グイノ神父の説教
| 2025~2026 A年 待降節 と四旬節 |
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待降節第1主日 A年 2025年11月30日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ2、1~5 ローマ13、11~14 マタイ 24、37~44
待降節は、まさに「待つ」時です。まず、キリストのご降誕を待ち望む時であり、同時に、世の終わりに栄光のうちに再臨するキリストを待つ時でもあります。この二つの期待の間に、私たちに与えられているのが「恵みの時」です。私たちが受けた信仰によって、三位一体の神とその偉大な神秘が、私たちの内に宿るようになりました。私たちに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもその人のうちにいる」(参照:ヨハネ 6, 56)とイエスは約束しました。
聖ヨハネにとって「とどまる」という言葉は、キリストとの生きた、絶え間ない交わりを意味します。この現存によって、わたしたちは実り豊かとなり、私たちの内に父と聖霊の臨在を確かなものにします。この恵みの時は、私たちを満たし、神の喜びにあふれる永遠の命に入る備えをしてくださいます。「よくやった、良い忠実な僕よ。主人の喜びをともに味わえ」(参照:マタイ 25, 21-23)。待降節は、私たちのうちに神の臨在を再発見し、神の喜びを味わうために私たちに与えられた時なのです。
待降節はまた、私たちを聖性への道に安全に導き、主の教えに従って歩む忠実さを強めてくれます。イエスは日々、私たちと共におられます。だからこそ、イエスに寄り添い、常にイエスを思い、あらゆる出来事、あらゆる出会いをイエスのまなざしの下で経験するよう努めましょう。今日の入祭唱の詩編24の言葉は、私たちがイエスのまなざしの下に留まる助けとなるでしょう。「主よ、あなたに向かってわたしの魂を高く上げます。わが神よ、あなたに依り頼みます。あなたを待ち望む者は、誰一人として失望することはありません」と。
この待降節の間、私たちは聖マリアを仰ぎ見ることができます。マリアは神のことばをその身に宿しました。彼女こそ、神のうちにとどまり、神もまた彼女のうちにとどまられた模範です。キリストにとどまるとは、その体である教会のうちにとどまることでもあります。
待降節は、神の言葉と教会の秘跡に支えられ、信仰と希望に結ばれ、共に歩むよう私たちを招きます。主を待ち望むとは、ただ何もせずにいることではなく、喜びをもって目を覚まし、積極的に生きることです。それは、日ごとに愛と赦しの業を行い、神の国がすでに私たちのただ中にあることを示すことです。
キリストの臨在によって養われ、目覚めて活動的になって、キリスト者は希望をもって、信仰に忠実であり続けようと努めます。わたしたちが聖体拝領によって受けるキリストのからだは、今この世に生きる私たちのうちに、永遠に神を愛するその愛をすでに形づくっています。
聖霊が私たちに「光の武具」(参照:ローマ 13, 12)を着せ、「終わりまで堅く立つことができるように」(参照:1コリント1, 8)、そして「非のうちどころのない聖なる者として、しっかりと立つことができるように」(参照:1テサロニケ 3, 13)と切に祈りましょう。アーメン。
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待降節第2主日 A年 2025年12月7日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 11,1-10 ローマ 15,4-9 マタイ 3,1-12
待降節第2主日にあたり、聖パウロは私たちに希望と忍耐、そして勇気を勧めています。待降節は希望の時です。その希望は、神が私たちにとってどのようなお方であるか、また私たちが神にとって本当にどのような存在であるかを知ることに基づいています。
私たちは神の似姿に造られ、愛される子どもとされています。神は私たちの父であり、御子イエスにおいて聖霊と天からのあらゆる祝福で満たしてくださいます。私たちの希望は神にあります。その希望はキリストに根ざしています(参照:ヘブライ 6,19)。キリスト者の希望は聖霊の賜物です。聖霊だけがそれを信じる人の心に深く根づかせ、生き生きとした、喜びと忍耐に満ちた力へと変えてくださいます。
