グイノ神父の説教



C 年 2025

年間第2主日から

年間第12主日まで



   

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(主の奉献)祝い日)

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       年間第2主日  C年  2025119日  グイノ・ジェラール神父

                イザヤ62,1-5     1コリント12,4-11    ヨハネ 2,1-11

 カナの結婚式とイザヤの預言は、私たちと神との結びつきの神秘と現実を明らかにしています。若い花嫁が花婿に喜びをもたらすように、私たちは確かに神の喜びです。神の御手の中で、私たちは輝かしい王冠、王の冠となります。神の無限の愛に結びついた私たちの信仰は、私たちを豊かにし、美しくし、神の目から見て貴重なものになります。

 マリアの信仰によって得られたカナの奇跡は、この事実を表しています。母マリアのおかげで結婚式は楽しく続けられますが、この奇跡で最も重要なことは、ぶどう酒に変えられた水ではなく、初めて明らかにされる救い主イエスの神秘です。この奇跡が、聖ヨハネが述べたように、イエスの弟子たちの信仰をもたらしたと私たちは信じているかもしれませんが、実際にはイエスの弟子たちに信仰の道を開くのは、息子イエスに対するマリアの信仰です。これこそがカナの本当の奇跡です。

 この奇跡が起ったのは、マリアがイエスに願って、イエスの言うとおりにするように召使いたちに「この人が、何が言いつけたら、そのとおりにしなさい」と指示したからです。もし、マリアの執り成しがなければ、この奇跡は起こりませんでした。確かに、結婚式の進行に忙しい召使いたちは、結婚式の食事の最初に儀式的な清めが行われたこともあり、石の水瓶を再び満たす必要性を理解していなかったはずです。このように、母マリアがまずイエスに願い、次に召使いたちに指示したことは、奇跡が起こるために重要な役割でした。

  召使たちの従順のおかげで、水がめの縁まで水で満たすと700リットルのすばらしいぶどう酒が入る容器になります。聖書には書かれていませんが、イエスの弟子たちはカファルナウムに戻ったとき、きっと、この良いぶどう酒を革袋に入れて持ち帰って、親戚や友人に分け与えたとも考えられます。


 実際、カナではすべてが変わりました。結婚式に招かれたゲストであったイエスとマリアが結婚式の世話役となり、召使たちは彼らの指示に従います。食事の適切な順序に責任を持つ真の世話役は、その役割を花婿に与えます。「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と彼は言いました。しかし、結婚式の日に、ぶどう酒の管理をするのは花婿の役割ではありません。それをするのは世話役の務めです。カナではすべてが逆転し、特に水がぶどう酒に変化するのは、これらの激変の兆候です。

 「わたしの時はまだ来ていません」とイエスは語られました。この「時」とは、世界の流れを完全に変えるイエスの受難の時です。この悲劇的な時に、ぶどう酒は血となり、それが永遠の命の飲み物となるのです。このように、カナの奇跡は、前もってキリストの死と復活が全人類の永遠の喜びをもたらす大きな変動を告げています。確かにイエスは私たちを永遠の結婚の喜びに招いてくださる真の花婿です(参照:黙示録19,7参照)。

 カナでイエスは、喜びが不足しないように望まれました。この奇跡は、すべての人が自分の役割から解放されて、結婚の祝いの喜びに参加することでした。カナの結婚の中に含まれる考えられない不条理や混乱よりもこの喜びは強力です。実際に、すべての招待客は同じ喜びの中で一致していますし、イエスの弟子たちは同じ信仰で結ばれています。ですから、私たちもイエスの周りに集まり、信仰の良いぶどう酒に豊かに満たされた尽きることのない喜びと霊的な酔いを共に味わいましょう。アーメン。

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         年間第3主日 C年  2025126日    グイノ・ジェラール神父

           ネヘミヤ 8,1-6,8-10     1コリント12,12-30    ルカ1,44,14-21

  今週の日曜日の朗読は、私たちに神の言葉の大切さを思い起こさせます。神の言葉に耳を傾け、心で受け入れるとき、どれほど実り豊かなものになるかを聖書全体は私たちに具体的に示しています。

