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                           グイノ神父の説教



2026年 A年

年間第23主日から

王であるキリストまで





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         年間第23主日 A年  202696日  グイノ・ジェラール神父

        エゼキエル337-9      ローマ 138-10     マタイ1915-20 

 昔、カインは神に、自分は弟の番人ではないと言いました(参照:創世記49)。しかし今日、預言者エゼキエルとイエスは、血縁関係であれ信仰による関係であれ、身近な人々に対しては、私たちに責任があることを思い出させてくhomeliesれます。 

確かに、神は私たちが人を裁く者になることを決して望んでおられません。神が望んでおられるのは、兄弟姉妹の救いに心を配ることだけです。私たちは人を責める者ではなく、目を覚まして見守る「見張り人」となるよう招かれています。私たちの使命は、自分と違う考えや行動をする人を排除することではなく、悪を正し、和解への道を見いだすことです。

どれほど大きな違いがあったとしても、私たちは常に交わりと一致、そして互いを認め合うことを最優先にしなければなりません。それでもなお、あらゆる努力にもかかわらず兄弟が誤った道を歩み続けるなら、共同体はその人を裁くのではなく、その人のために祈ります。実際には、その人自身が自ら共同体との交わりから離れてしまうのです。教会が破門を宣言する場合も同じです。それは教会が人を切り捨てるのではなく、その人の心と行動の中にすでに存在している交わりの断絶を確認するにすぎません。

今日、聖パウロは兄弟的な忠告の鍵を私たちに示しています。「人を愛する者は律法を全うしたのです。」つまり、愛がなければ、たとえ正しい忠告であっても、人を傷つけ、屈辱を与えてしまいます。しかし、愛をもって語るなら、それは相手を打ち負かすためではなく、救うための愛の業となります。

また、イエスはまず兄弟と二人だけで話し合うように勧めておられます。その人の過ちを皆の前で明らかにする前に、まずその人の尊厳を尊重し、思いやりをもって静かに語りかけなければなりません。目的は議論に勝つことではなく、一人の兄弟を取り戻すことです。もし、あらゆる時代の人々がこの福音の知恵に従っていたなら、どれほど多くの分裂や争いが避けられたことでしょう。 

最後に、イエスは私たちにすばらしい約束を与えてくださいます。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」私たちが真理と平和、そして和解を心から求めるとき、キリストは私たちのただ中におられ、働いてくださいます。主は私たちの祈りに力を与え、私たちの赦しを実り豊かなものとしてくださいます。

今日、主に願いましょう。謙遜で憐れみに満ちた心を与えてください、と。道を誤った人を優しく諭す勇気を、自分自身も兄弟的な忠告を謙虚に受け入れる心を、そして何よりも、一人の兄弟、一人の姉妹を決して見捨てることのない大きな愛を与えてください、と神の目には、その人のために祈り、希望を持ち、愛し続ける人が一人でもいる限り、誰一人として完全に失われた者はいないのです。アーメン。

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      年間第24主日 A年 2026913日   グイノ・ジェラール神父        

         シラ書2730287    ローマ 147-9    マタイ 1821-35

 シラ書は、恨みや怒り、復讐、そして赦そうとしない心は、何一つ良いものを生み出さないと教えています。むしろ、それらは悪に新たな力を与え、罪と死の原因となるのです。

聖パウロは、自分自身のためだけに生き、自分の感情や考えに閉じこもっている人は、キリストが与えてくださる新しい命にあずかることはできないと教えています。そしてイエスは、たとえそれが難しいことであっても、心からの慈しみをもって、無条件に赦すよう私たちを招いておられます。

 何回赦さなければならないかは問題ではありません。大切なのは、怒りや軽蔑といった自分の感情に頼ることではなく、神が慈しみ深い方であるように、私たちも慈しみ深い者となることです。そうすれば、私たちが神の裁きの前に立つとき、神も同じ憐れみをもって私たちを迎えてくださいます。イエスはこう言われました。「人を裁いてはならない。そうすれば、自分も裁かれることがない。あなたがたは、自分の裁くその裁きで裁かれ、自分の量るその秤で量り返される」(参照:マタイ71以下)。

 キリストの贖いの死によって、私たちは皆、新しい命へと導かれました。私たちは神の赦しを受け、今や神は私たちを義とされ、赦された子どもとして見てくださいます。確かに、私たちの罪は神との親子の交わりを弱めることがあります。しかし、その関係を完全に断ち切ることはできません。人間を決定づけるものは罪ではなく、限りなく深い神の慈しみだからです。

