岩国教会礼拝メッセージ

2017年11月19日(日)
礼拝メッセージ
主は言われた。「もしあなただたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。
                   ルカ福音書17:6

 主イエス様は「信仰を増し加えてください」と願う使徒たちに教えてくださいます。本当の信仰があれば、その信仰がからし種一粒ほどで十分であると教えてくださいます。この信仰をイエス様は、私たちに持たせてくださいます。主イエス様の約束を信じて喜ぶ信仰に生きる者としてくださいと祈りたいと思います。
2017年11月12日(日)
礼拝メッセージ
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」
                   マルコ10:15

 主イエスは、弟子たちに教えています。弟子たちは自分たちが主イエスの弟子として神の国に近い所に自分たちはいると考えていました。それに対して、弟子たちは子供たちを連れて来た人々はイエス様の事を分かっていない、神の国から遠い人たちだと考えていました。子供たちは大人よりもさらに神の国から遠い存在だと思いました。しかし、このような弟子たちの思いを主イエスは造り変えて子供のように神の国を受け入れるものにしてくださいます。
2017年11月5日(日)
礼拝メッセージ
アブラハムは言った。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に超えて来ることもできない。」
                  ルカ福音書16:25〜26

 この福音書を書いた、ルカは、金に執着するファリサイ派の人々に対する教えの続きとして天国の金持ちとラザロの話を記しています。この話はルカ福音書だけにある主イエス様の言葉です。イエス様はここでご自分の話を聞いてあざ笑った者たちに教えています。陰府の世界で炎の中でもだえ苦しむ金持ちとアブラハムの懐にいるラザロを対比して主イエス様が与えて下さる恵みが告げられています。主イエスは、陰府に行くべき者たちに救いを与え、アブラハムのすぐそばへと導いて下さいます。
2017年10月29日(日)
礼拝メッセージ
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
                    ローマ4:25

 この手紙を書いたパウロは3:21節から信仰によってイエス・キリストを信じることによって、信じる者すべてに神様は与えてくださる恵みが義であることを記しました。その具体的な実物教育として、アブラハムの事を取り上げています。アブラハムの生涯を見ると神の義がどのように表されたのかが分かると教えています。アブラハムは神様の約束を信じた人でした。信仰によって彼は神を信じた。その結果、彼は生きる者とされたのです。行いが彼を生かしたわけではないことを、パウロは教えています。私たちも、このことを覚えて、神の言葉を聞き続ける者でありたいと思います。
2017年10月22日(日)
礼拝メッセージ
律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
                    ルカ福音書16:16

 主イエスが、人々の前で神の国の到来と救いを宣教するようになって、「だれもが力ずくでそこ(神の国)に入ろうとしている」と言われています。 神の国に入るために人間がいくら努力し、力を振り絞ったとしても入ることはできません。しかし、イエス様が人間を愛する激しい力で、そこに入れようとしていてくださることを教えられます、イエス様の力がそうするのです。主イエスの福音を告げる力が天の国の門を開くのです。そのことによって信じる者がそこに入れられることを私たちは教えられます。
2017年10月15日(日)
礼拝メッセージ
主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ町を守る人が目覚めているのもむなしい。                  詩編127:1

 詩編の記者は、神様が行われる御業を見て感謝の賛美を歌いました。「家を建てる」は主なる神様の家、祈りの家のことです。この家は、神様ご自身によって建てられるものであるからこそ、そのために働く者たちの労苦は実り豊かなものであることを期待することが出来るのです。今の教会もまた、「神の家・祈りの家」と呼ばれています。私たちはこの家を建てる者たちとして御許に招かれています。神様が行われる業を証詞するものとされていることを喜びたいと思います。
2017年10月8日(日)
礼拝メッセージ
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで、他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
                   ルカ福音書16:13

 主イエスは、弟子たちに不正な管理人の譬えによってクリスチャンとしての生き方を教えてくださいました。「永遠の住まいに迎え入れて」いただくために、主イエスを真の友として生きる事の大切さを学びました。その後にこの世の朽ちてなくなるむなしい富を求め、富の力に支配されることが無いように、主イエスは、神の戒めと教えとに忠実であることを求めておられます。私たちは、自分の努力によって、この様な生き方をするのではありません。神様の恵みの力、聖霊の賜物が、この世の小さな事に忠実に生きるものとしてくださることを教えられます。
2017年10月1日(日)
礼拝メッセージ
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
                   ルカ福音書16:9

