グイノ神父の説教





2025年

C年

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                    間第14主日  C年   202576日    グイノ・ジェラール神父

イザヤ 66,10-14    ガラテア 6, 14-18    ルカ10, 1-20

 イエスは72人の弟子たちを選び、宣教のために派遣しました。「七十二」という数は、宇宙全体を象徴しています。これは、イエスの時代にユダヤ人たちが世界に存在すると考えていた国々の数です。イエスはこの派遣を通して、神がこれからすべての国民にご自身の霊を送られることを告げようとしました。神の言葉には、普遍的な力があります。福音の知らせは、すべての人に向けられ、誰もがそれを理解できるものであってこそ、本当に「良い知らせ」と言えるのです。 

 福音宣教は、まず全世界に使者たちを遣わされる神の選びに基づいています。この宣教は、喜びと苦しみ、成功と失敗に満ちています。福音宣教は、慰め主である聖霊によって導かれますが、それに対して信じない心や侮辱、迫害など, 様々な抵抗にも直面しています。このことについて、聖パウロは「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」と述べています。彼は、福音を宣べ伝える中での孤独を嘆きますが、神が決して彼を見捨てなかったことも知っていました。「だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました」(参照:2テモテ4, 16-17)。

 イエスが72人の弟子たちをイスラエル全土に派遣されるとき、彼らが直面するであろう困難を隠しませんでした。「行きなさい。私はあなたがたを、小羊を狼の群れの中に送り込むよなものだ」と言われました。彼らは貧しく、身を守る杖も持たず、ただ柔和と忍耐をもって、奇跡のしるしを通して救いの良い知らせを告げなければなりませんでした。聖ルカは、自らの福音書の中で、すべての弟子たちが大きな喜びを胸に抱いてイエスのもとに帰ってきたと伝えています。福音を告げ知らせる喜びは、失敗や拒絶の苦味を忘れさせるものなのです。

 預言者イザヤを通して、神はすでにこう告げられていました。「母がその子を慰めるようにわたしはあなたたちを慰める。これを見て、あなたたちの心は喜び楽しむでしょう。」私たちはあまりにもたびたび、神の言葉を聞くことも、宣べ伝えることも、それは喜びの泉であることを忘れてしまいます。神の言葉は私たちの心を照らし、魂を温め、人生を希望の道へと変えてくださいます。神の一つひとつの言葉は、聞くにせよ、宣べ伝えられるにせよ、私たちの心と肉体に植えられる光の種なのです。み言葉を信仰をもって受け入れるとき、私たちもまた消えることのない喜びを運び伝える者となります。さらに、神の言葉は私たちに復活の力と、永遠の喜びの初穂を与えてくださいます。 

神の言葉を宣べ伝える者も、それを聞く者も、イエスが自分の直ぐそばにおられることを知っています。なぜなら、イエスこそが神の言葉だからです。聖パウロはこう語っています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。これが、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」(参照:ローマ10, 8)。実際、神の言葉は単なる外側からのメッセージではありません。それは生きており、私たちの内に働きかけます。神の言葉を受け入れることは、命と光と喜びの源であるキリストご自身を受け入れることなのです。信仰をもって神の言葉を宣べ伝えるとき、あるいは、心を開いて耳を傾けるとき、私たちはイエスとの親密な、真の交わりに入ることができます。こうして、一つひとつの宣言と誠実な聞き取りが、神との出会いとなるのです。 

 聖霊が私たちを助け、このことを深く理解し、絶えず神の言葉によって養われるよう導いてくださいますように。なぜなら、神の言葉こそが、私たちの信仰、私たちの喜び、そして私たちの永遠の救いの泉だからです。アーメン。

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                  年間第15日  C年 2025713日    グイノ・ジェラール神父

                     申命記 30,10-14    コロサイ 1,15-20   ルカ10,25-37

モーセはイスラエルの民に、主の言葉に耳を傾け、それを実行するよう求めました。神の言葉は単なる話ではありません。神の言葉は私たちを知恵によって導き、教え、何よりも神の御心を知らせてくださるのです。また、神の言葉は、私たちが心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛する力も与えてくれます。 

旧約聖書において、神の言葉は創造の力を持ち、その言葉によって世界は存在へと呼び出されました。また、神の言葉は全人類への愛と忠実さの契約でもあります。預言者たちを通して、神はしばしばご自分の民に語りかけ、ご自分の契約を思い起こさせてくださいます。

