グイノ神父の説教

 

2025年

C年

復活祭から

キリストの聖体まで




 

復活の祝日
復活説第2主日
復活説第3主日
復活説第4主日
復活説第5主日
復活説第6主日
主の昇天の主日
聖霊降臨の主主日
三位一体の主日
キリストの聖体の主日



 



復活祭 C年   2025420日   グイノ・ジェラール神父

使徒10,3437-43     コロサイ 3,1-4     ヨハネ 20,1-9

(から)の墓は、キリストの復活を信じるのに十分な証拠でしょうか?理性では理解できませんが、愛はその目を開く助けとなります。ヨハネが他の弟子たちよりも早く信じたのは、愛の直感によるものです。ヨハネはイエスのお気に入りの弟子であり、イエスの秘密を打ち明けられた特別な存在でした。

ヨハネはイエスに忠実な愛情を抱いており、その愛情は彼の若さゆえに一層鮮明でした。だからこそ、墓が空になったという知らせを聞くと、ヨハネは自分の心がすでに信じていたことを確かめるために墓の方へ走ります。前もってイエスが預言したように、彼は復活されました。他の弟子たちよりも早く、ヨハネはイエスの言葉が真理であり、必ず実現されることを理解しました。福音書の中でキリストを「神の生けるみ言葉」として語るのはヨハネだけです。肉となったこの言葉は、栄光をまとうために、受難の苦しみを受けました。

ヨハネはまだ聖書の言葉すべてを理解しておらず、復活が何を意味するのかを想像することもできなかったとしても、彼の信仰とイエスへの愛は、彼に光と希望への道を開きました。ヨハネは誰よりも早く、彼の内に満ちあふれる過越の神秘の恵みを感じました。それに続いて、マグダラのマリアが二番目に復活の喜びを味わうこととなります。なぜなら、彼女もまた、イエスへの燃えるような愛に満たされていたからです。

私たちに欠けているのは、ヨハネやマグダラのマリアのように愛することができず、またその方法を知らないことです。確かに、私たちはイエスの姿を見ることも、イエスを直接に腕に抱くこともできません。しかし、私たちはいつでも彼を愛することを教えてくださるようにイエスに願うことができます。そして何よりもまず、そばにおられるイエス、また私たちの内におられるイエスの存在を強く感じる恵みを願うことができます。確かに、イエスは、「いつも共にいる」ことや(参照:マタイ 28, 20)「私たちの内にとどまる」ことも(ヨハネ 15:4)約束してくださいました。

復活祭の日は、特に、神が私たちをどれほど愛してくださったかを思い出させます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(参照:ヨハネ3, 16)とヨハネによる福音書は私たちに思い出させます。この言葉は、イエスの死が私たちを死から救い、永遠の命を与えることを告げています。このように、空の墓とイエスの復活の出来事は、生きていた時にイエスが言われた言葉が真実であることを具体的に示しています。キリストは言われたことや約束したことを必ず実行します。

この美しい復活祭の日に、死と罪から解放された私たちは喜びを歌いましょう。復活されたイエスは、私たちの命であり、私たちの救いです。神の愛で私たちを満たされるように、主に願いましょう。また、私たちを無気力と生ぬるさから解放してくださるように願いましょう。そして何よりも、神が私たちを愛してくださるように、私たちも神を愛することができるように切に祈りましょう。なぜなら、愛は信仰の出発であり、信仰の支えだからです。アーメン。

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復活節第2主日  C年  2025427日   グイノ・ジェラール神父

使徒 5,12-16   黙示録 1,9-1317-19   ヨハネ 20,19-31

イエスが逮捕されたとき、使徒たちは逃げました。彼らはパニク状態に襲われ、邪悪な人々を恐れて家に閉じ込もってしまいました。彼らはイエスと共に3年間暮らしていましたが、彼らの考え方はイエスが教えられたこととあまりにもかけ離れていたために、全くイエスを理解していませんでした。十字架上のイエスの死は、彼らの心をさらにもっと深く恐怖と無理解の中に閉じ込めました。