だからこそ、聖パウロは私たちに忍耐を呼びかけているのです。人生に避けられない試練は、希望を失わせ、悲しみや落胆に陥らせるかもしれません。しかし神が私たちに与えた信仰は、山をも動かす力です。この信仰によって、私たちは絶えず襲いかかるあらゆる試練や障害を乗り越えることができます。必ず神は私たちと共にいて、救ってくださいます(参照:エレミヤ 30,11)。そしてイエスは約束されました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(参照:マタイ 24,13 )と。
希望は私たちに忍耐する勇気を与えます。聖パウロは、その勇気は聖書のみ言葉から与えられると教えています。それは、私たちが聖書を読み、また教会で聞く神の言葉です。また、私たちの共同体が神の眼差しの下で共に生きるために、この勇気は私たち一人ひとりに必要な喜びと平和を与えると、聖パウロはさらに教えています。
希望と忍耐と勇気は、私たちに忠実さの恵みを与えます。この忠実さは、イエスが示してくださる真理へと私たちを導きます(参照:ヨハネ 16,13 )。さらにこの忠実さは、私たちを絶えず回心へと導き、聖霊の実を結ぶ助けになります。
兄弟姉妹の皆さん、希望と忍耐と勇気は、ただ人間の努力ではなく、神の賜物であり、聖霊の実です。それは、私たちを信仰のうちにしっかりと立たせる力です。ですから、待降節のこの時、来られる主に心を向けましょう。そして今まさに、私たちは聖体のうちにご自身を与えてくださるイエスを迎えます。イエスこそ、私たちの希望であり、救いの力です。イエスの御体と御血にあずかることによって、私たちは忠実に生きる恵みを受け、そしてイエスが栄光のうちに来られるまで、聖霊の喜びのうちに日々歩むことができるのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは希望の巡礼者です。ですから忠実に歩み、私たちのランプの炎を燃やし守り続け、主が来られるときに備えましょう。そうすれば、私たちの生き方そのものが、世において真実な証しとなり、目に見える希望のしるしとなるでしょう。アーメン。
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待降節第3主日 A年 2025年12月14日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ35, 1-6、10 ヤコブ5, 7-10 マタイ11, 2-11
今日の朗読箇所は一見あまり明るさに満ちてはいませんが、この待降節第3主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれています。これは、この日のミサの入祭唱で唱えられる、フィリピの信徒への手紙の言葉によるものです
「主において常に喜びなさい」(参照:フィリピ, 4, 4)。待降節の典礼色は通常は紫ですが、この日はバラ色を用いることができます。それは、イエスの誕生が間近であることを喜び表すしるしです。
私たちの喜びは希望に根ざし、すでにクリスマスの慈しみ深い光をもたらしてくれます。もちろん、この喜びは人生の困難を無視するものではありません。苦しみを通り抜けながらも、神が約束を必ず果たしてくださるという確信に支えられています。
預言者イザヤはこう告げています。「喜び勇み、歌え。主の栄光が私たちに現れたからだ」(イザヤ35・2、12・6参照)。イザヤは、私たちが信頼と喜びをもって心を整え、神の光に包まれるように招いています。洗礼者ヨハネのように、私たちもまた光り輝く証人となるように召されています。なぜなら、キリスト者の生き方は宣教的で、輝きを放ち、人々を神へと導くものでなければならないからです。
