グイノ神父の説教

 

 A 年

年間第13主日から

22主日まで



   
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         年間13主日  A年   司祭叙階50周年記念ミサ  2028628

                 列王記下 48-1114-16 ローマ63-48-11 マタイ1037-42 

本日、私たちは感謝のうちに集い、私の司祭として、また宣教者としての50年の歩みを祝っています。神が呼び、派遣してくださるその恵みがなければ、この年月が、忠実さや奉仕、祈り、喜び、そして試練を、主に、また皆様に捧げる歳月とはなり得なかったでしょう。

司祭であるとは、単に役割を果たすことではなく、キリストとの親密で深い関係を生きることです。キリストは日々、変わることなく私たちと共に歩んでくださいます。まさに司祭の生涯は、恵みの神秘です。キリストの忠実な現存こそが、その司祭を忠実に保ってくださるのです。主は召されるとき、成功や安楽な人生を約束されませんが、ただ、絶えざるご自身の現存を約束してくださいました。

この50年の司祭生活は、喜びや友情だけでなく、恐れや疑い、疲れや過ちも経験しながら、同時に、洗礼、結婚式、ゆるしの秘跡、感謝の祭儀、そして多くの出会いと体験に満ちたものでした。そのすべてを通して、ひとつの確信が心に残っています。神は常に忠実であり、私が神に仕え、人々が神に愛されていることを知ることができるよう、私を忠実に支えてくださったということです。

人々のもとへ派遣されるために、司祭は神によって選ばれています。人々の喜び、悲しみ、希望、そして傷を担い、それらを神にささげることを学びます。宣教者として、司祭は、自分自身からではなく、キリストから来る光の証人です。実に、司祭の使命とは、置かれた場所で、神の愛とすべての人に与えられる救いを、へりくだって真実に証しすることにほかなりません。

 今日、私は自分の歩みそのものを祝っているのではありません。神が私を通して成し遂げてくださった業を、皆さまと共に喜び祝っています。50年という歳月が可能であったのは、神の恵みが私の一歩一歩を支え、私の言葉と行いを導いてくださったからです。司祭が五十年にわたって歩み続けることができるのは、自分の力によるのではなく、ただ神の愛と赦し、そして信頼によるものです。このようにいただいた恵みを、司祭は今度は人々へと分かち与える使命を与えられています。したがって、司祭の生活は当然、祈りとミサ祭儀、そして聖体に支えられ、託された使命を果たす中で、日々新たにされていかなければなりません。

ですから今日、私たちは共に、神が私のうちに、また私を通して成し遂げてくださったすべてのことに対して、大きな感謝をささげましょう。どうか私のために祈ってください。司祭は生きている限り、キリストのしもべであり、イエスの証人です。

 私はまだ衰えてはいませんが、それでもどうか、私の回心のために祈ってください。主の助けによって有益な実を結ぶことができますように。また、召命のためにも祈ってください。より多くの人が主の呼びかけを聞き、それに応える勇気を持つことができますように。

兄弟姉妹の皆さま、この祝いが、私たち一人ひとりにとって、自らの召命がどのようなものであれ、神への「はい」を新たにする招きとなりますように。そして、私たち一人ひとりの中で業を始められた主が、それを完成へと導いてくださいますように。アーメン。

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        年間第14主日  A年  202674日    グイノ・ジェラール神父

ゼカリヤ99-10  ローマ8911-13  マタイ1125-30

今日は、イエスがどのように祈られたのかを見ていきましょう。イエスは父なる神に語りかけ、目に見えるものと見えないもの、天地の主である神を崇めています。イエスの祈りは、神がなさるすべてのことに対する感謝と賛美です。無学な人々や子どもたちでさえ、その素直さをもってイエスの教えに応えていることに、イエスは喜ばれます。

 同時に、イエスは、ご自分を神から遣わされた者として認めるためのすべての条件を持ちながら、かえって離れていく人々を見て嘆かれます。祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々は、聖書の知識を持ちながらも、イエスを絶えず批判し、罠をしかけ、さらには悪霊に取りつかれていると非難し、その力で行動しているとさえ言い、決めつけています。

