グイノ神父の説教





2025年

C年

年間第14主日から

年間第22主日まで 



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年間第17主日

                    間第14主日  C年   202576日    グイノ・ジェラール神父

イザヤ 66,10-14    ガラテア 6, 14-18    ルカ10, 1-20

 イエスは72人の弟子たちを選び、宣教のために派遣しました。「七十二」という数は、宇宙全体を象徴しています。これは、イエスの時代にユダヤ人たちが世界に存在すると考えていた国々の数です。イエスはこの派遣を通して、神がこれからすべての国民にご自身の霊を送られることを告げようとしました。神の言葉には、普遍的な力があります。福音の知らせは、すべての人に向けられ、誰もがそれを理解できるものであってこそ、本当に「良い知らせ」と言えるのです。 

 福音宣教は、まず全世界に使者たちを遣わされる神の選びに基づいています。この宣教は、喜びと苦しみ、成功と失敗に満ちています。福音宣教は、慰め主である聖霊によって導かれますが、それに対して信じない心や侮辱、迫害など,様々な抵抗にも直面しています。このことについて、聖パウロは「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」と述べています。彼は、福音を宣べ伝える中での孤独を嘆きますが、神が決して彼を見捨てなかったことも知っていました。「だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」(参照:2テモテ4, 16-17)。

 イエスが72人の弟子たちをイスラエル全土に派遣されるとき、彼らが直面するであろう困難を隠されませんでした。「行きなさい。私はあなたがたを、狼の群れの中にいる小羊のように送り出す」と言われました。彼らは貧しく、身を守る杖も持たず、ただ柔和と忍耐をもって、奇跡のしるしを通して救いの良い知らせを告げなければなりませんでした。聖ルカは、自らの福音書の中で、すべての弟子たちが大きな喜びを胸に抱いてイエスのもとに帰ってきたと伝えています。福音を告げ知らせる喜びは、失敗や拒絶の苦味を忘れさせるものなのです。

 イザヤの預言者を通して、神はすでにこう告げられていました。「母がその子を慰めるようにわたしはあなたたちを慰める。これを見て、あなたたちの心は喜び楽しむでしょう。」私たちはあまりにもたびたび、神の言葉を聞くことも、宣べ伝えることも、喜びの泉であること忘れてしまいます。神の言葉は私たちの心を照らし、魂を温め、人生を希望の道へと変えてくださいます。神の一つひとつの言葉は、聞かれるにせよ、宣べ伝えられるにせよ、私たちの心と肉体に植えられる光の種なのです。み言葉を信仰をもって受け入れるとき、私たちもまた消えることのない喜びを運び伝える者となります。さらに、神の言葉は私たちに復活の力と、永遠の喜びの初穂を与えてくださいます。 

神の言葉を宣べ伝える者も、それを聞く者も、イエスが自分の直ぐそばにおられることを知っています。なぜなら、イエスこそが神の言葉だからです。聖パウロはこう語っています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。これが、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(参照:ローマ10, 8)。実際、神の言葉は単なる外側からのメッセージではありません。それは生きており、私たちの内に働きかけます。神の言葉を受け入れることは、命と光と喜びの源であるキリストご自身を受け入れることなのです。信仰をもって神の言葉を宣べ伝えるとき、あるいは、心を開いて耳を傾けるとき、私たちはイエスとの親密な、真の交わりに入ることができます。こうして、一つひとつの宣言と真摯な聞き取りが、神との出会いとなるのです。 

 聖霊が私たちを助け、このことを深く理解し、絶えず神の言葉によって養われるよう導いてくださいますように。なぜなら、神の言葉こそが、私たちの信仰、私たちの喜び、そして私たちの永遠の救いの泉だからです。アーメン。

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                  年間第15日  C年 2025713日    グイノ・ジェラール神父

                     申命記 30,10-14    コロサイ 1,15-20   ルカ10,25-37

モーセはイスラエルの民に、主の言葉に耳を傾け、それを実行するよう求めました。神の言葉は単なる話ではありません。神の言葉は私たちを知恵によって導き、教え、何よりも神の御心を知らせてくださるのです。また、神の言葉は、私たちが心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する力も与えてくれます。 

旧約聖書において、神の言葉は創造の力を持ち、その言葉によって世界は存在へと呼び出されました。また、神の言葉は全人類への愛と忠実さの契約でもあります。預言者たちを通して、神はしばしばご自分の民に語りかけ、ご自分の契約を思い起こさせてくださいます。

