グイノ神父の説教



2026年

A年

聖週間

復活節から

キリストの聖体の祭日

まで


 
   枝の主日
復活の祭日
復活説第2主日
復活説第3主日
復活節第4主日

復活節第第5主日
復活節第第6主日
主の昇天の主日
聖霊降臨の主日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭

           枝の主日 受難の主日 A年  2026329日  グイノ・ジェラール神父

              イザヤ50. 4-7     フィリピ 2, 6-11    マタイ 26, 14 – 27,65

四旬節の四十日間、私たちは祈り、悔い改め、そして分かち合いによって心を整えてきました。今日、私たちは聖週間の初めに集い、全教会とともに過越の神秘の祭儀を始めます。

 私たちが持つ祝福されたシュロの枝は、イエスの受難と、罪と死に対するその勝利に従って歩みたいという、私たちの願いを表しています。シュロの枝の緑色は、キリストによって完全に新たにされたいという私たちの希望と願いを象徴しています。司祭の祭服の赤は、神の無限の愛とキリストの受難の苦しみの両方を表しています。また、私たちがキリストの血によって贖われたことを思い起こさせます。

「ホサナ!」という喜びの叫びで始まるこの一週間は、「アレルヤ」の賛歌で締めくくられます。これは、キリストの受難が神に栄光を帰すものであることを示しています。なぜなら、それはすべての人が救われることを望む神の御心だからです。
 
 受難の物語の長い朗読は、私たちをイエスのそばで、より深く生きるように招いています。聖週間は、キリスト教の典礼の頂点の時です。神のあわれみとゆるしで私たちを包み、聖霊の力と光を心に与えてくださる十字架の神秘を、あらためて見つめ、礼拝しましょう。

さあ、イエスを通して復活の力と永遠の命の栄光を与えてくださる神に感謝を捧げ、心から「ホサナ」を歌いましょう。アーメン。

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            復活の祭日 A年  202645日  グイノ・ジェラール神父

      使徒 10, 34a.37-43   コロサイ 3, 1-4  また 1コリント 5, 6-8   ヨハネ 20, 1-9

私たちの命であるキリストは復活されました。私たちの救いであるキリストは、死と罪を克服しました。私たちの光であるキリストは、父なる神の栄光と永遠の喜びへと導いてくださいます。ですから、聖霊の力に満たされ、心をこめて、信仰を尽くして、神に感謝をささげながら、ハレルヤを歌いましょう。 

聖土曜日の夜から聖霊降臨の主日に至るまで、私たちはこの復活の雰囲気の中で過ごすことができます。50日間、復活祭の喜びと光は、私たちの日々の生活を照らし、神の心に私たちを近づけてくれるでしょう。キリストは私たち一人ひとりのために復活されました。私たちは皆、キリストにとってかけがえのない存在であり、罪や弱さがあっても、キリストの愛を受けるにふさわしい者です。

イエスは生きておられます。日々、私たちのそばにおられ、御体と御血をいただくとき、私たちの内に住まわれます。さらに、すべての聖体祭儀において、聖霊の交わりの中で、私たちはキリストと一つにされ、ついにはキリストの体となり、その心、その霊となるのです。だからこそ、私たちはハレルヤを歌います。豊かな意味を持つヘブライ語の言葉であるハレルヤによって、私たちは言い表せないことや言い尽くせない思いを神に告げることができます。実に、復活はあまりにも深い神秘であり、キリストにおいて私たちを救ってくださった神への感謝の気持ちを言葉だけで表すことはできません。

復活の喜びは一時的な感情にとどまるものではなく、日々の生活を通して私たちに寄り添うものでなければなりません。キリスト者の信仰は、日常の中でイエスと出会うことによって築かれていきます。洗礼によって、私たちはイエスが共に生きてくださる新しい命に招き入れられました。「わたしたちの命は、今やキリストと共に神のうちに隠されており、わたしたちの命であるキリストが栄光のうちに現れるときに」(参照:コロサイ3, 3-5)その完全が実現します。このように、復活は私たちの生き方を変え、選択を導き、望みを清め、日々の苦闘の中で私たちを支えてくれるのです。
 