モーセはまた、神の言葉が私たちのすぐそばにあると語ります。すべての人が見つけることができるので、神の言葉を遠くに探しに行く必要はありません。私たちは、イエスこそが神の言葉であり、世の終わりまで私たちと共におられることを知っています。イエスは、聖体拝領によって私たちの心の中に宿り、その愛の力を注いでくださいます。このことを思い起こして、聖パウロは、神がすべてをキリストのうちに完成させることを望まれたと言っています。だからこそ、イエスは私たちのうちにとどまり、私たちもイエスのうちにとどまろうと努力するのです。 

新約聖書は、イエスご自身が「肉となった神の言葉」であることを明らかにしています。イエスは命を与える言葉であり、その生涯、言葉、行いは、神の神秘をはっきりと啓示しました。イエスの言葉を心に留める者は、永遠の命を持つのです。イエスはこう言われました。「はっきり言っておく。私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得ている」(参照:ヨハネ5, 24。また、「私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(参照:ヨハネ8, 51)とも語られました。

イエスは世の光であり、その言葉は「私たちの足元を照らす灯、私たちの道を照らす光」(参照:詩編119, 105)です。神の言葉であり、永遠の命のパンであるイエスは、私たちを養ってくださいます。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(参照:マタイ 4, 4)からです。日曜日のミサ祭儀はこのことをはっきりと表しています。典礼の中で神の言葉を受け入れることで、私たちは回心し、赦され、癒されるのです。そしてキリストの御体と御血をいただくことによって、私たちの人生は聖なる道へと導かれるのです。 

 典礼の中で宣べ伝えられ、個人の祈りの中で黙想され、共同体で学び、司祭によって教えられる神の言葉は、決して死んだものではありません。それはいつも生きています。神の言葉は信仰の賜物を与え、あらゆる時代のすべての人の心に語りかけます。したがって、神の言葉を受け入れるということは、神ご自身を自分の人生に迎え入れ、神の無限の愛で満たされるということです。アーメン。

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                年間第16主日  C年  2025720日    グイノ・ジェラール神父

                      創世記18,1-10    コロサイ1,24-28     ルカ10,38-42

アブラハム、マルタとマリア、そしてパウロもまた、自分の人生の中神を迎え入れました。そして彼らは皆、変えられたのです。アブラハムは多くの民の父となり、マルタとマリアはイエスの親しい友となり、パウロはイエスの証人であり、恐れを知らない宣教者となりました。神を人生に迎えることは、心を大きく開き、豊かな恵みを受け取ることを可能にするのです。

 アブラハム、マルタとマリアは、食事の席でイエスを迎え入れました。私たちもまた、ミサ祭儀の食卓において、イエスをお迎えするのです。食事を共にすることは、いつも信頼と互いの傾聴、喜びと平和の雰囲気を生み出します。マリアは、イエスのそばに座ることによって、その親密で穏やかな雰囲気を味わうことができました。一方、マルタは台所で忙しくしていて、たとえイエスの言葉をすべて聞いていたとしても、そのような平安と親密な関係には至りませんでした。かつて、アブラハムの妻サラも同様でした。彼女はパン菓子を作ることに夢中になっており、話されていたことをすべて聞いてはいましたが、夫の客人たちからは遠ざかったままでした。

 パウロは、宣教者としての人生において出会うあらゆる試練を喜びのうちに耐えることによって、キリストとの一致を実現しました。そのようにして、パウロはキリストの教会、すなわち彼が各地に設立したすべてのキリスト教共同体と一つに結ばれていたのです。パウロのように、自分の心の扉を主に開く人は、たとえ試練や失敗、苦しみがあったとしても、幸せと喜びを見いだすことができるのです。 

 私たちの不幸は、日々の心配ごとに心がかき乱されていることです。私たちは様々なことで心を煩わせており、それがイエスの足もとに座ることを妨げているのです。しかし、私たち皆にとっては、イエスの足もとに座ることこそが唯一必要なことです。なぜなら、それ以外のすべてはえて与えられるからです(参照:マタイ6, 33)。実際、イエスは弟子たちに、食べ物や衣服などの物質的な必要を心配しないようにと教えられ、何よりもまず神の国とその義を求めるようにと勧められました。

