選挙について考える

   地方統一選挙の年になりました。いままで自分自身のも含めて数え切れぬ程の選挙に関係しましたが、あのスタイルは何とかならぬものかと昔から感じており、いまだに妙案がでません。選挙といえば日本国中どこでも・老若男女の候補とわず・与野党の区別なくおなじスタイルです。自動車に看板とスピーカーを載せ、候補者はたすきに白手袋・運動員はそろいのユニホーム・マイク係はおなじトーンで名前やスローガンを連呼して走り回る…。あの格好は正気の沙汰ではありませんから、普通の市民が政治に参加するのに大きなハードルになっていると考えます。
「そんならなぜお前はあんな格好ができるのか」と問われれば「選挙になれば正気ではなくなるから」と答えざるをえません。比叡山の廻峰行者が疲労困ぱいの極にありながら深夜早朝をとわず深山幽谷を飛び回って祈り、京の街々を走りながら祈る長期の修行をしています。彼らは俗世間ではごく平凡な人々ですが、神仏の御加護によって凄まじい修行に耐え、全身全霊を仏に捧げる宗教心に目覚めて阿闍梨になる訳です。政治家の選挙も同様で、生身はなんの取り柄もない人間かも知れませんが、連日連夜「世のため人のために頑張ります」と恥も外聞もなく叫び続けるのは、自己顕示欲から出るのではなく自らに政治家としての使命を言い聞かせるという状態なのです。
 前の年の秋頃から準備にかかり、各種会合へ挨拶に出向き、年末までに地元の家々を残りくまなく足固めに歩き、正月からは市内各所に点在する後援者を一人ひとりたずね歩き、友人知人に連れられて連日連夜の会合や支持者宅を訪問する活動が告示直前まで続くきます。まるで神仏に導き廻される比叡山廻峰行のように…。3,4ヶ月もそんな毎日が続くと疲労の極に達して、心がだんだんトランス状態になってくるのが自覚できます。普段の生活ではあり得ない事ですからまぁ正気の沙汰とは言えません。その状態を通過せずにあの選挙スタイルに突然飛込むと、免疫がありませんからやっかいな事になる場合もあるので注意が必要です。
 どんな職業もそうですが、とくに宗教家や政治家というのは普通の市民とは一種ことなる修行を通じてつくられるような気がしています。しかしいつまでもこんなスタイルで良いのだろうかと自問自答しながら、また修行の時が近づいてきました。
                                              H15年春