 イエス様は、ここで、弟子たちに天国への準備を始めておられます。どうすれば、弟子たちが永遠の住まいに入ることが出来るかを教えて下さいました。それは、この地上の生活で、友達を作るという事でした。「不正にまみれた富」というのは、社会的な犯罪行為を肯定するのではありません。この世の中の富は、天の栄光の富と比べるならば、不正な富というべきものです。清き富はこの地上にはありません。主イエスは天に宝を積むことをお求めになりました。御国にある富だけが清き富なのです。
 そして、私たちが、この地上に生きる間に、友を作ることが求められています。その友達とは、罪人の友達ではありません。罪を赦して頂くための友達です。私たちを救って下さる友達を持たなければなりません。この世の富は、永遠に住まいの確かさを持ちません。主イエスを信じる時、まことの友を得る時、永遠の住まいに迎え入れてもらえることを教えられるのです。
2017年9月24日(日)
礼拝メッセージ
息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」
                   ルカ福音書15:21

 父の家を出て、放蕩の限りを尽した息子は、飢饉の中で父の家に帰ることを決意しました。父の家には大勢の雇い人があり、有り余るパンがいつもあることを思い出したからです。自分は、家を捨てたものだから、もう息子と呼ばれる資格はないが、雇い人の一人にならばしてもらえると思いました。しかし、彼の父は、帰って来た息子を喜び、祝いの宴会を開いてくれました。この父の姿は天の父なる神様のお姿です。私たちは、自分勝手に生活していた、この息子のようなものでした。父の家に帰って来た子供を父は喜んでくださいます。私たちが主の家に帰る時、神様は喜んで下さることを教えられます。
2017年9月17日(日)
礼拝メッセージ
家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。
                   ルカ福音書15:6

 主イエス様はパリサイ派の人々、律法学者たちが不平を言っていたのを聞いて、譬え話をされました。迷い出た羊を連れ戻してくださる、羊飼いの姿は、主イエス様ご自身です。迷子の羊はイエス様の肩に担がれ家に連れ戻されました。この羊は羊飼いによって安心することが出来また喜んだことでしょう。私たちも教会生活の中で、主イエス様の肩に担がれて、天国の家に連れ戻された迷子の羊であったことを教えられます。そして、この羊のように安心を得ることが出来ることを教えられます。
2017年9月10日(日)
礼拝メッセージ
「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
                   ルカ福音書14:33

 主イエスは、後についてくる人々をご覧になって話始められました。ここで語られた言葉は、とても厳しい言葉です。この条件に照らしてだれが、本当に主の弟子として生きることが出来るのだろうかと思わせられます。
 イエス様は弟子たちに何を求めておられるのでしょうか、ここでの問は弟子たちが、イエス様に何を求めていたのか、という事ではないでしょうか。人間は目に見える栄光を求めて、目に見えない永遠を思う心を失ってしまいます。自分の持ち物によって安心を得ようとします。自分が持っているのもによって確かさを得ることから、神さまに従うという覚悟が問われているのではないでしょうか。弟子たちが大切にしなければならないことが何か、そのことをイエス様は、弟子たちに問われていることを教えられます。私たちはイエス様を第一に考えているでしょうか。
2017年9月3日(日)
礼拝メッセージ
主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」
                   ルカ福音書14:23

 盛大な宴会を催そうと準備し招いて下さる主人は、聖書が教えている天の父なる神様の事を表しています。この主人の願いは、この主人の家が人々で満ち溢れる事でした。主人の用意している、食事の席がまだ余っていたことが僕によって告げられます。主人は僕に命令して、通りや小道で人々を無理やりにでも連れてくるようにと命じています。主人のやり方は、私たちの常識とは違うものでした。ここに神様の愛と恵の大きさを私たちは教えられます。この主人のやり方に、私たちの慰めがあります。私たちは自分の側には、招待を受ける資格はありませんでした。しかし、神様が言わば強引に救いの中に入れて下さいました。神様の愛の御手が延ばされていたことを教えられます。この恵みに感謝を捧げましょう。
2017年8月27日(日)
礼拝メッセージ
広島教会の今福光郎師による説教。

