グイノ神父の説教



2024-2025年

C 年

待降節の主日

主の誕生・クリスマス

四旬節の主日


   

待降節第1主日
待降節第2主日

待降節第3主日
待降節第4主日
主のご降誕の祭日

四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
枝の主日




      待降節第1主日  C年  2024121日  グイノ・ジェラール神父

      エレミヤ33,14-16     1テサロニケ3,12-42    ルカ21,25-36

 預言者エレミヤは、メシアの誕生がすべての人にとって幸福の源になると宣言しました。出産はいつもあふれる喜びの泉です。イエスの誕生は世界を変え、永遠の幸福への道を開きました。聖パウロは、この幸福は相互の愛と神の前にとがめのない生き方の上に築かれると述べています。さらに、イエスは私たちに用心深く祈るよう勧めています。これこそが待降節が私たちに求めていることです。それは、クリスマスの喜びが私たちの心の中で輝き、神が預言者エレミヤを通して約束された幸福を味わうことができるようにるためです。

 イエスが誕生して以来、そしてそのずっと前から、戦争、飢餓、伝染病、自然災害が世界繰り返し襲いかかってきました。イエスは、「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」と語られましたが、イエスは特に私たちに、希望を失わず、自信を持ち続けるように勧めています。私たちの周りにあるものすべてが転覆し、崩壊しても怖くないということがあり得るでしょうか。しかしイエスは、しっかりと立ち、頭を上げるようにと求めています。周囲の不幸に目を向け続けるのではなく、その不幸のただ中にしっかりと立って、私たちは神に目を向けなければなりません。この態度は、私たちをキリストの証人とする信仰の姿勢です。

 
不幸そのものの真っ只中にいても、警戒を怠らず、祈り続けて目を神に向けることは、信仰と希望の証しです。私たちの態度を見て、人々は間違いなく、私たちが愚かであるか、無頓着であると考えるでしょう。しかし、私たちはこのキリスト教的な態度が私たちの心に神の平安と試練における勇気を注いでくれることを知っています。さらに、聖パウロが勧める相互愛を加えるなら、私たちの証しは、私たちを見ている人々をも神に立ち返るように招くでしょう。

 キリストは世の終わりまで私たちと共におられるので、私たちは何も恐れる必要はありません。むしろイエスにさらに近づき、イエスが与えてくださる安全さと深い平和を味わうことができます。この待降節の期間は、私たちがこれを行うことができるように特別に私たちに提供されています。毎週日曜日、私たちはまさに主にもう少し根を張るために主に会いに来ます。ここ、この教会で、イエスは私たちがとがめられることなく毎日を生きるために、そして永遠の愛で愛することを学ぶために必要な愛を私たちに与えてくださいます。

 今日の福音は怖い内容に思えるかもしれませんが、本当は良い知らせです。福音が描く世界の終わりもまた良い知らせです。大小を問わず人間が作り出す世界の破壊とは決して似ていません。

  今日の福音は、大きな希望をもたらします。神は全人類を救うために来られ、また来られようとしていると教えています。だからこそ、永遠の幸福の源である神からの救いを歓迎するために私たちは立ち続けなければなりません。この待降節は、私たちが目覚めて、警戒を怠らず、常に祈り、すべての人に「熱烈な愛」を示すのに役立ちます。アーメン。

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     待降節第2主日  C 年  2024128日  グイノ・ジェラール神父

       バルク 5,1-9     フィリピ 1,4-68-11     ルカ 3,1-6

 預言者バルクは、神はご自身の栄光、慈悲、正義に照らして、私たちを喜びで満たしたいと願っておられると断言しています。このような理由から、聖パウロは私たちに、自分の信仰生活にとって何が最も重要かを見極める明白な心を持つように求めています。洗礼者聖ヨハネはそれを聞きたい人々に、バルクの預言を繰り返します。回心するという条件によって「すべての人は神の救いを見る」と。

 回心するのは簡単なことではありません。自分の欲望が神に向かうのか、それとも神から背を向けるのかを識別できると誰が主張できるでしょうか。自分の行動が善に向かうのか悪に向かうのかをどうやって知るのでしょうか。神に向かう私たちの歩みが、秩序のない欲望によって妨げられないように、私たちは皆、識別の恵みを必要としています。ある詩編は私たちにこのことについて考えるように勧めています。「主よ、わたしの願いはすべてあなたの御前にあります」(参照:詩編38, 10)。この聖句は、自分の願いを自分自身のうちではなく、むしろ神のうちに置くように勧めています。