もちろん、イエスの復活の知らせは、彼らにとって最初は信じられないことのように思われます。しかし、復活したイエスを見て、触れて、一緒に食事をした後、彼らはイエスが死ぬ前に約束した喜びに満たされていきます。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(参照:ヨハネ16, 22)。しかし、この喜びは弟子たちを恐怖から解放しませんでした。8日が経過したにもかかわらず、弟子たちはまだドアと窓を閉めた家の中に閉じこもっていたのです。

 それから、40日間、弟子たちはイエスを再発見します。彼らはイエスの説明に心を開きながら、最終的に、知恵を尽くしてイエスについて聖書が啓示したことの意味を理解するようになりました。しかし、恐れることなく、勇気をもって、イエスの復活の現実を公に人々に宣べ伝えるためには、弟子たちは聖霊降臨の日を待たなければなりませんでした。

イエスが生きていた時と同じように、今もイエスは私たちを救いの神秘へと導き、そして聖霊は聖書の教えを通してこの神秘を理解できるように導いてくださいます。このことは、私たちの心を喜びで満たすはずです。そしてこの喜びは誰も奪うことのできないものです。しかし、残念なことに、私たちは喜び踊るにはほど遠いことを認めざるを得ません。それどころか、イエスが今も生きておられ、私たちの救いであり、私たちの命であることを、周りの人々に伝えたいという熱い望みが心の中にないことも認めましょう。私たちにも新しい聖霊降臨が必要だと私は思います。

聖年を迎えた今、私たちに決して欺かれることのない希望が与えられています。ですから、私たちは、キリストに属している信仰と喜びを宣言するために、偽りの安全さを求めて閉じこもっている恐れから抜け出して、大胆に一歩踏み出さなければなりません。

信仰は私たちを神と結びつけ、恐れから解放し、平安をもたらします。希望は未来へと私たちを押し出し、心に神への絶対的な信頼を抱かせます。私たちが互いに持つ愛徳と神への愛が、イエスが約束された比類なき喜びを私たちに与えてくれますように。

私たちは、復活したイエスを見もせず、聞きもせず、触れもしなかったのに彼を信じているので、とても幸いだとイエスは言われました。だからこそ、主にあって喜びましょう(参照:詩編95, 1)。そして、聖霊の力に満たされ、喜び躍りましょう(参照 :ルカ1, 47)。 アーメン。

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          復活節第3主日 C年 202554  グイノ・ジェラール神父

                使徒 5, 27-32, 40-41  黙示録 5, 11-14   ヨハネ 21, 1-19

私たちはイエスに、ペロの言葉を伝えたいのです。「主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよくご存じです。」 イエスに愛を告白するために、重大な罪を犯したり、ある種類の罪悪感を抱いたりする必要はありません。神はまず私たちを愛してくださり、その愛は赦しと豊かな恵みに満ち溢れています。イエスは私たちの過ちを見るのではなく、私たちの内に神が私たちを創造された素晴らしいご計画を見ておられます。

このような神の慈しみは、私たちの中に希望の道を開いてくれます。私たちの愛の欠如や絶え間なく犯す罪にもかかわらず、神が私たちを愛することや赦すことを妨げることは決してありません。神は預言者イザヤの言葉を通してこのことを私たちに知らせました。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる」(参照:イザヤ書1:18)。ですから、私たちは恐れることなく、悔い改めの心でも、あるいは喜びにあふれた心でも、神に自分の愛を告白し、宣言することができるのです。

 たとえ私たちの愛が弱く、内気で、平凡で、あるいは臆病であったとしても、その愛をイエスに知らせることが必要なのです。私たちがアビラの聖テレサ、アッシジの聖フランチェスコ、シエナの聖カタリナのような熱烈な愛をもってイエスを愛せなかったとしても、イエスは決して私たちを責めたりはしません。むしろ、私たちの小さな愛、あるいはもっと愛したいという願いをイエスに、また父なる神に、あるいは三位一体の神に伝え、繰り返すことによって、私たちの信仰は強まります。