  ユダヤ人たちは、モーセの教えを受けて、神の言葉が命の泉であることを学びました。しかし、神の言葉を無視したので、バビロン捕囚で、彼らは家、土地、王、神殿などすべてを失いました。それでも異国の地で彼らは、モーセの律法や預言者の書物に注意深く耳を傾けるために集まる習慣を守り続けました。

  エルサレムに戻ったユダヤ人たちは、まだ廃墟のままの神殿の前で、語られている神の言葉が彼らに希望をよみがえらせます。彼らは思わず涙を流し始めます。典礼係の責任者は、読まれた聖書の個所を説明することによって、皆に喜び祝うように勧めます。エズラはエルサレムの荒廃した城壁を指して、「悲しむな、主の喜びがあなたの城壁である」と宣言しました。これは「ほんとうの城壁は神ご自身であり、神の言葉があなたを守り、皆を喜びに招く」という意味です。

 ナザレの村の会堂で、イエスは預言者イザヤの書を読み、座って静か威厳をもって次のように断言しました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。昔、預言者たちによって宣言された神の言葉は、今も有効です。神の言葉は今も私たちに直接に語りかけ、私たちを喜びで満たし、神の保護のもとに私たちを置くのです。
 
  私たちが聖書に注意深く耳を傾けることで、聖霊は私たちの共同体を築き、聖化し、教会の一員としてくださるのです。神の言葉と、私たちがいただくイエスの御体と御血を通して、神は私たちの間にずっと留どまります。それは神と私たちを親密に結び付けるためです。

 神のみ言葉は、私たちが現在に対して目を開き、新たにされた優しさに満ちた眼差しと喜びをもって、他者に目を向けるように促します。私たちが心を開いて希望を持ち、新しい目で世界を見るとき、神の言葉は実現されます。私たちの行動が誰かに慰め、助け、励ましをもたらすとき、神の言葉は実現されています。その時こそ、イエスがそこにおられるのです。私たちの心が他者に向かうとき、イエスはそこにおられます。私たちの目が慈悲深くなり、私たちの心が日々の出来事の中で私たちに与えられている神の呼びかけを聞き分けることができるとき、イエスはそこにおられます。

  「皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか」と聖パウロは語っていますが、私たちは皆、神の言葉を自分の心に受け留めるように招かれています。なぜなら、神の言葉は私たちを生かし、私たちを守り、永遠の喜びへと導くからです。アーメン。

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            年間第5主日 C年  202529    グイノ・ジェラール神父

              イザヤ 6, 1-8      1 コリント 15, 1-11     ルカ 5, 1-14

  今日、私たちは神の奥義と神の言葉との間にある繋がりを再発見するよう招かれています。イエスがペトロの舟に座ったまま、群衆に向かって何を教えたかはわかりません。また、群衆がイエスの言葉にどう反応したかも全くわかりません。しかし、私たちは、イエスがシモンに直接に語ったとき、彼の言葉が何を達成したかをよく知っています。

  シモンが網を投げたのは、イエスからの言葉によるものでした。シモンは自分が魚を捕まえていると思っていましたが、実は自分自身がイエスの言葉に掴まえられていたのです。彼とともに、アンドレ、ヤコブ、ヨハネも人間をとる漁師になるように召集されています。イエスの神秘に対する彼らの信仰の冒険が始まったばかりです。彼らはイエスの言葉に捕らえられ、イエスに従う弟子となり、少しずつイエスの神秘の特権的な証人になっていきます。そして殉教するまで、彼らはイエスが神の言葉そのものであると宣言することをやめません。特に聖ヨハネがこの神秘の偉大な証人として自分の福音書の冒頭にこう記しました。「神の言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(参照ヨハネ114)。
 