 マルコ福音書7:31−37からメッセージの解き明かしがありました。
2017年8月20日(日)
礼拝メッセージ
「そのあなたが御心に留めて下さるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは。」
                      詩編8:5

 詩人は、天の星を仰ぎ見て、神様の創造の御業を思いめぐらして神様を賛美しました。そして、天地万物を形造り、支え、導かれるお方が、小さな人間を愛し、恵を与え、顧みて下さることに喜びと感謝をささげています。神様に似たものとして人間を形造り、「栄光と威光を冠としていだかせ」て下さるという、驚くような祝福を与えて下さいました。神様に背き、罪のゆえに裁きを受けるべき人間、滅ぼされても仕方がない人間を神様は、恵の約束のゆえに、顧みて下さいました。この神様の大きな愛の御業をわしたちは、キリストの十字架によって知りました。詩人に与えられた信仰が私たちにも与えられている事を感謝して、賛美を捧げたいと思います。
2017年8月13日(日)
礼拝メッセージ
「主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」
                      詩編 6:10

 詩人は神様の御前に自分の祈りが聞き入れられたているという確信をもって賛美しています。詩人は「主よ。いつまでなのでしょう」(4節)。と問いかけています。その問いかけが、今、解決に向かって動き出したことを詩人は教えられて嘆きは賛美に変えられます。苦悩によって衰えた目は、信仰によって、神様の御業を見ることに変えられます。肉体的に衰え、老いを感じていた詩人は信仰によって、神様の御業を仰ぎ見る者へと変えられました。神様を見上げる時に神様の救いの確かさをイスラエルの歴史の中に見ることが出来ました。そして、自分の祈りもまた、確かに神様に受け入れられていることを教えられました。
2017年8月6日(日)
礼拝メッセージ
「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。
                      詩編3:8

 この詩は、ダビデの歌という表題が付けられ、その序文として「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。」と記されている。歴史的な出来事としてはサムエル記下15章以下に事件の事が記されています。アブサロムの軍隊は強大であったと記されている。ダビデは自分の子どもと戦う事を避けて、ただ、主の前に逃れる事しかできなかった。そこで主に助けを求めているのがこの詩編3編でした。彼は、9節で「救いは主のもとにあります」と告白しています。これは、信仰者に与えられる神様に対する信頼の言葉です。私たちもこの信頼に生きる者であることを教えられます。
2017年7月30日(日)
礼拝メッセージ
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
                     ルカ福音書14:11

 主イエス様は、安息日の食事の席で、人々に教えておられます。この時話された言葉は単に食事のマナーとしてキリスト者が守るべき事を教えているわけではありません。そうではなく、主イエス様は、神様を拝むための礼拝の姿勢を教えておられることが分かります。神様の前でどのように生きるべきであるか、そのことをイエス様は、食事の席を譬えにして教えて下さいました。人間は神様のあわれみの前でへりくだって生きる以外どのような生活もありません。私たちも、そのように神様の前に生きることを教えられます。
2017年7月23日(日)
礼拝メッセージ
そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからと言って、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
                     ルカ福音書14:5

 主イエスは安息日にファリサイ派の議員の家に招かれ、かれと共に食事をすることになっていました。彼の家に入ってみると、そこには水腫を患っている人がいました。イエス様にすぐにわかるようにイエス様の真ん前にその人はいました。人々は、イエス様の様子を注意深く慎重に見つめていました。イエス様はそこで、イエス様の様子をうかがっている人々に対して問われます。特に律法の専門家、ファリサイ人に質問したと記されています。神様の戒めに生きる事の意味を問われるのです。神様の前で何が正しい事で、神様に喜んで頂けることなのか、そのことが問われます。
 私たちも、主の日ごとにこの問いの前に立たされています。神様は私たちが救いを喜び、神様に感謝をささげることを喜んでくださるお方であることを教えられます。
2017年7月16日(日)
礼拝メッセージ
だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。
                     ルカ福音書13:33