兄弟姉妹の皆さん、復活祭の日にあたり、疑いや恐れを手放し、復活されたイエスに希望と信仰を置きましょう。エマオへと向かう道で弟子たちと共に歩まれたように、復活されたキリストは、時に暗く感じられる人生の道を、私たちと共に歩んでくださいます。イエスは旅の終わりで待っておられる方ではなく、旅の仲間となってくださいます。失敗の中の沈黙や、悲しみの孤独の中にあっても、イエスの存在は私たちの心の内に再び燃え始める火となります。イエスは倒れたものを起こし、行き止まりにしか見えなかったところに、新しい未来を開いてくださいます。「もう終わりだ」と思った場所で、イエスは「すべてはここから始まる」と教えてくださいます。

 信仰をもってキリストを迎え入れ、復活の子として生き、私たちの人生全体が、口先だけでなく、行動と希望と愛をもって歌われるハレルヤとなりますように。キリストは復活されました。真に復活されました。ハレルヤ。アーメン。

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      復活2主日 神の慈しみの日  A年  2026412日  グイノ・ジェラール神父

                使徒2, 42-47      1 ペトロ 1, 3-9      ヨハネ 20, 19-31 

使徒たちは、復活された主を目の当たりにしたとき、大きな喜びに満たされました。この喜びは言葉では言い尽くせないものであり、人を内側から変え、救いを確かなものとすると、聖ペトロはその手紙の中で語っています。復活されたキリストのもたらす喜びは、キリストを信じるすべての人に与えられます。実に、キリストへの信仰とは、神に賛美と栄光と誉れをささげる生き方そのものです。イエスが私たちの心に注いでくださる喜びは、希望の泉であり、私たちを神の力強い守りの中に置いてくださいます。これこそ、聖ペトロと使徒たちが体験し、信頼に足る証しとして伝えていることです。

聖ヨハネは、その福音書の中で、トマスがキリストの神性を認めた後に、彼が何を感じたかを詳しくは記していません。しかし、トマスもまた言葉に尽くせない喜びに満たされたであろうことは、容易に想像できます。なぜなら、彼の信仰の叫びは、並外れた力を帯びているからです。私たちもまた、トマスのように、イエスをまことの神、まことの人として信じる信仰を、声高らかに宣べ伝えることができれば幸いです。

この復活の喜びは、復活された主との出会いから生まれ、イエスの慈しみによって養われます。復活節第二主日は、「神の慈しみの主日」でもあります。今日の詩編が私たちを招いているように、今日は喜びと希望の日です。「今日こそ神が、造られた日、喜び歌え、この日をともに」と。

この日を喜びに満たされて迎えた、最初のキリスト者の共同体のように、心を一つにし、深い喜びによって結ばれて、私たちの救いの神秘を祝おうではありませんか。この感謝の祭儀が、神に賛美と栄光と誉れをささげるものとなりますように。また、私たちを希望と分かち合いのうちに忠実に保ち、私たちと同じように復活されたキリストと結ばれたいと願う、新しい兄弟姉妹を引き寄せますように。 

神の慈しみは、豊かな恵みの泉として、すべての人に差し出されています。神の慈しみは、愛に満ちた御心から絶えず湧き出ています。私たち自身のために、また世界中で助けを必要としているすべての人のために、恐れることなくこの慈しみを願い求めましょう。

兄弟姉妹の皆さん、使徒たちとトマスに倣い、信仰の道を歩み、神の慈しみの証人となりましょう。私たちの生涯全体が、神にささげる賛美と栄光と誉れの歌となりますように。イエスが与えてくださる言葉に尽くせない喜びを受け入れましょう。そして、聖体の糧によって養われ、希望において強められ、分かち合いのうちに一致し、聖霊の力によって、言葉と行いをもって宣言しましょう。「主よ、あなたはわたしの主、わたしの神」。アーメン。