イエスは愛と慈しみに満ちた方です。イエスの足もとに座る人は、自分が愛され、赦されていることを悟ります。なぜなら、イエスはその人を救うために死に、復活されたからです。イエスの足もとに座ると、人は自分のすべてをご存じの愛に神秘的な方法で、出会うという驚くべき、衝撃的な体験をするのです。イエスは、私たちの心の最も暗い隅々までご覧になります。それでもなお、私たちの罪や過ち、傷がイエスを遠ざけることはありません。それらはイエスの愛への障害とはならないのです。なぜなら、イエスは裁くのではなく、愛するからです。本当に、イエスはさらに深く私たちを愛してくださいます。それは私たちをより近くに引き寄せ、より親密に結ばれるためです。 

イエスの愛は盲目的なものではありません。それは真理です。イエスこそが「愛そのもの」であり、また「肉となった真理」です。イエスのうちに「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけする」(参照:詩編85, 11)のです。キリストのうちでは、愛と真理は決して切り離されることはありません。真理もまた、愛から離れることはないのです。そこにこそ、慈しみの神秘があります。

聖霊がこのことを私たちに深く理解させてくださり、神への私たちの愛と感謝の心をさらに増し加えてくださいますように。アーメン。

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             年間第17主日  C年  2025727日    グイノ・ジェラール神父

                      創世記18,20-32   コロサイ2,12-14    ルカ11,1-13

 福音書では、イエスはしばしば祈りをパンにたとえられます。「今日の糧をお与えください」という神へ願う祈りや、「三つのパンを貸してください」という友人のたとえ話も、祈りが人を養い、満たし、共に生きるために、欠かせない糧として描かれています。

また、友人のたとえは、祈り探し求めるものであり、願い求めれば必ず得られることをも教えています。神の手から祈りを受け取るために、私たちはそれを神に願い求める必要があります。イエスは言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見いだされます」(参照ルカ11,9)。聖霊はその探求において私たちとともに歩み、導いてくださいます。神が限りない愛を注いでくださる父であることを私たちに示すために、聖霊は私たちの中でうめき声をあげます(参照ローマ8, 15、ガラテヤ4, 6)。実際、聖霊は私たちがイエスご自身と同じように祈ることを教えてくださいます。というのも、イエスのあらゆる祈りは「アッバ、父よ」で始まっているからです(参照:マルコ14, 36)。この「アッバ、父よ」という表現は、イエスと父なる神との特別な親密さを示すだけでなく、信じる者が皆、同じ親しい交わりに招かれていることをも表しています。

イエスが教えてくださった祈りは、個人で唱えることもできますが、それは全人類の思いを込めた祈りです。私たちは「私の父、私の日々の糧、私の罪」とは言わず、「私たちの父、私たちの日々の糧、そして私たちの罪」と祈ります。したがって、イエスの祈りを祈る人は、全人類の声の嘆願となっているのです。実に、その人はイエスとともに父なる神の前に執り成しをする者となります。イエスの祈りは、簡単に暗記して繰り返すことができる平凡な決まり文句ではありません。それは世界を神の栄光の王座へと引き上げる強力な手段なのです。

エスはこの祈りを教えることで、私たちに、受け取るために求める勇気と、見つけるために探す勇気を与えてくださいました。そして私たちのすべての願いを一つの願いに変えてくださいました。すなわち、「神である父の御名が聖とされ、その御国が来ますように、また、すべての人を救おうとする神の御心が実現しますように」という願いです。

昔アブラハムがしたように、私たちも悪や罪に陥っている人々のために祈ることを恐れてはなりません。簡単に「地獄に落ちる」と見なされがちな人々こそ、私たちの祈りと執り成しを最も必要としています。なぜなら、彼らもまた神の子であり、私たちの兄弟姉妹だからです。一瞬たりとも疑ってはなりません。神はすべての人の救いを望んでおられます。私たちとは違い、神は決して罪人の死を望まれることはありません(参照:エゼキエル33, 11)。

ですから、私たちは自分自身のためだけでなく、より多くの人のためにも祈るようになりましょう。「私」ではなく「私たち」と祈ることで、神は私たちの願いをより容易に受け入れてくださるでしょう。私たちが謙虚に神に罪を告白するなら、私たちと同じ過ちを犯した人たちをも赦して下さるよう神に願いましょう。受けた豊かな恵に対して神に感謝するなら、同じ賜物を受けたすべての人々と一致して感謝しましょう。このようにして、世界の苦しみを背負い、また感謝に満ちた私たちの祈りは、すぐに神に受け入れられ、叶えられるでしょう。 アーメン。

