グイノ神父の説教
| 2025~2026 A年 待降節 と四旬節 |
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待降節第1主日 A年 2025年11月30日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ2、1~5 ローマ13、11~14 マタイ 24、37~44
待降節は、まさに「待つ」時です。まず、キリストのご降誕を待ち望む時であり、同時に、世の終わりに栄光のうちに再臨するキリストを待つ時でもあります。この二つの期待の間に、私たちに与えられているのが「恵みの時」です。私たちが受けた信仰によって、三位一体の神とその偉大な神秘が、私たちの内に宿るようになりました。私たちに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもその人のうちにいる」(参照:ヨハネ 6, 56)とイエスは約束しました。
聖ヨハネにとって「とどまる」という言葉は、キリストとの生きた、絶え間ない交わりを意味します。この現存によって、わたしたちは実り豊かとなり、私たちの内に父と聖霊の臨在を確かなものにします。この恵みの時は、私たちを満たし、神の喜びにあふれる永遠の命に入る備えをしてくださいます。「よくやった、良い忠実な僕よ。主人の喜びをともに味わえ」(参照:マタイ 25, 21-23)。待降節は、私たちのうちに神の臨在を再発見し、神の喜びを味わうために私たちに与えられた時なのです。
待降節はまた、私たちを聖性への道に安全に導き、主の教えに従って歩む忠実さを強めてくれます。イエスは日々、私たちと共におられます。だからこそ、イエスに寄り添い、常にイエスを思い、あらゆる出来事、あらゆる出会いをイエスのまなざしの下で経験するよう努めましょう。今日の入祭唱の詩編24の言葉は、私たちがイエスのまなざしの下に留まる助けとなるでしょう。「主よ、あなたに向かってわたしの魂を高く上げます。わが神よ、あなたに依り頼みます。あなたを待ち望む者は、誰一人として失望することはありません」と。
この待降節の間、私たちは聖マリアを仰ぎ見ることができます。マリアは神のことばをその身に宿しました。彼女こそ、神のうちにとどまり、神もまた彼女のうちにとどまられた模範です。キリストにとどまるとは、その体である教会のうちにとどまることでもあります。
待降節は、神の言葉と教会の秘跡に支えられ、信仰と希望に結ばれ、共に歩むよう私たちを招きます。主を待ち望むとは、ただ何もせずにいることではなく、喜びをもって目を覚まし、積極的に生きることです。それは、日ごとに愛と赦しの業を行い、神の国がすでに私たちのただ中にあることを示すことです。
キリストの臨在によって養われ、目覚めて活動的になって、キリスト者は希望をもって、信仰に忠実であり続けようと努めます。わたしたちが聖体拝領によって受けるキリストのからだは、今この世に生きる私たちのうちに、永遠に神を愛するその愛をすでに形づくっています。
聖霊が私たちに「光の武具」(参照:ローマ 13, 12)を着せ、「終わりまで堅く立つことができるように」(参照:1コリント1, 8)、そして「非のうちどころのない聖なる者として、しっかりと立つことができるように」(参照:1テサロニケ 3, 13)と切に祈りましょう。アーメン。
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待降節第2主日 A年 2025年12月7日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 11,1-10 ローマ 15,4-9 マタイ 3,1-12
待降節第2主日にあたり、聖パウロは私たちに希望と忍耐、そして勇気を勧めています。待降節は希望の時です。その希望は、神が私たちにとってどのようなお方であるか、また私たちが神にとって本当にどのような存在であるかを知ることに基づいています。
私たちは神の似姿に造られ、愛される子どもとされています。神は私たちの父であり、御子イエスにおいて聖霊と天からのあらゆる祝福で満たしてくださいます。私たちの希望は神にあります。その希望はキリストに根ざしています(参照:ヘブライ 6,19)。キリスト者の希望は聖霊の賜物です。聖霊だけがそれを信じる人の心に深く根づかせ、生き生きとした、喜びと忍耐に満ちた力へと変えてくださいます。