 イエスは、自分を理解する者たちに、より近づき、親密な交わりに入るよう招きます。たとえ、すべてを理解できなくても、彼らはイエスが自分たちを愛し、癒し、尊重してくれることを知っています。しかし、祭司長や律法学者たち、ファリサイ派の人々は、自分たちが軽蔑するこれらの素朴な人々よりも自分たちが優れていると考えています。だからこそイエスは、自分を受け入れる者たちに、神ご自身の神秘に関する、より大きな啓示を与えると約束されるのです。イエスは父なる神への道であり、ご自分と神との関係と、神から託された使命の目的を明らかにする方なのです。

弟子たちがそうであったように、単純で信頼に満ちた心でいるようにと、今聞いたエスの祈りが、私たちを招いています。弟子たちはすべてを理解していたわけではなく、疑いもありましたが、イエスから聖霊を受け、聖書を理解する力を与えられてから、イエスの神秘をより深く理解し、それを世界中に宣べ伝えるようになったのです。

私たちもまたイエスの弟子とされ、神の愛が私たちの心に注がれるために聖霊が与えられました(参照 : ローマ55)。私たちの命は、今やキリストとともに神のうちに隠されています(参照 : コロサイ33)。

ですから私たちは、天と地の父として神に祈ることができます。なぜなら、私たちは本当に神に愛されている子どもだからです。すべての恵みはキリストから来ます。「私たちは皆、その満ちあふれる豊かさから、恵みの上にさらに恵みを受けた」(参照:ヨハネ116)からです。これらの恵みは、神が私たち一人ひとりを愛しておられること、そして私たちが本当に神の子であることの確かな証しです。だからこそ、恐れずに神に感謝し、絶えず賛美しましょう。天のすべての天使や聖人の終わりなく神を賛美する祈りに、私たちの祈りを合わせましょう。イエスの恵みによって、私たちは神の子どもとされました。私たちが信仰、希望、愛を神に捧げ、それらを周囲の人々の世話のために用いることによって神を賛美するならば、この恵みは決して無駄にはなりません(参照 :1コリント1510)。聖霊と聖母マリアが、私たちがこの使命を忠実に 喜びをもって果たすことができるよう助けてくださいますように。アーメン。

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         年間第15主日  A   2026712日   グイノ・ジェラール神父

 
        イザヤ 5510-11      ローマ 818-23      マタイ131-21 

今日の典礼は、私たちの中で神の言葉がどのような実りを結ぶかを考えるように促しています。無関心や軽率、移り気、そしてこの世の思い煩いが、私たちの中で神のことばの成長を妨げることがあるとイエスは教えられます。それに対して、神の言葉を聞き、味わい、心に受け入れたいという望みは、私たちの内にも周りにも、神が望まれる豊かな実りを生み出します。 

良い種のように、キリストは地に落ち、死んで復活し、豊かな命を与える聖霊の実りをもたらしてくださいました。この命は、時間や空間の限界を超えて広がります。地に落ちた一粒の麦として復活されたイエスは、命のパンとなられました。「パンの家」という意味をもつ「ベツレヘム」の飼い葉桶から、イエスは私たちのもとに来られ、私たちを養い救う命のパンとなられたのです。神の言葉であるイエスは、「私たちが命を受け、しかも豊かに受けるために来た」(参照:ヨハネ1010)と語られました。

この命のパン、すなわちイエスの御体によって養われる私たちは、キリストと一つとなり、私たち自身もまた世に命を与える者とされます。死の力は、今もなお私たちの周りに満ちています。暴力や戦争、飢え、不安、苦しみが私たちの日々を覆っています。しかしその中にあっても、私たちは命が死よりも強いことを証ししなければなりません。私たちの生活と信仰の証しを通して、イエスはすべての人が命を得ること(参照:ヨハネ651)、すべての人が救われ、愛の完成へと導かれること(参照:テモテ24、ヨハネ412)を望んでおられます。