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         年間第18主日   C 年  202583日   グイノ・ジェラール神父

          コヘレトの書1,2 2,21-23    コロサイ3,15,9-11   ルカ12,13-21

少しの幸福を得るために苦労し、多くの苦しみに耐えることに、何の意味があるのでしょうか、もしその道の終わりに死が待っているとしたなら。それはまさにコヘレトという人が語るところの、本当の意味でのスキャンダルです。苦しみや疲労、絶え間ない悩みの代償として自らの手で得た幸福を、味わうことは、果たして愚かなことなのでしょうか。 

福音書には、父親の遺産をめぐって争う二人の兄弟の話が出てきます。そしてたとえ話の中では、遺言を残さずに亡くなった一人の金持ちが登場します。この金持ちは、自分自身のためだけに財産を使い、そのために生きていました。思いがけず豊作に恵まれたとき、彼は「これをどうしようか」と考えます。その豊かさの一部を他人と分かち合うのではなく、すべてを自分のために取っておくことを選びました。そして、それが彼の不幸を招いたのです。イエスは彼を愚かだと指摘されます。金持ちが蓄えたものは、何の役に立つのか。彼には相続人がいないではないか。「彼が用意したものは、いったいだれのものになるのだろう」とイエスは言われます。 

 聖書によれば、幸福は自分が成し遂げたことや所有しているものの中にあるのではなく、分かち合い、与えられたものの中にあるのです。与えることを知り、それを行い、自分自身までも与える人こそ、本当の意味での富める人であり、神の国に富を蓄えることができる人です。「あなたがたが他の人にしてくれたことは、私にしてくれたことなのです」(参照:マタイ25, 40)とイエスは教えておられます。私たちが心配すべきことは、自分の財産を守ることではなく、神の前で富む者になることです。この世の豊かさは、それを他者の幸せのために用いることができれば、天国を得る手段となるに違いありません。ですから、私たち一人ひとりが、過ぎ去るものに対しては正しく使って、永遠に残るものに心を向けることが大切なのです。

 神の国は、私たちが今生きている場所にあります。互いに信頼し合いながら、他者に心を向けることができるところに、神の国はあるのです。イエスは地上の恵みを軽んじてはおられません。むしろ、実り豊かな収穫を前にして大いに楽しみ、百倍の実を結ぶ麦の穂を見て喜ばれ、賞賛されます。イエスはパンやぶどう酒、魚を余るほどに惜しみなく与えますが、それはすべてが分かち合われるためなのです。

確かに、相続によって受け継がれる財産は、受け取る者と渡す者との間にある信頼の絆を表しています。しかし残念ながら、遺産はしばしば争いや憎しみの原因となってしまいます。私たちは福音の遺産を受け継ぎ、それに従って生き、それを分かち合います。私たちは、特に深刻な危機の時代に、福音のメッセージを受け取っているのです。人類は、技術の力によって、ますます世界を豊かにしています。たとえば私たちが使っている携帯電話は、遠くにいる人々との距離を縮めてくれますが、残念ながら、それに夢中になるあまり、身近な人々から心が離れてしまう危険もあります。

私たちの心は、すべての人の必要に対して常に開かれていなければなりません。神がご自身の心を私たちに与えてくださったのですから、私たちの愛する力は限りなく大きいのです。その気になれば、私たちは神ご自身のように愛することができます。だからこそ、愛に燃える心で、天に宝を積む者となりましょう。アーメン。

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         年間第19主日  C年  202510日   グイノ・ジェラール神父

                知恵の書 18, 6-9     ヘブライ11, 1-19      ルカ12, 32-48

知恵の書は、正しい人々は順境のときも逆境のときも心を合わせてそれを受け止め、分かち合いながら神に感謝をささげることを教えています。福音書の中でイエスは「奉仕の備えをしていなさい」と私たちに命じ、分かち合うようにと招いています。最初のキリスト教共同体はこれをよく理解しており、聖ルカはその証人となっています。「信者たちは皆一つになってすべてを共有し…毎日、心を一つにして……神を賛美していた」(参照:使徒 2, 44-47)。