 これは謙遜さの最初のステップであり、この謙遜は道を平らにし、丘を低くし、曲がっているものをまっすぐにします。キリスト者は、自分自身を魅力ある者として自分を中心に生きるのでなく、神の臨在の前で生きる人でなければなりません。私たち自身の心をはっきりと見るためには、神の臨在の中で日々生きることが極めて重要です。私たちが好きなことをするため言い訳よりも、私たちの反応や恐怖、抵抗、欲望は、多くのことを私たちに教えてくれます。自分の意志への執着を特徴づける「心の固さ」を自分自身の中に認識したとき、神に立ち返るべき時が来ていると見分けましょう。


 このように、識別力によって私たちは自分自身に目を開き、回心することができます。謙遜さは真実であるため、自己認識は謙遜さの基礎です。ギリシャの哲学者ソクラテスは、聖パウロのずっと前にこのことを発見していました。ソクラテスは「汝自身を知れ」とよく語っていました。彼には、自己認識は知恵にとって不可欠です。なぜなら、私たちは自分自身の限界や強み、弱みを理解することによってのみ、高潔で倫理的でバランスの取れた人生を送ることができるからです。逆に、自己認識の欠如は間違いや誤解を招きます。

  詩編の別の箇所も、私たちが回心するために役立ちます。「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか(参照:詩編5021)と神は言われます。私たちは「神の臨在の前で生きるために」キリスト者になったことを忘れがちです。神は、それを決して忘れません。回心への道は、私たちが神ご自身に立ち返ることです。私たちへの愛に満ちた神のこの沈黙は、ある日、すべてを捨ててイエスに従うことができなかった金持ちの青年に注がれたイエスの愛のまなざしの中で具体化されていました。


 ですから、今日、謙遜になって、私たちの中に組み込まれている神の拒否を認識しましょう。自分の過ちと、愛することや赦すことを拒んできたことを認めることに同意しましょう。そして、赦しの秘跡で神の限りのない慈しみと優しさ、喜びをすべて受け取ることを謙遜に受け入れましょう。神は常に沈黙のうちに、疲れることなく私たちを待っておられるということを認識しましょう。なぜなら、神はまず私たちを愛してくださった方だからです。アーメン

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    待降節第3主日  C年  20241215日   グイノ・ジェラール神父

         ゼファニヤ3,14-18   フィリピ 4,4-7   ルカ 3,10-18

 待降節の季節は、イエスの誕生記念日と終末に栄光に包まれて再び来られるイエスの到来に向けて私たちを準備、整えるさせ時期です。この時期は、回心の時期であると同時に、喜びと希望の時期でもあります。イエスが非常に近くにいて、私たちの中にもおられることを知って大いに喜びましょう。

 エディット・ピアフの「愛の賛歌」がよく言っているように、「青空が頭上に落ちてきても、大地が崩れても、気にしない」全く問題にならない、なぜなら、イエスは私たちを愛していて、私たちを救いに来てくださるからです。そうです、たとえ私たちの夢や望みが私たちを失望させようとも、たとえ健康や友人が私たちを裏切ろうとも、神の愛は私たちを守り、また、私たちをますます神の方へ引き寄せます。神の愛は私たちに真の平和を与えます。この平和は私たちの想像をはるかに超えている、と聖パウロはフィリピの教会への手紙に保証しています。すべてがうまくいかなくなった時に、パニック状態に陥ることがないように、この平和によって私たちの心と考えはキリストのうちに守られます。

 人生の試練に直面しても、私たちの信仰が揺らがないように、イエスは、愛によって私たちに平和を与えてくださいました。したがって、私たちはイエスを信頼しなければなりません。すべてが上手くいかない時、私たちのコントロールを超えてしまう、私たちはこの平和に頼って、ためらわずイエスに向かうべきです。預言者ゼファヤは、かなり前から私たちに警告しました。 「恐れるな、お前の主なる神はお前のただ中におられます。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにします」と。

