グイノ神父の説教

 

2026 A年

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       年間第2主日A 年 キリスト教一致祈祷週間 2026118日  グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ 3, 5-6     1コリント 1, 1-3     ヨハネ1, 29-34

私たち一人ひとりは、神からの賜物であり、神の目にはかけがえのない存在です。私たちは、生まれたときに与えられた「人間としての命」と、洗礼の日に授けられた「神のいのち」によって、そのことを証ししています。神は永遠の昔から、私たちがこの世界のこの時代に生まれることを望まれ、さらに、私たちが今住んでいるこの場所でキリスト者として生きることを望まれました。

神の御心は、私たちが皆、キリスト・イエスにおいて聖なる者となることです。聖パウロがコリントの信徒への手紙の冒頭で述べているように、それが神の望みなのです。しかし、私たちは他のことに忙しすぎるので、聖なる者となることをあまり考えないことが多いかもしれません。けれども、洗礼によって私たちは「地の塩」、「世の光」(参照:マタイ5, 13–14)とされたのです。それは、「神の救いが地の果てにまで届くように」と語るイザヤの預言のとおりです 

今日から「キリスト教一致祈祷週間」が始まります。私たちがキリストの証人としての召し出しに忠実であり続けることができるように、互いのために心を込めて祈りましょう。この新しい年に、私は司祭叙階50周年を迎えます。主が私に託してくださった使命を、最後まで喜びをもって果たすことができるように、どうか私のためにも祈ってください。主の司祭として、私は皆さんに仕え、皆さんの聖化を助けるためにここにいます。しかし同時に、私自身も、主が私に望んでおられる者となるために、皆さんの助けを必要としています。信仰をもって私たちは共に互いに祈り合うなら、きっと、神が天地創造の前から私たちのために準備してくださった「愛の完成」へと至ることができるでしょう。

この「キリスト教一致祈祷週間」は、恵みの時です。それは、キリストご自身の熱い願いを思い起こさせます。「父よ、あなたが私のうちにおられ、私があなたのうちにいるように、すべての人が一つになりますように」(参照:ヨハネ17, 21)。このキリストの祈りは、私たちが同じ信仰のうちに、同じ霊によって導かれながら、ともに歩むことを意味しています。私たちはそれぞれ異なる伝統や感性をもっていますが、ただ一人の主、すなわちすべての人のために死んで復活されたイエス・キリストによって一つに結ばれています。その理由で、私たちは共に聖なる者となり、今生きている場所で、一致と平和のために働く者、そして信仰と希望に満ちた証人となるのです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちの人生に起こるあらゆる出来事を通して、また他の人々との出会いの中で、命を与え、常に働いておられる父である神の現存を見いだすことを学びましょう。キリストのことばが私たちの魂を照らし、すべての悪から清めてくださいますように。また、力と知恵、愛と赦しの泉である聖霊に満たされ、導かれていきましょう。そして、次の大切なことを忘れないようにしましょう。つまり、この教会で、私たちがキリストと一致するために集うたびに、贖いのわざは私たちのうちに実現しているということです。それは、「世界が救われますように」(参照:今日の奉納祈願より)との祈りそのものです。それでは、どこにいても、いつも心を一つにして、共に神に栄光を帰しましょう。アーメン。

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     年間第3主日   A 年  2026125日  グイノ・ジェラール神父

        イザ 8, 23-9, 3    1 コリント 1, 10-13, 17   マタイ 4, 12-23 

神は恵みと憐れみに富み、へりくだったお方であり、貧しさを愛されています。神は馬小屋でお生まれになることを選び、ナザレという小さな村で暮らし、育つことを望まれました。そのナザレは、ガリラヤの行政都市セフォリスの近くにありました。ヘロデ・アンティパス王は、ティベリアスを建設する前に、このセフォリスをガリラヤの首都としていました。異邦人の多いガリラヤ地方は、エルサレムの人々から評判が悪く、ガリラヤの人々が話すアラム語には訛りがあり、よく笑われていたといわれます。まさにそのガリラヤで、イエスは三年間にわたって福音宣教の使命を果たされました。