だからこそ、聖パウロは私たちに忍耐を呼びかけているのです。人生に避けられない試練は、希望を失わせ、悲しみや落胆に陥らせるかもしれません。しかし神が私たちに与えた信仰は、山をも動かす力です。この信仰によって、私たちは絶えず襲いかかるあらゆる試練や障害を乗り越えることができます。必ず神は私たちと共にいて、救ってくださいます(参照:エレミヤ 30,11)。そしてイエスは約束されました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(参照:マタイ 24,13 )と。
希望は私たちに忍耐する勇気を与えます。聖パウロは、その勇気は聖書のみ言葉から与えられると教えています。それは、私たちが聖書を読み、また教会で聞く神の言葉です。また、私たちの共同体が神の眼差しの下で共に生きるために、この勇気は私たち一人ひとりに必要な喜びと平和を与えると、聖パウロはさらに教えています。
希望と忍耐と勇気は、私たちに忠実さの恵みを与えます。この忠実さは、イエスが示してくださる真理へと私たちを導きます(参照:ヨハネ 16,13 )。さらにこの忠実さは、私たちを絶えず回心へと導き、聖霊の実を結ぶ助けになります。
兄弟姉妹の皆さん、希望と忍耐と勇気は、ただ人間の努力ではなく、神の賜物であり、聖霊の実です。それは、私たちを信仰のうちにしっかりと立たせる力です。ですから、待降節のこの時、来られる主に心を向けましょう。そして今まさに、私たちは聖体のうちにご自身を与えてくださるイエスを迎えます。イエスこそ、私たちの希望であり、救いの力です。イエスの御体と御血にあずかることによって、私たちは忠実に生きる恵みを受け、そしてイエスが栄光のうちに来られるまで、聖霊の喜びのうちに日々歩むことができるのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは希望の巡礼者です。ですから忠実に歩み、私たちのランプの炎を燃やし守り続け、主が来られるときに備えましょう。そうすれば、私たちの生き方そのものが、世において真実な証しとなり、目に見える希望のしるしとなるでしょう。アーメン。
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待降節第3主日 A年 2025年12月14日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ35, 1-6、10 ヤコブ5, 7-10 マタイ11, 2-11
今日の朗読箇所は一見あまり明るさに満ちてはいませんが、この待降節第3主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれています。これは、この日のミサの入祭唱で唱えられる、フィリピの信徒への手紙の言葉によるものです
「主において常に喜びなさい」(参照:フィリピ, 4, 4)。待降節の典礼色は通常は紫ですが、この日はバラ色を用いることができます。それは、イエスの誕生が間近であることを喜び表すしるしです。
私たちの喜びは希望に根ざし、すでにクリスマスの慈しみ深い光をもたらしてくれます。もちろん、この喜びは人生の困難を無視するものではありません。苦しみを通り抜けながらも、神が約束を必ず果たしてくださるという確信に支えられています。
預言者イザヤはこう告げています。「喜び勇み、歌え。主の栄光が私たちに現れたからだ」(イザヤ35・2、12・6参照)。イザヤは、私たちが信頼と喜びをもって心を整え、神の光に包まれるように招いています。洗礼者ヨハネのように、私たちもまた光り輝く証人となるように召されています。なぜなら、キリスト者の生き方は宣教的で、輝きを放ち、人々を神へと導くものでなければならないからです。