 洗礼者ヨハネは、私たちが持っているものを分かち合うように勧めています。パンや衣服など相互扶助と同じように、信仰の光、神の平和、希望の喜びも、人々と分かち合うのに役立つものです。イエスに倣って、私たちも、愛する人の死によって悲しみ、孤独に感じている人々に近づきましょう。神が私たちに残してくださった平和を苦しんでいる人々にもたらしましょう。 それは主の道を整える一つの方法であり、丘を平らにし、曲がった道をまっすぐにする大切な方法です。

 クリスマスをお祝いするために、私たちまず自分自身と周りの人たち全員を喜びの衣で着飾る必要があります。人を赦す時、心を落ち着かせて傷つける言葉を言わないよう努める時、私たちは喜びに満たされます。求められたことを忠実に達成し、主を喜ばせようと日々努力する時、私たちは喜びの衣を身にまとい、平和の泉となります。

 ですから、兄弟姉妹の皆さん、神が私たちを救うために来られるのですから、恐れることなく主にあって喜び、主の平和の泉となろうではありませんか。アーメン。

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        待降節第4主日  C年 20241222日   グイノ・ジェラール神父

 
         ミカ 5,1-4   ヘブライ10,5-10    ルカ1,39-45
 預言者ミカは私たちにメシアの誕生の場所を示してくれました。このメシアは宇宙万物を導く羊飼いとなるでしょう。こうしてイスラエルの最も小さな村から宇宙の王が誕生します。これこそが神の考え方であり物事のやり方です。

 ヘブライ人への手紙を読むと、イエスが自分の意志を行うためではなく、父なる神の意志を忠実に実現するために生まれたことを思い出します。この従順は世界の聖化の源となります。神が人となったのは、私たちを救うためだけではなく、私たちを聖化するためでもあります。

 聖霊に満たされたエリサベトは、救い主の母に出会って喜びの声をあげます。彼女はまた、自分の中にすでに宿っている子供を満たしている神秘的な喜びを表します。この喜びは、初めて、クリスマスの夜にベツレヘムの羊飼いたちに告げられ、そして福音の宣言を通じて徐々に広がり、最終的に宇宙万物に浸透していきます。

 神は私たちの間に送る御子の誕生の準備のために多くの時間とエネルギーを費やしました。神はイエスの誕生の場所と時間を慎重に選び、イエスを守り育てるためにマリアとヨセフを選びました。神は、全人類を救うイエスを私たちに与えるために、困難な時期と貧しく不安定な手段を意図的に選ばれました。これは驚くべきことかもしれませんが、神は常に弱く、小さく、軽蔑されているものを用いて、ご自分の力を現されます。マリアは賛美の歌の中でそれをうまく表現しています。「神は、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(参照:ルカ1, 52-53)と。

 クリスマスが他の休日と同じようにならないように、私たちは主の誕生に宿る神秘を覚えておかなければなりません。マリアがエリサベトを訪ねたように、神は私たちを喜びで満たすために私たちを訪ねて来られます。クリスマスの喜びは、人を救い、聖化する普遍的な喜びであり、クリスマスが必要ないとは誰も言えません。もし誰かがそう言うなら、その人は神の永遠の愛を理解していないからです。クリスマスの神秘を、もはや信じなくなったキリスト者は、むなしい金持ちになり、王座から放り出された権力者のような者です。神から受けるべきめぐみと聖霊の力を無視するからです。

 「信じる人は幸いです」とエリサベトはマリアを歓迎しながら宣言しました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」とイエスは癒す人たちによく繰り返します。息子の癒しを願うこの父親のように、私たちも遠慮なく「主よ、私は信じますが、信仰のないわたしを助けてください」(参照:マルコ924)と叫びましょう。この願いこそは、クリスマスの恵みです。習慣に流されて無関心に陥らないように、私たちは皆この恵みを必要としています。信仰に伴う喜びと希望を私たちに与えて、信仰を強めてくださるように神に願いましょう。また、受けた洗礼の恵みによって、私たちにイエスを知らせ、私たちをイエスと永遠に結び付けてくださった神に感謝することを決して忘れないようにしましょう。