イエスがペロに「あなたは私を愛していますか?」と三度尋ねられたのは、非難ではなく、信頼と愛への招待でした。イエスへの愛を宣言するのに、この愛が完璧である必要はありません。神の愛は、私たちのすべての反応と答えに先立っていますし、更に私たちを変えていきます。私たちが弱さの中にあるときでも、神はご自分との交わりと成長の道へと私たちを招いてくださいます。

神への愛は、心から湧き出る素直な言葉で表現できます。「イエス様、あなたを愛しています」「主よ、あなたへの愛を増してください」と。 聖シャルル・ド・フーコーの「放棄の祈り」や幼いイエスの聖テレジア「愛の契約」は、私たちの信仰を強めるこの信頼の態度の例です。しかし、神を愛することは言葉だけに限定されていません。真の愛は行動によっても表現されます(参照:ヨハネ 14:15)。慈善、赦し、他者への思いやりという私たちの具体的な愛の行いは、「主よ、私はあなたを愛しています」と告げる手段なのです。

「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(参照:ローマ55)神に感謝しましょう。神は無限の愛で私たちを愛しておられます。それは、ご自分と隣人に対する私たちの愛の小ささを満たすために、また、私たちの心を神ご自身の心の大きさまで広げるためです。このことを常に心に留めておきましょう。アーメン。

      聖シャルル・ド・フーコーによる「父なる神に身を託す祈り」。わが父よ、この身をあなたに委ねます。思いのままになさって下さい。どのようになさるとも感謝します。すべてに備え、すべてを受け入れます。み旨が、この身と、あなたのお造りになった全てのものの上に行われるのでしたら、わが神よ、そのほかの何事をも、私は望みません。私の魂をあなたのみ手に委ねます。あなたを愛していますから、心を込めて捧げます。わが神よ、果てしない信頼をもって、この身を限りなく、あなたのみ手に捧げよと、愛が求めてやまないからです。あなたこそが私の父だからです。アーメン。

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             復活節第4主日  C年  2025511日  グイノ・ジェラール神父

使徒 13, 14, 43-52    黙示録 7, 9, 14-17   ヨハネ 10, 27-30 

復活節の時期は、キリストの死と復活の神秘を通して私たちに与えられたすべての恵みを発見する時です。永遠の命は、イエスが私たちに与えてくださるかけがえのない宝です。イエスは善き羊飼いであり、永遠の命をその羊たち、つまり喜びをもってその御言葉を受け入れる者たちに与えます。神の言葉に注意深く耳を傾け、それを実践しようと努めるすべての人は、間違いなく羊飼いの羊です。

注意深く聞くことができることは、真実の愛のしるしです。この愛は心を開き、神が私たちに与えようとされるすべての恵みを受け取る準備を整えます。召命のために祈るこの主日に、多くの若者が神に引き寄せられ、善き羊飼いとして成長できるように祈り求めましょう。

イエスが「わたしは自分の羊を知っている」と言うとき、それは羊たちとご自身を結ぶ親密な交わりを意味しています。イエスがよい牧者として手に持つ杖は、私たちを強制するためではなく、安心させ、私たちが共に歩む力を強めるためのものです。イエスに従順に従うことで、私たちは彼の足跡をたどることができます。それによって、私たちはイエスをより深く知り、より深く愛し、一生涯、そして永遠に彼に結ばれて生きようとする意志を強めることができます。

「永遠の命」という言葉は、私たちが聞き慣れてしまっているかもしれません。しかし、それは神の御手の中にいることを意味します。その御手は、父のように優しく、私たちの目の涙を拭い去ってくださいます(参照:第二朗読)。神の御手は、飢えや渇き、苦しみから守ってくださる強い御手です。神は全能であり、すべてに勝るお方です。だからこそ、誰も私たちを神の御手から奪い去ることはできません。神の御手の中にいることは、限りない希望を与えてくれます。この聖なる年が、まさにその希望を私たちにあたえるはずです。