預言者イザヤは良い知らせを告げました。「荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は喜び踊って花を咲かせる。」つまり神が来られるとき、どんなに乾いた場所、どんなに乾ききった心でさえも、再び花を咲かせることができます。イエスは、盲人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、口のきけない人を癒し、死者をよみがえらせることによって、このことを示してくださいました。 神が私たちに与えてくださる喜びは、内面的な喜びだけではなく、世界を変革し、すべての被造物を新たにする喜びです。
一方、使徒ヤコブは私たちに忍耐を勧めています。私たちはしばしば神にすぐに行動してほしいと願いますが、信仰の歩みには待つことが含まれます。本当の喜びは、神の忠実さに対する信頼から生まれます。神は必ずふさわしい時に、なすべきことを実現されるのです。
不当に投獄された洗礼者ヨハネは、イエスの応答に慰められました。神の国の福音は、イエスが癒したすべての人々に宣べ伝えられました。洗礼者ヨハネは、メシアの使命が成就していることを知り、喜びました。イエスはまさに、彼が到来を告げ知らせた方です。キリスト者の喜びは常に、癒し、赦し、慰め、そして救う生けるキリストとの出会いから生まれます。
この喜びは、神ご自身から力を得るため、試練と両立します。それは一時的な感情ではなく、神からの賜物です。もしそうであれば、イザヤのように、人生の荒廃が再び花開くことを信じましょう。聖ヤコブのように、人生の試練の中で忍耐を学びましょう。洗礼者ヨハネのように、イエスの行いと言葉の中に救いと永遠の喜びのしるしを見出しましょう。兄弟姉妹の皆さん、「主が近くにおられる。喜びましょう!」
アーメン。
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待降節第4主日 A年 2025年12月21日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 7, 10-16 ローマ1, 1-7 マタイ1,
18-24
今朝の聖書朗読では、メシアを「インマヌエル」「主イエス・キリスト」「イエス」と呼んでいます。これらの名前はどれも豊かな意味を持ち、私たちの信仰を養います。
最初の名前である「インマヌエル」という名は、預言者イザヤ書に記されており、「神は我らと共におられる」という意味です。この名前は、神がご自分の民の運命に対して遠く離れて無関心でいる方ではないこと、また、神は人々の間に留まり、人々と共に住まわれる型であることをしめしています。旧約聖書はこの絶え間ない臨在を証ししています。神は、たとえ人々が反抗したとしても、彼らに寄り添い、導き、支えてくださいます。アブラハム、モーセ、ダビデを通して結ばれた神の契約は、すべて忠実で忍耐強い愛のしるしです。イエスの誕生は、この約束を目に見える形で、具体的なものにしました。神は単に私たちと共に歩むのではなく、私たちの歴史の中で肉体となってくださいます。イエスにおいて、神は世の終わりまで、毎日、真に私たちと共におられるのです。
聖パウロはイエスの第二の名を私たちに与えています。それは「私たちの主、キリスト」です。聖パウロは、イエスが真の人であると同時に真の神であることを私たちに思い起こさせます。イエスは「神によって遣わされたキリスト」であると同時に、「私たちの主」、すなわち死に打ち勝った復活の主でもあります。私たちが信仰を告白するとき、「光からの光、まことの神からのまことの神」と言うのは、イエスが単なる預言者や賢者ではなく、神の永遠の御子であることを宣言しているのです。そして主であるがゆえに、私たちの命に対する権威を持っておられます。あらゆるミサにおいて、私たちはイエスの御体と御血に預かることによって、聖霊を通してイエスと一つにされます。イエスが私たちの主であるのは、私たちをその勝利と栄光にあずからせてくださるからです。
マタイによる福音書の中で、天使がヨセフに3つ目の名前「イエス」を教えます。これは「神は救う」という意味です。これは私たちの信仰の核心です。イエスは私たちを罪から救い、神と和解させるために来られました。イエスはみ言葉と癒しを通して救いを明らかにされますが、十字架上の死と復活を通して完全に成就されました。そして、そこに新しい王国、平和と愛の王国を築きます。イエスは私たちに寄り添うだけでなく、私たちを解放し、未来を切り開いてくださる方です。