道端に落ちた種は失われてしまいます。しかし、真の道であるキリストとともに歩むなら、彼の言葉は表面にとどまらず、私たちの内に深く入り込み、命となります。石の上に落ちた種は根を張ることができませんでした。しかし、キリストという岩を土台にして寄りかかれば、イエスの言葉は容易に私たちのうちに深く根を下ろします。いばらの中に落ちた種は押しつぶされてしまいました。しかし、いばらの冠をかぶられたイエスの受難に従うなら、その言葉は試練や失敗を乗り越えさせ、希望を新たにし、生きる喜びを取り戻させてくれます。

兄弟姉妹の皆さん、神の言葉によって絶えず養われましょう。それによって私たちは生かされ、豊かな実りを結ぶことができます。神の言葉は真理であり、命の源であり、私たちの救いです。神の言葉の名は「イエス・キリスト」です。私たちは今日、信仰をもってこの方をたたえ、心から神に感謝をささげます。アーメン。

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       年間第16主日  A年  026719日    グイノ・ジェラール神父

            知恵の書121316-19     ローマ 826-27      マタイ 1324-43 

知恵の書とイエスのたとえは、神がいかに忍耐強い方であるかを教えています。この忍耐は弱さではなく、私たち一人ひとりが悔い改めて救われるのを待っていてくださる神の愛の証しです。私たちもまた、神に似せて創られた者として、忍耐強くあるべきです。気に入らないものをすぐに裁き、非難し、引き抜き、壊してしまうのは、とても簡単なことです。

世の終わりまで、良い麦と毒麦が共に成長することをイエスは私たちに教えておられます。これは悪が認められているという意味ではなく、善が実り、罪人が回心するために、神が時間を与えておられるということです。

あまりにも早く裁き、行動してしまうと、悪いものと一緒に良いものまで引き抜いてしまう危険があります。善と悪を分ける境界線は、簡単に引けるものではなく、それはしばしば私たちの心の中を通っています。だからこそ、心の中を見通される神にこそ、正しく慈しみに満ちた裁きを委ねるべきです。知恵の書が教えるように、神は寛大に裁き、思いやりをもって治め、罪を犯した者に回心の恵みをお与えになります。

もしそうであるならば、聖霊が私たちの弱さを助けてくださるならば、他者を裁き非難する前に、まず自分自身を吟味し、神の前で謙遜に罪人であることを認めましょう。教皇レオ14世は最近、私たちに思い出させてくれました。「すべてのキリスト信者は少なくとも年に一度 赦しの秘跡を受ける義務があります。この戒めは教会の法です。和解の秘跡は『一致の実験室』であり、罪の赦しと聖化の恵みによって、神との一致を回復します。それは人との内面的な一致をもたらし、さらに教会との一致をも生み出します。したがって、それは人類の家族の中に平和と一致を促進するものでもあります」と。

ゆるしの秘跡は、私たちの中にある善と悪を神がすぐに分けてくださり、悪の害から私たちを守ってくださる恵みです。自分が罪人であると認めることに恥はありません。私たちは皆、罪人であり、悪に傾きやすい存在です。赦しの秘跡は罰するものではなく、解放し、壊れたものを再び築き直し、心を喜びで満たしてくれます。天の天使や聖人たちも、この喜びにあずかっています(参照:ルカ1510)。この天の喜びを、年に一度だけでなく、できるだけ頻繁に味わうことを切に願いましょう。神の慈しみを選び、自分の愚かさを退けることは、より早い回心と永遠の幸福を得ることができるのです。 

自分の弱さを認め、神のいつくしみを受け入れることができる、謙遜で忍耐強い心の恵みを願いましょう。また、決して絶望せず、常に希望を抱くキリストご自身のまなざしで他者を見ることができる恵みも願いましょう。アーメン。

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          年間第17主日 A年  2026726日  グイノ・ジェラール神父

            列王記上  3, 5, 7-12    ローマ 8, 28-30    マタイ13, 44-52

 アダムの罪によって、死は人生を袋小路に変えてしまいました。しかし、イエスは私たちのために命を捧げ、死の中に真の命へと通じる扉を開くことで、死に打ち勝ちました。イエスが私たちに与えてくださるこの永遠の命は、まさに宝です。それを得るためには、私たちはソロモン王のように、知恵の道を歩まなければなりません。この道は私たちにもよく知られています。なぜなら、イエスご自身が「道であり、真理であり、いのち」からです。