 御子イエスの誕生が、私たち皆に、神の喜びと聖霊の力に満ちた生き生きとした信仰を与えてくださるように、聖母マリアにも祈りましょう。アーメン

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       主のご降誕  C年  20241224日   グイノ・ジェラール神父

             イザヤ9,1-6     テトス 2,11-14      ルカ 2,1-14

 ベツレヘムの羊飼いたちにクリスマスイブに何をしたか尋ねると、きっとこう答えるでしょう。

 「その夜、私たちは広い野原で数頭の羊の近くで休んでいました。突然、天から天使たちが現れ、私たちに生まれたばかりの子どもを探すように言いました。彼らはその子が、神が約束した救い主だと教えたので、羊の群れをそこに残して、急いでわたしたちはベツレヘムの村へ向かいました。その子の生まれた正確な場所が全く分からなかったので、私たちは馬小屋で生まれたばかりの子どもを見つけるまでに、眠っている村の人々を起こして質問し、家々を訪問しなければなりませんでした。馬小屋で生まれたばかりの子どもを見つけるまで、私たちは村の人々から冷たくあしらわれました。

 ようやく見つけた幼子は、天使たちが言ったように、布に包まれ、両親に囲まれて飼い葉桶に横たわっていました。私たちは黙って彼をじっと見つめましたが、何も言わずに、心の中で神を讃えながら、羊の群れの元に戻りました。その理由をどう説明したらいいのか解りませんが、確かに私たちの心は喜びと希望で燃えていました。

 さらに羊飼いたちに質問してみると、次のようなことも教えてくれます。「実際のところ、その時、私たちは誰を見ればいいのか分かりませんでした。生まれたばかりの子どもか、とても美しいその母親か、それとも二人を見守っている謙虚で思慮深い男性なのか。実際は、あちこちで侮辱され、私たちは皆、子どもの誕生にふさわしい場所をすぐに見つけられなかったことに少し腹を立てていましたが、この男性は私たちが来ることを知っていたかのように外で私たちを待っていて、礼儀正しく丁寧に私たちを歓迎してくれました。

 この家族も、ローマの住民登録のために遠くから来た他の多くの人々と同様に、疲労で疲れ果てているように見えました。しかし、この家族は尊敬を呼び起こし、神を賛美したくなる神秘的な雰囲気を放っていました。動物用のわらの上に横たわった子どもは、顔を母親の方に向け続け、母親に微笑んでいるようでした。幼子の母親は驚いた様子で私たちを見つめました。彼女はどこか別の場所からやって来たかのような平安と深い喜びを味わっているように私たちには見えました。出産にはあまり適さないこの場所で、何かが私たちを包み込み、少しずつ心に浸透していく存在のようなものを感じたので、私たちは沈黙していました。

 兄弟姉妹の皆さん、主の偉大な業はいつも沈黙の中で行われます。神だけがその証人であり、マリアのようにすべてを心に留め、思いめぐらし、黙想することによって神の偉大な業を見ることができます。人生のあらゆる出来事を沈黙で囲むことによって、マリアは神の臨在のうちに留まり、聖霊が彼女の中で働き続けることができました。私たちも、このように生きるために招かれています。洗礼を受けた私たちは神の神殿であり、肉となった神の言葉であるイエスが私たちの内に宿られるからです。これがクリスマスの輝かしい神秘です。ですから、私たちは沈黙の中で神に感謝し、礼拝し、クリスマスの喜びと平和を深く味わいましょう。アーメン

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          四旬節第1主日 202539日   グイノ・ジェラール神父

              申命記26, 4-10   ローマ 10, 8-13   ルカ 4, 1-13

 四旬節は悲しみに沈む期間ではなく、節制と放棄の時期です。四旬節は何よりもまず、私たちの救いの神秘について考える期間であり、イエスという人物とその教えに私たちの目を向けさせます。私たちの救い主であるイエスは、シミュレーションなしで私たちの人間の状態を経験されました。私たち自身が経験することから逃れられるものは何もありません。 愛され、憎まれ、侮辱され、呪われ、求められ、拒絶され、拷問され、十字架につけられたイエスは、喜び、涙、苦しみ、そして死の痛みを経験されました。