イエス・キリストへの信仰は、私たちを奉仕者へと導き、私たちが持っているもの、そして私たち自身を、喜びと感謝のうちに分かち合うことが出来るように助けてくます。教皇レオ14世のモットーである「唯一の神のうちに、私たちは一つとなる」もまた、この精神へと私たちを導いています。なぜなら、私たちが持つすべては神からの賜物だからです。奉仕すること、与えること、分かち合うことは、すべてのキリスト者の使命です。聖霊は、私たちが自分のためだけに生きるのではなく、むしろ聖なる者となるようにと、私たちに与えられたのです(参照:ミサ奉献文第4文)。ですから、神からいただいた信仰、愛、平和、そして一致の賜物を、喜びをもって、絶えず分かち合いましょう。

イエスが思い起こさせてくださるように、キリスト者とは「待ち望み、希望する者」です。この待ち望みは、恐れの中ではなく、信頼と希望のうちに行われます。ヘブライ人への手紙は、私たちにアブラハムの模範を示しています。彼は30年以上も待ち望み続けました。そしてその希望はついに叶えられました。

私たちもまた、信仰と希望をもってキリストの再臨を待ち望んでいます。そのとき、キリストはご自身の栄光をもって私たちを包み込んでくださるでしょう。しかし、その時が来るまでの間、私たちは暗闇に満ちたこの世の中で、自分の信仰の光を分かち合うよう招かれています。だからこそ、イエスは「あなたがたの灯火をともし、目を覚ましていなさい」と願っておられるのです。

福音書の中で、イエスは、目を覚まして待ち続けていたたちに、ご主人が食事をふるまうという譬えを語っています。今日もなお、イエスは私たちをその食卓へと招いておられます。それは、私たちがイエスと一つになるためです。このことを知るだけで、私たちの心は喜びに満たされ、口からは自然と感謝の言葉と賛美の歌があふれ出るはずです。復活されたイエスの体を私たちのうちにいただくとき、私たちは光輝く者となり、その光が私たちのまわりの世界の闇を追い払うのです。

いつイエスが栄光を帯びて再び来られるのかを私たちはまったく知りません。しかし、イエスがすでに私たちの心の中におられ、私たちが信仰によって聖霊の神殿となっていることをよく知っています。そこでは、私たちの父である神が、私たちのうちに、そして私たちを通して働いておられます。だからこそ、私たちは次のように祈ることができます。

「全能永遠の神である父よ、あなたは時を支配する主です。あなたはその日もその時も明かさずに、私たちにあなたのもとで喜びと光に満ちた未来を約束してくださいます。どうか、私たちが希望のうちに目を覚まし、分かち合うために手を開き、聖霊のしるしに注意を払うように導いてください。そうすれば、あなたの御子が栄光のうちに来られ、私たちを永遠へと導かれるとき、私たちは驚かないでしょう。アーメン。

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       年間第20主日  C年 2025817日   グイノ・ジェラール神父

             エレミヤ 38,4-6, 8-10   ヘブライ 12, 1-4    ルカ12, 49-53 

私たちは希望の巡礼者であり、私たちの使命は、イエスが私たちに与え、残してくださった平和を世界にもたらすことです(参照:ヨハネ14,27)。実に、私たちがもたらす平和が、この世が期待するものとは異なることをよく知っています。イエスは私たちにこう警告されました。「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と。実際、イエスが与える平和は、愛の掟と聖霊の派遣と密接に結びついています。

聖霊こそが、神が私たちを愛してくださるように、私たちも愛することを教えてくださる方です。聖霊は私たちを導き、私たちの知恵を照らしてくださるので、私たちの行いがいつも慈しみと赦しに満ちたものとなるためです。憎しみや暴力、拒絶に直面して道に迷うとき、聖霊は私たちの弱さを助け、力と忍耐を私たちの内に注いでくださいます。特に、世界の悲劇的な出来事に直面するとき、私たちが神への信頼をしっかりと保つように助けてくださいます。

かつては、家族はもっと一つに結ばれていました。祖父母は孫やひ孫と一緒に暮らしていたのです。しかし今日では、家族は最小限の形となり、多くの場合、子どもの代わりに動物(ペット)が飼われています。日本では、子どもたちは試験勉強や塾や学校行事のさまざまなスポーツやクラブ活動によって家庭生活から引き離されています。老人ホームの建設は増え続けており、高齢者は社会生活からますます遠ざけられています。私たちは今、お互いを対立させ、すべてから、そしてすべての人から切り離されて生きるように仕向けられる時代を生きているように思われます。