兄弟姉妹の皆さん、私たちがクリスマスに祝う神秘を要約する三つの名があります。イエスは「インマヌエル」、すなわち「我らと共にいる神」です。イエスは「主」であり、生と死を支配する方です。イエスは「イエス」であり、私たちを救う方です。
待降節の終わりに、神がご自分の民と結ばれた多くの契約、特にキリストの血によって結ばれた最後の契約を思い起こすのは良いことです。救い主イエスは、私たちが神に目を向け、神へと至る道を忠実に歩むことを可能にしてくださいます。なぜなら、「私たちと共におられる」救いの神であるイエスこそが、まさにその「道」そのものだからです。
ですから、信仰と愛をもってイエスを迎えるために、心を整えましょう。イエスの誕生を待ち望む思いが生き生きと、また誠実でありますように。聖霊によって与えられる真の喜びと平和で満たされますように。そして、このミサ祭儀の終わりに歌う喜びの賛歌が、イエスを迎えたいと願う私たちの思いをいっそう深めてくれますように。アーメン。
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主の降誕(夜中のミサ)A年 2025年12月24日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 8,1-6 テトス 2,11-14 ルカ2,1-14
インマヌエル、私たちと共に留まる神であるイエスは、救い主であり贖い主です。その誕生の日からすでに、貧しさ、幼子の弱さ、そしてローマ帝国の圧政という政治的な緊張のただ中で、その姿を示されました。イエスの両親自身も、私たちと同じように社会的に脆弱な状況にあり、すでに危険や死の脅威がのしかかっていました。ですから、イエスは世の終わりまで、毎日私たちのそばに留ってくださいます。
神は御子を地上に生まれさせることによって、「この地は御子によって、御子のために創られた」(参照 : コロサイ1,16)ことを私たちに思い起こさせてくださいます。イエスの誕生は、天の平和と幸福を地上にもたらしました。この事実を天使たちはベツレヘムの羊飼いたちに告げ知らせ、同時に私たちにも伝えています。羊飼いたちの上に降り注ぐ神の栄光の大いなる光は、全人類を包み込みます。イエスにおいて現わされた救いの光は、私たちの生きるこの世界を守り、信じる私たちを「光の子」(参照:ヨハネ12。36参照)、「神の住まい」(参照:ヨハネ14、23参照)としてくださいます。これこそ今夜、私たちが心に留め、思い巡らし、神に感謝すべきことなのです。
クリスマスはイエスの誕生の祝い日だけでなく、私たち一人ひとりへの「新しい誕生」への招きでもあります。大人になったイエスはニコデモにこう言われました。「あなたがたは新たに生まれなければならない」(参照 : ヨハネ3、7)。これは、信じる者すべてが聖霊に導かれ、新しい命を心に宿すように招かれていることを意味します。私たちが聖パウロのように「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きている」(参照:ガラテヤ2。20)と告白できるように、主の誕生は私たちに迫ってきます。こうしてクリスマスは、神が御子を私たちの心に、そして何よりも私たちの具体的な生活の中に生まれさせてくださる時となるのです。
教父たちは言いました。「ベツレヘムで起こったことは、私たちの中にも起こらなければなりません。キリストが私たちの魂の中に生まれなければなりません。」そうです、私たちが信仰をもって望むなら、クリスマスは私たちの霊的な新生の日となり得ます。クリスマスは、信仰を新たにし、心をより広げて神の光を受け入れるために、私たちが新たに生まれ変わるよう招いています。私たちキリスト者は、この世にあって「光の子」として生きることを求められているからです。
兄弟姉妹の皆さんのために、幸せで聖なるクリスマスを心より祈り望みます。幼子イエスを通して私たちに託された神の愛が、私たちを神の喜びと平和で満たし、完全に新しくしてくださいますように。神の聖なる光の中で、私たち自身が出会うすべての人にとって喜びと平和の溢れる泉となりましょう。さらに,聖母マリアと天使たちがあなたを守り、導き、祝福してくださいますようにお祈りいたします。アーメン。
