グイノ神父の説教



 2024年

B年

年間第23主日から

王であるキリストの祝日まで



 
   

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年間第33主日
王であるキリスト



        年間第23主日  B   202498日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 35,4-7      ヤコブ 2,1-5       マルコ 7,31-37

 4人の福音家たちの中で、聾唖者の癒しについて語ったのは聖マルコだけです。このような正確な詳細を通じて、マルコがこの出来事を目撃したペトロの個人的な記憶を語っていることが分かります。自分の弟子であったマルコにペトロは詳しくこの出来事を打ち明けました。そこで、イエスが話されたアラム語の言葉をマルコは二度報告します。二度目が「エッファタ・開け」で、初回は「タリタ・クーム・起き上がれ」(参照:マルコ5,41)でした。これらの神秘的な言葉は、私たちにイエスの神秘を発見するように誘っています。

 イエスがこの男を群衆から離れさせ、孤立させようとしたのはまさにこの目的のためでした。沈黙から解放されると、耳の聞こえなかった人は自分に対する神の愛を証し、イエスの教えと貴重な言葉に興味を持って耳を傾けることができるでしょう。イエスは「エッファタ」と言うことで、この聾唖の男に周囲の人々とつながる道を開かれました。この外の世界への開かれた扉を通して、彼が神の恵みが有効に作用する内面的な世界へと自身を開くことができるようになります。

 「エッファタ:開いて」または「タリタ・クーム・起き上がれ」、これらの言葉は何世紀にもわたって、私たちにイエスの神秘と教えを明らかに啓示しています。イエスは人々の心と体に命の道を開くお方であり、社会落ちぶれたり、社会から排除されたりしたすべての人々を立ち上がらせるお方です。イエスは、私たちを立っている人間、神の子とする命の道を私たちのために開いてくださいます。

 「エファタ」というキリストの言葉は、神に対して私たちを開き、神の声に耳を傾け、神に応える力を豊かに与えています。それは命に関わる大切な行為だからです。これは、聖書の中で、私たちを神のところに連れて行くようにと神が絶えず呼びかけておられることです。 「イスラエルよ、よく聞け」(参照:申命記6,4)、「聞く耳のある者は聞きなさい」(参照:マタイ11,15)。神の言葉を聞く人は、信仰に入り、さらに前進することができます。同様に、人間の言葉を使って神に感謝する人は、すでに永遠の命への道を歩んでいます。

 イエスは神の御名によって語るために来られました。私たちが神の言葉を聞き、聞いたことを宣べ伝えることができるようにするために、イエスは私たちの口に自分の唾を入れて神の味を与えたいと願っておられます。イエスは私たちの両耳に指を入れたいのです。それは、世界の喧騒によって私たちが神や大切なものから気をそらされるのを防ためです。そして、イエスは天に目を向けてため息をつき、「エッファタ、開け」と言います。つまり「あなたを必要としている人の呼びかけに心を開いてください。必要に応じて、彼らがまったく聞いてもらえず、口がきけなくなった人になったとき、あなた自身が彼らの声になりなさい。彼らの代わりに、信仰を持って神に叫ぶ声となってください」と。「主よ、私たちを救ってください。主よ、私たちをあなたの傍に引き寄せてください。主よ、赦しと恵みと憐れみに満ちたあなたの御手の中に小さな者として私たち全員を守ってください」と。

 自分の気持ちを表現できなくなった人の話に時間をかけて耳を傾けるとき、私たちはイエス・キリストの弟子として認められるでしょう。私たちが彼らの名によって叫ぶことによって、イエスが私たちの耳に触れて開かれたことや、私たちの口と言葉に神の味を与えてくださったことを認識することができるに違いありません。アーメン。


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   年間第24主日  B年  2024915日    グイノ・ジェラール神父

        イザヤ50,5-9      ヤコブ2,14-18     マルコ8,27-33

  すべてを捨てた後、弟子たちはどこまでもイエスに従いました。 彼らはイエスの行いを見て、彼の話を聞き、そしてびっくりして見たものや驚いて聞いたものすべてに魅了されました。弟子たちは、イエスの愛がどのように神の発見に導くかを発見しました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と質問することで、イエスは神とご自身について弟子たちをより深い知識に導きたいと考えています。

 イエスにとって、信仰とは、第一に神に繋がる内面的で親密な人間関係であり、この関係は信じる者を変えます。単純な人々にとって、イエスが洗礼者ヨハネ、預言者エリヤ、あるいは昔の預言者たちに似ていることを発見するのは珍しいことではありませんでした。しかしどれほど有名であっても、歴史上の人物とのこうした比較をイエスは、はるかに超えています。そして、ペロが語る「メシア」は、多かれ少なかれ聖書の中に記述されている人物であり、イスラエルの人々が待ち望んでいる人物です。しかし、イエスはペロや他の弟子たちがメシアとして考えているものとは、全く異なります。だからこそイエスは彼らに黙って、沈黙するように要求します。なぜなら、弟子たちはキリストの受難と復活を経験してから、ようやく真のイエスを発見するでしょうから 。