  私たちが洗礼を受けた日に、司祭によって私たちの上に語られた神の言葉は、私たちをイエスの弟子とし、祭司、預言者、そして王としての使命を与えました。つまり神の言葉を黙想し祈ることによって、私たちは司祭としての使命を果たしています。キリスト者が預言者となるのは、ミサ中に皆の前で神の言葉を朗読し宣言する時、または福音に相応しい一致する生き方の模範を示すときです。イエスがみ言葉を通して私たちを新しい人にして下さることを願う時に、また、私たちを通してイエス全世界にご自身の正義と平和を与えてくださることを願うとき、私たちは王になります。私たちがイエスに従うと決心したなら、それは全人類にとって有益となるでしょう。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とイエスは私たち一人ひとりに思い出させ、影響を与えることを求めています。

  シモンとヤコブとヨハネは網の掃除に忙しく、彼らは疲れていて、魚が捕れなかったことに失望しています。イエスは彼らに近づき、シモンの舟に座り、彼らを神とご自身の神秘へと導びくために沖に漕ぎ出して行くように願います。イエスの言葉に従い、シモンは自分の手で奇跡を体験しました。確かに、イエスは何もしませんでしたが、この奇跡はとても不思議でしたので、その日から、シモンはペロと呼ばれるようになりました。この奇跡のお陰で、シモンの仲間たちはあっという間に自分の人間としての悩みを忘れ、今までの漁師の仕事を捨てて、自分の家族や親戚から遠ざかり、すべてを捨ててイエスに従うのです。本当の奇跡は、大量の魚の漁よりも、イエスに従うという彼らの決断の中にあります。

  このように、私たちが神とその言葉の神秘に深く入るように、イエスは私たち一人ひとりが持っている希望や望みをご自分の望みや希望の次元にまで拡大してくださいます。ご自分の命と真理の言葉に従うことによって、私たちがイエスの神秘にますます深く入るようにイエスは、私たちを招いておられます。イエスを信じてイエスに従うことで、私たちは人類によい影響を与えることになります。恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と語られたイエスは私たちに重大な責任を与えました。つまり「これからあなたは、出会う人々の生き方や彼らの悲しみや喜びに感動しながら、彼らの兄弟姉妹にならなければなりません。今後、あなたが私の言葉をよく聞いて、実行するなら、私はあなたを通して奇跡を起こします。聖霊の助けによって、私たちがこのことをしっかりと信じますように。アーメン。

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         年間第6主日  C年  2025216日   グイノ・ジェラール神父

           エレミヤ17,5-8      1 コリント15,12-20     ルカ6,17-26

  今日、預言者エレミヤとイエスは「祝福」と「呪い」について私たちに語りかけます。聖パウロはキリストの復活への信仰を宣言します。私たちは神を自分の人生の岩とし、キリストの復活から信仰を強めるものを汲み取ることで、私たちは神が約束されている幸福を確信することができます。

 イエスは、悲しみや病、病弱な人々に会い、苦しみや死と向き合われましたが、ご自身に対しても彼らに対しても、この悲惨さが幸福の極みであるとは決して宣言されませんでした。それでは、なぜ今日、イエスは貧しい人々や軽蔑されている人々、泣く人々に「彼らが祝福されている」と語られるのでしょうか。なぜイエスは、笑い、友情や安楽を知る者は「不幸に飲み込まれる」と主張するのでしょうか。イエスは私たちと同じように、何も心配しないで生きる幸福を深く味わいました。それなのに、なぜ今日、イエスはその逆のことを教えているのでしょうか。彼は一体どのような幸福について、どのような不幸について話されているのでしょうか

 イエスの言葉は心を揺さぶるものですが、群衆に向けられたものではありません。イエスは近くに集まった群衆の中で、特に弟子たちに目を向けて語られました。弟子たちはイエスに従うことを選びました。イエスは彼らに友人であるかのように語りかけ、彼らが自分と共に歩んできた幸福への道から逸れないようにしたいと願っておられます。