「真理とは何か」と、ピラトはイエスに尋ねました。しかしイエスは答えませんでした。なぜなら、真理は発見されるべきものだからです。私たちは「人それぞれに自分の真理がある」と考え、そのように言われますが、それは真理が存在しないということを意味しています。実際には、私たちは二つのものを混同しています。それは「真理」と「意見」です。意見は真理ではありません。なぜなら、意見は変えることができるからです。

真理は、人それぞれが作り出す考えでも、数ある意見の一つでもありません。真理とは一つの人格、すなわちイエスご自身です。聖霊は私たちをこの真理へと導いてくださいます。イエスは私たちに先立って進み、善なるもの、美しいもの、そして真なるものを明らかにしてくださいます。イエスの言葉に耳を傾けるとき、私たちは、この世に存在するすべてのものが神から与えられていること、そして自分自身の存在についても神からの賜物であることに気づかされるのです。 

だからこそイエスは、ご自身が命そのものでもあり、愛と慈しみをもって私たちを絶えず引き寄せてくださると語っておられるのです。私たちはふだん、外側からいのちを眺めがちですが、いのちを知るためには内側からそれを生きなければなりません。それゆえイエスはしばしば、「わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにおられる」(参照;ヨハネ1410)といわれ、また「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまる」(参照;ヨハネ154参照)と招いておられます。

イエスは私たちをご自身と共に、豊かさと真実に満ちた内なるいのちを生きるよう招いておられます。これこそが、私たちが探し求めなければならないかけがえのない宝であり、それを見つけた時、私たちは大きな喜びに満たされるのです。

イエスと共にいることは、命のうちに生きることです。それは真理のうちで生きることであり、これこそが私たちの真の豊かさです。このことを、聖パウロはローマの信徒への手紙の中で思い起こさせてくれます。聖パウロはこの真理を宣言しています。すなわち、神はその愛のご計画に従って、すべてのことを私たちの益となるように働かせ、私たちをご自分の御子の似姿となるように定め、義とし、ご自身の栄光を与えてくださるのです。このことを知るなら、私たちは喜びに満たされ、イエスとより親しく結ばれるようになるはずです。

兄弟姉妹の皆さん、どうかイエスと親しい絆を結ぶことを恐れないでください。喜びと豊かな発見に満ちた内なるいのちを見いだすために、急ぎましょう。聖霊の助けによって、「キリストにとどまる」とはどういうことかを味わい学びましょう。

そして、あふれる喜びに満ちた知恵をもって、私たちが見いだしたこの恵みを、人々に証ししていきましょう。アーメン。

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         年間第18主日  A年  202682日  グイノ・ジェラール神父

           イザヤ55, 1-3     ローマ 8, 35-39     マタイ14, 13-27-

今日の聖書朗読は、神が私たちを深く愛し、大切にしてくださることを改めて教えてくれます。神は私たちの父であり、慈しみ深い父として、私たちに命を与え、養い、守り、そして私たちを永遠にご自身と深く結び合わせてくださいます。父なる神の完全な似姿であるイエスは、ご自身を糧として私たちに与えることによって、私たちに神の命を生きさせてくださいます。イエスは命のパンであり、生ける水の源です。イエスは私たちの内におられ、私たちもまたイエスの内にいます。その結びつきは非常に深く、強いものであり、何ものも私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。

 聖霊もまた命の源であり、私たちの神との一致、そして同じ信仰に結ばれた人々との交わりを強め、それを完成へと導いてくださいます。このように、聖なる三位一体の神は、命と聖性、愛と慈しみの神秘のうちに、私たちを包み込んでおられるのです。実際、人間としてそしてキリスト者としての交わり、即ち私たちを互いに結びつける交わりには、深い秘跡的な意味があります。キリストと結ばれていると言いながら、周囲の人々、特に助けや慰めの言葉、思いやりのあるまなざしを必要としている人々を避けながら、キリストと一つになることはできません。なぜなら、私たちは皆、キリストご自身がそのような人々と一体となることをよく知っているからです(参照:マタイ2540)。 