 主イエスはエルサレムへ向かって進んでおられ(22節)ました。その時にパリサイ派の人々がエルサレムに向かって進まれることをやめるようと勧めます。それは、ヘロデがあなたを殺そうとしているからという理由でした。しかし、イエス様はそこで歩みを止めることはありません。「預言者がエルサレム以外のところで死ぬることはありえない」とお答えになります。
 主イエス様は、神様のご計画に忠実に従って進まれます。神様の決意があったからです。この神様の愛の決意にイエス様が従ったように私たちも従う者とされました。主の十字架をともに担うものとしてくださる神様の強い力を信じたいと願います。
2017年7月9日(日)
礼拝メッセージ
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
                     ルカ福音書13:24

 主イエスは、弟子たちに神の国へと招き入れて下さいます。イエス様に「救われる者は少ないのでしょうか」と質問する人がいました。イエス様はその問いに対して教えておられます「入ろうとしても入れない人が多い」イエス様は問題の中心的な事、大切なことは、だれが天国に入るのか、だれが救われるのかという事を教えて下さいます。そのために、知らなければならないことをイエス様は教えて下さいます。私たちは、この主のお言葉に耳を傾け、しっかりとイエス様の教えを胸に刻みたいと思います。
2017年7月2日(日)
礼拝メッセージ
「それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」
                     ルカ福音書13:19

 主イエスは、会堂で癒しの奇跡を行った後、神の御業を喜ぶ人々に神の国の到来を告げておられます。それは、確かに目に見える形で現れていることを教え、神の国の力は、「成長する植物のようであり、パンを発酵させ膨らすことが出来るパン種に似ている」と教えて下さいます。私たちはこの力ある神の国のご支配の中に入れられたもの達であり、それは、私たちに安らぎを与えるものです。「鳥たちが枝に巣を作る」のはその枝が鳥たちにとって憩いの場だからです。鳥たちはその枝で生きることが出来るのです。
 私たちも、この枝に休むものであることを教えられます。
2017年6月25日(日)
礼拝メッセージ
この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。
                     ルカ福音書13:16

 安息日にイエス様が一人の女性の病を癒した事から、論争が起こります。癒された人は、急な病気ではなく、慢性的な病気でした。そのために、会堂長は、イエス様を批判します。しかし、イエス様はその批判に対して答えて教えています。その言葉を聞くとき、神様がどんなにこの女性を大切な存在として見ておられるかを知る事が出来ます。この束縛を解くことは人間にはできませんでした。主イエス様以外にはそのような力を持っておられるお方はありませんでした。だから、イエス様は、この女の人を安息日だからという理由で後回しにすることはありませんでした。ここで、私たちも神様の恵みと愛を教えられます。
2017年6月18日(日)
礼拝メッセージ
聖書箇所 ルカ福音書 18:1〜8

本日は交換講壇の為、呉教会牧師である政所師より説教がなされました。
2017年6月11日(日)
礼拝メッセージ
園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます」
                     ルカ福音書13:8

 主イエスは、人々に悔い改めを求めて、話されました。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる(5節)。」
 人間は、かたくなで自分の姿を正しく見ることは出来ません。自分の罪に気が付かないのです。主イエスは、ブドウ園の主人から預かってイチジクの世話をする園丁に譬えて話されました。主人にとりなしているこの園丁の姿は父なる神様にとりなす御子の姿です。この御子のとりなしがないならば、わたしたちはすぐに切り倒されて、捨てられてしまう存在です。この主の恵みを感謝することを教えられます。
2017年6月4日(日)
礼拝メッセージ
主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。
                      イザヤ書40:31

 預言者イザヤの語る希望とは、決して現実離れをしてものではありませんでした。神様が約束して下さる希望は、私たちの現実と深く関わりあうものです。苦しみと悩みの多い生活の中に確かな力が与えられるのです。神様に対する希望は、イエス・キリストの十字架と復活によって確かにされました。そして、不信仰な人間の為に、主は助け主として聖霊なるお方を送ってくださいます。私たちは、このお方によって、励まされ、力強く生きることを教えられます。
2017年5月28日(日)
礼拝メッセージ
イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。               ルカ福音書13:2〜3