モーセはまた、神の言葉が私たちのすぐそばにあると語ります。すべての人が見つけることができるので、神の言葉を遠くに探しに行く必要はありません。私たちは、イエスこそが神の言葉であり、世の終わりまで私たちと共におられることを知っています。イエスは、聖体拝領によって私たちの心の中に宿り、その愛の力を注いでくださいます。このことを思い起こして、聖パウロは、神がすべてをキリストのうちに完成させることを望まれたと言っています。だからこそ、イエスは私たちのうちにとどまり、私たちもイエスのうちにとどまろうと努力するのです。 

新約聖書は、イエスご自身が「肉となった神の言葉」であることを明らかにしています。イエスは命を与える言葉であり、その生涯、言葉、行いは、神の神秘をはっきりと啓示されました。イエスの言葉を心に留める者は、永遠の命を持つのです。イエスはこう言われました。「はっきり言っておく。私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得ている」(参照:ヨハネ5,24。また、「私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(参照:ヨハネ8,51)とも語られました。

イエスは世の光であり、その言葉は「私たちの足元を照らす灯、私たちの道を照らす光」(参照:詩編119, 105)です。神の言葉であり、永遠の命のパンであるイエスは、私たちを養ってくださいます。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(参照:マタイ 4, 4)からです。日曜日のミサ祭儀はこのこと大きな意味を表しています。典礼の中で神の言葉を受け入れることで、私たちの心は回心し、赦され、癒されるのです。そしてキリストの御体と御血をいただくことによって、私たちの人生は聖なる道へと導かれるのです。 

典礼の中で宣べ伝えられ、個人の祈りの中で黙想され、共同体で学び、司祭によって教えられる神の言葉は、決して死んだものではありません。それはいつも生きています。神の言葉は信仰の賜物を与え、あらゆる時代のすべての人の心に語りかけます。したがって、神の言葉を受け入れるということは、神ご自身を自分の人生に迎え入れ、神の無限の愛で満たされるということです。アーメン。

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                年間第16主日  C年  2025720日    グイノ・ジェラール神父

                      創世記18,1-10    コロサイ1,24-28     ルカ10,38-42

アブラハム、マルタとマリア、そしてパウロもまた、自分の人生の中神を迎え入れました。そして彼らは皆、変えられたのです。アブラハムは多くの民の父となり、マルタとマリアはイエスの親しい友となり、パウロはイエスの証人であり、恐れを知らない宣教者となりました。神を人生に迎えることは、心を大きく開き、豊かな恵みを受け取ることを可能にするのです。

 アブラハム、マルタとマリアは、食事の席でイエスを迎え入れました。私たちもまた、ミサ祭儀の食卓において、イエスをお迎えするのです。食事を共にすることは、いつも信頼と互いの傾聴、喜びと平和の雰囲気を生み出します。マリアは、イエスのそばに座ることによって、その親密で穏やかな雰囲気を自分のうちに集めることができました。一方、マルタは台所で忙しくしていて、たとえイエスの言葉をすべて聞いていたとしても、そのような平安と親密な関係には至りませんでした。かつて、アブラハムの妻サラも同様でした。彼女はパン菓子を作ることに夢中になっており、話されていたことをすべて聞いてはいましたが、夫の客人たちからは遠ざかったままでした。

 パウロは、宣教者としての人生において出会うあらゆる試練を喜びのうちに耐えることによって、キリストとの一致を実現しました。そのようにして、パウロはキリストの教会、すなわち彼が各地に設立したすべてのキリスト教共同体と一つに結ばれていたのです。パウロのように、自分の心の扉を主に開く人は、たとえ試練や失敗、苦しみがあったとしても、幸せと喜びを見いだすことができるのです。 

 私たちの不幸は、日々の心配ごとに心がかき乱されていることです。私たちは様々なことで心を煩わせており、それがイエスの足もとに座ることを妨げているのです。しかし、私たち皆にとっては、イエスの足もとに座ることこそが唯一必要なことです。なぜなら、それ以外のすべてはえて与えられるからです(参照:マタイ6,33)。実際、イエスは弟子たちに、食べ物や衣服などの物質的な必要を心配しないようにと教えられ、何よりもまず神の国とその義を求めるようにと勧められました。