今こそ、愛の火がこの世界を温め、燃え上がらせることが急務です。今こそ、神が私たちの心に与えてくださった希望を、聖霊の火と力とともに、あらゆる場所で宣言することが必要です。私たちの信仰は、私たちを臆病にするものではなく、勇気を持って行動することを教えてくれるものです。なぜなら、神にとって不可能なことは何一つなく、私たちの弱さを補ってくださるために、常にそばにいてくださるからです。神を信頼するなら、私たちも聖パウロのように体験することができ、このように言えるでしょう。「私が弱いときこそ、私は強いのです」(参照:2コリント12,10)。
 
 イエスは私たちを揺さぶり、私たちが慣れ親しんでしまったさまざまな顔を持つ偽りの平和から解放するために来られます。その偽りの平和とは、無関心や利己的な妥協、他者への感覚の欠如…そして何よりも、イエスご自身への無関心を指します。イエスこそが、私たちが決断を下すべき「場所」です。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(参照:ルカ1123)。この言葉は非常に個人的な決断であり、私たち一人ひとりの良心の最も深い部分に触れるものです。

キリストの平和は、明確な選択を求めます、神の前で、人々の前で、人間の価値と福音的な価値の前で。この平和には代償が伴います。それは、苦しみ、誤解、拒絶を通る道だと今日、イエスはそのことを私たちに改めて思い起こさせてくださいました。平和を望むこと、世界にその平和を与えたいと願うこと、それは神と隣人への愛に飛び込むことを受け入れることです。愛はすべてよりも強い、すべてに勝るものです。なぜなら、愛は神ご自身だからです。だからこそ、私たちは愛のうちに生き、この世のものではない、イエスが望む者に与えてくださるその平和を味わいましょう。アーメン。

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         年間第21主日  C年  2025824日  グイノ・ジェラール神父

           イザヤ66. 18-21  ヘブライ 12, 5-7, 11-13  ルカ 13, 22-30 

 預言者イザヤは、神があらゆる国と言語の人々を集めて、ご自分の栄光を現したいと望んでおられると告げています。神はすべての人が救われることを望んでおられます。それなのに、「救われる人は少ないのか」と尋ねた人に対するイエスの答えは、神の御心と計画に反しているようにも見えます。実際、イエスは、救いから締め出される人もいると宣言されています。それは私たちには受け取りにくい厳しい言葉です。一度閉ざされた扉は、たとえ入るに値する理由があると自分で思って遅れてきた者であっても、もはや開かれることはありません。しかし同時に、イエスは、東や西、北や南から多くの人々が来るとも語っておられます。 

このことをどう考えたらよいのでしょうか。神は、ご自身とその御子イエスを信じる者たちを集めたいと望んでおられます。神は、苦しんでいる人、試練の中で神の憐れみに信頼して耐えている人をご自分に引き寄せられます。真実に生きようとする人、愛し合い、持っているものを分かち合い、何の見返りも求めずに赦す人を、神は受け入れてくださいます。おそらくこれこそが、イエスが語られた「狭い門」であり、私たち皆が通らなければならない道なのです。 

イザヤが語り、またヘブライ人への手紙が間接的に言及する「普遍的な救い」は、人間の内面で起こるものです。これは、扉や鍵で遮断された場所への出入りの可能性とは全く関係がありません。イエスがこの救いについて説明をされたとき、彼はエルサレムへ向かって歩んでいました。そこでイエスは苦しみを受け、死ぬためです。イエスのすべては愛で満たされています。だからこそ、彼ははっきりと次の事を断言しました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(参照:ルカ 19,10)。また、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(参照:ヨハネ10,9)とも言われました。これらの言葉を思い起こすことによって、イエスの厳しい言葉の意味を理解することができるのです。

「門」とは、イエスご自身のことです。イエスが語られる天の国は、私たちが考えるような場所ではありません。イエスは救い主であり、贖い主である神です。イエスこそが「永遠の命」なのです。イエスは、ご自分を疑っていた人々にこう言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(参照:ヨハネ6,29)。また、死を前にした長い祈りの中で、イエスはこうも言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(参照:ヨハネ17,3)。