 私たちは皆、自分の中にイエスに関するあるイメージを持っていますが、それは現実からはまだ遠いものです。私たちにとってイエスがどのような方であるかを言うことは間違いなくできますが、イエスが私たちの中でどのように働いてくださるのか、どのように私たちを新しくし、赦し、義とし、聖化するのか、実際のところは解りません。


 私たちは、神の子であることがどういうことなのか、キリストの体と血と一致すること、あるいは聖霊の神殿になることがどういうことなのか、どうやって説明すればよいのかさえ知りません。それでは、イエスがどのような方であるかを私たちどうやって説明すればよいのでしょうか。

 イエス、そして彼を信じる私たち自身も、それは私たちが信仰と祈りの中で発見する神秘です。したがって、イエスを知り、またありのままの自分自身を発見するために、イエスとの真のつながりを築くことは必要なことです。この発見は、自分だけの秘密です。なぜなら、この発見は多くの人にとって理解できない謎のままだからです。実に、神について、また私たちの心の奥底で神がなさっておられることを表現する言葉を見つけるのは非常に困難です。

 そういうわけで、ペロも、勿論弟子たち全員も、イエスがご自身について啓示し始めようとした受難の出来事を理解できませんでした。弟子たちの考えや理解は依然として人間のものでした。彼らの考えが神ご自身の考えとなるためには、弟子たちは自分の十字架を背負って、キリストに従って、長く一緒に歩むことが必要でした。

 私たち一人ひとりについても同じことが言えるでしょう。イエスと共に歩むことは、復活、喜び、命に導きます。「イエスは道であり、真理であり、命なので」(参照:ヨハネ146ためらわずに、忠実にイエスの近くに留まり、イエスの足跡をたどって歩み続け、永遠の喜びを達成しましょう。そうしてその時、初めて、私たちはイエスの神秘と私たち自身の神秘を完全に知ることができるのです。アーメン。

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    年間第25主日  B年  2024922日  グイノ・ジェラール神父

    知恵の書 2,1217-20     ヤコブ 3,1 64,3   マルコ 9,30-37

 イエスが自分の受難について弟子たちに教えたことは、直接的で厳しいものでした。イエスは、簡単なニュースを言うように弟子たちに話しかけませんでした。イエスは彼らに、非常に近い将来の出来事について真面目に教えていました。イエスは近いうちに逮捕され、殺され、三日目に復活します。確かに弟子たちはイエスの話しを聞いていましたが、耳を傾けませんでした。彼らは彼に質問することすら恐れていました。

 誰かが何を言いたいのかを理解するには、それが聞こえるだけでは十分ではありません。彼の言うことを注意深く聞かなければなりません。弟子たちは、イエスが自分たちに託したことに注意を払うよりも、誰がイエスに最も近く、誰が自分たちの間に最も大きな影響力を持っているかを知りたいと考えていました。しかしイエスは弟子たちを叱責することもできましたが、弟子たちに対しては優しく振る舞うことを好みました。 イエスが父の計画を実現するために来た世界は、小さな人たち、貧しい人、弱っている人、そして癒され救われるべき人々の世界です。イエスは一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、この子どもは弟子たちがこれから発見し奉仕しなければならない新しい世界の象徴であることを彼らに示しました。


 イエスはこれから待ち受けている受難の戦いについて弟子たちに説明しようとされましたが、彼らは何も理解できず、イエスを前にして恐れを抱いていました。弟子たちは、イエスの死と復活を通して実現しなければならない神の計画をまったく理解していませんでした。全く興味も持っていませんでした。むしろ弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかについて議論しました。私たちも、自分たちの生活や世界における神の働きについて、何も理解できないことがあります。そのために、他の事で私たちは議論したり嫉妬したりして時間を無駄にしています。

 聖ヤコブは手紙の中で、人間と神を隔てている分断を私たちに示そうと努めています。聖ヤコブは、神について語るとき、知恵、義、平和、寛容、理解、慈悲、利益、正義という言葉を使います。 一方、人間については、嫉妬、競争、無秩序、邪悪な行為、戦争、争い、欲望について語っています。 聖ヤコブはまた、神と人間の関係さえも歪んでいることを示しています。 「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と。確かに、私たちはしばしば自分の願いを速く叶えるように神に要求しています。

 イエスは子どもを役立つ模範として弟子たちに見せました。これは、神の王国における唯一の偉大さは、何の報酬もない、無償の奉仕であることを弟子たちに理解させるためでした。子どもは何の権利ももたず、大人に依存しており、弱さ、無知、依存など、特に社会が拒否し軽蔑するものすべてを現しています。この子どものような小さな者をイエスの名において迎えることは、神ご自身を迎えることだとイエスは説明しました。その理由は非常に単純です。なぜなら、イエスご自身が自分を人々の手に引き渡すことによって、ご自身を最も小さい者、最後の者、そしてすべての奉仕者にするからです。