サロフの聖セラフィムは、こう教えています。「人間の罪は一握りの砂にすぎない。しかし神の慈しみは果てしない大海である。」私たちが自分の弱さと罪を神の憐れみ深い御腕にゆだねるなら、神はただちに私たちを清め、新しく造り変えてくださいます。だからこそ、私たちは憎しみや怒り、復讐、そして赦そうとしない心を捨てなければなりません。

 ここに集う私たちは皆、自分が完全な人間ではないことを知っています。しかし、この教会で私たちは罪の赦しを受け、回心する恵みをいただきます。また、この教会で互いに赦し合い、天の父が慈しみ深い方であるように、私たちも慈しみ深い者となることを学ぶのです。

今日も、共にイエス・キリストの死と復活を記念するこのミサの中で、主が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合う恵みを願いましょう。また、聖霊の力と聖母マリアの取り次ぎによって、平和とゆるしと慈しみが、私たちの心と思い、そして手のわざから絶えず湧き出ますよう、主に願い求めましょう。アーメン。

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      年間第25主日 A年 2026920日   グイノ・ジェラール神父        

       イザヤ 55 6-9      フィリピ 120-27     マタイ201-16- 

 預言者イザヤは、「主を求めなさい」と私たちに呼びかけています。聖パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、主を求めることが私たちにとって大きな益であると教えています。しかし、今日の福音と預言者イザヤは同時に、主の思いは私たちの思いとは異なり、主の道は私たちの道とは異なると警告しています。それでは、私たちはどこで主を探せばよいのでしょうか。主を見いだすためには、どのような心と思いをもって主を求めればよいのでしょうか。

 私たちが確信できることが一つあります。それは、私たちが従うべきお方はイエスだけであるということです。イエスご自身が、「わたしは道であり、真理であり、命である」(参照:ヨハネ146)と語られました。イエスに従うなら、私たちは必ず神にたどり着きます。また、その教えに従って歩むなら、空しい理想や誤った判断に陥ることもありません。

しかし、私たちには自分の力に頼ってしまう危険は常にあります。福音のたとえに登場する労働者たちが、炎天下で一日中働いた自分たちの努力を誇ったように、私たちも自分の功績を誇りたくなることがあります。

神を見いだすことは、確かに長い歩みです。聖パウロはそれを「戦い」と表現しています。「わたしは立派に戦い抜き、走るべき道を走り終え、信仰を守り抜きました」(二テモテ47)。神を見いだすためには、聖パウロのように福音にふさわしい生活を送り、信仰を忠実に育み、最後まで忍耐強く歩み続けることが大切です。

しかし、ぶどう園の労働者のたとえは、私たちに大切な真理を教えています。それは、救いは決して私たちの功績に対する報酬ではないということです。朝早くから働いた労働者たちは、働く前にまず主人から招かれたことを忘れていました。もし主人の呼びかけがなければ、彼らは仕事を見つけずに、いつまでも広場に立ったままだったでしょう。 

 私たちキリスト者の生活も、それが最近始まったものであれ、長く続いているものであれ、同じことが言えるでしょう。私たちは皆、神から招かれた者です。信仰に基づいて生きるために私たちが払ってきた努力は、すべて同じ報い、すなわち永遠の命をもたらします。それは神からの無償の贈り物です。お金で買えるものでも、給料のように稼げるものでもありません。

神は慈しみをもって、私たち一人ひとりをご自分の愛へと招き、御国へ入るよう呼びかけておられます。神の招きに応えるのに、「遅すぎる」ということは決してありません。ですから、私たちは報酬を求めるのではなく、神ご自身を求めましょう。なぜなら、神を見いだす者は、この世においても永遠においても、最大の宝を持つ者となるからです。アーメン。

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    年間第26主日  A年 2026927日   グイノ・ジェラール神父        

       エゼキエル18, 25-28    フィリピ 2, 1-11   マタイ 21, 28-32

二人の息子のたとえは、私たち自身の姿を映し出しています。私たちはしばしば、表面的には神のみ心に従っているように見えながら、実際には自分の利益だけに導かれていることがあります。私たちは神に「はい」と答えることができます。しかし、その「はい」が表面的で浅いものであり、深い回心によって育まれた心からの従順に基づいていないことがあります。そのような従順には確かな土台がありません。なぜなら、それは私たちの心の根にまで届かず、生き方そのものを変えることが全く出来ないからです。