私たちは今、イエスの名によってここに集められています。イエスの言葉は、私たちに全く異なる世界への扉を開いてくれます。その世界では、価値の序列がこの世とは異なります。だからこそ、私たちが先の者、第一と思う者が、最後になることもあるのです。実に「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とイエスは言われました(参照:ヨハネ3,5)。 

 神の命、神の救いのご計画を理解させてくださるのは、聖霊です。そして、そのご計画に私たちが従うことができるよう助けてくださるのも、聖霊です。ですから、恐れることなく、愛と信頼をもってイエスの声に耳を傾けることを学びましょう。御父の栄光のために、聖霊が語る言葉を通して、イエスと心を通わせましょう。確かに神がご自身のもとに私たちを集めたのは、御子イエスにおいて、そして聖霊の交わりのうちに、ご自分の栄光を見るためです。アーメン。

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      年間第22主日 C年 2025831日  グイノ・ジェラール神

      シラ書3,17-182028-29     ヘブライ12,18-1922-24     ルカ14,17-14

 今日の福音でイエスが繰り返されることを、第一朗読も私たちに教えています。つまり、すべてのことを謙遜のうちに行い、たとえ重要な立場にある人であっても、すべての人のしもべとなるようにということです。私たちは皆、川が海へと流れることを知っています。それは、海がとても低いところにあるため、すべての水を受け入れることができるからです。

同様に、謙遜な人、自らを低くすることができる人は、多くの恵みを自分のうちに受け入れることができるのです。その人は、自分の魂が神の満ちあふれる恵みを受け取る可能性を開くのです。実際、謙遜は私たちの小ささとともに神の偉大さを受け入れる助けとなります。

神は人となられることで、この謙遜の道を私たちに示されました。イエスは、弟子たちが自分を「師」や「主」と呼ぶことを、彼らの足を洗った後にだけ許されました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(参照;ヨハネ13,15)。 

このように、神の謙遜は、私たち自身の謙遜への道です。 しかし私たちはしばしば、他人の目を恐れて、自分を最も美しく見せようという傾きをもっています。人々は私たちを見て、本当は何を思っているのでしょうか、彼らの期待を裏切らないようにするには、どうすればよいのでしょうか…そうしたことを知りたくってたまりません。けれども、周囲の人々が私たちの外見を見るとしても、神は私たちの心の奥深くをご覧になります。詩編にこうあります:「神は心とはらわたを調べるかたです」(参照:詩編7,10)、「主は知っておられる、人間の計らいを」(参照:詩編94,11)。

謙遜への第一歩は、疑いなく、私たちがまず神のまなざしの下で生きていることを認めることです。そして、他人の目はそれほど重要ではないことを知ることです。この真実をしばしば思い起こすことによって、私たちの高慢と自己愛の泡はしぼんでいきます。

 謙遜への第二歩は、すべてを支配し、すべてを予測しようとする欲望を手放すことです。ここでも、詩編は私たちにその方法を教えています。「主よ、わたしの願いはすべて御前にある」(参照:詩編38,10)確かに、私たちの願いが自分自身の前ではなく、神の前にあるとき、すべてが変わります。神ご自身がその願いを実現してくださるからです。それによって、私たちは神の臨在の中で生きることを学んでいくのです。

 謙遜は、自分自身をよりよく知ることを可能にし、他者という神秘を尊重することを学ばせてくれます。上と下、内と外こそが、霊的生活、信仰生活の真の次元です。これらさまざまな方向を通って歩むことで、私たちは神の御前に生きることを学び、日常生活、社会生活、家庭生活の中で適切なバランスを見つけることを学びます。

 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」とイエスは言われました。これは真実です。実に、神を求める人は神のもとへと上ろうとしますが、すぐにその人は自分の限界にぶつかり、小さなことで躓いてしまうからです。しかし、もし彼が謙遜に希望を保ち、神に助けを求めるならば、神によってますます上へと引き上げられていくのです。

 私たちは皆、聖性という高みを到達することを望みますが、それができるため、まず、自分の人間的な暗い深みを見つめて、それらを絶えず神の赦しに委ねていくことが必要です。「わたしは静かに神を待つ、私の救いは神から来る」(参照:詩編62, 2)アーメン。
                      

  
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