 知恵の書は、同時代の人々から嫌われていた正しい人の悲劇を呼び起こしました。 この正しい人について次の様に書かれていました。「本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。敵の手から救い出されるはずだ・・・彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ」と。 私たちはこの人を通してイエスご自身を見ることができるでしょう。ですから、私たちもイエスのように単純になることに同意し、努力しましょう。つまり、私たちの父なる神の愛される子どもたちになろうではありませんか。アーメン。

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     年間第26主日 B年  2024929日   グイノ・ジェラール神父

   民数記11,25-29     ヤコブ 5,1-6    マルコ 9,38-48

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(参照:ヨハネ3,8)と、イエスはニコデモに教えました。この日の朗読は私たちにこの真実を思い出させます。聖霊は思いのままに、望むところに吹き、予期せぬ人々にも触れます。このようにして、神はご自身の愛の大いなる自由を私たちに示してくださいます。神の恵みには限界がありません。民数記は、期待された場所にいなかった人も、決められた場所にいた他の人々と同じように聖霊に満たされたことを示しています。これに気が付いた若いヨシュアはショックを受けましたが、モーセは神の論理と自由をすぐに理解しました。そしてそのこと自体がモーセを喜びと大きな預言的希望で満たしました。ある日、聖霊によって数えきれない膨大な群衆が満たされるでしょう


  私たちが今聞いた聖マルコの福音書にも同じシナリオが見られます。イエスに従わない人がイエスの名において悪霊を追い出します。若い聖ヨハネは、かつて若いヨシュアがそうしたように反応しました。この男がキリスト近くいる、イエスによって使徒として選ばれていないので、ヨハネはこの男の活動をやめさせようと考えました。イエスの反応は、ヨハネとは違いモーセがかつてヨシュアに示した反応と同じでした。いつの日か、勝手に悪霊を追い出したこの人のような多くの人々が、イエスの名において、自らの行動を通て救いの福音を告げ知らせ、それによって多くの人に信仰と永遠の命の扉が開かれることだとイエスは教えようとしました。

 同様に、数年後、異邦人であるローマの百人隊長コルネリウスの家に呼ばれた聖ペトロは、ユダヤ人でないこの人が洗礼を受ける前からすでに聖霊を受けていたことを確認して、大変驚きました (参照:使徒10,45-46)。さらに驚くべきことは、ユダヤ教を厳しく守るためにキリスト者の迫害者であったパウロの回心です。聖霊に満たされ、使徒ではないパウロは、どこへ行っても異邦人たちに信仰の扉を開く人となりました。

誰かが行った善を見たり、誰かが行った善について聞いたりしたときは、急いで神に感謝して喜びましょう。なぜなら、神は世界で起こるあらゆる善行の中に常に存在しているからです。私たちはこの事実について注意を払うことが必要です。そして、私たち自身の行動を通じて私たちの間に神の臨在をますます証しするキリスト者にならなければなりません。また、信仰と福音の言葉に照らして時代のしるしを読み取ることができるようにイエスに願い、求めましょう。

  神の物事のやり方はいつも教会指導者たちを混乱させます。しかし、教会指導者たちの仕事は聖霊を導くことではなく、聖霊の働きを認識し、識別し、認証することです。イエスが時々私たちに断絶や分離をするよう求められるとしたら、それは、決して私たちの人生を狭めるためではなく、それを広げるためです。いったい、私たちの手、目、心は何のためにあるのでしょうか。手、目、心は奪ったり、横領したり、支配したり、搾取したりすることに慣れているのではないでしょうか、聖ヤコブが手紙の中で非難しているように。それとも隣人に奉仕し、信頼し、尊敬し、賞賛し、祈りを捧げているでしょうか。答えは自分の心にあるでしょう。

  人を愛し、解放するために私たちは十分に自由になっているでしょうか。第二バチカン公会議は「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事がらで、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」(参照:現代世界憲章1)と教えています。これは、イエスが私たちに求めておられることです。聖霊が私たちの助けを使わずに、さまざまな所で実現するすべての偉大な業に驚くようにイエスは私たちを招いておられるのです。アーメン。
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    年間第27主日  B年  2024106日  グイノ・ジェラール神父

        創世記2,18-24    ヘブライ2,9-11     マルコ10,2-16

アダムは神が彼に与えた妻を見たとき、「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉です」と叫びました。ヘブライ人への手紙の著者は、「私たちは神の民族であり、神の子たちであり、救い主キリストの兄弟である」とはっきり述べています。これらの 二つの宣言は、神の最初の愛の業が、ご自分の似姿で私たちを創造したこと、そしてご自身が私たちを愛しているように、神は私たちに愛する力も与えてくださったことを思い出させます。