「不幸とは、未来を恐れることであり、変化や新しさ、そして持っているものを失うことを恐れることだ」とイエスは言います。金持ちは自分の持っているものに執着し、それに依存して過去に閉じこもります。金持ちにとっては、現在さえも泥棒に脅かされているため危険なものです。一方、貧しい人々は、食べ物、健康、友情など、自分たちに欠けているものを望み、それによって未来に向かって自分自身を開きます。

 イエスは弟子たちに、「将来を恐れる必要はない」と教えます。イエスに従って以来、彼らが感じてきた欠乏の中にすでに幸福があるのです。弟子たちは飢えており、軽蔑され、嫌われ、時には泣いています。貧しい人、飢えた人、苦しんでいる人は、何かが足りないからといって喜ぶのではありません。彼らの幸せは、その欠乏が人生に活力を与えてくれるからです。彼らの幸福は、自分たちはいつか満たされて、満腹であることを信じることです。幸いなことに彼らはまたいつの日かもう一度、空腹と飢えを感じることも知っています。弟子たちには何もありませんが、神が彼らの希望と期待を満たしてくださることを知って、信じています。

 幸福は私たちが持っているものにあるのではなく、私たちに希望をもたらす欠如の中にあります。イエスは私たち一人ひとりに、結婚式のワインとお祝いの笑い声を分かち合い、友だちと食事をし、幸福を共有するように勧めておられます。同時に、イエスにとって、涙、飢え、悲しみは真の幸福のしるしであると教えます。イエスが私たちに提供してくださる厳しい人生は、一時的な失望や満足を超え、常に豊かさに満ち溢れています。

 イエスが復活を通して、死がいのちの完成を妨げることはできないことを示して以来、将来を恐れる必要はなくなりました。イエスの弟子である私たちは、この事実を信じて宣言しているので幸せです。アーメン。


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      年間第7主日  C 年   2025223日   グイノ・ジェラール神父

         サムエル上 26,27-912-1322-23  1コリント15,45-49  ルカ6,27-38

 中国の賢人・孔子は、キリストの到来の 500 年前にすでに次のように述べています。「自分が望まないことは、他人にするな」と。 ギリシャの哲学者ゼノンは、その200 年後、次の格言で彼に同意しました。「自分にしてほしくないことは、他の人にもしてはいけません」と。 ユダヤ人の伝統では、ラビ・ヒレルの有名な格言をすべての人に伝えました。「自分が嫌なことは、隣人にもしないでください。これが律法全体の教えであり、それ以外は単なる言い訳でしかない」と。

 イエスは、古代の有名な賢人たちの否定的な勧告以上のものを求めています。イエスにとって愛するとは、害を及ぼさないことだけではなく、悪に対して善をもって積極的に対応することです。愛するとは、見返りを期待せずに、無償で良いことを語り、善を行うことです。私たちは皆、他者に対して反感や憤りを抱く理由を持っています。また、しばしば私たちは悪意や批判、悪口の被害者となることがあります。イエスは私たちに、善を行うことでこれらに応えるように真剣に求めています。
 
 イエスが要求することを実現するのは、不可能に思えます。しかし、神は私たちに憐れみ深いので、私たちも隣人に憐れみを持たなければなりません。神のように行動する能力を私たちに与えてくださるのは神だけです。それは歓迎すべき贈り物であり、受け取るべき貴重な恵みです。神は裁かず、罪に定めず、すべての罪人を赦されます。同じように私たちも「いと高き神の子」となるためにご自分に倣うようにとイエスは求めています。聖パウロはコリント人への手紙の中でこのことを私たちに思い出させています。もし私たちが罪によってアダムに似せて創造されたのであれば、罪から解放された私たちは、イエスのようになるように招かれています。

イエスが話す言葉を読むとき、彼は簡単に「あなたがた」から「あなた」に、また「あなたがた」に戻ることに注意する必要があります。「あなたがたを憎む者に親切にしなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」と。イエスの教えは個人に対しても集団に対しても向けられたものです。イエスはあらゆる人、そして特に一人ひとりに対して真剣に語りかけます。