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        復活3主日  A年  2026419日  グイノ・ジェラール神父

               使徒 2,14-33     1 ペトロ 1, 17-21     ルカ 24, 13-35

悲しみは、信仰の妨げとなるのでしょうか。エマオへ向かう二人の弟子たちは、悲しみに閉じこもり、復活されたイエスを見た人々の証言を、そのまま素直に信じることができませんでした。彼らはエルサレムを離れ、遠くへ去ろうとしていました。道をむ間、そばを共に歩んでおられるイエスの臨在にさえ、気が付きませんでした。また、聖書の物語を通して語られたイエスの長い説明も、彼らの目を開くには十分ではありませんでした。しかし、イエスがパンを裂くことによって初めて、彼らは信仰を取り戻し、イエスが語られた聖書の言葉を理解することができたのです。喜びに満たされた二人の弟子は、ただちにエルサレムへ戻り、使徒たちと共に、取り戻した喜びを分かち合いました。「イエスは復活された。主の現存で、私たちの心は今も燃えています。」

聖書の「過去」、私たちが今あずかるミサ祭儀という「現在」、そして証しの「未来」は、決して切り離すことができません。神の言葉、聖体、証しは、復活の神秘と私たちの信仰の中心にあります。 

兄弟姉妹の皆さん、悲しみそのものは罪ではありません。イエスご自身も、ラザロの墓の前で涙を流されました。しかし、悲しみが私たちを自分自身の内に閉じ込め、聞くこと、希望すること、前へ進むことを妨げるとき、それは信仰の大きな妨げとなります。イエスの死後、エマオへの弟子たちは、傷つき、失望し、希望することに疲れ果てていました。その悲しみが彼らの目を曇ら、信じることを妨げていたのです。

これは、しばしば私たち自身の姿でもあります。失敗や試練、死別、あるいは霊的な失望から生まれる悲しみは、神の臨在を疑わせます。私たちは歩み続け、祈り、神の言葉を聞いていますが、心は閉じたままです。聖書を知り、典礼に与っていても、心の奥で何かが消えかかっています。エマオの弟子たちのように、聞いても理解せず、見ていても気づかないのです。

しかし、復活されたキリストは、悲しむ人々と共に歩むことを決してやめられません。キリストは私たちの歩みに寄り添い、問いを受け止め、信じるまでの長い時間を忍耐強く受け入れてくださいます。そして何よりも、悲しみが変えられる場所へと導いてくださいます。それが、「パンを裂く」ことです。キリストの御体を受けるとき、私たちの目は開かれ、再び喜びへと生き返ます。

兄弟姉妹の皆さん、すべてのミサ祭儀は、復活されたイエスとの具体的な出会いです。イエスは私たちの悲しみや疑いを引き受け、それを希望と信仰の証しへと変えてくださいます。

ですから、悲しみを恐れることなく、しかしその悲しみに支配されてエルサレム、すなわち教会、共同体、兄弟的な交わりから離れてしまわないようにしましょう。復活の信仰は、すべての涙を消し去るものではありませんが、その涙の中を通る道を開いてくれます。夜のただ中においても、キリストの臨在を認めるとき、私たちの人生は証しとなります。この証しは謙遜でありながら真実な証しであり、「イエスは生きておられ、共に歩んでくださり、喜びが悲しみに勝っている」ということを、喜びをもって告げ知らせるのです。アーメン。

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      復活節第4主日  A年  世界召命祈願の日  2026426日  グイノ・ジェラール神父
   
                使徒 2, 14, 36-41     1ペトロ 2, 20-25     ヨハネ10, 1-10

 イエスは、神と、ご自分によって贖われた人類との間に立たれる、唯一の仲介者です。イエスは神へと導く門であり、またその道です。実際、私たちは神に直接出会うことはできません。必ずイエスを通らなければならないのです。イエスご自身もこう語っておられます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない」(参照 :ヨハネ14, 6)。また聖パウロも、テモテへの手紙の中で、イエスこそが神と人との唯一の仲介者であることを思い起こさせています(参照 :1テモテ2, 5)。