 神が示されたこの愛のゆえに、聖書は、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と教えています。イエスがモーセの離婚許可を非難したのはこのためです。イエスはファリサイ派の人たちに愛の神秘を理解するように、「神の創造的な言葉」と「モーセの律法」の違いを指摘します。モーセの律法は、人間の弱さを考慮に入れようとしたので、夫婦の一致を破壊してしまうのです。このように説明することでイエスは、当時の社会において権利を全く持たなかった女性たちも擁護しています。


 弟子たち、親たちがイエスのそばに連れて来た子どもたちを止めたとき、彼らに愛と慈しみの計画である神の国に入るには、大人は子どもから学ぶべきことがたくさんある、とイエスは弟子たち私たちに教えています。ここでもイエスは権利を持たない子どもたちを擁護しています。当時、子どもたちは不完全な存在であり、律法を守ることができないと考えられていたのです。

 私たちの人類に対する神の愛の計画は、他者に対する差別、軽蔑、敬意の欠如、拒絶を決して許しません。もし私たちが神の子どもであるなら、私たちはもっと連帯して、救い主キリストを通して神と一致して兄弟姉妹として生きようと努めなければなりません。

 アダムが自分の命がもはや自分自身の中にではなく、妻であるイブの中にあることを発見したとき、彼の中に愛が生まれました。アダムが自分の心から湧き出る願望が、神が彼に与えた女の中に現実化し留まることに気づいたときに愛が生まれました。しかし、人間の欲望が自分自身に向かうとき、愛は不純物となり、心はかたくなになります。心のかたくなさは常に争いや軽蔑の原因となり、それが不幸や不正義の原因となります。

 
私たち全員を脅かす本当の危険は、心の固さであるとイエスは警告します。イエスは、妻や子ども、両親だけでなく、すべての人に対しても心の優しさを持つことを提案しています。なぜなら、私たちは皆、神の子どもだからです人は大好きでよく見ている者を真似て、そのものになってしまうと言われています。現代の私たちの世界には愛と優しさが欠けています。誰もが自分の人生を見つめると、幸福はすべての人を愛する能力と結びついていることに気づきます。主に近づきましょう。それが愛を学び、世界をより良くする唯一の方法です。愛する心の優しさは、命、喜び、そして一体感の源です。愛する心の優しさは、神の国の扉を大きく開きます。アーメン。

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   年間第28主日 B年  20241013日   グイノ・ジェラール神父

      知恵の書7,7-11    ヘブライ 4,12-13    マルコ 10,17-30

 ヘブライ人への手紙が私たちに教えているように、神の言葉は力強く、両刃の剣よりも鋭いです。賢い人は、この世のすべての富よりも神の言葉に限りなく大きな価値を置きます。しかし、若い頃から神の戒めを守ってきたこの金持ちの青年は、それを知っていても、所有していた品物よりもはるかに優れている天の宝を得るために、自分の所有物を手放すことができませんでした。

 イエスに助言を求めに走ったこの金持ちの青年は、「肉となった神の言葉」が自分の前に立っていることを知らなかったに違いありません。イエスは、神を心から求めているこの青年の誠実さをすぐに見抜き、彼を愛しました。しかし、彼はイエスの招きに応えることができませんでした。莫大な財産を所有していることが、永遠の命を求める彼の熱意を突然鈍らせたのです。イエスが彼に言われたように、彼は「何かが欠けている」ことを体験できなかったのです。自分が持っている富が彼を無力に変えてしまいました。若者の富が彼を奪いました。富がなくなることへの恐怖は、神に対する彼の熱意を麻痺させ、限りなく悲しみを与え、贅沢さとそれが与える偽りの安心感に戻らせました。

 この金持ちの青年のように、私たちも人生の中で何らかの不満を感じることがあります。私たちは時々、自分の人生にもっと真実で深い意味を与えたい、神ともっと結びついた人生を望むという願望が自分の中に湧き上がってくるのを感じることがあります。しかし、この欠如感や内面の空虚感は私たちを怖がらせるので、すぐにそれを払いのけ、様々な活動に夢中になってしまいます。ですから、今日こそは時間をかけて、自分自身を調べてみましょう。私たちの中にある深い願望とは何ですか、また私たちにとって「人生に成功する」とは何を意味するのかを考えてみましょう。

 イエスは助言を求めてきた青年を見つめ、彼を愛しました。私たちも、イエスが愛のまなざしで私たちを見てくださるように、遠慮なくイエスに助言を求めましょう。これは私たちが回心を始める、つまり私たちが神への信仰の要求にさらに応えるために必要な力を受けるためです。イエスのまなざしは常に自信と希望を与えます。なぜなら、イエスは私たちの中に隠された美しさを知っているからです。単純に、ただイエスに私たちを見つめてもらう時間を取りましょう。それこそが私たちが最も深く必要としていることではないでしょうか。イエスは私たちにとって最善のことを望んでおられます。神は、確かに、私たちのちょっとしたするさや、気ままな生き方や、神に対する無関心の生き方に満足していません。