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創世記 2,
7-3,7 ローマ 5,
12-19 マタイ 4, 1-11
「もし神が存在しなければ、すべてが許される」とロシアの作家ドストエフスキーは書きました。人が神を無視して、神から離れると、良心の声に耳を傾けなくなり、「悪いこと」を「良いこと」と呼ぶようになってしまいます。その結果、嘘や軽蔑、詐欺、暴力、無関心といった、人を傷つける行動が増えていきます。
また、安楽死や中絶や麻薬の使用などが、いくつかの国では合法化されているので、自分を責めずにすむ状況になっています。また、偽のニュースを作り拡散することや、店で万引きをすること、虚偽の提案で人を騙すことなどが、現代社会ではゆがんだ習慣になりつつあります。さらに、他人の身元情報やクレジットカード番号を盗み、他人を犠牲にして私腹を肥やすという行為は、身元を隠しての犯罪者たちにとって常套手段となっています。
これらすべては、悪が私たちの中に入り込み、善のみが神に宿ることを証明しています。だからこそ、今日の神の言葉は、この状況が決して新しいものではないことを私たちに思い出させます。創世記は、人が神の声に耳を傾けなくなったとき、悪が人の心に生まれ、芽生えることを私たちに示しています。アダムとエバは一瞬にして、突然悪人になったわけではありません。すべては、神の善良さを疑うことから始まり、やがて自分たちで律法を定め、善悪を自ら定義するようになりました。蛇は彼らに自由を約束しましたが、彼らは最終的に恥と分裂を刈り取りました。これは常に同じです。神から遠く離れたところでは、自由は幻となり、人間は自らを傷つけるのです。
聖パウロはローマの信徒への手紙の中で、この傷が単なる個人的なものではなく、人類全体を貫いていることを示しています。「一人一人によって罪が世に入り」と書かれているとおり、しつこい病のように、悪は世代から世代へと姿を変えて現れ続けます。しかし、そのような状況に対して、聖パウロは一つの良い知らせを告げます。「罪が増したところには、恵はなお一層満ち溢れた。」つまり、神は私たちの弱さをあきらめるのではなく、それを癒すために来てくださるということです。
だからこそ、今日の福音は荒れ野のイエスを私たちに示しています。アダムが屈服したところで、イエスは抵抗しました。最初の人間が疑ったところで、イエスは信じました。誘惑者はイエスに三つの安易な道を提示します。所有、権力、栄光…
しかし、イエスはサタンの誘惑を退けます。真の自由とは、自分のしたいようにすることではなく、神が望まれるように愛することだと知っているからです。悪魔は神なしの人生をイエスに提示しますが、イエスはそれを拒みました。なぜなら、イエスは私たちと神とのつながり、そして人類の始まり以来罪によって破壊されてきたすべてのものを回復し、強めるために来られたからです。
兄弟姉妹の皆さん、四旬節は神が私たちにこう語りかける時です。「わたしがあなたを命へと導こう。もはやあなたを傷つけるものを選ぶのではなく、真の幸福へと導くものを選びなさい。悪は決して最後の言葉を持つことはない。」イエスは生涯を通して、悪に打ち勝つ道は、神の声に耳を傾け、神の言葉によって心を照らされ、真に善いものを見分ける心にあることを示してくださいました。
ですから、この四旬節の初めにあたり、誘惑に抵抗し、善の味わいを再発見し、神が私たちの内に新しい心を創造してくださる恵みを祈り求めましょう。そして、愛は悪よりも、死よりも強いことを理解しましょう。アーメン。
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四旬節第2主日 A年 2026年3月1日 グイノ・ジェラール神父
創世記 12,
1-4 2テモテ
1, 8-10 マタイ
17, 1-9
生きている間にだれも見たことのなかった神は、御子の顔とその衣において、ご自分の栄光を現されました。人となられたイエスにおいて、またその御声を通して、神は私たちに命の言葉をお与えになりました。肉となったこの御言葉は、私たちを罪から解き放ち、光へと導き、聖霊の豊かな恵みで満たしてくださいます。それゆえ神は、イエスの変容を目の当たりにした三人の弟子たちに、イエスの言葉に注意深く耳を傾けるよう求められたのです。