神はキリストを通して、また教会を通して、私たちにご自身を現し、与えてくださいます。教会の中において、イエスは絶えず現存しておられ、その教会を通して絶えず働き続け、私たちと親密に交わってくださいます。善き牧者であるイエスは、その恵みによって私たちを造り変え、み言葉によって導いてくださいます。秘跡と、教会に与えた権威を通して、イエスは私たちを癒し、強めてくださいます。私たちのために命をささげてくださったからこそ、イエスは一人ひとりの名を知っておられ、その親密な愛によって、「彼は私たちの内におられ、私たち以上に私たち自身なのです」(参照:聖アウグスティヌス)。

イエスのいのちによって生きること、それこそが私たちの召命です。いつか、聖パウロのように、私たちもこう言い、証しすることができなければなりません。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(参照:ガラテヤ 2, 20)。また、「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです」(参照:フィリピ 121)とも語っています。 信じる者はキリストの内に生き、キリストはその人の内に生きておられます。キリスト者の生活とは、キリストに満たされ、キリストによって生かされる生活なのです。キリストと一つになることこそ、私たちの最も切なる願いであるべきでしょう。キリストと一致することで、私たちは自分を失うのではありません。むしろそのとき初めて、本当の自分自身となるのです。 

使徒言行録では、ペロの説教に感動した群衆が「私たちはどうしたらいいのでしょうか?」と尋ねます。その答えは単純でありながらも厳しいものでした。それは、改心すること、つまりキリストとの生きた交わりの中に入ることによって、救いを受け入れることです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちはいったい、だれに自分の人生を委ねようとしているのでしょうか。イエスは今日も、み言葉を通して、秘跡を通して、そして教会の働きを通して、私たち一人ひとりを名によって呼び続けておられます。その声を聞き分ける恵みを主に願い、自分たちの心の扉を主に大きく開き、主の後に従って歩んでいきましょう。キリストと結ばれて生きるなら、私たちはその憐れみの証人となり、主が約束してくださるいのちを、すでに今ここで味わうことができるのです。アーメン。

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         復活節第5主日  A年  202653日  グイノ・ジェラール神父

                使徒  6, 1-7      1 ペトロ 2, 4-9      ヨハネ 14, 1-12

 主は道であり、真理であり、命です。道には目的があり、真理には内容があり、命には源があります。私たちは、イエスが私たちを御父へと引き寄せること、そのみ言葉が幸せへと導く確かな教えであること、そしてその命が永遠の慈しみに満ちた大海であることを知り、信じています。 

私たちもまた、心からイエスにこう言うことができると信じます。「主よ、あなたは私の道、私の真理、私の命です」と。そして、弟子フィリポの願いに心を重ねて共に叫び求めましょう。「主よ、御父を私たちにお示しください」と。 

この聖堂でイエスと出会うとき、私たちは、天の父である神に出会いたいと希望します。なぜなら、イエスが父を私たちに啓示してくださったことを、私たちは知り、信じているからです。「イエスは父のうちにおられ、父はイエスのうちにおられる」のです。この真理の言葉は、私たちの信仰を照らし、強めてくれます。それはまた、キリストの別の言葉を思い起こさせ、確かなものとします。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。父に向けられるのと同じ信仰をもってイエスを信じること、それは、イエスこそが神へと導く唯一の道であると認めることです。

イエスは今日も私たちに語りかけておられます。「わたしのいるところに、あなたがたもいるようになる」と。この言葉は、私たちの希望を支える約束です。イエスは、私たちが永遠に御父のもとにとどまるために、父のもとへと導いてくださいます。だからこそ私たちは、絶えず自分の人生をイエスの御手に委ねます。なぜなら、「イエスを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」からです(参照:ヨハネ146)。 