イエスの時代、ガリラヤは比較的豊かな地方でしたが、社会的不平等が強く残っていました。土地の多くは、ガリラヤには住んでいない地主やヘロデ家に近い有力者の所有物でした。農民たちは小作人や日雇い労働者としてその土地を耕し、重い税(国税、宗教税、ローマの税)を課せられていました。多くの人々が貧困の中で生活していました。イエスのたとえ話の中にもこの現実がしばしば描かれています。

イエスが選ばれた十二人の使徒のほとんどはガリラヤ出身でした。彼らは祭司でも律法学者でもなく、教育を受けていない、労働で生計を立てる素朴な人々でした。神はいつも、こうした「小さな人々」をお選びになります。彼らに与えられた使命は、学識や社会的地位ではなく、信仰と心の素直さに基づくものでした。イエスご自身もこう祈られました。「天の父よ、これらのことを知恵ある者や賢い者には隠し、幼子のような者に現してくださいました。感謝いたします」(参照:マタイ1125)。

この普通の人々は、イエスとの出会いによって変えられました。貧しさの中で、彼らはイエスに耳を傾け、共に働き、人々に仕え、イエスの名によって福音を伝えることを学びました。イエスは何度も彼らに、謙遜であること、上席を求めないこと、そして律法学者やファリサイ派、祭司長たちの傲慢な態度を真似しないようにと教えられました。弟子たちはイエスのそばで、自分の欲望を捨てることを学んだのです。

神とイエスの謙遜、そしてその行いの姿は、私たちの模範であるべきです。聖パウロもコリントの信徒への手紙の中で、分裂や他人よりも教育を受けたことへの傲慢さについても警告して、謙遜を勧めています。謙遜は神からの賜物ですが、弟子たちと同じように、私たちもそれを受け取ることを学ばなければなりません。

 兄弟姉妹の皆さん、今から私たちは、キリストのからだと血にあずかることによって、イエスの臨在により私たちも変えられていきましょう。弟子たちのように、私たちもまた、イエスの言葉に耳を傾け、人々仕え、赦し、愛することを学びましょう。謙遜こそが真の喜びへの道です。それだけが私たちの心を恵みに開き、福音の真の証人とならせてくれます。さあ、皆でイエスに従い、共に謙遜に歩みましょう。なぜなら、主は「心優しく、謙遜な方」(参照:マタイ11, 2830)だからです。アーメン。

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        間第4主日  A  202621日  グイノ・ジェラール神父

     ゼファニヤ書 2,312-13 コリントの信徒への手紙一 1,26-31 マタイ5,1-12

預言者ゼファニヤは、神と正義を、そして謙遜と真理を探し求めるように、私たちに呼びかけています。これらこそが、真の安らぎと平和をもたらすからです。この呼びかけに応えるように、聖パウロは、謙遜こそキリスト者の特徴的なしるしであり、謙遜は知恵、正義、贖い、そして聖化をもたらすと述べます。イエスは、謙遜で、柔和で、平和を愛し、正しさに飢え、神への信仰に忠実である人々に、神が永遠の幸いを与えてくださることをはっきりと宣言します。

洗礼の恵みは私たちをキリストと一つにし、彼の神聖的ないのちに完全にあずかる者にしました。私たちはキリストの体である教会の一員となったのです。聖体拝領を行なうたびに、司祭職の務めという召命を果たす中で、私たちはキリストの贖いのいけにえとより深く結びつくのです、イエスが私たちの知恵であり、正義であり、平和であり、謙遜であり、聖化であることを私たちは信じています。信仰と愛をもって執り行われる聖体拝領は、神に栄光を帰し、この世で最も救いの恵みを必要とする人々にその恵みをもたらします。