 あなたに足りないことが一つある。行って、持っているものをみな売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしにに従いなさい」とイエスは青年に勧めました。イエスは金持ちの青年に、貧しさと分かち合いの経験を提供していました。それこそが真の喜びであり、永遠の幸福だからです。神は、惜しみなくすべての人にご自身の愛する喜びを分かち合いたいと望んでおられます。 今日、私たちの中にある役に立たない、邪魔で面倒なものを断ち切る神の言葉をイエスのうちに再発見しましょう。イエスに基づいて自分の人生を築くことを恐れないようにしましょう。イエスは揺るぎない真の命の岩であり、永遠の幸福への道だからです。アーメン。

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     年間第29主日 B年  20241020日    グイノ・ジェラール神父

         イザヤ 53,10-11    ヘブライ 4,14-16    マルコ 10,35-45


  教会の世界福音の日に当たって、私たちが今聞いたイザヤ書の言葉は、イエスの使命を説明しています。この僕は、苦しみを自由に受け入れ、耐え忍んだことを通して、全人類を神との交わりに回復させます。イエスは仕えられるために来たのではなく、受難の神秘を通して人々に仕え、彼らに命を捧げるために来られました。


 ヤコブとヨハネがイエスに「側に座らせてください」と頼んだとき、彼らは少し前にイエスが言われたことを思い出しました。実際、イエスは、すべてを捨ててご自分に従った弟子たちが、王座に座るであろうと言われました(参照:マタイ19,29)。それでヤコブとヨハネはできるだけイエスの近くに座りたいと考えました。しかし残念なことに、彼らは「キリストに従う」ということが何を意味するのか理解していませんでした。彼らは座って他人を支配したかったのです。イエスは彼らの考えを正し、ご自分に従うということは、持っている弱さにもかかわらず、前進して、試練を乗り越えることによって神のご意志を実現することであると説明しました。キリストに従うということは、「しかるべき時に神の助けの恵みを受けるという確信」を自分の中に持つことも意味します。キリストを着るということは、「多くの人の身代金として自分の命を捧げに来る人の子」の姿になることを意味します。

 自分の将来について考えるとき、人間社会の中で、できれば最善の場所を見つけようとするのはごく普通のことです。そのために、私たちはためらわずに「テスト」を受け、試験や競技会の準備をし、面接を受けます。これには疎外されるリスクが伴いますが、自分で設定した目標を達成するチャンスも与えられます。ヤコブとヨハネの希望は簡単に理解できます。彼らはイエスがローマ人の独裁権力を打倒し、イスラエルに王権を回復してくれると信じてイエスに従ったのです。

 他の弟子たちがねたむ反応を見て、イエスは彼らを叱責しませんでした。それどころか、イエスは彼らに当時の王や権力者たちの過ぎ去る栄光ではなく、近いうちにご自分のものとなる栄光を求めるよう勧めています。確かに、彼らはイエスの受難の痕跡に触れるときに、復活したイエスのうちにこの神の栄光を見るでしょう。

 「支配者と権力者が権力をふるっている」中で、私たちが彼らの場所を奪っても何も変わりません。権力は権力のままであり、支配するか奴隷化することでしか維持することができません。唯一の偉大さは、すべての人の奉仕者となり、自分自身を与え尽くすまで愛することです。教会や市民生活において権力を求めることは危険です。イエスが開かれた神の王国では、誰もが、どこにいても、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」イエスのように生きることを保証しなければなりません。私たちに提供される最高の場所とは、愛が支配し、すべてを美しくする場所です。

 イエスは、右と左の二人の盗賊に囲まれ、ご自分の「栄光の座」である十字架上で死に、その使命を全うされました。イエスは十字架上で私たちの悲惨さを引き受けて、それを栄光に変えてくださいました。イエスに従う私たちは、その栄光を歓迎し、それをイエスと分かち合うように招かれています。 聖パウロが教えたように、「私たちをキリストの愛から引き離すものは何もない」のであれば、私たちは絶えず神に感謝しなければなりません。そして、私たちがイエスと益々結びつき、イエスの栄光と永遠の愛で包まれ、守られることを、私たちの死の瞬間まで神に願い続けましょう。アーメン。

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     年間第30主日 B 年  20241027日   グイノ・ジェラール神父

        エレミヤ 31,7-9     ヘブライ 5,1-6     マルコ 10,46-52

 私たちは耳つんざくような騒音にみちた世界に住んでいます。そのため、神を見つけたり助けを求めたりすることができなくなっています。イエスに従っていた群衆は盲人のバルティマイを黙らせようとしました。当時のユダヤ人にとって、見えないということは神の罰であり、盲人の叫び声は恥ずべきスキャンダルでした。しかし、バルティマイは、受けた脅迫にも関わらず、イエスに聞こえるようにますます大声で叫び続けました。それは効果的な行動でした。イエスが彼をご自分の近くに迎え、そして彼を癒してくれたからです。バルティマイは目が見えるようになったことを喜びながら、すぐに新たな弟子としてイエスに従いました。