イエスこそ、神と人との間に立つ仲介者であることを私たちは信じています。「万物をキリストにおいて一つに集める」という神のご計画は、イエスにおいて成し遂げられます。これは、聖パウロがコロサイの信徒への手紙で語っていることです。「神は、御子によって、地にあるものも天にあるものもすべて御自分と和解させ、その十字架の血によって平和をもたらそうとされた」(参照:コロサイ119―20)。

 それゆえ、イエスこそが道であり、真理であり、命であると、勇気をもって告白しましょう。本当に、イエスが、すべての人に与えられる神の救いであり、私たちの歩みを導く光であり、永遠の命の泉であることを、恐れずに宣べ伝えましょう。聖ペトロが招いているように、「神に選ばれたキリストの教会となり」、この世に神の栄光と慈しみを現していきましょう。 

ですから兄弟姉妹の皆さま、今ここで、キリストによって私たちを闇からその驚くべき光へ、死から永遠のいのちへと移してくださった神の偉大なみ業を祝い、告げ知らせましょう。欺かれることのない道、自由を与える真理、終わることのない命であるイエスを信じ、その後に従って歩んでいきましょう。アーメン。

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       復活節第6主日   A年  2026510日  グイノ・ジェラール神父

           使徒 8, 5-17     1 ペトロ 3, 15-18    ヨハネ 14, 15-21

 今日のヨハネの福音には、三位一体の神について最も明確な教えが示されています。キリストは私たちに父なる神を示し、御父と御子を結ぶ一致を明らかに啓示しました。また聖霊がどのようなお方であるかを理解させるために、イエスは二つの呼び名を与えてくださいます。聖霊は「弁護者」であり、「真理の霊」です。 

この福音書では、イエスと弟子たちは「世」と対立しています。この「世」とは、彼らが神の救いの計画に従って行動していることを否定し、聖霊が与える理解に心を閉ざす人々のことです。キリストの復活の後、約束された聖霊は使徒たちの証しを強め、彼らがイエスの名によって実現する多くの奇跡を通して、復活の現実を証明します。このように聖霊は信仰の弁護者として現れ、キリストの弟子たちの証言の真実性を目に見える形で明らかにします。

 聖ペトロはその手紙の中で、自らの体験に基づき、キリスト者たちが迫害者に対して忍耐と優しさを示し、聖霊が与える強さ、尊敬、希望をキリストのうちに見出すように勧めています。ペトロにとって、中傷や苦しみの中でも実践される愛は、聖霊がキリストの教会を導き、安全に導いておられることの証しです。実際、迫害されるキリスト者のうちに復活の神秘が実現し、彼らは父と子と聖霊なる神の限りない愛の中へと導き入れられます。 

 使徒言行録では、サマリアの地でフィリポによって宣べ伝えられた救いの知らせが、信仰と喜びをもって受け入れられたことが語られています。その知らせを聞いたペトロとヨハネがすぐに来て、新しく信じた人々の上に手を置き、聖霊を授けました。この行為は、キリスト教の信仰が決して個人的なものではないことをはっきりと示しています。聖霊は人々を一致させ、集め、教会を一つの体として成長させます。聖霊は福音宣教によって始められた業を完成させ、信じる者を神との完全な交わりへと導きます。

 今日においても、弁護者である聖霊は、弱るときの私たちの信仰を支えます。疑いや混乱が私たちを覆うとき、真理の霊は私たちの良心を照らし、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛することができるように、内面的な力を与えてくださいます。キリスト者の生活とは、私たちの内におられる聖霊の存在を歓迎し、信仰と希望、慈愛を通してそれに応えて生きることです。

兄弟姉妹の皆さん、信頼をもって、キリストが与えてくださる聖霊を受け入れましょう。私たちの人生全体が、父と子と聖霊の愛への賛美と証しとなりますように。今も、そして世々に至るまで。アーメン。

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         主の昇天の祭日  A  2026517日  グイノ・ジェラール神父

          使徒 1, 1-11     エフェソ 1, 17-23      マタイ 28, 16-20

イエスは昇天に際して、ガリラヤに戻られました。そこはイエスの使命が始まり、弟子たちが選ばれた場所です。イエスはその地で、最後にもう一度弟子たちを集め、ご自身の神秘の完成へと導かれます。