第一朗読で預言者エゼキエルが非難しているのは、まさにこのように正しい道から離れてしまう生き方です。それは命に関わる問題です。この観点から見るならば、かつて放蕩な生活を送っていた人でも、自分の利益を求めることなくキリストに従う決心をするならば、神に救われ、私たちより先に神の国に入ることができるのです。イエスのたとえ話は、私たちに本当の危険を教え、それを理解する助けとなります。それは、一生涯、典礼的な行いや教会の活動に熱心に参加していても、心からの真のキリスト者にならないままで終わってしまう危険です。

 このように、始めは従わなかった不従順な息子が、後に従順へと導かれました。そして私たちにも信頼をもって自分自身をすべて神の御手に委ねるよう招いています。聖パウロは、フィリピ人への手紙の中で、キリストの模範、すなわち十字架の死に至るまで従順であったキリストの模範を思い起こさせ、神の国へと至る道を示しています。ですから、キリスト者の従順とは、単に掟に外面的に従うことではありません。従順は神に対する愛と信頼の行為です。イエスは父なる神に「はい」と言われただけではありません。その「はい」を、生涯の一瞬一瞬において生き抜き、ついにはご自分を完全にささげられました。それゆえ神はイエスを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです。

今日、主は私たち一人ひとりに、誠実な心で自分自身を見つめるよう招いておられます。実際、私たちはしばしば、たとえ話に出てくる二人の息子に似ています。私たちは時に神に多くのことを約束しながら、実際にはほとんど何も実行しません。また、時に神から離れてしまいますが、神の憐れみによって再び神の御心へと導かれるのです。
 
  福音の喜ばしい知らせは、「変わるには遅すぎることは決してない」ということです。神は人の心をご覧になり、回心してみ言葉を実践する人を、いつも喜んでくださいます。どうか聖霊の力によって、私たち一人ひとりが神の喜びの源となりますように。アーメン。

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       年間題27主日 A年  2026104日」  グイノ・ジェラール神父

           イザヤ 51-7     フィリピ 46-9    マタイ 2133-43 

 かつて、預言者イザヤは「主のぶどう畑とはイスラエルの民である」と語りました。しかし、キリストが来られて以来、私たちは、このぶどう畑が主の教会、すなわち私たち自身であることを知っています。

教会とは、まず石で造られた建物ではなく、神の民です。教会は礎石であるキリストの上に建てられ、洗礼を受けた一人ひとりが「生ける石」となって築き上げられています。私たちはそれぞれ、信仰と愛、そして福音への忠実さによって、神が人々の間に住まわれる霊的な住まいの建設に参与しているのです(参照:1ペトロ2, 45)。 

教会は神のぶどう園であり、そのぶどうの木はキリストです。父なる神は、私たちという枝を世話するぶどう園の農夫です。主のぶどう畑である教会は、信仰と愛のうちに深く根を張っています。そして、教会は、神への忠実さ、悔い改めの涙、そしてさまざまな試練によって耕され、神のみ言葉と教会の教えによって潤されます。このぶどう畑が実らせるぶどう酒はただ一つ、それは「恵み」のぶどう酒です。その恵みは人の心を喜びで満たし、永遠のいのちと真の幸福へと至る道を開いてくれます。

教会はまた、世界中の子どもたちの霊的な成長を愛情深く見守る母でもあります。それでは私たちは、この母である教会をどのように見ているでしょうか。私たちは、この母である教会に対して、どのような心で接しているでしょうか。 

 私たちは、教会の弱さや限界、あるいは教会に属する人々の過ちばかりに目を向けてしまいがちです。そのとき私たちは、教会が何よりもまずキリストご自身の業であることを忘れてしまいます。私たちは毎週のミサで「教会は聖なるものである」と信仰を宣言しています。しかし実際には、教会は日々回心へと招かれている罪人たちによって構成されています。だからこそ教会は、イエスから託された使命に忠実であり続けるため、絶えず自らを清め続けています。そのため、イエスは絶えず、その聖なる生き方を通して、私たちが模範とすべき人々を世に送り出しているのです。 

まさに今日、聖パウロは私たちにもそのように生きるよう勧めています。そうすれば、「人知をはるかに超える神の平和が、キリスト・イエスにおいて、あなたがたの心と考えを守ってくださいます」(参照:フィリピ4, 7)。この心の平和こそ、主のぶどう畑が結ぶ尊い実の一つなのです。

兄弟姉妹の皆さん、今日、私たちは自らに問いかけてみましょう。私たちの人生は、主のためにどのような実を結んでいるでしょうか。私たちは教会を支える「生ける石」となっているでしょうか。私たちはキリストというぶどうの木につながる枝として、人々のために実を結んでいるでしょうか。それとも、神から託された恵みを自分だけのものとして抱え込んでしまってはいないでしょうか。 