 信じるということは、罪人であるか、病人であるか、盲目であるかにかかわらず、自分自身の状況を忘れることです。信じるということは、人間のあらゆる慣習を超え、自分を覆う恐怖の外套を拒否することです。信じるとは、他のどんな人間にもできないことを神が私たちのためにしてくれると、どんな希望もない中で期待することです。

 信じるということは、不可能を可能にすることです。しかし、神がバルティマイに対してなさったことに反して、私たちが神に叫んだのに、神が私たちに答えられなかったとき、どのようにして信じることができるでしょうか。

 そこには、神秘があります。厳しい試練に遭い、信仰の暗闇を経験する人々に対して、イエスは彼らの苦しみと神の沈黙に対する彼らの理解のなさを引き受けるために、より一層近くにいてくださいます。私たちを襲う不幸や試練にもかかわらず、神が私たちと共におられることをしっかりと信じましょう。たとえ神が私たちを救ってくださらないとしても、私たちの祈りが無駄に終わったように思えても、神は常に、私たちにこれらの試練を乗り越えるために必要な力を与えてくださいます。 無駄な祈りは全くありませんから。


  イエスが自分の傍に来るようにバルティマイは叫びましたが、実際にバルティマイを呼び、ご自分のそばに来るように招いたのはイエスです。私たちが神に叫ぶとき、イエスが私たちに「信頼しなさい。立ち上がって、あなたが私に近づきなさい」と言われるのを聞きわけましょう。イエスが私たちをご自分の近くに招いておられることを理解することが、救われることです。

 だからこそ、私たちは人生の試練を通して、私たちが神に近づけるように、神の呼びかけを聞き取り、理解することを学ばなければなりません。神は私たちを愛しているので、私たちがご自分に近づくことを望んでおられます。疑うなら、イエスのこの祈りを思い出してみましょう。「父よ、あなたが私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を彼らに見せるためです。」 (参照:ヨハネ17, 24)。アーメン。


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    年間第31主日 B年  2024113日   グイノ・ジェラール神父

       申命記 6,2-6   ヘブライ7,23-28   マルコ 12,28-34

 私たちは皆、神と隣人への愛の掟をよく知っています。私たちはまた、それらを実践することが、どれほど難しいかを経験しています。なぜなら、愛は思うようにいかないことを、私たちはよく知っているからです。心から愛するためには、ただ願うだけでは足りないですし、愛を命令することもできないことを私たちは知っています。本当に愛したいと願うだけでは愛するには十分ではありません。しかし、愛に関するこの2つの掟を行うことによって、確かに私たちに神の王国への扉が開きます。イエスが私たちを愛してくださったように愛すること、あるいは、隣人を自分自身のように愛することは、多くの場合、実現することが不可能だと思えます。

 幸いなことに、イエスはその死と復活によって、私たちを永遠に神の愛に根付かせてくださいました。「ただ一度ご自身を捧げることによって」とヘブライ人への手紙にあるように、イエスは私たちにその愛の力を注いでくださいました。私たちがイエスの名において皆で集まるとき、この愛が私たちを満たし、私たちを変容させます。この愛を共同体として受けることで、私たちは神と全世界との交わりに入ることができます。ここで、すべての天使や聖人たちと共に、私たちはすでに「完全な愛」を味わい、その愛が私たちに永遠の命を注いでくれるのです。実際、イエスが律法学者に言ったように「私たちは神の国から遠くない」のです。

私たちが教会に来るのは、祝日を祝ったり、誕生日を祝ったり、亡くなった大切な人を見送ったりするためではなく、まずイエスと出会うためです。ここに集まっているのは、イエスの愛が私たちを満たし、私たちを変容させるためです。私たちは、天の喜びと聖なる輝きが私たちに幸せをもたらしてくれるように願ってここにいるのです。

 ヘブライ人への手紙が述べているように、私たちの教会が建てられて以来、多くの司祭が次々と務めを果たしてきました。成功の度合いはさまざまでしたが、彼らは皆、神の愛を私たちに伝え、隣人を愛することの大切さを教えようと努めてきました。しかし、この教会、そして世界中のすべての教会の真の司祭は、イエス、ただ一人です。「彼は永遠に生き、私たちのために取りなしてくださる」ことによって、私たちを愛の完成へと導いてくださいます。


 愛することは簡単ではありません。愛もまた年を重ね、時とともに重くなったり、さらには完全に失われたりすることがあることも私たちはよく知っています。愛がつまずき、試練にさらされるとき、私たちは感情を越えて信仰へと移る必要があります。現在の困難に打ち勝つ愛を信じることが、たとえ人生がその逆を証明したとしても、極めて重要です。信仰と愛は密接に結びついているので、私たちにとってそれは一つの重大な掟として示されています。

 キリスト者にとって、愛は信仰なしでは成り立ちません。キリスト者は、まず、第一に献身的な努力や施し、犠牲を積み重ねる人ではありません。常に恋愛的な感情や神秘的な感覚を抱く人でもありません。キリスト者とは、愛が死よりも強いと信じ続け、どんなことがあっても神に完全な信頼を寄せる人です。アーメン。

