グイノ神父の説教



2026年

A年

聖週間

復活節から

キリストの聖体の祭日

まで


 
   枝の主日
復活の祭日
復活説第2主日
復活説第3主日
復活節第4主日

           枝の主日 受難の主日 A年  2026329日  グイノ・ジェラール神父

              イザヤ50. 4-7     フィリピ 2, 6-11    マタイ 26, 14 – 27,65

四旬節の四十日間、私たちは祈り、悔い改め、そして分かち合いによって心を整えてきました。今日、私たちは聖週間の初めに集い、全教会とともに過越の神秘の祭儀を始めます。

 私たちが持つ祝福されたシュロの枝は、イエスの受難と、罪と死に対するその勝利に従って歩みたいという、私たちの願いを表しています。シュロの枝の緑色は、キリストによって完全に新たにされたいという私たちの希望と願いを象徴しています。司祭の祭服の赤は、神の無限の愛とキリストの受難の苦しみの両方を表しています。また、私たちがキリストの血によって贖われたことを思い起こさせます。

「ホサナ!」という喜びの叫びで始まるこの一週間は、「アレルヤ」の賛歌で締めくくられます。これは、キリストの受難が神に栄光を帰すものであることを示しています。なぜなら、それはすべての人が救われることを望む神の御心だからです。
 
 受難の物語の長い朗読は、私たちをイエスのそばで、より深く生きるように招いています。聖週間は、キリスト教の典礼の頂点の時です。神のあわれみとゆるしで私たちを包み、聖霊の力と光を心に与えてくださる十字架の神秘を、あらためて見つめ、礼拝しましょう。

さあ、イエスを通して復活の力と永遠の命の栄光を与えてくださる神に感謝を捧げ、心から「ホサナ」を歌いましょう。アーメン。

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            復活の祭日 A年  202645日  グイノ・ジェラール神父

      使徒 10, 34a.37-43   コロサイ 3, 1-4  また 1コリント 5, 6-8   ヨハネ 20, 1-9

私たちの命であるキリストは復活されました。私たちの救いであるキリストは、死と罪を克服しました。私たちの光であるキリストは、父なる神の栄光と永遠の喜びへと導いてくださいます。ですから、聖霊の力に満たされ、心をこめて、信仰を尽くして、神に感謝をささげながら、ハレルヤを歌いましょう。 

聖土曜日の夜から聖霊降臨の主日に至るまで、私たちはこの復活の雰囲気の中で過ごすことができます。50日間、復活祭の喜びと光は、私たちの日々の生活を照らし、神の心に私たちを近づけてくれるでしょう。キリストは私たち一人ひとりのために復活されました。私たちは皆、キリストにとってかけがえのない存在であり、罪や弱さがあっても、キリストの愛を受けるにふさわしい者です。

イエスは生きておられます。日々、私たちのそばにおられ、御体と御血をいただくとき、私たちの内に住まわれます。さらに、すべての聖体祭儀において、聖霊の交わりの中で、私たちはキリストと一つにされ、ついにはキリストの体となり、その心、その霊となるのです。だからこそ、私たちはハレルヤを歌います。豊かな意味を持つヘブライ語の言葉であるハレルヤによって、私たちは言い表せないことや言い尽くせない思いを神に告げることができます。実に、復活はあまりにも深い神秘であり、キリストにおいて私たちを救ってくださった神への感謝の気持ちを言葉だけで表すことはできません。

復活の喜びは一時的な感情にとどまるものではなく、日々の生活を通して私たちに寄り添うものでなければなりません。キリスト者の信仰は、日常の中でイエスと出会うことによって築かれていきます。洗礼によって、私たちはイエスが共に生きてくださる新しい命に招き入れられました。「わたしたちの命は、今やキリストと共に神のうちに隠されており、わたしたちの命であるキリストが栄光のうちに現れるときに」(参照:コロサイ3, 3-5)その完全が実現します。このように、復活は私たちの生き方を変え、選択を導き、望みを清め、日々の苦闘の中で私たちを支えてくれるのです。
 

兄弟姉妹の皆さん、復活祭の日にあたり、疑いや恐れを手放し、復活されたイエスに希望と信仰を置きましょう。エマオへと向かう道で弟子たちと共に歩まれたように、復活されたキリストは、時に暗く感じられる人生の道を、私たちと共に歩んでくださいます。イエスは旅の終わりで待っておられる方ではなく、旅の仲間となってくださいます。失敗の中の沈黙や、悲しみの孤独の中にあっても、イエスの存在は私たちの心の内に再び燃え始める火となります。イエスは倒れたものを起こし、行き止まりにしか見えなかったところに、新しい未来を開いてくださいます。「もう終わりだ」と思った場所で、イエスは「すべてはここから始まる」と教えてくださいます。