 誘惑は生涯を通じてキリストを苦しめるようになりました。しかしそのおかげで、イエスは私たちに悪を拒絶し、勝利するよう教えられました。主であり神であるイエスは、私たちと同じように生きられたからこそ、すべてにおいて私たちの導き手であり、模範なのです。そういうわけで、イエスと父なる神を知ろうとすることは、神の望みに従って生きる必要があることに気づくことを意味します。これを「回心」と呼びます。私たちは自己中心的な生き方から離れて、神の方を向くのです。私たちがキリストに近づく方法は、小さな犠牲や四旬節の断食だけではなく、教会の典礼を通して、何よりも祈りと交わりの場で、私たちの間におられるイエスの臨在を体験します。

 典礼において私たちは、キリストが世界を救った神秘の中でキリストと一つになります。四旬節は、キリストの情熱の神秘に深く入り込み、私たちをキリストの復活の喜びと力で満たす時です。また、四旬節は、私たちが世の強力な誘惑に惑わされないように、聖霊が私たちの知性と判断力をひらいてくださる時期でもあります。この光は私たちが空想や気まぐれに従うのを防ぎ、私たちを真実へと導きます。

 四旬節は、イエスの最も親しい弟子であるヨハネ、ヤコブ、ペロのように生きるよう呼びかける季節です。イエスのことを頻繁に考えるように努め、時間を見つけてイエスと一緒に過ごし、私たちを神の神秘に導いてくれるイエスの言葉に耳を傾けましょう。イエスの近くで、そしてイエスのうちで、私たちが永遠の慈悲深い愛でどれほど愛されているかを体験しましょう。

   イエスのように、私たちを襲う誘惑や疑いと戦うために、私たちも神の言葉に信頼し、祝福された神の御手に自分の人生を委ねましょう。四旬節は恵みの時であり、キリストとの人生を選択する時です。それは、神が私たちの魂の秘密の中で、熱烈な愛をもって行動し、ますます一致して輝きを増す時です。これが四旬節の最初の日曜日の意味です。それは、命に至る道であるイエスの道を歩くことです。イエスをそしてイエスがなさったことを見て、イエスと共に歩みましょう、なぜなら、私たちを導き、守り、私たちと共に戦ってくださるのは、同じ聖霊であることを知っているからです、 アーメン。

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        四旬節第2主日 C  202539日   グイノ・ジェラール神父

        創世 15,3-1217-18    フィリピ 3,17-214,1   ルカ 9,28-36

 聖書を読むと、多くの人が神の栄光を見たことがわかります。アブラハム、モーセ、エリヤ、イザヤ、エゼキエル、ダニエル、ペロ、ヤコブ、ヨハネ、ステファノ、パウロなど、他にもたくさんの人物を挙げることができます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(参照:ヨハネ1,14)とヨハネは福音書の中で証言しています。ペトロも同じ証言をしています。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(参照:2ペトロ 1,16)と。神の栄光を見ることは、キリスト者としての私たちの日々の努力の一部であるべきです。神は千通りもの方法で私たちにご自分を現わされます。神を発見するのは私たち次第です。これは、天使や天の聖人とともに神の栄光を歌い、宣言するためです(ミサの序文参照)。

イエスは、私たちが神を見ることができるように来られました。洗礼の恵みを受けた私たち一人ひとりは、み言葉を通してすべての人に近づくイエスを見ることができるようになりました。イエスが近くにいるのを見て感じることは、計り知れない喜びの泉となります。イエスの変容は弟子たちを喜びで満たしました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(参照:マルコ9,5)とペロは叫びました。彼らは喜びに満たされました。それは一瞬のことに過ぎませんが、弟子たちにとって、それは神が私たちのために準備してくださった永遠の喜びを味わう前触れでもありました。

悲しいことに、罪は私たちから神を見る視界を奪います。罪は私たちの目を覆い、神が私たちに何を望んでおられるのかを理解することを妨げます。また、罪は私たちを神から遠ざけ、信じる喜びを奪います。イエスは盲人や口の不自由な人々を癒され、彼らが神の栄光を見て神に感謝を捧げられるようにされました。長い間会っていなかった人と再び会うことが喜びの源であることを私たちは知っています。それと比べても、イエスを見ることが与える喜びはどれほど大きいでしょうか。「心の清い者は幸いです。彼らは神を見るからです。」(参照:マタイ58節)とイエスは約束されました。