もし私たちが、ピシディアのアンティオキアでのパウロとバルナバのように、周囲との対立や葛藤の中にあるとしても、恐れることはありません。なぜなら、神は私たちと共におられ、私たちを守り、救ってくださるからです(参照:エレミヤ1, 8)。イエスを通して、私たちは父なる神と交わり、神の命にあずかっています。外からの危険に心を乱されてはなりません。恐れるべきは、私たちを神から引き離そうとする罪だけです。この危険を避けるために、イエスが私たちに残してくださった命の言葉に耳を傾けなければなりません。私たちは知っています。イエスの言葉は「霊であり、命である」のです(参照:ヨハネ6, 63)。

私たちがイエスの声、そして神である御父の声に忠実であることは、この世界における教会の救いの計画に貢献することになります。私たちはキリストの教会に属する者として、世界に救いの喜ばしい知らせと、永遠の幸福の約束をもたらす使命を担っています。私たちの忠実さを通して、愛、正義、平和を広め、神の光と真理を証しすることで、この世界を神へと引き上げましょう。そうしてこそ、私たちは神が知り、生かしてくださる羊となるのです。アーメン。

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          復活節第5主日  C  2025518日   グイノ・ジェラール神父

              使徒 14, 21-27    黙示録 21, 1-5     ヨハネ 13, 31-35

今日の典礼が私たちに提している三つの朗読の間に、どのような関係があるのか考えてみましょう。実際、パウロとバルナバの使命と、ヨハネの黙示録の本文、そしてイエスの晩餐の物語を結びつけるものは何でしょうか。私は、この繋がりは「新しさ」という言葉で表すことができると思います。

最初の宣教が成功を収めたパウロとバルナバは、その働きの実りを自分たちのものだとは考えませんでした。彼らは謙虚に、すべてを新しくされるのは主であると認めています。それこそが、まさに聖ヨハネが黙示録の中で宣言していることです。ヨハネはまた、新しい天と新しい地について語っています。それは、イエスが十字架の犠牲によって私たちにもたらしてくださったものです。この「新しさ」は、イエスが弟子たちと共に最後の晩餐をされた時に語られた言葉にも見られます。その時、イエスは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」という新しい掟をお与えになりました。

 この掟が語られたのは、まさにユダがちょうどイエスを敵の手に渡すためにその場を離れたばかりの場面でその力を発揮します。イエスはこの新しい掟を弟子たちに与えることによって、おそらく彼らがユダを裁いたり、拒んだり、非難したりすることを防ごうとされたのでしょう。この掟はまた、イエスとの関係を三度も否定するペトロにも当てはまります。だからこそ、イエスは復活の後、三度にわたってペトロを慰め、赦し、愛に満ちた言葉をかけられました。「ペトロよ、あなたはほかの私の弟子たち以上に私を愛しているか」と。このように、人に与えられた愛も、すべてを新しくするのです。

 神は愛であり、その愛は私たちを絶えず新たにしてくださいます。私たちが互いに愛し合うとき、私たちもまた新しい天と新しい地を実現することができるのです。私たちは感謝の祭儀(ミサ)の中で、偏見なくお互いを受け入れ、共に歌い、祈り、心から平和のあいさつを交わし、キリストの体に与る聖体によって本当に一つになりたいと願うなら、私たちの周りも、私たち自身もすべて新たにされるでしょう。

 私たちが神から受ける愛、そして他の人々に与えようと努めるその愛は、信仰と希望の証しでもあり、世界が容易に受け取ることのできるしるしでもあります。イエスご自身がこう言われました。「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによって、すべての人はあなたがたが私の弟子であることを知るであろう」と。私たちが神のように愛するために、「神は私たちと共におられ、私たちのうちに住んでおられる」と聖ヨハネは黙示録の中で思い起こさせています。聖霊が私たちをこの愛によって燃え立たせ、すべてを新しくしてくださるように、共に祈りましょう。それによって、私たちはますます目に見えるかたちで、イエスの愛された弟子となり、この世界を救うその愛の証人となることができますように。アーメン。