 信仰をもってキリストを迎え入れ、復活の子として生き、私たちの人生全体が、口先だけでなく、行動と希望と愛をもって歌われるハレルヤとなりますように。キリストは復活されました。真に復活されました。ハレルヤ。アーメン。

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      復活2主日 神の慈しみの日  A年  2026412日  グイノ・ジェラール神父

                使徒2, 42-47      1 ペトロ 1, 3-9      ヨハネ 20, 19-31 

使徒たちは、復活された主を目の当たりにしたとき、大きな喜びに満たされました。この喜びは言葉では言い尽くせないものであり、人を内側から変え、救いを確かなものとすると、聖ペトロはその手紙の中で語っています。復活されたキリストのもたらす喜びは、キリストを信じるすべての人に与えられます。実に、キリストへの信仰とは、神に賛美と栄光と誉れをささげる生き方そのものです。イエスが私たちの心に注いでくださる喜びは、希望の泉であり、私たちを神の力強い守りの中に置いてくださいます。これこそ、聖ペトロと使徒たちが体験し、信頼に足る証しとして伝えていることです。

聖ヨハネは、その福音書の中で、トマスがキリストの神性を認めた後に、彼が何を感じたかを詳しくは記していません。しかし、トマスもまた言葉に尽くせない喜びに満たされたであろうことは、容易に想像できます。なぜなら、彼の信仰の叫びは、並外れた力を帯びているからです。私たちもまた、トマスのように、イエスをまことの神、まことの人として信じる信仰を、声高らかに宣べ伝えることができれば幸いです。

この復活の喜びは、復活された主との出会いから生まれ、イエスの慈しみによって養われます。復活節第二主日は、「神の慈しみの主日」でもあります。今日の詩編が私たちを招いているように、今日は喜びと希望の日です。「今日こそ神が、造られた日、喜び歌え、この日をともに」と。

この日を喜びに満たされて迎えた、最初のキリスト者の共同体のように、心を一つにし、深い喜びによって結ばれて、私たちの救いの神秘を祝おうではありませんか。この感謝の祭儀が、神に賛美と栄光と誉れをささげるものとなりますように。また、私たちを希望と分かち合いのうちに忠実に保ち、私たちと同じように復活されたキリストと結ばれたいと願う、新しい兄弟姉妹を引き寄せますように。 

神の慈しみは、豊かな恵みの泉として、すべての人に差し出されています。神の慈しみは、愛に満ちた御心から絶えず湧き出ています。私たち自身のために、また世界中で助けを必要としているすべての人のために、恐れることなくこの慈しみを願い求めましょう。

兄弟姉妹の皆さん、使徒たちとトマスに倣い、信仰の道を歩み、神の慈しみの証人となりましょう。私たちの生涯全体が、神にささげる賛美と栄光と誉れの歌となりますように。イエスが与えてくださる言葉に尽くせない喜びを受け入れましょう。そして、聖体の糧によって養われ、希望において強められ、分かち合いのうちに一致し、聖霊の力によって、言葉と行いをもって宣言しましょう。「主よ、あなたはわたしの主、わたしの神」。アーメン。

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        復活3主日  A年  2026429日  グイノ・ジェラール神父

               使徒 2,14-33     1 ペトロ 1, 17-21     ルカ 24, 13-35

悲しみは、信仰の妨げとなるのでしょうか。エマオへ向かう二人の弟子たちは、悲しみに閉じこもり、復活されたイエスを見た人々の証言を、そのまま素直に信じることができませんでした。彼らはエルサレムを離れ、遠くへ去ろうとしていました。道を(あゆ)む間、そばを共に歩んでおられるイエスの臨在にさえ、気が付きませんでした。また、聖書の物語を通して語られたイエスの長い説明も、彼らの目を開くには十分ではありませんでした。しかし、イエスがパンを裂くことによって始めて、彼らは信仰を取り戻し、イエスが語られた聖書の言葉を理解することができたのです。喜びに満たされた二人の弟子は、ただちにエルサレムへ戻り、使徒たちと共に、取り戻した喜びを分かち合いました。「イエスは復活された。主の現存で、私たちの心は今も燃えています。」

聖書の「過去」、私たちが今あずかるミサ祭儀という「現在」、そして証しの「未来」は、決して切り離すことができません。神の言葉、聖体、証しは、復活の神秘と私たちの信仰の中心にあります。 

兄弟姉妹の皆さん、悲しみそのものは罪ではありません。イエスご自身も、ラザロの墓の前で涙を流されました。しかし、悲しみが私たちを自分自身の内に閉じ込め、聞くこと、希望すること、前へ進むことを妨げるとき、それは信仰の大きな妨げとなります。イエスの死後、エマオへの弟子たちは、傷つき、失望し、希望することに疲れ果てていました。その悲しみが彼らの目を曇ら、エマオへの弟子たちは、傷つき、失望し、希望することに疲れ果てていました。その悲しみが彼らの目を曇らせ、信じることを妨げていたのです。