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    年間第32主日  B年  20241110日   グイノ・ジェラール神父

      1列王記 17,10-16  ヘブライ 9,24-28    マルコ 12,38-44

 私たちは皆、自分を美しく見せたいという思いが強く、真の自分を隠すことにどれほど巧みであるかを知っています。この罠から逃れられる人はいません。それはしばしば私たちの言葉や行動に現れます。イエスはこれを偽善と呼びました。イエスが律法学者やファリサイ派の人たちの偽善に直面して、私たちに貧しいやもめの慎ましさを見せようとします。イエスは、密かに神に自分の生活費の全てを捧げたこのやもめの姿を見て、非常に驚き感動されました。

 おそらく、このやもめは喪の哀しみの試練を経て、神以外に自分の人生に頼るものがないことを悟ったのでしょう。この意味で、彼女は聖書に登場する他のすべてのやもめたちと同様に、福音的な貧しさの象徴と言えるでしょう。だからこそ、イエスは「心の貧しい者は幸いである、天の国はその人たちのものだから」(参照:マタイ5,2)と宣言されたのです。

神だけにより頼むことは、大きな可能性を開くものであり、第一朗読の物語がそれを示しています。サレプタのやもめは、生きるために自分に残されたすべてを、避難してきた預言者エリヤと分かち合うことをためらいませんでした。長く続いた飢饉の間、彼女は何一つ不足することがありませんでした。サレプタのやもめも、福音書のやもめも、自らの乏しさを捧げることで、自分たちの心の豊かさと神の摂理への信頼を明らかに表していました。イエスはエルサレムの神殿に来たやもめの心の秘密をすぐに見抜き、彼女が神に完全に身を委ねたことを喜び、ご自分の弟子たちにも喜ぶようにすぐ誘いました。

 イエスは、その捧げられた生涯と、貧しさと欠乏の中で行われた福音の宣教を通して、「貧しい心」とは何かを私たちに示してくださいました。すべてを与えてくださった父のように、イエスは受難の時、完全に父の手にご自身を委ね、私たちを救うために自らの命とご自分のすべてを捧げました。裸で十字架にかけられて死んだイエスを見つめるとき、私たちは、自分の貧しさを偽善的な態度や行動で隠そうとすることが、どれほど無駄な努力をしているかを知ることができます。私たちの心は罪によって傷ついていますが、プライドと高慢のためにそれを認めたくないのです。また、謙虚に神に告白して、赦しの秘跡を受けることも避けようとしています。

 兄弟姉妹のみなさん、神の目の前にありのままに立つことを恐れないようにしましょう。神だけが私たちの心を癒し、傲慢や偽善から解放することができるからです。神は私たちの惨めさをよく知っておられます。神は、私たちを裁いたり、非難したりすることもなく、私たちに豊かな慈しみを注ぎたいと強く願っておられます。

 今日の福音の教えが私たちの目を少しでも開かせてくれることを願いましょう。イエスの母、聖母マリア自身も、貧しいやもめでした。世界の救いのために捧げられた彼女の生涯が、どのような人生であっても、その人生の美しさは、貧しいやもめの施しのように惜しみなくすべてを与えるという姿勢から生まれることを、私たちに深く理解させてくれますように。アーメン。


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    年間第33主日  B 年  20241117日   グイノ・ジェラール神父

       ダニエル12,1-3   ヘブライ10,11-1418  マルコ13,24-32

  何世代にもわたって、人々は世界の終わりを恐れて生きてきました。最近イスラエルへ移住する人も多いと言われています。世界の終わりの予兆を感じ取ったと言う人たちによると、この世界の終焉は「ハルマゲドン」と呼ばれるイスラエルの場所で起こると言われています(参照:黙示録 16,16)。

 人々に世界の終わりが何を意味するか尋ねると、彼らは滅亡、大変動、または原子の脅威という言葉で答えます。彼らにとって、旧世界は想像を絶する宇宙的大変動によって消滅するだろうと考えられています。それに反してイエスは、自分の再臨とすべてが完成されるという観点から世の終わりについて語ります。神の計画に従い、すべてが完成されるために、イエスは栄光のうちに再び来られることを語っておられます。


 私たちはあまり考えませんが、神は復活されたキリストにおいて、すでに新しい世界の基礎を築いておられました。この世界は、枝に樹液を蓄えたイチジクの木のように、神秘的に成長し続けます。キリストの昇天と栄光の帰還の間には、教会の時が定められています。その時はもちろん希望と成長の時であると同時に、試練と迫害の時でもあります。だからこそ、私たちが信仰を堅く保つために、イエスは世の終わりまで私たちのそばにいてくださいます。
 