今日のミサ祭儀を通して、まことのぶどうの木であるキリストとの結びつきが新たにされ、主の教会への愛がいっそう深められますように。そして、御父が私たち一人ひとりに期待しておられる豊かな実を結ぶ恵みが与えられますように。アーメン。

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       年間第28主日 A年  20261011日  グイノ・ジェラール神父

      イザヤ256-9   フィリピ 412-14, 19-20    マタイ 221-14 

 今日、主は私たちをご自身の食卓へ招き、御子イエス・キリストの婚宴を、尽きることのない喜びのうちに祝うよう呼びかけておられます。私たちはこの招きにどのように応えるでしょうか。たとえ話に出てくる最初の招待客たちのように、もっともらしい理由を並べて断ってしまうのでしょうか。私たちは霊的なものへの飢えや渇きを失い、神が私たちのために用意してくださった永遠の宴を見過ごしてしまうのでしょうか。それとも、自分の弱さや罪への傾きを自覚しながらも、神の憐れみと慈しみを信頼し、喜びと希望をもって婚宴の席へと急いで向かうのでしょうか。 

教会は何世紀にもわたり、この神の招きを全世界に告げ知らせてきました。しかし、その招きはしばしば拒まれ、軽んじられ、追放され、さらには迫害されてきました。福音に仕える数え切れないほどの人々や、多くのキリスト者が、キリストへの忠実のために命をささげました。それでもなお、この招きは今も世界中に響き続けています。なぜなら、神の愛は決して人に呼びかけることをやめることがないからです。 

 私たち自身も、洗礼の日にいただいた婚礼の礼服を身にまとい、神の国の祝宴へと続く道を人々に示す証人、そして案内人とされました。この礼服は、キリストからいただいた新しいいのちを表しています。それは、信仰と愛、そして聖なる生き方に根ざした新しいいのちです。私たちが福音に従って生きるたびに、この礼服は人々の前にはっきりと現れ、私たちの生き方そのものが、より多くの人を神の国の喜びへと招くしるしとなるのです。

 私たちの言葉、行い、そして生き方は、神がすべての人を招いておられるこの祝宴の喜びを映し出しているでしょうか。私たちは、一人でも多くの人がこの婚礼の礼服を身にまとい、神を身近に感じ、その愛に包まれて生きることができるように、何をしているでしょうか。神は、すべての人がこの礼服を身にまとい、ご自身の喜びが満ちあふれることを心から望んでおられます。そして、御子イエスを見つめるとき、私たちも預言者イザヤの言葉を心から唱えることができるようにと願っておられます。「見よ、この方こそ私たちの神。私たちはこの方に希望を置き、この方は私たちを救ってくださった。この方こそ主。私たちはその救いを喜び祝い、心から喜び躍ろう」と。

 聖パウロもまた、どのような状況の中にあっても、私たちの希望と信仰はキリストによって支えられていることを教えています。彼はこう言います。「私を強めてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」と。聖体においてキリストをいただく人は、すでに主が共にいてくださる喜びに生きることを学び始めています。その喜びは、この世のものではなく、神の国へと私たちを導く永遠の喜びです。

実に、私たちはミサのたびにイエスの食卓へと招かれています。すべてのミサは、天の国で開かれる永遠の婚宴を前もって味わう恵みの時です。このことを心から理解するなら、聖体拝領の前に司祭が告げる言葉を、より深い感謝と喜びをもって受け止めるこ

とができるでしょう。「世の罪を取り除く神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。」この幸いな招きに、私たちがいつも喜んで「はい」と応えることができますように。アーメン。

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      年間29主日  A年  20261018日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 4514-6     1 テサロニケ11-5      マタイ2215-21

世界には、福音書に登場するファリサイ派の人々のように、他人をおとしめたり、挑発したりすることばかりに時間を費やす人がいます。イエスにとって、そのような人々偽善者であり、心のねじ曲がった邪悪な者です。同情的な態度を見せ、耳ざわりのよい言葉を使いながら、相手を動揺させるようなことを巧みにほのめかします。残念ながら、イエスのような知恵を持たない多くの人は、その罠にはまり、心の平安を失ってしまいます。

ファリサイ派の人々は、偽善的でありましたが、それでも彼らの言葉には、当時の人々がイエスについて抱いていたイメージがよく表れています。彼らは、イエスが真実を語り、神の道を正しく教え、誰にも左右されず、人を分け隔てなく扱われる方であることを認めていました。では、私たちはどうでしょうか。この問いに答えるためには、イエスが彼らに語られた言葉に耳を傾ける必要があります。