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        復活節第6主日 C年 2025525日  グイノ・ジェラール神父

            使徒15,1-222-29    黙示録 21,10-1422-23   ヨハネ14,23-29

 「神の国はあなたがたの内にあるのだ」(参照:ルカ17, 21) と、イエスは言われました。ですから、私たちは、イエスを愛することを学ぶためには、自分の心の中にイエスを探さなければなりません。イエスはまた、こう言われました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(参照:ヨハネ 14,23)と。

ヨハネは、天から降りてくる新しいエルサレムについて語りますが、彼は、すべてのものを照らすために来るのは神ご自身であることを明らかにしています。そうであれば、イエスの言葉を聞き、それを守ることによって、イエスを愛することを学ぶ人は、心の中に計り知れない宝を持っているのです。実際、その人は神の聖なる神殿となり、神ご自身が彼の内に住まわれることで、その人は真の豊かさを持っているのです。だからこそ、私たちはしばしば自分の心の奥深くに入り、自分を癒し、聖化するために自分の中に湧き上がる愛の泉の水を汲むべきなのです。イエスもまた、このことを私たちに教えてくださいました。「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(参照:ヨハネ 7, 38)と。

 私たちはこれを信じますか。このことを知ることで、私たちの心は喜びに満たされるでしょうか。それとも無関心のままでいるでしょうか。イエスが弟子たちに語られたことを、今、私たち一人ひとりにもう一度語られます。「もしあなたがたがわたしを愛していたら、喜びにあふれていたでしょう」(参照:ヨハネ1428)と。しかし、イエスは私たちの愛の欠如を責めているのではなく、ただ私たちともっと親密に、もっと熱烈に生きたいと願っておられるだけなのです。神は愛であり、その愛は私たちの中に広がりたいと願っています。だからこそ、私たちは聖霊の助けを絶えず求めながら、自分の心を広げていかなければなりません。

聖霊がマリアの心に命の泉であるイエスを湧き出させたのと同じように、私たちの心にも愛の泉を湧きださせ、私たちを神の聖なる神殿とします。神の平安を与えるために聖霊は私たちの内に働きます。また、神が私たちに語りかけることを理解できるように、私たちの知性を照らし導いてくださいます。また、私たちを神の御前に保ち、日々私たちを神に近づけてくださいます。神が私たちに何を期待しておられるのか、また、神の意志を成し遂げるためにどのように助けてくださるのかを、聖霊は少しずつ私たちに理解できるように示してくださるのです。さらに、聖霊は私たちに力を与え、人生の試練に耐え、罪と戦う力を授けてくださいます。大きな苦しみや誘惑、失敗によって、神から離れてしまうことはとても簡単だからです。

聖パウロのように、私たちは「キリストが私たちを捕らえてくださった」(参照:フィリピ3,12)と自分自身を納得させなければなりません。そうです。神の愛が私たちを捕らえたのです。「キリストに捕らえられる」とは、神の中で、神とともに、神のために生きることです。「神の愛に捕らえられる」ということは、善悪を問わずすべての人の救いを願うことです。「神に捕らえられる」ということは、慈しみ深くなり、平和、正義、一致のために働くことです。

「キリストに捕らえられる」ということは、聖パウロのように「もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(参照:ガラテ2, 20 )と宣言できるようになることです。それは、イエスが断言したように、「神の国は自分の内にある」ということを知ることです。ですから、もはや私たちではありません。キリストが私たちの内に生きておられるのです。私たちの心の奥底で、私たちを待っておられるイエスと三位一体の神を探し求めましょう。アーメン。

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        主の昇天の主日 C年 202561日  グイノ・ジェラール神父

               使徒 1,1-11   ヘブライ 9,24-2810,19-23   ルカ 24,46-53

 主イエスが天に昇られたのは、私たちから離れるためではありません。イエスは父なる神のもとに戻ることによって、聖霊の賜物を通じて私たちとより深く結ばれるためです。イエスの心からの願いは、ご自身が父なる神と一つになっているように、私たちもイエスと親密に一つになることです。イエスは私たちを聖霊で満たすことによって、私たちを一つにし、私たちと共に留まってくださいます。