イエスは十一人の弟子を山の上に集められました。それは、かつて弟子たちを山へ導き、「神の国へと続く幸せの道」を告げられた時と同じです。かつて神はモーセをシナイ山の頂に導かれました、それは、エジプトの奴隷状態から解放されたヘブライ人を神の聖なる民とするためでした。同じように、イエスは山の頂で弟子たちを集め、罪と死から解放された全人類を、ご自身の聖なる教会とするためです。

これらの山の頂で、イエスと父なる神は、神性において一致していることを現し、天と地を一つに結ばれます。このようにして、神の国は、天と地のすべての権威を授けられたイエスにおいて、全宇宙に広がっていきます。かつてモーセと神の民が約束の地へ導かれたように、イエスの弟子たち、そしてイエスを信じるすべての人も、神の永遠の国へと導かれていきます。 

すべての人は例外なく、洗礼の秘跡によって、父と子と聖霊である神との交わりへ招かれています。天において、神の子としての栄光に戻られたイエスは、世の終わりに栄光のうちに再び来られるその時まで、私たちと共にいてくださいます。人となられた神であるイエスは、いつまでも「インマヌエル」として「私たちと共におられる神」です。

主の昇天は、私たちをイエスから遠ざけるためではなく、むしろイエスのうちに一つとするためです。イエスは、ご自身と父が一つであるように、私たちもイエスのうちに一つとなり、その栄光を共に分かち合うことを望んでおられます(参照:ヨハネ1721–22)。

それでは、洗礼によってキリストの体の一部となったことを喜びましょう。また、イエスのように「神の子」と呼ばれていることも喜びましょう。さらに、聖霊の力に満たされ、私たちは永遠に神の賛美を歌えることができることを大いに喜びましょう。アーメン。

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          主の昇天の祭日  A  2026517日  グイノ・ジェラール神父

                  使徒 1, 1-11     エフェソ 1, 17-23      マタイ 28, 16-20 

イエスは昇天に際して、ガリラヤに戻られました。そこはイエスの使命が始まり、弟子たちが選ばれた場所です。イエスはその地で、最後にもう一度弟子たちを集め、ご自身の神秘の完成へと導かれます。

イエスは十一人の弟子を山の上に集められました。それは、かつて弟子たちを山へ導き、「神の国へと続く幸せの道」を告げられた時と同じです。かつて神はモーセをシナイ山の頂に導かれました、それは、エジプトの奴隷状態から解放されたヘブライ人を神の聖なる民とするためでした。同じように、イエスは山の頂で弟子たちを集め、罪と死から解放された全人類を、ご自身の聖なる教会とするためです。

これらの山の頂で、イエスと父なる神は、神性において一致していることを現し、天と地を一つに結ばれます。このようにして、神の国は、天と地のすべての権威を授けられたイエスにおいて、全宇宙に広がっていきます。かつてモーセと神の民が約束の地へ導かれたように、イエスの弟子たち、そしてイエスを信じるすべての人も、神の永遠の国へと導かれていきます。

すべての人は例外なく、洗礼の秘跡によって、父と子と聖霊である神との交わりへ招かれています。天において、神の子としての栄光に戻られたイエスは、世の終わりに栄光のうちに再び来られるその時まで、私たちと共にいてくださいます。人となられた神であるイエスは、いつまでも「インマヌエル」として「私たちと共におられる神」です。 

主の昇天は、私たちをイエスから遠ざけるためではなく、むしろイエスのうちに一つとするためです。イエスは、ご自身と父が一つであるように、私たちもイエスのうちに一つとなり、その栄光を共に分かち合うことを望んでおられます(参照:ヨハネ1721–22)。

それでは、洗礼によってキリストの体の一部となったことを喜びましょう。また、イエスのように「神の子」と呼ばれていることも喜びましょう。さらに、聖霊の力に満たされ、私たちは永遠に神の賛美を歌えることができることを大いに喜びましょう。アーメン。