イエスは愛と慈しみに満ちた方です。イエスの足もとに座る人は、自分が愛され、赦されていることを悟ります。なぜなら、イエスはその人を救うために死に、復活されたからです。イエスの足もとに座ると、人は自分のすべてをご存じの愛に神秘的な方法で、出会うという驚くべき、衝撃的な体験をするのです。イエスは、私たちの心の最も暗い隅々までご覧になります。それでもなお、私たちの罪や過ち、傷がイエスを遠ざけることはありません。それらはイエスの愛への障害とはならないのです。なぜなら、イエスは裁くのではなく、愛するからです。本当に、イエスはさらに深く私たちを愛してくださいます。それは私たちをより近くに引き寄せ、より親密に結ばれるためです。 

イエスの愛は盲目的なものではありません。それは真理です。イエスこそが「愛そのもの」であり、また「肉となった真理」です。イエスのうちに「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけする」(参照:詩編85, 11)のです。キリストのうちでは、愛と真理は決して切り離されることはありません。真理もまた、愛から離れることはないのです。そこにこそ、慈しみの神秘があります。

聖霊がこのことを私たちに深く理解させてくださり、神への私たちの愛と感謝の心をさらに増し加えてくださいますように。アーメン。

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             年間第17主日  C年  2025727日    グイノ・ジェラール神父

                      創世記18,20-32   コロサイ2,12-14    ルカ11,1-13

 福音書では、イエスはしばしば祈りをパンにたとえられます。「今日の糧をお与えください」という神へ願う祈りや、「三つのパンを貸してください」という友人のたとえ話も、祈りが人を養い、満たし、共に生きるために、欠かせない糧として描かれています。

また、友人のたとえは、祈り探し求めるものであり、願い求めれば必ず得られることをも教えています。神の手から祈りを受け取るために、私たちはそれを神に願い求める必要があります。イエスは言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見いだされます」(参照ルカ11,9)。聖霊はその探求において私たちとともに歩み、導いてくださいます。神が限りない愛を注いでくださる父であることを私たちに示すために、聖霊は私たちの中でうめき声をあげます(参照ローマ8,15、ガラテヤ4,6)。実際、聖霊は私たちがイエスご自身と同じように祈ることを教えてくださいます。というのも、イエスのあらゆる祈りは「アッバ、父よ」で始まっていたからです(参照:マルコ14,36)。この「アッバ、父よ」という表現は、イエスと父なる神との特別な親密さを示すだけでなく、信じる者が皆、同じ親しい交わりに招かれていることをも表しています。

イエスが教えてくださった祈りは、個人で唱えることもできますが、それは全人類の思いを込めた祈りです。私たちは「私の父、私の日々の糧、私の罪」とは言わず、「私たちの父、私たちの日々の糧、そして私たちの罪」と祈ります。したがって、イエスの祈りを祈る人は、全人類の声の嘆願となっているのです。実に、その人はイエスとともに父なる神の前に執り成しをする者となります。イエスの祈りは、簡単に暗記して繰り返すことができる平凡な決まり文句ではありません。それは世界を神の栄光の王座へと引き上げる強力な手段なのです。

エスはこの祈りを教えることで、私たちに、受け取るために求める勇気と、見つけるために探す勇気を与えてくださいました。そして私たちのすべての願いを一つの願いに変えてくださいました。すなわち、「神である父の御名が聖とされ、その御国が来ますように、また、すべての人を救おうとする神の御心が実現しますように」という願いです。

昔アブラハムがしたように、私たちも悪や罪に陥っている人々のために祈ることを恐れてはなりません。簡単に「地獄に落ちる」と見なされがちな人々こそ、私たちの祈りと執り成しを最も必要としています。なぜなら、彼らもまた神の子であり、私たちの兄弟姉妹だからです。一瞬たりとも疑ってはなりません。神はすべての人の救いを望んでおられます。私たちとは違い、神は決して罪人の死を望まれることはありません(参照:エゼキエル33,11)。

ですから、私たちは自分自身のためだけでなく、より多くの人のためにも祈るようになりましょう。「私」ではなく「私たち」と祈ることで、神は私たちの願いをより容易に受け入れてくださるでしょう。私たちが謙虚に神に罪を告白するなら、私たちと同じ過ちを犯した人たちをも赦して下さるよう神に願いましょう。受けた豊かな恵に対して神に感謝するなら、同じ賜物を受けたすべての人々と一致して感謝しましょう。このようにして、世界の苦しみを背負い、また感謝に満ちた私たちの祈りは、すぐに神に受け入れられ、叶えられるでしょう。 アーメン。

  

                         

 

 

 

 



 

                       







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