 主の昇天は、聖霊がキリストの教会を築き、信仰を地の果てまで広めることを可能にする始まりです。私たちをキリストと一つの体、一つの魂、一つの霊にするのは聖霊です。この一致の神秘について、聖パウロはこう言いました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(参照:ガラテヤ2, 20)また、「私にとって生きるのはキリストです」(参照 :フィリピ: 1, 1 )とも言いました。

さて、これから私たちはキリストの体となったので、私たちによって、そして私たちを通して、イエスは全人類を癒し、赦し、慰め、救ってくださいます。実に、イエスの救いの力は、私たちの弱さを通して、私たちの中に働きます。この事実に関して、聖パウロは次のような証しを残しています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」参照 : 2コリント12, 10)と。確かに、聖パウロはイエスが彼に啓示した次の言葉の真実をよく体験しました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(参照;2コリント12, 9)と。

 父の右に座っているイエスは、救いの良い知らせがすべての人に届くように私たちと共に留まっておられます。私たちはイエスの手であり、足であり、目であり、そして心なのです。この恵みによって、私たちは新しい人間となって、神の王国の目に見えるしるしとなりました。この恵みは、私たち皆を信仰と希望において一つにし、「私たちを完全な『成熟した人間、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長させる』」のです。(参照:エフェソ4,13)。

 キリストをすべてのものよりも高く上げる神は、私たちを喜びと感謝へと導いてくださいます。なぜなら、私たちはキリストの体の部分であり、キリストは私たちより先に神の栄光の中へ入られ、そこにキリストは私たちを引き寄せてくださるからです。これこそ、私たちの信仰と希望なのです。

イエスを雲のむこうに探すことをやめましょう。イエスは私たちの心の奥深くにいらっしゃるからです。私たちはイエスの体であり、イエスの命は私たちのものとなったのです。この一致と愛の神秘の前に、感激しながら私たちは神に大いに感謝しましょう。私たちはもはや私たち自身のものではありません。 私たちは「キリストのものであり、キリストは神のものなのです」(参照:1コリント3, 23)。そして「私たちの命は、キリストと共に神のうちに隠されている」(参照:コロサイ3, 3)ので、私たちはキリストと一つになり、キリストにおいて「地の塩」であり「世の光」なのです(参照:マタイ5,1314)。アーメン。

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          聖霊降臨の祝日 C  202568日  グイノ・ジエラール神父
            
           使徒 2, 1-41     ローマ 8, 8-17    ヨハネ14, 15-16, 23-26 

 聖ヨハネによれば、使徒たちはイエスが約束した聖霊を二度受けました。まず、復活の日の夕方、皆が閉じこもっていた家の中で弟子たちだけが聖霊を受けました。イエスが生きているのを見て非常に動揺していた使徒たちを安心させるために、復活されたイエスは彼らに平和を告げ、罪を赦す力を与えるために彼らに息を吹きかけました(参照;ヨハネ20:19-23)。

そして五十日後、同じ場所で、今度は公に、使徒たちは聖霊の力で満たされました。その力によって、彼らは恐れることなく、イエスが人類の救い主であり、神の御子であることを力強く証ししました。その燃え上る火のような証しの力によって、その日、3,000人以上が洗礼を受けることとなりました(参照:使徒言行録 2:41)。

 私たちに与えられた聖霊は、人生の様々な段階と各人の必要に応じて働かれます。自らの罪を悔い改める者に、聖霊は慰め主となります。福音を伝える者には、知恵と理解の溢れる泉となります。聖霊は信仰のために苦しむ者には、力と忍耐を与えます。疑いや絶望に陥る者には、光と真理、慰め、そして平安をもたらします。聖霊はすべての人のうちに、効果的に、そして穏やかに働きます。それは、まるで傷ついた皮膚を癒すために染み込む油のようです。