預言者イザヤは良い知らせを告げました。「荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は喜び踊って花を咲かせる。」つまり神が来られるとき、どんなに乾いた場所、どんなに乾ききった心でさえも、再び花を咲かせることができます。イエスは、盲人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、口のきけない人を癒し、死者をよみがえらせることによって、このことを示してくださいました。 神が私たちに与えてくださる喜びは、内面的な喜びだけではなく、世界を変革し、すべての被造物を新たにする喜びです。
一方、使徒ヤコブは私たちに忍耐を勧めています。私たちはしばしば神にすぐに行動してほしいと願いますが、信仰の歩みには待つことが含まれます。本当の喜びは、神の忠実さに対する信頼から生まれます。神は必ずふさわしい時に、なすべきことを実現されるのです。
不当に投獄された洗礼者ヨハネは、イエスの応答に慰められました。神の国の福音は、イエスが癒したすべての人々に宣べ伝えられました。洗礼者ヨハネは、メシアの使命が成就していることを知り、喜びました。イエスはまさに、彼が到来を告げ知らせた方です。キリスト者の喜びは常に、癒し、赦し、慰め、そして救う生けるキリストとの出会いから生まれます。
この喜びは、神ご自身から力を得るため、試練と両立します。それは一時的な感情ではなく、神からの賜物です。もしそうであれば、イザヤのように、人生の荒廃が再び花開くことを信じましょう。聖ヤコブのように、人生の試練の中で忍耐を学びましょう。洗礼者ヨハネのように、イエスの行いと言葉の中に救いと永遠の喜びのしるしを見出しましょう。兄弟姉妹の皆さん、「主が近くにおられる。喜びましょう!」
アーメン。
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待降節第4主日 A年 2025年12月21日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 7, 10-16 ローマ1, 1-7 マタイ1,
18-24
今朝の聖書朗読では、メシアを「インマヌエル」「主イエス・キリスト」「イエス」と呼んでいます。これらの名前はどれも豊かな意味を持ち、私たちの信仰を養います。
最初の名前である「インマヌエル」という名は、預言者イザヤ書に記されており、「神は我らと共におられる」という意味です。この名前は、神がご自分の民の運命に対して遠く離れて無関心でいる方ではないこと、また、神は人々の間に留まり、人々と共に住まわれる型であることをしめしています。旧約聖書はこの絶え間ない臨在を証ししています。神は、たとえ人々が反抗したとしても、彼らに寄り添い、導き、支えてくださいます。アブラハム、モーセ、ダビデを通して結ばれた神の契約は、すべて忠実で忍耐強い愛のしるしです。イエスの誕生は、この約束を目に見える形で、具体的なものにしました。神は単に私たちと共に歩むのではなく、私たちの歴史の中で肉体となってくださいます。イエスにおいて、神は世の終わりまで、毎日、真に私たちと共におられるのです。
聖パウロはイエスの第二の名を私たちに与えています。それは「私たちの主、キリスト」です。聖パウロは、イエスが真の人であると同時に真の神であることを私たちに思い起こさせます。イエスは「神によって遣わされたキリスト」であると同時に、「私たちの主」、すなわち死に打ち勝った復活の主でもあります。私たちが信仰を告白するとき、「光からの光、まことの神からのまことの神」と言うのは、イエスが単なる預言者や賢者ではなく、神の永遠の御子であることを宣言しているのです。そして主であるがゆえに、私たちの命に対する権威を持っておられます。あらゆるミサにおいて、私たちはイエスの御体と御血に預かることによって、聖霊を通してイエスと一つにされます。イエスが私たちの主であるのは、私たちをその勝利と栄光にあずからせてくださるからです。
マタイによる福音書の中で、天使がヨセフに3つ目の名前「イエス」を教えます。これは「神は救う」という意味です。これは私たちの信仰の核心です。イエスは私たちを罪から救い、神と和解させるために来られました。イエスはみ言葉と癒しを通して救いを明らかにされますが、十字架上の死と復活を通して完全に成就されました。そして、そこに新しい王国、平和と愛の王国を築きます。イエスは私たちに寄り添うだけでなく、私たちを解放し、未来を切り開いてくださる方です。