 しかし、私たちを必要としている人々への奉仕は、ミサの祭儀への忠実な参加に取って代わることはできません。この二つは、一つの現実の二つの側面のようなものです。一つは、すべての人類と結びつくために来られたキリストの姿であり、もう一つは、神の賜物によって絶えず刷新され、豊かにされる、連帯、兄弟愛、そしてキリスト教的連帯に基づく人間の存在です。

 預言者イザヤは、愛がすべての人に、分け隔てなく、無償で与えられることを私たちに思い起こさせます。パンの増加の物語は、愛が喜びをもって与え、しかも必要と思われる以上に豊かに与えることを教えています。そして聖パウロは、私たちを傷つけ苦しめるどのようなことも、聖霊の賜物によって私たちの心に注がれた神の愛を消し去ることはできないと語っています(参照:ローマ55)。

神が私たちの内に与えてくださった愛の力によって、私たちは自分で想像する以上のことを成し遂げることができます。しかし、私たちはそれを信じているでしょうか。福音はまた、イエスが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」といって、弟子たちをご自身の業に参与させていることを示しています。イエスは、ご自身の救いの業を続けるために、私たちを必要としています。主は、パンや希望や愛に飢える人々に対する神の優しさと慈しみを伝える道具として、私たちを用いようとしているのです。

今日、ミサの拝領にあずかり、キリストである生けるパンを私たちの内に受け入れることで、キリストの慈しみに満たされ、下心なく分かち合い、仕え、愛することができるキリスト者となるように、イエスに願いましょう。キリストの体との拝領を通して、私たちの生き方が少しずつ変えていきますように。そして、私たちと出会う人々が、私たちを通して、父なる神のいつくしみと善さに触れることができますように。アーメン。

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         年間第19主日  A  202689日   グイノ・ジェラール神父

              列王上19911-13     ローマ 91-5     マタイ 1422-33

主は私たちの信仰を成長させ、日々の恐れや不安を乗り越えることができるように助けてくださいます。主はすべての被造物を御手のうちに保っておられます。時には、自然の力が私たちを恐れさせ、苦労して築き上げたものを壊してしまうことがあっても、神は決して私たちから遠く離れることなく、私たちを救い、守ってくださることを私たちは知っています。

預言者エリヤは、すっかり落胆し、慰めと励ましを求めて神の山へ向かいました。神はそこで彼を待っておられました。預言者エリヤにご自身を現されることで、神は彼に必要な勇気をお与えになります。それは、預言者エリシャの助けを受けながら、自分に託された使命を成し遂げるためでした。 

聖パウロはとても悲しんでいます。神に選ばれた民が、なぜイエスを救い主として受け入れないのか理解できなかったからです。しかし、聖書の教え、預言者たちの証し、そして弟子たちがイエスの名によって行った奇跡の数々は、イエスこそ約束されたメシアであることを明らかに示しています。そのため、聖パウロの悲しみは彼を落胆させるのではなく、むしろイエスへの信仰をさらに力強く証しする原動力となりました。 

使徒たちは、長い一日の後で疲れ切っていたうえに、荒れ狂う湖に立ち向かわなければなりませんでした。湖の上を歩いて来られるイエスの姿を見たとき、彼らは恐怖に陥り、叫び声をあげました。しかし、イエスは幽霊ではありません。イエスは、救い、癒やし、励ましてくださる、生ける神の御子です。その存在はあまりにも心強く、ペトロはすぐに自らもイエスと共に湖の上を歩こうとします。しかし、その勇気は長くは続きませんでした。波と風を恐れたペトロは、水の中へ沈み始めてしまいます。イエスへの信頼が十分ではなかったからです。 

恐れ、落胆、疲れ、そして信頼の不足は、しばしば私たちの信仰の妨げとなります。恐れは私たちを麻痺させ、キリストがすぐそばにいてくださることを見えなくしてしまいます。イエスは宇宙の主であり、嵐や自然の破壊的な力をも支配されるお方です。しかし何よりもまず、人生の試練を乗り越え、信仰と信頼において成長できるように、イエスは、私たちのそばに立って助けてくださる救い主なのです。 

