グイノ神父の説教
 
C年


年間第23主日方

王であるキリストまで



   

年間第23主日
祝い日 (十字架の称賛)
年間第25主日




       年間第23主日  C年  202597日   グイノ・ジェラール神父

        知恵の書9,13-18     フィレモン9,1012-17      ルカ14,25-33

 この三週間、私たちは福音の厳しい言葉と向き合ってきました。狭い門の話、末席に着くことのたとえに続いて、今日は「家族を憎むこと」や「自分の十字架を背負うこと」が語られています。これはどう理解すればよいのでしょうか。イエスはエルサレムに向かい、ご自分の受難に向かって歩んでおられます。ご自分が死ぬことを知っておられますが、弟子たちは数日後に起こる悲劇の本当の意味をまだ理解していません。

 イエスにとって、苦しみと死への歩みは、何よりも「命への歩み」であり、私たちへの愛を示す歩みなのです。イエスは、ご自分の命を私たちのために捧げるという選択を、私たちが受け入れ、承諾するように招いておられます。私たちの視線と心を、本当に大切なことに集中させたいのです。私たちは、イエスが向かうその道に従っていくことができるでしょうか。罪のないキリストが長く苦しめられ、十字架につけられるという「十字架のつまずき」を受け入れる強さが、私たちにはあるでしょうか。

 それは難しいことだと、『知恵の書』は私たちに思い出させています。実際、「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです」と言われています。聖霊の助けがなければ、私たちはこのことを理解することができず、衝撃やつまずきの前でしっかりと立ち続けることも容易ではありません。

 それでも、私たちはイエスに従います。なぜなら、私たちはイエスを愛すること、イエスの声に耳を傾けること、そして信頼することを学んだからです。私たちは、自分たちの未来がイエスの中にあり、何ものもイエスから私たちを引き離すことはできないと知っています。だからこそ、私たちはイエスを見つめ、その姿を模範とします。イエスは、ご自身の命と使命、そして託されたすべての人々を、神の御手にゆだねました。私たちもまた、ありのままの自分を、神の御手にゆだねます。神は私たちを、その御子イエスの神秘に深く結びつけてくださいます。

 それ故、自分のためではなく、「私たちのために死んで復活されたキリストのために」生きることが大切なのです。私たちがこの目的を果たすことができるように、聖霊が与えられました。今、私たちは選択を迫られています。地上の財産に囲まれ、家族や親しい友人との関係の中に閉じこもって生きるのか、それとも主と完全に一致することを妨げるものを手放すのか、という選択です。私たちがこの教会に集まっているという事実は、神と共にいることを望んでいる証しであり、ただ休んで、やることがなくて喫茶店やデパートで時間をつぶす人たちの真似をしたくないという決意の表れです。ここにいるという選択は、私たちが神の言葉に従って生きる自由を持っていることを示しているのです。

 イエスは喜んで私たちを御前に迎え入れてくださいます。私たちを空しいままで去らせることはありません。周りの人々の祈りの交わりと聖体拝領を通してイエスと一つになることで、神の喜びが私たちを潤し、神の愛の力が私たちのあらゆる弱さを支えてくださいます。私たちに本当に必要な喜びと力は、イエスが私たちを招いてくださるミサの中から湧き出てきます。ですから、神に心から感謝し同時に、互いにますます一致していきましょう。アーメン。

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      年間第25主日(C年)  2025921日   グイノ・ジェラール神父

                アモス 8,4-7     1テモテ 2,1-8      ルカ 16,1-13 

昔から人々を欺き、騙す者たちは存在してきました。預言者アモスは、真理に反するこの罪を力強く非難しています。今日イエスも、恐らく実際にあった出来事に基づいたたとえ話を通して、騙す者たちが自分の行いの結果から逃れるためにどれほど巧妙であるかを示します。残念ながら、人を欺くことは、現代においてまるで感染症のように広がっています。誤った情報や改ざんされた事実、加工された写真、偽証や欺瞞的なスピーチなど、あらゆる手段で私たちの信頼は日々裏切られています。さらに、個人の銀行カード情報の盗難、電話勧誘、インターネット上の虚偽広告など、世界中でこうした被害が拡大しています。それらは混乱や恐れを引き起こし、恐怖をもたらし、政治や世界情勢を不安定にしています。 

預言者アモスもイエスも、こうした他人を犠牲にして利益を得ようとする嘘や貪欲を厳しく非難し、私たちに警鐘を鳴らします。しかし、彼らは私たちにその防ぎ方までは教えていません。真理が脅かされるこの時代にあって、正直さと冷静さを保ち続けることは、とても困難になっています。実に、物価の高騰は、店舗での窃盗を増加させ、私たちに節約を強い、同時に困っている人々への寄付や支援の気持ちをも削いでしまいます。このような現実の中で、イエスの言葉「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」は、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。 お金なしでは生きていけないこの世界で、どう理解すればよいのでしょうか。

しかし、まさにそこにこそ、私たちの忠実さが試されているのです。イエスはお金そのものを非難しているのではありません。私たちが生きていくため、家族を養うため、正義と連帯のある社会を築くためにお金が必要であることを、イエスはよくご存じです。イエスが私たちに求めているのは、お金を主人にしないことです。お金は良い僕ではありますが、非常に悪い主人です。お金が私たちの選択、人間関係、そして心を支配する時、それは偶像となってしまいます。 

「神に仕える」とは、人生を愛と正義、そして真理に向けることを意味しています。それは、嘘や利己的な利益追求、弱者への無関心といった流れに流されることを拒むことです。困難の中にあっても、日々の中で真理を貫こうとする姿勢を持ち続けることです。たとえ自分自身が少ししか持っていなくても、それを分かち合う心をもつことが、連帯の証しとなるのです。

この欺きに満ちた世の中で生きるために、イエスは私たちが持っているものを、ただ自分の快適さのためではなく、人間として成長し、公正な関係を築くための手段として用いるようにと招いています。

兄弟姉妹の皆さん、今日、私たちは選択を迫られています。それは、「神かお金」かという単純な二者択一ではありません。誰が私たちの人生の主導権を握っているのか、という問いです。私たちの決断は福音に導かれているでしょうか。 私たちの経済的な選択は、神の言葉によって照らされているでしょうか。

真理の霊である聖霊が、私たちの個人生活と社会生活の中心に据えて留まるように祈りましょう。「真実」と「誠実」と「分かち合い」の中で生きることは不可能だと考える人々のために、聖霊が神への信頼と私たちの行いを光としますように。アーメン。

 

                          

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