聖体という贖いの神秘に自らを結びつけることによって、私たちは慈しみ深い者、平和を築く者となり、神の子としての召命を生きることができます。この教会で、イエスのそばにいて、彼の御体と御血を受けるたびに、私たちは誘惑に打ち勝つ力、そして福音の価値に忠実であり続ける力を受けます。ここでは、私たちの弱さと恐れは神の力となり、闇は命の光となり、悲しみは喜びの泉へと変わります。

このようにして、私たちは少しずつ、神が私たち一人ひとりに望んでおられる者、すなわち、愛を信頼して証しする者となっていきます。今日、世界が必要としているのは、素晴らしい発言ではなく、むしろ、私たちの生活の善良さ、忍耐、柔和、そしてゆるしと平和を築く力、たとえすべてが壊れているように見える場所でさえも平和を再建する姿です。日々の単純な生活の中で、最も謙遜な行いの中に、キリスト者の生き方の偉大さが現れます。神は、小さく、目立たず、真心からささげられるものを通して働くことを喜ばれるからです。そこにこそ恵みは実を結び、私たちの生涯は神の国のしるしとなるのです。だからこそ、私は皆さんにこの祈りをしばしば唱えるようにお勧めします。「優しく謙遜な心のイエス、私の心をあなたの心と同じにして下さい」。

兄弟姉妹の皆さん、今日私たちがささげるこのミサ祭儀が、キリストの(まこと)の弟子でありたいという願いを新たにしてくれますように。イエスと一致するなら、必ず私たちの弱さは力となり、涙は希望となり、ときに暗く見える私たちの道は、私たちを先立って導くイエスご自身の現存によって照らされ、確かに永遠の幸福の門へと導かれます。アーメン。

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       間第5主日  A年  202628日  グイノ・ジェラール神父

           イザヤ58,7-10   1コリント 2,1-5   マタイ5,13-16 

「クリスマスの夜、天からの光と神の栄光が地上に降り、私たちを“光の子”とするために訪れました。明日、イエスが神殿に捧げられた出来事を記念して、私たちはこの“光”を祝います。この光は、今日でもヨーロッパの多くの地域で壮大な行列によって敬われています。というのも、神を信じる者たちの栄光であるこの光こそが、異邦の民を照らす光だからです(参照:ルカ232)。今日私たちが聞いたイザヤ預言者の言葉は、今、私たちのうちに実現しています。神が与えてくださるこの光は、暁のように輝き出て、聖霊の力を私たちに与え、私たちの闇を真昼の光へと変え、キリストの証人となることを承諾するならどこにでも、神の栄光が私たちと共にいてくださいます。

聖パウロがそうであったように、私たちも「神の神秘」を担う者です。イエス・キリストへの信仰は、私たちを「地の塩、世の光」としました。聖パウロが説明しているように、私たちの信仰は人間の知恵ではなく、神の力に基づいています。だからこそ、私たちの信仰はすべての人の前に輝き、この世界が日ごとに失いつつある本来の味わいを取り戻させるものとなるのです。実に、不正、赦しの拒否、そして多くの人を苦しめる貧困のために、この世界は弱り果てているからです。

信仰を伝えるために、あらゆる問題に答えられる博識な弁士である必要はありません。何より大切なのは、聖霊に依り頼むことです。聖霊は、私たちの行いと言葉を通して、知恵と力をもって働いてくださいます。聖パウロが体験したように、私たちも恐れや震えを覚えることがあるかもしれません。しかし彼と同じように、聖霊が力強く働いてくださることを私たちは確信しています。たとえ私たちの働きが小さく見えても、神の救いは必ず地の果てにまで届くのです。

 そういう意味で、私たち一人ひとりは、自分の町や国を離れなくても、日常の中で宣教師となることができます。祈り、分かち合い、他者への思いやり、助け合いによって、私たちは神の愛とその慈しみを証しする者となるのです。

兄弟姉妹の皆さん、神からいただいた信仰の光は、自分のためだけにしまっておくものではありません。それは輝き、照らし、温めるために与えられた光です。私たちの使命は、この光を見えるようにすることですが、自分を目立たせるためではなく、その源である神へ人々を導くためです。イエスと聖霊のたすけで、私たちの言葉と行いは、夜を照らす光となり、本来の姿を失いつつある世界にとって必要な塩となるのです。