その理由は、イエスが神の御子であり、神のすべての愛がその方のうちにあるからです。イエスを神の御子、また神の御言葉として受け入れるとき、私たちは父なる神の愛の満ちあふれる恵みを自分の内に受けることになります。預言者エリヤとモーセは、神が弟子たち、そしてイエスを信じるすべての人に示された啓示の証人です。イエスを信じることによって、私たちもまた神の子となり、すべての人のための祝福の源となることができるのです(参照:創世記12、2)。
今日、聖パウロは、神が御子イエス・キリストにおいて私たちにお与えになるこの恵みについて説明しています。この恵みは、永遠の救いの源であると同時に、聖なる召命でもあります。実にこの恵みは、私たちをイエスの証人とし、宣教者として自分の生活のあり方を通して周囲の人々に福音の喜びを告げ知らせるために、私たちを遣わします。
この四旬節の間、信仰と神への理解を新たにするよう努めましょう。これから迎える主日の朗読を通して、イエスは、「生ける水の泉」として、「目の光」として、「復活と永遠の命」として、ご自分を現してくださいます。祈りと悔い改めの業によって、これらの神秘をより深く味わうようにしましょう。私たちの信仰そのものも聖なる神秘です。そのために、世界中で洗礼を受ける準備をしている求道者のために祈ることがとても大切です。
兄弟姉妹の皆さん、イエスの変容は、信仰とは単にキリストを見つめることだけではなく、特に、注意深く御言葉に耳を傾け、主に従って歩むことであることを思い起こさせてくれます。新たな注意をもって、神の御言葉に耳を傾けましょう。御言葉だけが、私たちの人生を変え、聖霊の喜びに満たされた証人とし、神の栄光とすべての人の救いを証しすることができるからです。アーメン。
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四旬節第3主日 A年 2026年3月8日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト17,3-7 ローマ 5,1-2、5=8
ヨハネ 4,5-42
イエスは生ける水の泉です。すでに預言者イザヤは、希望に満ちたこの呼びかけを告げていました。「渇いている者は皆、水のところに来なさい」(参照:イザヤ55・1)。この招きは、イエスにおいて成就します。イエスご自身が、今日の福音の中で力強く語っておられます。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人の内で永遠の命に至る泉となってわき出る」(参照:ヨハネ4、13-14)。
しかし、私たちはイエスの約束を本当に信じているでしょうか。この招きは、私たちの心を喜びで満たしているでしょうか。イエスをもっと深く知り、信頼し、イエスによって造り変えられたいという願いを、私たちの内に呼び覚ましているでしょうか。荒れ野において、イスラエルの民は渇きに苦しみ、神の臨在を疑いました。「主は、私たちの中におられるのか、それともおられないのか」(参照:出エジプト記17、7)。それでも神は、ご自分の民をお見捨てになりませんでした。神は岩から水を湧き出させ、その忠実さと忍耐t強い愛を示されたのです。
荒れ野で与えられたこの水は、すでに、さらに深い別の水、すなわちイエスが世に与えられる水を予告しています。福音の中で、サマリアの女はヤコブの井戸に水を汲みに来て、イエスと出会います。この出会いは、彼女の人生を大きく変えました。彼女は使者となり、証人となって、自分の心を変えてくださった方を、人々に告げ知らせるようになります。
兄弟姉妹の皆さん、毎回の聖体祭儀において、イエスは同じように私たちのもとに来てくださいます。イエスは復活されたご自分の御体のパンと、永遠のいのちの水を、私たちに与えてくださいます。しかし、私たちはこれらの賜物によって、イエスと深く結ばれていることに、感謝しているでしょうか。