ですから、この四旬節の間に、イエスが私たちの目を照らし、その臨在の喜びに私たちの心を開いてくださるよう願いましょう。今年の聖年の恵みが、私たちにイエスの臨在のしるしをよりよく識別する力を与えてくれますように。神を見ること、そしてその栄光を仰ぎ見ることへの願いが私たちの中で強まるように祈りましょう。イエスはこの意向のために特に父なる神に祈られました。「父よ、あなたが私にくださった人々が、私の栄光を見ることを私は願っています」(参照:ヨハネ17,24)と。

イエスが私たちに示そうとしている栄光とは、私たちに対する愛の神の全能の力です。イエスは私たちの喜びが満たされることを望んでおられます(参照:ヨハネ15, 1617,13 )。そして、この喜びを誰も私たちから奪うことはできません(参照:ヨハネ16,22 )。「希望は欺かない」(参照:ローマ5,5 )ことを思い起こしながら、イエスの願いを私たち自身の願いとしましょう。アーメン。

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      四旬節第3主日 C年  2025323日   グイノ・ジェラール神父

        出エジプト3,1-81013-15  1コリント10,1-610-12  ルカ13,1-9 

 「希望は欺かない」と聖年のテーマが宣言しています。神が希望の源であることを知ることは喜ばしいことです。今日、主は私たち一人ひとりに、心の奥底でこう語りかけておられます。「私はあなたがたが将来、実を結ぶことを期待しています。」

私たちの人生において、すべてが枯渇しているように感じる時でさえ、神は私たちに希望を持ち続けてくださいます。イエスは絶えず私たちにこう語りかけておられます。「私はあなたを信じています。あなたは素晴らしい実を結ぶと確信しています。なぜなら、私の愛の力すべてをあなたの中に置いているからです。」神が私たちにこれほどの希望を与えてくださる理由は、私たちを立ち上がらせ、生き返らせ、永遠に残る実を結ばせることができることを神ご自身がご存じだからです。 

 神はモーセが使命を果たせるように、愛の力をすべてモーセに注ぎました。モーセは、自分の反抗的で怒りっぽい性格や話すのが苦手な性格、そして人を殺すほど正義を自分の手で執行しようとする熱意を知っていたからです。しかし、それでも神はモーセに限りない信頼を寄せていました。そしてモーセは、40年にも及ぶ困難と試練を経験して、神が選んだ民を約束の地へと導く使命に成功したのです。

この物語を語っている聖パウロは、キリスト者を迫害するほどに神に反抗していたことを自らよく知っています。しかし、それにも関わらず神が自分に希望を置き、キリストの愛が、彼に福音を宣べ伝える力を与えてくれることを信じていました。聖パウロ自身が、ローマ人への手紙 5 章の 5 節で、このこと記しています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と。この聖なる年の間に、私たち一人ひとりは信仰を強めるためにこの言葉を繰り返さなければなりません。

いちじくの木のたとえ話は、私たちの過ちを負い、それにもかかわらずすべてがうまくいくことを望んでいる神の忍耐を示しています。神が私たちに抱いている希望は、成功のチャンスです。勇気を出してそれを信じてみましょう。モーセや聖パウロがそうしたように、試練を通して何よりも神の希望を信じましょう。 試練や自然災害は、私たちの罪に対する神の罰ではありません。イエスが語られたように、試練は私たちが回心するのを助けてくれます。試練や自然災害は、どんな困難にも負けずに希望を持ち続けるようにと言う神の招きなのです。 

聖パウロはローマ人への手紙で、アブラハムを模範とするよう勧めています。なぜなら「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じました」(参照:ローマ4:18)からです。状況がすべてを不可能に思えるときでも、私たちは神に対する絶対的な信頼を持たなければなりません。 

 私たちには、人生の出来事の中に神が隠されている意図を理解する力はありません。しかし、私たちは神の力を信じているので、たとえ不幸が私たちの喉を締め付けたとしても、希望を持ち、神に感謝しなければなりません。すべてを失いながらも神への希望を宣言したヨブに倣いましょう。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(参照:ヨブ記1,21)。このようにして、私たちは神に栄光をもたらす永続する豊かな実を結ぶように求められているのです。神に希望を抱くということは、神に対する私たちの愛と信仰を証明することです。アーメン。