兄弟姉妹の皆さん、今日、私たちがこの使命に忠実である恵みを願い求めましょう。目をくらませることなく光となり、苦味のない塩となり、恐れることなく証人となりましょう。聖霊が私たちに、勇気を奮い起こす力、粘り強く対え抜く忍耐、そして神が私たちを通して働かれることを受け入れられる謙遜さを与えてくださいますように。世の光であるキリストに従い、私たちの素朴な日々の歩みが、周囲の人々に希望のしるし、闇を照らす光、そして生きる喜びを与える塩となり、神へと導くものとなりますように。アーメン。

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     年間第6主日  A年  2026215日  グイノ・ジェラール神父

        シラ書 15, 14-20   1コリント2, 6-10   マタイ5, 17-37

詩編はしばしばこう語ります。「主の律法とその掟は、心に喜びを与え、目に光をもたらす」(参照:詩編19,9)。聖書の教えによって、従順に従うことはいつも自由と喜びの泉です。ところがシラ書の知恵者ベン・シラは、神の戒めを守るかどうかは一人ひとりの自由だと言っています。神の掟を守ろうとする人は、律法学者やファリサイ派の人々のように形だけで行ってはならないとイエスは教えます。

多くの人にとって「従うこと」は、束縛や自由の喪失を思わせるものです。従うことがつらくなるのは、それが強制されたり、理解されないままだったり、罰への恐れによって動かされたり、あるいは良心に反する場合です。そのような従順は、心にも魂にも栄養を与えることができません。ですが、聖書において神の律法に従うことは重荷ではなく、光と内なる平和への道なのです(参照:詩編1,1-3、シラ書15,14-15)。

従順が喜びの源となるためには、それが愛と信頼に満ちた心からの応答でなければなりません。イエスは言われました。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」(参照:ヨハネ14,21)。神の戒めは、私たちがよりよく生き、愛し、自分を傷つけるものを避けるために与えられています。神を信頼するとき、従順は、喜びとなり、私たちを神と他の人々に近づけます。従うということは、神が示し、私たちのために望んでおられる幸福への道を選ぶことです。

従うとは、盲目的に服従することではありません。まず「聞くこと」です。神が語られる言葉に心を開き、耳を傾けることです。神は私たちを閉じ込めるためではなく、むしろ、私たちを照らし、いのちと幸福への道を示すために語られます。イエスご自身、神への従順を愛の行いとして生きられました。「わたしの食べ物は、わたしをお遣わしになった方のみ心を行うことである」とイエスは言われます。イエスにとって、父の御心を果たすことは、自分が父と一致し、愛されているという喜びをもたらす力の源でした。十字架の上で、イエスの従順はその愛の最も偉大なしるしとなり、私たちを救うためにいのちを自由に与えられました。

神に従うとは、信頼し、自分を差し出し、愛することを選ぶことです。従うとき、私たちはもっと自由になります。なぜなら、本当に愛すること、自分中心から離れること、自分を超えた大きなもののために生きることを学ぶからです。「目の光、心の喜び」である従順は、真の幸福がどこにあるのかを示してくれます。「目に光、心に喜び」を与えてくれる従順は、真の幸福がどこにあるかを示してくれます。神への愛と信頼の行為をとおして生きるなら、それは喜びの源となり、聖パウロがコリントの信徒への手紙で述べているように、私たちを「信仰に成熟した人」へと成長させてくれます。

兄弟姉妹の皆さん、神は私たちに、恐れに満ちた僕のように従うことを求めておられるのではなく、愛された子どものように従うことを望んでおられます。キリスト者の従順とは、自由な行為であり、愛の行為です。それはイエスの喜びの中に私たちを導き、心の平和と真の自由を豊かに与えてくれます。私たちが日々、この従順の美しさを見いだし、その喜びを十分に味わうことができるよう、聖霊が助けてくださいますように。アーメン。





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