 主イエスは、人間の心にある偽善を問題にされました。自分の罪と他者の罪を比較して、自分の罪が小さいことに安心してしまうことが問題になります。神様の前では、罪の大小は関係がありません。人間は神様の恵みによって、初めて自分の罪を自覚して悔い改めに導かれます。その恵は神様の憐みによって起こったキリストの十字架にほかなりません。この神様が与えてくださった悔い改めの時を恵みの時として私たちは教えられます。今週も神様に目をあげ、信仰をもって歩みましょう。
2017年5月21日(日)
礼拝メッセージ
「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするようにつとめなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。」
                     ルカ福音書12:58

 主イエス様は、人間の偽善を見つめて、悔い改めを求められました。神様の恵の御業を目の前に見ても信じる事ができず、神様の裁きの場へと進んでいる人々を招いておられます。「早く、仲直りするよう努めなさい」と命じています。それは、あなたが罪に定められる事がないためです。私たちも今、主イエス様のもとで罪の赦しをいただき、裁き主である神様の前に出ることができるようにされていることを喜び、感謝を捧げましょう。
2017年5月14日(日)
礼拝メッセージ
「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時代を見分けることを知らないのか。」
                     ルカ福音書12:56

 主イエス様は、54節から群衆にも言われました。雲の様子と風の吹き方によって天候がどのように変わるのかを知っている人々が、神様の御業を知ろうとしないことに対してイエス様は厳しい言葉で教えておられます。神様の救いの御業を思い起こして神様を見上げることを求めておられます。イエス様が今、ここに居られることによって始まっている神様の恵みのしるしを見るようにと招かれています。
2017年5月7日(日)
礼拝メッセージ
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
                     ルカ福音書12:49

 主イエス様は、十字架刑が待っているエルサレムへの旅の途中で、弟子たちに教えておられます。弟子たちに神の国の恵みを教える時間は残りわずかでした。大切な時間の中で、イエス様は弟子を育て、伝道者として遣わそうとしておられます。イエス様が与えて下さる恵みを「火と洗礼と分裂」という言葉で教えてくださいます。それぞれが、イエス様によって与えられた恵みとしてわたしたちは受け取りたいと願うことを教えられます。
2017年4月30日(日)
礼拝メッセージ
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。     ルカ福音書12:37

 婚宴に招かれた主人は、家を僕たちに任せて出かけて行きました。僕たちは主人の帰りを待ちますが、主人はいつ帰ってくるのか、見当がつきませんでした。主人の帰りが遅いので、ある人たちは、居眠りをしていました。そこで、弟子たちにイエス様は、「あなたがたは、用意していなさい。」と教えてくださいます。主人か帰ってくる用意をしていなさいと言われています。「主人が帰る」ということは、主イエス様がふたたびこの世界に来てくださるということです。主イエス様を信じる者は、この譬えのように、主人の帰りを待つ僕たちなのだと教えておられます。イエス様はこの用意をする僕として、わたしたちを祝福してくださることを教えてくださいます。
2017年4月23日(日)
礼拝メッセージ
「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。
                    ガラテヤ書3:5

 パウロは第1回目の伝道旅行において、ガラテヤ地方を訪問しました。その時にパウロの語る福音を聞いて主イエス・キリストを信じる群れが生まれ、ガラテヤの教会が誕生しました。それから間もなくして、ユダヤ教主義の教師がそこで、異邦人に対して、割礼を受けるように教えられ、それに従う人たちがありました。その知らせを聞いたパウロが急いで、この手紙を書いたと思われます。パウロの言葉は、とても厳しい響きを持っていますが、それは、このガラテヤの人たちと信頼関係が強かったことを表しています。パウロは、遠慮することなく、福音の中心である、救いの確かさについて教えています。この言葉を私たちも学びます。
2017年4月16日(日)
礼拝メッセージ
最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。
                     Tコリント書15:3〜5

 この手紙を書いたパウロは、コリントの教会の人々に対して、自分が何を語り伝えて信じたのかを思い出して頂きたいと願いながらこの手紙を書きました。その中心がキリストの復活でした。福音をどのように信じたのか、パウロは思い起こさせています。福音の中心がキリストの復活に掛かっていることを教えられます。復活も恵みをパウロは私たちにも教えています。神様が与えてくださる命に生きる者としてくださるこの恵みを覚えて礼拝をささげます。
2017年4月9日(日)
礼拝メッセージ
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。            イザヤ書53章4節