 聖霊は特に、喜びの泉です。触れるものすべてを燃え立たせ、平和をもたらす歓喜の炎です。聖霊は、私たちを神の聖なる神殿とし、三位一体の神が住まわれる場とされます。聖霊は、私たちの心の奥底から、神を「私たちの父」と呼ぶ祈りを引き出してくださいます。これこそ、私たちが神に愛され子であることの証しなのです。

私たちが祈り方を知らないとき、あるいは苦しみや落胆のせいで祈れないとき、聖霊は私たちに代わって神の前にうめき、私たちの名において神の慈しみを懇願してくださるのです。また、私たちの心が信頼と喜びで溢れるとき、私たちと一緒になって聖霊は神に賛美と感謝を捧げるのです。

聖霊と、その愛、平和、知恵の神秘について、他に何が言えるでしょうか。私たちの中に神への飢えと渇きを増し、深めてくださるのは聖霊です。私たちに正義と平和を望ませ、憐れみと赦しの豊かさを私たちの心に注いでくださるのも聖霊です。すべてを新たにし、聖別し、イエス・キリストの名において、私たちを父なる神の御手に安全に委ねてくださるのは聖霊です。

 したがって、このペンテコステの日に、私たちの中で、私たちを通して、私たちのために絶えず働かれるこの内なる神をよく知るように努めましょう。私たちが聖霊を愛し、毎日の生活の中で親しく交わり、そしてこれまでしてくださったこと、これからも永遠にしてくださることに感謝することができるように、聖霊の花嫁である聖母マリアが、私たちを助けてくださいますように。アーメン。

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             三位一体の祝日  C  2025615日   グイノ・ジェラ-ル神父

                 箴言 8,22-31     ローマ 5,1-5      ヨハネ16,12-15

三位一体は、自らを与える愛の神秘です。御父と御子は、聖霊という愛のうちに互いを与え合っておられます。そしてこの三位一体の神は、私たちにもご自身を与え、私たちがこの愛のうちに親しく生きるように招いておられます。まさにそのために、神は私たちを創造され、イエスは私たちを救い、聖霊は私たちを聖化してくださいます。

私たちの召命、私たちが生きている意味とは、神に愛され、その神を愛することを学ぶことです。なぜなら、神は私たちを知り、愛してくださるお方であり、さらに私たちをより深く知り、愛したいと望んでおられるお方でもあります。三位一体とは、説明するべきものというよりも、実際に生きるべき愛の神秘です。

  神の命に生きるとは、神の愛する子として、神を仰ぎ見て愛する恵みに生きることです。しかし、私たちの神への愛は、しばしば表面的で、恐れに満ちていたり、持続性がなかったりします。私たちは、聖パウロが今日思い起こさせてくれるこの言葉を忘れがちです。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているのです。」

私たちは、想像を超える霊的な力を持っているのに、それを使わずに、自分自身や自分のつまらない計画に囚われたまま生き続けています。だからこそ、私たちは神にあまり関心を持たず、あるいはほとんど興味を示しません。私たちの内には、神を知りたいという飢えや渇きが感じられず、そのみ言葉の火に燃やされたいという願いもありません。福音という良い知らせを世界に告げ知らせたいという熱意にも、心が燃やされていないのです。しかし、良い父である神は憐れみ深い父として、私たちの心の扉をたたき続けておられます。神は、私たちが霊的な生ぬるさから抜け出し、三位一体の愛の躍動の中に、完全に入ってくるように呼びかけておられるのです。

では、具体的にどうすれば神と親しく生きることができるのでしょうか。まずは、この教会における神の絶え間ない臨在を敬うことです。もし私たちが沈黙の中に入り、その沈黙を礼拝の心で満たすことができたなら、ヤコブのように驚いてこう言うことでしょう。「まことに、主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」(参照:創世記2816)と。残念ですが、ミサが始まるまでの時間、私たちは隣の人と話したり、教会のお知らせを読んだりすることを選びがちです。だからこそ、外面的にも内面的にも沈黙の中で、祈りを通して神との本当の関係を築く時間を取るように努めましょう。