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                       聖霊降臨の祭日  A年  2026524日 グイノ・ジェラール神父

                       使徒 2, 1-11    1コリント12, 3, 7, 12-1    ヨハネ 20, 19-23

 聖霊降臨の出来事は、神からの賜物です。それは、被造物がより深く秩序づけられ、その意味を現すことを可能にする出来事です。聖霊降臨は新しい出発のしるしです。聖霊の力によって、神は万物を新たにし、私たちを新しい人へと造り変えてくださいます。 

 聖霊降臨は、私たちを終わりなく、絶えず神を賛美するように招く喜びの日です。聖霊は私たちを、復活されたキリストと一致させてくださいます。そのキリストにおいて、天と地もまた一つに完全に結ばれています。天使たちや聖人たちの声と一つになる教会の賛美は、まさに天上の賛美です。洗礼を受けた人々は、復活の喜びに輝き、全地において喜びにあふれ、神の栄光の賛歌を絶え間なく歌います。叙唱のことばは、感謝の祭儀のたびに、このことを私たちに繰り返し思い起こさせてくれます。

 神の聖霊は、大いなる川のように、世代から世代へと神の愛の力を運び、もたらします。神の救いのご計画は、すべての被造物に及び、それを新たにするものです。この救いはまた、神に似せて創造されたすべての人を、永遠に神の栄光を歌う天の聖人とするものです。このことを黙想し、深く考えるキリスト者は、洗礼によって自分が神の子とされ、神の救いのご計画の実現に参与するにふさわしい者とされたことを喜びます。

 今日、福音朗読の前に、聖霊が私たちをすべての賜物で満たしてくださるよう祈り求めました。この祈りが一年に一度しか歌われないのが残念です。できることなら、私たちが毎日唱える祈りとなればと願います。自らの存在を聖霊の保護のもとにゆだねるとき、私たちは少しずつ、自分自身のためではなく、私たちを愛し、私たちのために命を捧げてくださった神のために生きることを学んでいきます。

聖霊の友となること、その賜物に満たされること、これこそが、神が私たちに望んでおられることです。イエスが言われたように、聖霊は私たちを真理へと導く使命を与えられています(参照:ヨハネ1613)。父なる神が、御子イエスの約束を私たちに思い起こさせてくださるよう願いましょう。そうすれば、聖霊が私たち喜びで満たし、私たちの知性を照らし、真理の理解へと少しずつ導いてくださるでしょう。アーメン。

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       三位一体の祭日  A年  2026531日  グイノ・ジェラール神父

          出エジプト34, 4-6    2コリント 13, 11-13    ヨハネ 3, 16-18 

 神は、真理と命の言葉であるイエスをこの世に遣わされました。また、神は聖性の源である聖霊を私たちに与えてくださいました。それは、私たちにご自身の限りない愛の神秘を示してくださるためでした。神は私たちをあまりにも深く愛しておられるので、世界を救う三位一体の愛の力をもって、ご自身を私たちに与えてくださるのです。私たちが今日、世界中のキリスト者と共に祝うのは、まさにこの信仰の神秘です。 

神は、今も、昔も、そしてこれからも存在されるお方です。始まりがなく、永遠である神は、(まこと)にすべてのものの始まりであり、また終わりでもあります。昔から今に至るまで、そして永遠にそうであり続けます。神は私たちの父であり、イエスにおいて、また聖霊の交わりの中で、私たちをその子どもとしてくださいます。宇宙が創造される前、永遠の昔から、父と子と聖霊である神は私たちを選び、愛してくださり、絶えずご自身のもとへと招いておられます。実に、私たちの運命は、愛の完成において神と一つになることです。

このことを実現するために、神は私たちのために命を捧げ、私たちの罪を赦し、悪の力を滅ぼし、私たちを聖性の衣で包んでくださいます。神だけが私たちの救いであり、神だけが命の充満であり、神だけが真の愛と平和です。私たちがこれを信じるのは、神ご自身があらゆる時代を通して、そのことを私たちに示してくださったからです。たしかに、神は人類の文明の進歩や、人間が得てきた知識の歩みの中でも、ご自身を少しずつ現してくださいました。