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         旬節第4主日 C年  2025330日    グイノ・ジェラール神父

ヨシュア5,10-12   2コリント 5,17-21   ルカ 15,1-3,11-32

神は永遠の昔から私たちの中にご自分の喜びを見いだしたいと願っておられます。そうすることで、私たちが神のうちに自分自身の喜びを見いだすことができます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と聖霊に満たされたマリアは宣言しました。詩編は私たちにもこの喜びを宣言するように勧めています。「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます」(参照:詩編35,9)と。すでに預言者ネヘミヤは「主の喜びは私たちの城壁です」(参照:ネヘミ8,10)と宣言しています。

 主のうちに喜び、主の喜びを自分自身の中に受け入れることは、私たちが回心するのを助ける大きな恵みです。神のすべての言葉は私たちにとって良い知らせであるからこそ、神の喜びを私たちの心に注ぎます。神のすべての言葉は、いくつかの理由で、良い知らせであると考えられています。まず、第一に、神の言葉は人類に対する神の愛を明らかにしています。これらは、神が決して私たちを見捨てず、豊かな慈しみをもって、イエス・キリストを通して私たちに救いを与えてくださることを思い出させるからです。私たちにとってこのあがないと永遠の命の約束は、確かに深い喜びの泉です。

神の言葉はまた、平和と希望をもたらし、疑いや恐怖、苦しみの時に私たちを安心させてくれます。そこには心の平安、神の保護、そしてより良い未来への約束が込められています。神の言葉を信じる人の心は、喜びと揺るぎない希望で満たされるのです。

 神の言葉はしばしば私たちの歩みを照らし、導く灯火に例えられます。神の言葉は私たちに正しい選択をさせ、神に喜ばれる人生を送る知恵を与えます。事実、神の意志に従って歩んでいることを知ることは、私たちを深い喜びで満たします。神の言葉は私たちの魂を新たにします。神の言葉は、私たちの心を変え、精神的 、感情的な傷を癒し、私たちを神に近づける力をもっています。神によって与えられるこの内面の変化は、親密で深い喜びの源です。

私たちは皆、神の言葉を黙想することによって、神と直接につながることができることをよく知っています。創造主とのこの親密な交わりは、地上のあらゆる喜びをはるかに超えて、神ご自身の喜びで私たちを満たします。言い換えれば、良い知らせである神の言葉は、私たちを神の無限の愛に与からせ、どのような状況にあっても喜びの中で生きる恵みを与えてくれます。この喜びに与るために、神ご自身が語っておられる言葉に耳を傾け、それを実現しましょう。「今日こそ、神の声に聞くなら、心を閉じてはならない」(参照:詩編 95, 8)と。アーメン。

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         四旬節第5主日  C年  202546日    グイノ・ジェラール神父

       イザヤ 43,16-21      フィリピ 3,8-14      ヨハネ 8,1-11

 律法学者とファリサイ派の人々は、イエスを罠にかけるため、姦淫の罪を犯した女性を神殿の敷地内に連れ込むことで、清めの律法を破りました。イエスは受けている憎しみのせいで、この女性に石を投げて殺そうとする群衆の中に無理やり引きずり込まれたことをよく知っています。しかし、イエスは、自分に迫り来る罠を巧みに避けています。イエスは自分を囲む憎しみに満ちた人々を見ないように、わざと身をかがめたと聖ヨハネは説明しています。律法学者やファリサイ派の人々にとって、この女性は重要ではありません。彼女は、イエスを自分たちの罠にかけるための単なる道具にすぎません。だからこそ、イエスは彼らに目を向けることもせずに、地面に何かを書き始めたのです。

 イエスが何を書いたのかは分かりませんが、おそらく「偽証するな」という神の戒めだったのでしょう。なぜなら、イエスはこんなに早朝に神殿に祈りに来る人はあまりいないことをよく知っていたからです。では、どうしてすでにそこに群衆が彼を待っていたのでしょうか。イエスは、この早い時間に姦淫の罪を犯した人を捕まえるのはほとんど不可能であることもよく知っていました。そのため、イエスにけられた罠はずっと以前から計画され、偽りの証言に基づいていたのです。ファリサイ派の人々がイエスの判断をはっきりと述べるように要求すると、イエスはすぐに立ち上がり、彼らにこう言いました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。

