるで彼女が白いヴェールを纏っているようだ。
 心配そうに僕を見つめる深い紫色の瞳、その綺麗な瞳に思わず引き込まれそうになって一瞬怯んだ。僕はぱちぱちと瞬きした後、差し出された彼女の手を丁重に断った。熱っぽい上にふらつく体へ力を入れて立ち上がると、取りあえず彼女にハンカチを差し出した。
「あなたの方こそ、濡れているじゃないですか」
「大丈夫ですわ。ほんとうにごめんなさい、まさか降り出すとは思わなくて」
 彼女はそう言いながら軽く首を横に振って僕のハンカチを断ると、ぱんぱんと手で体に付いた雨の雫を払っている。
 熱のせいで夢の中にいるようだけど、それでもまだ彼女の姿を観察する余裕があった。
 彼女は黒いジャケット、同じ色のタイトなスカート。白いブラウスにベストを着込んでいる。すらりとした長い足にはローファー。ジャケットの前部分を止めているのはボタンではなく、小さな輪を連ねられた金のチェーンだ。そして襟元には、光を弾く紅い飾り石が留められている、これまた黒いリボンタイ。
 ほとんど全身黒ずくめの彼女はなんと、一抱えもありそうな唐草模様の風呂敷包みを背負っていたのだ。似合わないことこの上ない。
 背中の荷物が重いのだろう。「よいしょ」と、風呂敷包みを背負い直した彼女が小首を傾げた。
「ひょっとして、その格好でここまで来たの?」
 高い熱のせいではなく、鈍く痛むこめかみを押さえながらそう言うと、とたんに彼女は困り顔になった。
「わ、私の格好、な、何かおかしいですか!?」
 彼女はおろおろと、袖を引っ張ってみたり、タイを直してみたり髪に手をやったりしている。
「いえ……。ああ、何でもないです、大丈夫ですよ」
 唐草模様の風呂敷だなんて、いくらなんでもこれでは一昔前の泥棒スタイルだ。背中の大きな風呂敷包みを指摘するのも気の毒だし。だいいち面倒くさいので、ひらひらと手を振りながら答える。
 僕の胸中など気付かぬように、ほっとした様子の彼女は背中の風呂敷包みをどすんと床に降ろした。
「初めまして、彩人さん。私、水無月 瞳子と申します。今日から、この画廊茶館で働くために参りました!」
 そう言って、深々とお辞儀をした後、顔を上げて微笑んだ。
 差し込む陽の光を背に受ける彼女、瞳子さんの姿は雨粒に反射する光と虹色に彩られ、とても美しく見えた。
 その微笑みにあてられたのではない。また上がりはじめた熱のせいだろう、僕は糸が切れた操り人形のようにその場にくずおれた……。
 ☆★☆
 ふと振り返ると、瞳子さんはじっと目を閉じているままだ。
 彼女と出会ってから、もう一ヶ月が経つ。
 もともと一人で店を始めるつもりだったのだが、女性の細やかな心遣いは必要だ
し、何より華やかさが違う。
 言葉遣いと何やら古めかしい生活習慣など。彼女については様々な疑問が生じるのだが、僕は気にしないようにしている。
 そして、まるで以前からこの店を知っているかのような瞳子さんは、あっさりこの店に馴染んでくれた。
 履歴書など貰ったわけではない、経歴や職歴を聞いた訳でもない。人を雇い入れるのに不用心極まりない。
 優しかった爺さん、お人好しで誰彼ともなく話すことが好きだったらしい。どうしてだろう、瞳子さんは爺さんの事をとてもよく知っていた。
 何より彼女の紫色の瞳は、真摯な光を湛えていた。
 僕はそれだけで充分だった。それに、瞳子さんとはうまくやっていけるだろう、直感的にそう思ったのだ。
 瞳子さんはよく働いてくれるのだけど、客足は思うように増えてはくれない。だから毎日、彼女と二人で時間を持て余す日々が続いている。
 日曜日の午後だというのに、今日も店は閑古鳥が鳴いている。ふと時計を見ると、そろそろ午後三時になろうとしていた。 
「瞳子さん……」
「マスター……」
 僕と瞳子さんは、ほぼ同時に互いを呼んだ。
 瞳子さんは、にっこり笑って話すよう促してくれるが、こちらに大した話はない。
 僕のそんな様子に気付いたのか「お茶でも淹れますわ」瞳子さんはそう言って椅子から立つと、サイフォンのフラスコを布で拭き始める。その時、勢いよく店の扉を開けて一組のカップルが飛び込んで来た。
「すみません。彼女が雨に濡れちゃって、タオルを貸して貰えませんか?」
「あらあら、雨が降り出したんですね。すぐにタオルをお持ちしますわ」
 いきなり降り出した雨に打たれたのだろう。彼女を気遣う優しい言葉に、瞳子さんが真っ白なタオルを彼氏に渡す。
 微笑ましいカップルをぼんやりと眺めていると、天気雨は小降りになってきた。
 また天気雨か、そう言えば「狐の嫁入り」って言うんだった。
 あれこれとカップルの世話を焼く瞳子さんの後ろ姿を見ながら、僕はぼんやりと考えた。あの日、僕の目の前に現れた瞳子さんの姿は、僕の脳裏に鮮やかに焼き付いている。
 光を弾く雨の飛沫は白く輝き、まるで瞳子さんがウエディングドレスか、白無垢でも纏っているようだった。
 天気雨……。
 ひょっとして、瞳子さんは狐の……?
 彼女が背負っていた大きな風呂敷包みを思い出すと噴き出しそうになる。それにそんなこと、間違っても彼女に言える訳がない。
 そんな事を考えていると、振り返った瞳子さんが僕に優しく微笑んだ。


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