聖パウロはこう思い起こさせてくれます。「神の愛は、わたしたちに与えられた聖霊によって、わたしたちの心に注がれています」(参照:ローマ5、5)。これは私たちが洗礼を受けたその日に実現したことです。この聖霊こそ、イエスが絶えず私たちの心に注ぎ続けておられる生ける水です。聖霊は、試練のただ中にあっても、私たちを愛し、赦し、希望をもって生きることのできる者へと造り変えてくださいます。私たちの希望は、自分の功績ではなく、神の無償で誠実な愛に基づいています。
この四旬節の時、心を開いて、私たちの心を真に潤すことのできるこの生ける水を、イエスに願い求めましょう。イエスとともに、私たちは地の塩、世の光とされ、さらに、兄弟姉妹のために生ける水の泉となるよう招かれています。それゆえ、すべての人に差し出されている神の愛を、私たちの生き方を通して証しすることができるよう願いながら、神に感謝をささげましょう。この証しが、私たちの心を喜びで満たしてくれますように。アーメン。
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四旬節第4主日 A年 2026年3月15日 グイノ・ジェラール神父
イエスは、私たちの暗闇を照らし、私たちを「光の子」とするために、この世に来られました。イエスは、目の見えない人を癒し、罪を赦すことによって、ご自分こそが信仰の光、いのちの光であることを示されます。イエスはまさに、私たちの歩みを神へと導くために必要な光です。
私たちの目は、しばしば偏見や高慢、ねたみ、赦さない心によって曇らされています。だからこそ、イエスに、私たちの目を開き、私たちのまなざしを清めてくださるよう、たびたび願わなければなりません。詩編36編10節に「あなたの光によって、わたしたちは光を見る」とあります。これは、人間は神なしでは世界も自分自身も真に理解できないことを意味します。「神の光の中で見る」とは、自分の限界ではなく、神の真理に従って見ることです。イエスは父なる神を啓示するまことの光です(ヨハネ1,9と8,12参照)。イエスを信じることは、確かに、知性と心を照らし、真理へと人を導きます。
福音書は、視力を取り戻した盲人が、徐々にイエスへの信仰に目覚めていった様子を描いています。彼は、自分の言うことを聞こうとせず、軽蔑し、ついには追い出した人々の前でも、恐れることなく、公然とその信仰を告白しました。
この生まれつきの盲人の歩みは、すべてのキリスト者の歩みでもあります。信仰とは、まずイエスとの出会いから始まり、私たちのまなざしと心を少しずつ変えていく、生きた関係です。これに対して、ファリサイ派の人々は自分たちを見える者だと思い込み、自らの盲目の中に閉じこもっています。イエスは、この盲人を罪人としてではなく、神の光のしるしとなるよう召された人としてご覧になりました。光を受けるだけでなく、光の中を歩み、言葉と行いを光に照らして生きることが大切なのです。キリストの光は、その実、すなわち善良、正義、そして真実によって認識されます。
喜びの主日であるこの四旬節のただ中にあって、教会は私たちに勇気を取り戻し、キリストの光を受け、それによって生きるように招いています。私たちは、言葉と行いによってキリストを映し出さなければなりません。たとえ私たちの目がまだ曇っていても、信仰が弱くても、キリストは決して私たちに会いに来ることをやめません。主は、私たちがいるその場所に来て光を与え、私たち一人ひとりにこう語りかけてくださいます。「あなたは人の子を信じるか。あなたを闇から解き放ち、光ある者とするために来た、わたしを信じるか」と。
謙虚なまなざしを授けてくださるように、主に祈り求めましょう。それは私たちに、霊的な光が欠けていることに気づくためのものです。さらに、私たちの内なる盲目を癒してくださるよう、イエスに願いましょう。その恵みによって新たにされ、暗闇に包まれているこの世界のただ中で、希望の証人として、真の「光の子」として復活祭へと歩んでいくことができますように。アーメン。
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四旬節5主日 A年 2026年3月22日 グイノ・ジェラール神父
エゼキエル 37,
12-14 ローマ 8, 8-11 ヨハネ 11, 1-45