これは、しばしば私たち自身の姿でもあります。失敗や試練、死別、あるいは霊的な失望から生まれる悲しみは、神の臨在を疑わせます。私たちは歩み続け、祈り、神の言葉を聞いていますが、心は閉じたままです。聖書を知り、典礼に与っていても、心の奥で何かが消えかかっています。エマオの弟子たちのように、聞いても理解せず、見ていても気づかないのです。

しかし、復活されたキリストは、悲しむ人々と共に歩むことを決してやめられません。キリストは私たちの歩みに寄り添い、問いを受け止め、信じるまでの長い時間を忍耐強く受け入れてくださいます。そして何よりも、悲しみが変えられる場所へと導いてくださいます。それが、「パンを裂く」ことです。キリストの御体を受けるとき、私たちの目は開かれ、再び喜びへと生き返ます。

兄弟姉妹の皆さん、すべてのミサ祭儀は、復活されたイエスとの具体的な出会いです。イエスは私たちの悲しみや疑いを引き受け、それを希望と信仰の証しへと変えてくださいます。

ですから、悲しみを恐れることなく、しかしその悲しみに支配されてエルサレム、すなわち教会、共同体、兄弟的な交わりから離れてしまわないようにしましょう。復活の信仰は、すべての涙を消し去るものではありませんが、その涙の中を通る道を開いてくれます。夜のただ中においても、キリストの臨在を認めるとき、私たちの人生は証しとなります。この証しは謙遜でありながら真実な証しであり、「イエスは生きておられ、共に歩んでくださり、喜びが悲しみに勝っている」ということを、喜びをもって告げ知らせるのです。アーメン。

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      復活節第4主日  A年  世界召命祈願の日  2026426日  グイノ・ジェラール神父
   
                使徒 2, 14, 36-41     1ペトロ 2, 20-25     ヨハネ10, 1-10

 イエスは、神と、ご自分によって贖われた人類との間に立たれる、唯一の仲介者です。イエスは神へと導く門であり、またその道です。実際、私たちは神に直接出会うことはできません。必ずイエスを通らなければならないのです。イエスご自身もこう語っておられます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない」(参照 :ヨハネ14, 6)。また聖パウロも、テモテへの手紙の中で、イエスこそが神と人との唯一の仲介者であることを思い起こさせています(参照 :一テモテ2, 5)。

神はキリストを通して、また教会を通して、私たちにご自身を現し、与えてくださいます。教会の中において、イエスは絶えず現存しておられ、その教会を通して絶えず働き続け、私たちと親密に交わってくださいます。善き牧者であるイエスは、その恵みによって私たちを造り変え、み言葉によって導いてくださいます。秘跡と、教会に与えた権威を通して、イエスは私たちを癒し、強めてくださいます。私たちのために命をささげてくださったからこそ、イエスは一人ひとりの名を知っておられ、その親密な愛によって、「彼は私たちの内におられ、私たちよりも、以上に私たち自身なのです」(参照:聖アウグスティヌス)。

イエスのいのちによって生きること、それこそが私たちの召命です。いつか、聖パウロのように、私たちもこう言い、証しすることができなければなりません。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(参照:ガラテヤ 2, 20)。また、「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです」(フィリピ 121)とも語っています(参照:コロサイ 1, 27)。 信じる者はキリストの内に生き、キリストはその人の内に生きておられます。キリスト者の生活とは、キリストに満たされ、キリストによって生かされる生活なのです。キリストと一つになることこそ、それは私たちの最も切なる願いであるべきでしょう。キリストと一致することで、私たちは自分を失うのではありません。むしろそのとき初めて、本当の自分自身となるのです。 

使徒言行録では、ペロの説教に感動した群衆が「私たちはどうしたらいいのでしょうか?」と尋ねます。その答えは単純でありながらも厳しいものでした。それは、改心すること、つまりキリストとの生きた交わりの中に入ることによって、救いを受け入れることです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちはいったい、だれに自分の人生を委ねようとしているのでしょうか。イエスは今日も、み言葉を通して、秘跡を通して、そして教会の働きを通して、私たち一人ひとりを名によって呼び続けておられます。その御声を聞き分ける恵みを主に願い、自分たちの心の扉を主に大きく開き、主の後に従って歩んでいきましょう。キリストと結ばれて生きるなら、私たちはその憐れみの証人となり、主が約束してくださるいのちを、すでに今ここで味わうことができるのです。アーメン。

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