祈るということは、ただ機械的に言葉を繰り返すことではありません。それは、神が私たちのただ中におられるという事実に、心を開くことです。それはまた、体も魂も、私たちを聖化する神の光にさらすことでもあります。そうすることで、神が私たちの内に、私たちとともに、また私たちを通してどのように働かれているかを理解できるのです。

三位一体の愛は、自らを与える愛です。もし私たちが、神が私たちを愛してくださるように他者を愛したいと願うなら、見返りを求めず、無償で神と共に過ごすことを学ばなければなりません。聖堂の聖櫃の前で沈黙のうちにとどまることは、愛と心の回心に向かう高速道路を走るようなものです。それはまた、神の愛を実感するための最も速い道でもあります。そしてこの愛は、すべてを変える力を持っています。

兄弟姉妹の皆さん、今日、三位一体の神に願いましょう。その愛で私たちの心を燃え上がらせてくださるように。私たちに与えられた聖霊が、希望と分かち合いの炎を再び燃え立たせてくださいますように。そうすれば、私たちは本当に御父の愛する子どもとなり、イエスの親しい弟子となり、聖霊の生きた神殿となるからです。アーメン。

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          キリストの聖体の日 C年  2025622日  グイノ・ジェラール神父

                創世記14, 18-20    1 コリント 11, 23-26    ルカ 9, 11-17

聖体の日は父である神によって定められたものです。神は、御子イエス・キリストを通して、聖霊との交わりとその力によって、これを成し遂げられました。聖ヨハネはこう言っています。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためである」(参照:ヨハネ3, 16)。

キリストは、その受難と死、復活を通して、そして御父の右に座す栄光を受けることによって、永遠に私たちの聖体、命のパン、永遠の命を与える霊的な糧となってくださいました。すべてのミサにおいて、私たちが神に捧げるパンとぶどう酒を、聖霊は御子の御体と御血へと変えてくださいます。この神秘にあずかることで、聖霊は私たちをキリストと一つの体、一つの魂、一つの心へと結びつけてくださいます。これこそが教会が今日、特別な荘厳さをもって祝う大いなる神秘、すなわち聖体のうちに現存されるキリストなのです。

この祭日は、神への感謝の賛美であり、すべてのミサにおいて示される神の無償の愛を完全に生きるように私たちに呼びかけています。また、この日は、教会の聖櫃の中におられるイエスの現存、また私たちがどこにいても、イエスの名のもとに集まるときに、主が実際におられることを、再発見するように私たちに呼びかけています。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(参照:マタイ 18, 20 )。

私たちと同じようにイエスの御体を受けることによって、世界中の何百万という信者たちと親密に結ばれ、一致していることを考えてみましょう。そして自分のうちにキリストの御体を受けることは、既に神の栄光のうちに生きているすべての聖人たち、亡くなった親戚の人々の魂、そして私たちに先立ったすべての人たちと私たちを一つに結びつけます。 

 キリストの御体を受けることは、小さななにげない行為ではありません。これにより、私たちはイエスとの親密な関係の中で生き、イエスの光が私たちを通して世界を変えることになります。東方教会では、聖体は「不死の泉」と呼ばれています。これは、イエスがサマリア人の女性に、「私たちの中で『永遠の命に至る泉』となる」と約束した言葉に由来しています(参照:ヨハネ4, 14)。

私たちは、日々の存在が神の賜物であることを、つい忘れてしまいます。私たちを生かしてくださるのは神であり、私たちは神のために生きています。父である私たちの神は、生ける神であり、御子の死と聖霊の息吹を通して私たちに命を豊かに与えてくださる神です。だからこそ、キリストの御体は、神の愛の秘跡です。それは真の一致の源、愛の絆、永遠の喜びの糧です。

感謝しながら、私たち自身を象徴するパンとぶどう酒を神に捧げることを学びましょう。ミサをささげる司祭と共に、私たちの人生を神に捧げ、聖霊の交わりのうちに、世界のために生きたキリストの体、命の糧、そして永遠の喜びとなりましょう。アーメン。
 


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