 イエスへの信仰は、私たちの恨みや復讐心を愛と赦し、慈しみの行為に変えるように教えています。私たちの周囲で攻撃する悪をみても、いつの日か、より公正で、より兄弟的で慈悲と相互理解の世界が実現するのを目にする私たちの希望を妨げてはなりません。

ミサ祭儀のたびに、絶えず私たちが神から受け取る命は死を超えることを思い出させます。この命が与えられたのは、私たちが平和を実現する者、愛を築く者、慈悲と赦しの溢れる泉となるためです。キリストの御体(ご聖体)を私たちの中に受け入れることによって、私たちはキリストの体と魂となり、キリストの救いの業を私たちの周りで実行し、明らかにすることができます。イエスを食べ物として私たちに与えられているのは、私たちが新たにされた生き方をするためです。つまり、私たちが「いと高き神の子」として生きるためです。アーメン。

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         年間第8主日  C年  202532日     グイノ・ジェラール神父

             シラ書 27, 4-7     1コリント 15, 54-58     ルカ 6, 39-45

  (ふる)いや(かまど)、果樹といった、三つの非常にパレスチナ的なイメージを借りることによって、シラという人物は「人間が言葉に従って裁かれる」ということを思い出させます。人間の言葉は、それを受け取る人を尊重するメッセージが込められていれば受け入れられるとシラは説明しています。

イエスは福音を通して、私たち一人ひとりに、どのように話し、言葉を通して他の人とどのように関わっているのかを考え直すように勧めています。私たちの身振り、言葉、行動は、私たちの内面の質を反映しています。誰も自分が実際に持っている以上のものを与えることはできません。そういうわけで イエスは、私たちの注意を呼び起こすために、「丸太」のような非常に強いイメージをよく使います。

  わらに比べれば丸梁がいかに大きくとも、私たちは最初から自分の目ではなく隣人の目にそれを探し求めます。丸太を持っているのはいつも他人で、そしてその人はそれに気づいていないと私たちは決めがちです。イエスの言葉を他の人に当てはめることによって、私たちの偽善は巧妙に隠されています。しかし、イエスが私たちに語られていることを完全に理解する必要があります。たとえ兄弟の目にあるおがくずを取り除くのは私たち次第であっても、私たちの目にあるまるたを取り除くのは私たち自身です。それを取り外すのは決して兄弟ではありません。つまり個人的な決意ということになります。兄弟が回心できるように、まず私たちが回心しなければなりません。

イエスの言葉を自分自身に当てはめるなら、私たちの目、口、心は開かれるでしょう。イエスの言葉は、完全に調和している口と目と心の新しい人を私たちの中に生み出すに違いありません。結果として、キリストの平和が私たちの存在全体に浸透し、私たちの外面的な行動はキリストとの一致を明らかにするでしょう。

イエスの教えは、私たち一人ひとりの中に存在するこの深い一致を明らかにします。私たちの中で、人間性と神性が密接に絡み合っています。私たちの内にある神への愛と隣人への愛は、私たちの周囲にいつくしみ、赦し、敬意、奉仕、慈善を示すように促します。四旬節の時期は、イエスの言葉に耳を傾けるように努めるなら、このことを実現するのに役立ちます。

 来週から四旬節に入ります。それはまさに、私たちの生活の中に隠れている混乱をはっきりと見極めようと努める時です。自分の罪を隠しておきたいと思い、それに執着すると、私たちは盲目になります。赦すことを拒否すると、私たちは口のきけない人になります。私たちを不当に扱った人々の言うことを聞くことを拒否すると、私たちは耳が聞こえない人となります。したがって、このような状態では、私たちが真理に触れ、平和を味わい、主の目で物事を見ることは不可能です。

聖年の恵みによって、耳の詰まりを取り除き、目を大きく開き、使う言葉遣いを正しましょう。神の言葉、神の目、そして神の心をもって、兄弟姉妹について語り、彼らを見て、愛することを学びましょう。アーメン。

           



                         

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