典礼で示されているこれらの聖書の言葉は、すべて復活について語っています。復活は、私たちの信仰と希望の中心です。しかし、私たちにとってそれは、多くの場合、遠い未来に約束された出来事として受け取られています。その日まで、その日を待っている間に、私たちは絶えず死の現実に直面しており、いつか必ず死が私たちの扉をたたく時が来ることを知っています。
第一朗読は、預言者エゼキエルの書から取られていて、私たちを絶望の状況へと導きます。イスラエルの民は捕囚の地にあり、自分たちの土地も神殿も、そして信仰のよりどころさえも奪われていました。彼らはまるで死んだような存在、干からびた骨のように感じていました。人間がもはや閉ざされた未来しか見いだせなくなったその場所で、神は新しい道を開かれます。実に神は、再び命の息吹と希望を与えることのできるご自分の霊を約束されます。神はこう宣言されます。「見よ、わたしはお前たちの墓を開き、わたしの民よ、お前たちを墓から引き上げる。」 この言葉は、今日私たちが理解しているような個人の復活をまだ告げていませんが、すでにきわめて重要な真理を示しています。それは、神は命の神であり、死に打ち勝たれる方である、ということです。
聖パウロはローマ人への手紙の中で、イエスを死から蘇らせた神の霊が、すでに私たちの内に宿っていると断言しています。聖パウロにとって、復活は単なる未来の現実ではなく、イエスを信じたその瞬間から、すでに始まっているのです。確かに、私たちは今なお、自分の限界や弱さ、そして罪を経験しています。しかし聖パウロは、聖霊が私たちの内にとどまり、絶えず働いて、私たちを新しい人へと造り変えてくださっていることを思い起こさせてくれます。
この日曜日の福音を通して、イエスはご自身の深い人間性を現されます。イエスは、友であるラザロの死を前にして涙を流されました。しかし同時に、イエスはご自分を「復活であり、命である」と啓示されます。
この福音の物語は、私たち一人ひとりに関わるものです。実際、私たちはしばしば、心の中の墓に自分自身を閉じこめてしまいます。恐れや落胆、恨み、敗北感、無力感、そして私たちを麻痺させるさまざまな習慣です。そのような私たち一人ひとりに、イエスの言葉が響きます。「自分の殻から出なさい」と。イエスは、私たちを縛りつけているものから解き放たれ、より自由で、より兄弟的で、より信頼に満ちた生き方へ入るように呼びかけておられます。さらにイエスは、私たち一人ひとりに使命を託されます。「人を縛るものをほどいて、行かせなさい」と。私たちは互いに支え合い、立ち上がって生きることができるように助け合い、神と隣人へと向かう歩みを妨げ、私たちを縛っているものから互いを解放するよう招かれているのです。
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枝の主日 A年 2026年3月29日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ50. 4-7 フィリピ 2, 6-11 マタイ 26, 14 – 27,65
四旬節の四十日間、私たちは祈り、悔い改め、そして分かち合いによって心を整えてきました。今日、私たちは聖週間の初めに集い、全教会とともに過越の神秘の祭儀を始めます。
私たちが持つ祝福されたシュロの枝は、イエスの受難と、罪と死に対するその勝利に従って歩みたいという、私たちの願いを表しています。シュロの枝の緑色は、キリストによって完全に新たにされたいという私たちの希望と願いを象徴しています。司祭の祭服の赤は、神の無限の愛とキリストの受難の苦しみの両方を表しています。また、私たちがキリストの血によって贖われたことを思い起こさせます。
「ホサナ!」という喜びの叫びで始まるこの一週間は、「アレルヤ」の賛歌で締めくくられます。これは、キリストの受難が神に栄光を帰すものであることを示しています。なぜなら、それはすべての人が救われることを望む神の御心だからです。
受難の物語の長い朗読は、私たちをイエスのそばで、より深く生きるように招いています。聖週間は、キリスト教の典礼の頂点の時です。神のあわれみとゆるしで私たちを包み、聖霊の力と光を心に与えてくださる十字架の神秘を、あらためて見つめ、礼拝しましょう。
さあ、イエスを通して復活の力と永遠の命の栄光を与えてくださる神に感謝を捧げ、心から「ホサナ」を歌いましょう。アーメン。