「神のものを神に返す」とは、すべての恵みの源であり、私たちに命と息と存在そのものを与えてくださる神に心を向けることです(参照:使徒1728)。神に心を向けるとき、私たちは第一の戒めである「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」を生きることができます。そして同時に、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の戒めも実践することができるのです(参照:マタイ2236-40)。

 ファリサイ派の人々は、「何が許され、何が許されないのか」を知りたいふりをしながら、実際にはイエスを罠にかけようとしていました。イエスは一枚の貨幣を見せるよう求めることで、彼ら見方を変え、心に潜む悪意を清めるように招かれました。本当に大切なのは、貨幣に皇帝の肖像が刻まれていることではなく、すべての人の心に神の肖像が刻まれていることです。そして神は、そこに愛の律法をも刻み込んでおられるのです(参照:エレミヤ3133)。

 主は、私たちが神の姿にかたどり、神に似せて造られた者であることを改めて自覚するよう招いておられます。イエスは、外見に惑わされず、目に見えるものだけで判断しない「信仰のまなざし」を持つよう私たちを招いておられます。ミサにるたびに、もし私たちが外見だけを見るなら、そこにはパンとぶどう酒しか見えません。しかし、信仰によって、私たちはそこに復活したキリストの御体と御血を認識することができます。聖体にあずかることは、まさにこの信仰のまなざしを養う訓練であり、信仰の教育です。パンとぶどう酒のうちにおられる主を見つめることを学び、ついには聖トマスとともに、感謝を込めて、「わたしの主、わたしの神よ。」と告白できるようになるのです。

私たちもイエスに、この信仰のまなざしを願い求めましょう。目に見えるものだけにとらわれることなく、この聖堂の中におられる主の現存に、より敏感で、より深く心を開くことができますように。そして、「神のものは神に返す」者として、私たちの信仰が、私たちの人生のすべてを委ねることのできる確かな岩であるイエス・キリストの内に、ますます深く根を下ろしていくことができますように。アーメン。

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       年間第30主日  A年  20261025日   グイノ・ジェラール神父

          出エジプト2220-26    1 テサロニケ 15-10    マタイ 2214-40 

見えない神を愛し、また、あまりにも身近にいる隣人を愛することは、いつも容易なことではありません。実際、神が望み、またお命じになるように、真に愛することができるよう、私たちは毎日、神に恵みを願わなければなりません。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、いつでも、どこでも愛する、それは本当に可能なのでしょうか。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも愛することを神は求めておられます。イエスご自身も、私たちにこう語っておられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(参照:ヨハネ1512)。

 神の愛は、私たちの信仰生活において最も大切なものです。私たちは、神を唯一無二の方で、神にふさわしい愛をもって愛することを学ばなければなりません。それは、自分自身の利益を求める愛ではなく、自分を与える愛です。このような愛を学ぶ人は、日々ますます神に似た者へと変えられていきます。

神の愛が私たちの心の中にとどまっているなら、隣人への愛が、実は神への愛の結果であることを容易に理解できます。神が私たちに無償で与えてくださった愛を味わった人は、その愛を隣人へと注ぎ出すことを学ばなければなりません。

私たちが神への愛の質と深さを自覚するための鏡となるのが、隣人です。 聖ヨハネは、私たちが毎日ともに生活している兄弟姉妹を愛さなければ、目に見えない神を愛することはできない、と教えています(参照:1ヨハネ420参照)。なぜなら、その兄弟姉妹もまた、神の似姿として、神にかたどられた存在だからです。

この主日の第一朗読は、神は人を分け隔てなさらないことを思い起こさせます。ユダヤ人も、移住してきた人も、皆、神の子であり、神は一人ひとりを見守っておられます。神は憐れみ深いお方です。そして、その神の憐れみは、私たち自身のものとならなければなりません。神がなさるように私たちも生きること、それが神の子である私たちキリスト者の召しだしなのです。

毎日、神に願いましょう。私たちの人生の中に注いでくださっている愛を受け入れる恵みをお与えください、と。そして、その愛が私たちの人生を完全に変えてくださるように、心を込めて祈り求めましょう。そうすれば、私たちもまた、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして神を愛することができるでしょう。 そして、自分自身を愛するように隣人を愛することもできるでしょう(参照:レビ記1918、マタイ2239)。 アーメン。
                        



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