私たちはすでに神について多くのことを知っていますが、これから発見することは、私たちの想像や知識をはるかに超えています。だからこそ私たちは、神を見つめ、神にふさわしく賛美する方法を知っている天使や聖人たちと共に、常に賛美を捧げるのです。

三位一体の祭日が、私たちにとって神の限りない愛に感謝する機会となりますように。神が絶えず私たちに与えてくださるすべての恵みと祝福のために、そして永遠の昔から私たちのために準備してくださった永遠の幸せのために、大いに神に感謝しましょう。 

神に愛されている子どもたちとして、父と子と聖霊である神への信仰を喜びのうちに宣言し、心からの感謝をささげて神を賛美しましょう。父である神の愛、主イエス・キリストの恵み、そして聖霊の交わりが、いつも私たちとともにありますように。アーメン。

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       キリストの聖体の祭日  A年  202667  グイノ・ジェラール神父

               申命記8, 2-3, 14-16    1コリント10, 16-17    ヨハネ6, 51-58 

イエスにとって、どちらがより容易でしょうか五つのパンと二匹の魚で大勢の群衆を満腹にすることでしょうか、それともすべての罪から清められた人類を父なる神に捧げ、自らの体で養い生かすことでしょうか。命を与える唯一のパンであるイエスは、私たちがご自身と一つになるために、ご自分の体を食べ物として与えてくださいました。イエスがすべての人にご自身を与えれば与えるほど、私たちはいっそうイエスと親密に結ばれます。これこそ、今日私たちが祝っいる大いなる神秘です。

聖パウロは、この信仰の神秘を次のように要約しています。「私たちは大勢であっても一つの体です。なぜなら、皆が一つのパンにあずかるからです」と。もし私たちがキリストと一つであるなら、それはキリストと共にこの世界が救われるように行動しなければならないということを意味します。また、イエスがそうされたように、自分の命をささげる覚悟を持つべきであることも意味します。しかし多くの場合、私たちは神の言葉(それは命のパンでもある)によって私たち自身を養い、私たちの言葉と行いを通して周囲に信仰を広めることによって、世界に救いをもたらすのです。 

神のことばとキリストの体によって絶えず養われている私たちは、なんと幸いなことでしょう。キリストと親密に結ばれ、キリストによって聖なる者とされている私たちは幸いです。また、司祭の手を通して、世界を贖う御子の体と血を神にささげることができる私たちは、本当に幸いです。そうです。私たちの信仰の神秘は、なんと偉大なのでしょう。神が私たちに与えてくださる愛は、なんと大きいでしょう。ですから、私たちの賛美と感謝もまた、限りなく大きなものとなりますように。

「取って食べなさい。これは私の体である」と言われたその日から、イエスは私たちと深く結ばれ、私たちのうちに「永遠の命へと湧き出る泉」(ヨハネ414)となってくださいました。東方教会は、このキリストの内なる現存を「不死の泉」と呼びます。この計り知れない恵みを大切にし、かつてラテン語で「聖なる秘跡(Tantum ergo sacramentum)」と呼ばれていた聖体の神秘を、しばしば黙想し、賛美しましょう。 

もし可能であれば、時にはこの教会に一人で祈りに来てください。そして、愛と慈しみをもって迎えてくださるイエスがおられる聖櫃を静かに見つめてください。教会の静けさの中で、イエスとまなざしを交わし、何も言わずに、何もせずに、ただその愛に身をゆだねてください。

太陽がその光のぬくもりで私たちを温めるように、その時に、イエスはあなたの心を温め、体を元気づけ、あなたの知性を照らしてくださいます。そうすれば、静かに神に寄り添うことが、いかに甘美で素晴らしいことであるかを体験し、味わうでしょう。さらに、あなたの内に湧き出る命の泉の静かなささやきも聞こえてくるでしょう。アーメン。                   



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