ファリサイ派の人々が何も言い返せずに去った、イエスは彼らに一瞥(いちべつ与えずに再び身をかがめ、地面に「殺してはならない」という神の戒めを書き続けたかも知れません。罪悪感を抱きながら、次々と去っていく人々を、イエスはみようとはしませんでした。ついに、最後に一人残った女性を、イエスは立ち上がり慈しみ深く見つめます。そしてイエスは彼女に赦しの道を示します。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。

福音書では、女性たちは男性たちの憎しみやたくらみに加担しません。女性たちの中でイエスは敵ではありません。イエスはたとえ話の中で女性の仕事についてよく話します。イエスは出産する婦人たちの苦悩と痛み、そして、子どもが生まれたときの彼女たちの喜びを知っていました。ユダヤ人であろうと、異教徒であろうと、罪人であろうと、自分のもとに来るすべての女性を歓迎します。

姦淫を犯した女性は、イエスが与えてくださった赦しの恵みに満たされました。イエスは、彼女に女性としての尊厳を取り戻し、悪い過去から解放しながら明るい希望の未来へ導こうとします。この女性がその後どうなったかは分かりませんが、彼女は福音のメッセージとイエスの生涯に永遠に結びついています。預言者イザヤの言葉は、特に彼女に向けられたものです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う」(参照:イザヤ43,18-19)と。この言葉によって、私たち皆が希望の巡礼者となり、私たちに対する神の愛の証人となりますように。アーメン。

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枝の主日   C年 2025413日   グイノ・ジェラール神父

ルカ 18,28-40   イザヤ 50,4-7    フィリピ 2,6-11    マルコ 14,1-15,47

聖週間は、典礼暦において最も重要な時期です。この時期は、私たちが個人的にイエスの受難と死に深く関わり、責任を自覚する機会になるからです。それは、赦しを与え、キリストと共に私たちを復活させる神の慈しみの恵みの時でもあります。

私たちは日々のミサ祭儀において、キリストの受難、死、復活を記念しています。しかし、聖週間はさらに深く、私たちを救いの神秘へと結びつけてくれます。それを通して、父である神は私たちを義とし、あらゆる悪から解放してくださるのです。

枝の祝福の後に読まれた福音は、「イエスは弟子たちの先頭に立ってエルサレムへと上って行かれた」と私たちに教えました。イエスは、歓喜の叫びの中で私たちを救うために歩み始めました。この喜びは、キリストの受難の序章であり、ご自分の受難と死に向かうイエスに信頼をもって私たちが従うために与えられたものです。そして、この喜びは私たちを支え、復活祭の日まで導くでしょう。その日、復活したキリストは、ご自身の現存と、罪と死に打ち勝った愛によって、私たちを完全に満たしてくださるのです。

この日の喜びは、数日後に「イエス・キリストは主であり、父なる神の栄光をかがやせている」(参照:フィリピ 2,11フランシスコ会訳)と宣言するためのものです。この信仰の叫びを真実に宣言するためには、私たちはまず、イエスに従い、受難の闇に身を浸さなければなりません。希望を失わずに、暗く悲劇的であっても、私たちの贖いの神秘の中でイエスに従いましょう。私たちを救うためにイエスがいかに身を低くされたかを理解することにより、神に感謝することや、勇気をもって信仰と希望を証しすることが容易になります。

ですから、この枝の主日の喜びが、復活祭の喜びまで私たちを支えますように。イエスは苦しみにも関わらず、全身全霊を神に向け続けたので、心の平安を保つことができました。私たちの個人的な生活の中で起こる多くの出来事は、大小を問わず、心の平穏を失わせる危険があります。イエスに倣って、私たちも絶えず神に目を向け、信仰を保ちましょう。なぜなら、神が私たちに与えてくださる喜びは、私たちの城壁であり(参照:ネヘミヤ8,10)、神が私たちの心に与えてくださる希望は私たちを失望させることはないからです(参照:ローマ 5, 5 )。

それでは、恐れることなくイエスと共に受難の道を歩みましょう。神が最愛の御子を通して私たちに与えてくださった救いに感謝を捧げながら。アーメン。

                                               

                       


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