 イエスは、世界の終わりに関する壊滅的なビジョンで私たちを怖がらせることを望んでいません。 それどころか、イエスは神の働きを完成するために戻ってくるということを私たちに保証しています。すべてが神において和解する最終的な勝利へと、私たちを導くために、神の言葉であるイエスは永遠に留まります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とイエスは言われました。彼の言葉は、霊であり命です(参照:ヨハネ 6, 63)。

 聖書の最初のページから、神は語っておられます。「神は言った、そしてそのとおりになった」(参照:創世記 1, 3)。イエスのうちに受肉された神の言葉がなければ、何も始まらず、何も続きません。確かに、イエスや神の言葉が聞こえるところには、すぐに命が豊かに現れます。今日の福音書で聞いたイエスの言葉は、私たちに何を伝えているでしょうか。これらの言葉は、私たちが生きるために与えられている時間は、キリストを待ち望み、信仰と希望をもって目覚め続けるようにとの招きであることを教えています。イエスの言葉は私たちに命と神の救いを与えるので、私たちはそれをいつでも受け入れる準備をするように求められていす。イエスの言葉を自分の中に受け留めることは、イエスご自身を迎えることです。私たちは皆この大切なことを覚えておく必要があり、また、何よりもそれを経験しなければなりません。

 私たちの恐れや失敗にもかかわらず、永遠に残るイエスの言葉が、愛、希望、信仰のちに私たちを強くさせる助けとなりますように。聖霊が私たちの心を満たして、確信と真理をもって私たちが「マラナタ」(主イエスよ、来てください)と言えるように、切に祈りましょう。アーメン。

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    王であるキリストの主日 B年 20241124日 グイノ・ジェラール神父

          ダニエル7,13-14      黙示録1,5-8     ヨハネ18,33-37

  王であるキリストの主日を祝うにあたって、なぜ教会がキリストの変容の場面ではなく、受難の場面を選んだのか不思議に思うところです。しかし、この感動的な受難の場面は、イエスがローマ帝国の全能の代表者であるポンティオ・ピラトの前で、謙虚で無力な姿を私たちに見せています。イエスには彼を弁護する弁護士もおらず、ピラト自身も彼を有罪とする理由を見つけられませんでした。彼は何度も告白しました。「私はあの男に何の罪も見いだせない」(参照:ヨハネ18, 3819,6)と。それにもかかわらず、臆病なピラトはイエスにむち打ちの罰をあたえ、死刑を宣告します。彼の決定は明らかに不当なものでした。「真理とは何か」という適切な問いを発したにもかかわらず、ピラトはそれを知ることを望まず、恥じることも後悔することもなく、自分の手を洗い、自分の無罪を宣言しました(参照:マタイ27,24)。

イエスは、その権力が慈悲と赦しにある王です。イエスは、平和と分かち合いをとおして、永遠の命をもたらす王です。イエスが「真理とは何か」を示そうとしたにもかかわらず、ピラトはその答えを知ろうとしませんでした。イエスは生涯を通じて真理に仕え、真理について証し、弟子たちに自分こそが唯一の道であり、命であり、真理であることも教えました。イエスは、神である父、永遠の命、信仰の戦い、愛し方と赦し方、そして正義を行う方法について、私たちに真理を教えてくださいました。イエスは真理であるからこそ、宇宙万物の王なのです。そして、私たちは真理に属するために、イエスの声に耳を傾けなければなりません。ピラトはその選択を恐れ、無罪の人の死を求める者たちの声に従うことを選びました。

 「真理はあなたたちを自由にする」(参照:ヨハネ8, 32)とイエスは言われました。真理は恐れから解放します。しかし、それは危険を遠ざけるものではありません。むしろ反対に、不正、権力の乱用、汚職、不正選挙、さらには人工知能を使って作成された偽情報などを告発する者たちは、直ぐに黙らせられ、排除されることがわかっているからです。ですから、嘘が支配しているように見える世界でこそ、私たちは用心深く、真理を追い求める者でなければなりません。

 真理は、全ての人々の利益のために、良心に従って偽りなく行動することを可能にします。真理は私たちの行動を認証し、それを効果的にし、祈りと結びつけることで、日々私たちに襲いかかる問題に恐れずに立ち向かうことができるようにします。真理によって自由にされたイエスをキリスト者は見習うために、聖霊の助けを求めなければなりません。なぜなら、イエスが約束されたように、私たちを全ての真理へ導くのは、聖霊であり、他に誰もいないからです(参照:ヨハネ16:13)。

 教皇ベネディクト16世は、聖霊が私たちを「真理の僕」としてくださると語りました。そのために、私たちは自分自身について恐れずに、真実を冷静に見つめ、認め、受け入れることで、私たちを自由にする平和を得て、信仰と希望を強める必要があります。イエスは、私たちが真理において聖別されるように父なる神に祈りました(参照:ヨハネ17,17)宇宙万物の王であるイエスが真理の言葉で私たちを導き、守ってくださいますように、そして真理を捜し求める知恵と愛を私たちに与えてくださいますように。アーメン。



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