兄弟姉妹の皆さん、人生の嵐に揺さぶられるとき、疑いや病気、家庭の困難、不確かな未来に心を悩まされるとき、ペトロのように、イエスが差し伸べてくださる御手をしっかりとつかみましょう。また、私たちを怖がらせる出来事ではなく、キリストご自身にもっと目を向けることを学びましょう。イエスと共に歩むなら、恐れは信頼への道となり、疲れは主の力をより深く受ける機会となり、すべての試練は神との親しい出会いの場となるのです。 

今日、主に、より強い信仰と希望に満ちた心を願い求めましょう。波と風に揺れる舟の中にいた弟子たちのように、私たちも勇気をもって周りの人々に大声で宣言しましょう。「イエスはまことに神の子です。私たちの救い主です!」アーメン。

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       年間第20主日 A年  2026816日   グイノ・ジェラール神父

        イザヤ 5616-7     ローマ1113-1520-32     マタ1521-28

神の慈しみには境界がありません。神は、失われた人を世界中のどこにいても探し出し、救うために来られたからです。ですから、どのような人でも、神に信頼してこう祈ることができます。「主よ、私をあわれんでください。どうか助けてください」。カナンの女の叫びを、私たちも自分の唇にのせて祈ることを恥じる必要はありません。聖パウロもローマの信徒への手紙の中で、「神はすべての人を憐れみたいと願っておられる」と教えています。

また聖ヨハネも、苦しみの中で信頼をもって神に叫び求めるように私たちを励ましています。「たとえ私たちの心が自分を責めても、神は私たちの心よりも大きく、すべてをご存じです」(参照:1ヨハネ320)。ですから、恥や恐れによって神から私たちをざけることを決してしてはいけません。むしろ、そのような時こそ、神の限りない慈しみの中に逃れ場と避難所を見出すように、私たちを招いているのです。

今日の福音に登場する女性は、自分の願いを伝えることで大きなリスクを冒しました。それは、拒絶されるかもしれないというリスクです。しかし、助けを求め続けた彼女の粘り強さは報われました。イエスはたとえ話の中でこう言われました。「神は、昼も夜も叫び求める者たちの声に耳を傾けないわけにはいかない」(参照:ルカ187)と。

聖書に登場するよく知られている偉大な人々は皆、強い願いを抱き、それを恐れず神に打ち明けました。時には激しく訴えることさえありました。彼らの祈りは、神の慈しみを深く信じる者の祈りでした。ヤコブの神との格闘(参照:創世記3225-31)のように、時には神との激しい向き合いは、彼らにとって霊的な成長への道でした。

 ですから、ためらわずに、私たちの願いや必要を隠さず、神の御前に差し出しましょう。神との出会いにおいて、私たちの願いが必ずしも思い通りに叶えられるとは限りませんが、神との関係が必ず変えられていくことは確かです。そして、そこにこそ、神に捧げる祈りの真の豊かさがあるのです。 

 「神は、すべての人が救われ、真理を知るようになることを望んでおられます」(参照:1テモテへ24)。すべての人の救いがどのように実現するのか、それは神秘です。神の考えと計画は人には測り知れません(参照ローマ1133)。しかし、カナンの女の出来事から、わたしたちは次のことを学びました。つまり、「小さな犬」と呼ばれるような、信仰から遠く離れた人々でさえ、神の子どもたちのために用意されたパンのくず、永遠の命を与えるパンのかけらを受け取ることができるのです。神は、キリスト者であろうとなかろうと、悪から救われることを願い、強く望むすべての祈りを必ず受け​​入れてくださいます。

 信仰を与えられている私たちは、神の宴にあずかりましょう。神のみ言葉のパンによって十分満たされましょう。そしてさらに、永遠の命のために与えられたキリストの御体と御血をいただき、新しい人として生きていきましょう。信頼をもって、わたしたちが昼も夜も神に叫び続けましょう。神がこの世界を救い、あらゆる悪から解放してくださるように。アーメン。

                                                

                        

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