兄弟姉妹の皆さん、私たちがクリスマスに祝う神秘を要約する三つの名があります。イエスは「インマヌエル」、すなわち「我らと共にいる神」です。イエスは「主」であり、生と死を支配する方です。イエスは「イエス」であり、私たちを救う方です。
待降節の終わりに、神がご自分の民と結ばれた多くの契約、特にキリストの血によって結ばれた最後の契約を思い起こすのは良いことです。救い主イエスは、私たちが神に目を向け、神へと至る道を忠実に歩むことを可能にしてくださいます。なぜなら、「私たちと共におられる」救いの神であるイエスこそが、まさにその「道」そのものだからです。
ですから、信仰と愛をもってイエスを迎えるために、心を整えましょう。イエスの誕生を待ち望む思いが生き生きと、また誠実でありますように。聖霊によって与えられる真の喜びと平和で満たされますように。そして、このミサ祭儀の終わりに歌う喜びの賛歌が、イエスを迎えたいと願う私たちの思いをいっそう深めてくれますように。アーメン。
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主の降誕(夜中のミサ)A年 2025年12月24日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 8,1-6 テトス 2,11-14 ルカ2,1-14
インマヌエル、私たちと共に留まる神であるイエスは、救い主であり贖い主です。その誕生の日からすでに、貧しさ、幼子の弱さ、そしてローマ帝国の圧政という政治的な緊張のただ中で、その姿を示されました。イエスの両親自身も、私たちと同じように社会的に脆弱な状況にあり、すでに危険や死の脅威がのしかかっていました。ですから、イエスは世の終わりまで、毎日私たちのそばに留ってくださいます。
神は御子を地上に生まれさせることによって、「この地は御子によって、御子のために創られた」(参照 : コロサイ1,16)ことを私たちに思い起こさせてくださいます。イエスの誕生は、天の平和と幸福を地上にもたらしました。この事実を天使たちはベツレヘムの羊飼いたちに告げ知らせ、同時に私たちにも伝えています。羊飼いたちの上に降り注ぐ神の栄光の大いなる光は、全人類を包み込みます。イエスにおいて現わされた救いの光は、私たちの生きるこの世界を守り、信じる私たちを「光の子」(参照:ヨハネ12。36参照)、「神の住まい」(参照:ヨハネ14、23参照)としてくださいます。これこそ今夜、私たちが心に留め、思い巡らし、神に感謝すべきことなのです。
クリスマスはイエスの誕生の祝い日だけでなく、私たち一人ひとりへの「新しい誕生」への招きでもあります。大人になったイエスはニコデモにこう言われました。「あなたがたは新たに生まれなければならない」(参照 : ヨハネ3、7)。これは、信じる者すべてが聖霊に導かれ、新しい命を心に宿すように招かれていることを意味します。私たちが聖パウロのように「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きている」(参照:ガラテヤ2。20)と告白できるように、主の誕生は私たちに迫ってきます。こうしてクリスマスは、神が御子を私たちの心に、そして何よりも私たちの具体的な生活の中に生まれさせてくださる時となるのです。
教父たちは言いました。「ベツレヘムで起こったことは、私たちの中にも起こらなければなりません。キリストが私たちの魂の中に生まれなければなりません。」そうです、私たちが信仰をもって望むなら、クリスマスは私たちの霊的な新生の日となり得ます。クリスマスは、信仰を新たにし、心をより広げて神の光を受け入れるために、私たちが新たに生まれ変わるよう招いています。私たちキリスト者は、この世にあって「光の子」として生きることを求められているからです。
兄弟姉妹の皆さんのために、幸せで聖なるクリスマスを心より祈り望みます。幼子イエスを通して私たちに託された神の愛が、私たちを神の喜びと平和で満たし、完全に新しくしてくださいますように。神の聖なる光の中で、私たち自身が出会うすべての人にとって喜びと平和の溢れる泉となりましょう。さらに。聖母マリアと天使たちがあなたを守り、導き、祝福してくださいますようにお祈りいたします。アーメン。
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