 預言者イザヤは、イルラエルの民に対して、解放の預言を語りました。「わたしの僕」と呼ばれている、この主の僕は「栄える」と宣言されますが、それに続く言葉は、耳を疑うような内容でした。彼は多くの民を驚かせ、彼を見て、王たちは口を閉ざす。それは、私たち人間が考えていたメシヤの容姿とはまるで違っていたからです。私たちはキリストのイメージを自分勝手に持つことがあってはなりません。
 聖書のみ言葉によって、一つ一つ確かな神様との交わり、キリストの姿を学びつつ、天の御国への希望に生きる者たちでありたいと願うのです。
2017年4月2日(日)
礼拝メッセージ
 一般的に信仰生活とは、私たちがあれやこれやの物を頂く生活と考えられます。しかし、自分の持ち物を抱え続けて生きることが信仰生活ではありません。そこには本当の平安がないばかりか、自由もありません。神の国の福音は信じる者たちに自由と安心を与えるものです。自分自身の命と身体と持っているものすべてを神様に委ねて喜びの中で、自由に生きることが出来るのです。そのような、喜びを主イエス様は、弟子たちに与えて下さいました。イエス様は心から神様にお委ねする信仰に私たちを招いて下さることを教えられます。
2017年3月26日(日)
礼拝メッセージ
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」             ルカ福音書12:15

 主イエス様を信じる者は、イエス様の十字架によって、神の子とされ、イエス・キリストのものとされています。主イエス様の命の中に私たちの命はいれられました。そこに確かな救いの約束があります。「人の命は財産によってどうすることもできない」ものです。イエス様を信じ従うとき、私たちは、この世の富に支配されず、神様の前に自由を得ることが出来ます。私たちは、神様のもとにある豊かさの中に招かれ、導かれていることを覚えて感謝をささげたいと願うのです。
2017年3月19日(日)
礼拝メッセージ
言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
                     ルカ福音書12:8

 イエス様は、ユダヤ人指導者たちを恐れ、人々の前でイエス・キリストを告白することが出来ない弟子たちを励まし、教えています。イエス様が、まことの救い主、キリストであると告白することが出来るのは、聖霊によって新しく生まれた者が与えられた信仰によってです。パウロは「聖霊によらなければ誰もイエスは主であるとは言えないのです」(1コリ12:3)と教えています。この聖霊の助けと導きの中で、私たちもイエス様に感謝をささげ、信仰を養われたいと願うのです。
2017年3月12日(日)
礼拝メッセージ
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
                     ルカ福音書12:4

 私たちは主イエス様の言葉によって、誤った恐れと、正しい恐れを教えられている。誤ったおそれとは、命が神様から与えられていることを知らないことから起こる事であり、正しい恐れとは、いのちと神様との関係をしっかりと持つことです。そこから起こる神様に対する畏敬を大切にしなければなりません。それは、神様に感謝し神様の与えて下さった恵みを喜ぶ生活です。
2017年3月5日(日)
礼拝メッセージ
あなたがた律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。
                     ルカ福音書11:52

 イエス様は、律法を教える教師たち、専門家と呼ばれて人たちに語ります。律法を教えることによって、あなた方は救いへの道を妨げていると言われるのです。律法は本来人間が幸せに生きるための目印でした。救いの道を指し示すものでした。けれどもそれが、ゆがめられているために本来の目的のために役立たなくなったと言われています。主イエスは、もう一度、救いの道を示してくださり、正しい生き方を教えてくださいます。命の中に招いてくださる、イエス様の教えを学び続けたいと願うのです。
2017年2月26日(日)
礼拝メッセージ
愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
                     ルカ福音書11:40

 主イエス様は、汚れることに気を使う者たちに、神様の恵によって汚れることを恐れる必要がないこと、キリストの恵がすべてを清くすることを教えてくださいます。人間を新たに造り変え、清くして下さる神の恵みの御業を信じることへと主イエス様は導いて下さいます。その御業を完成するためにイエス様は十字架にかかって下さいました。この神の清さに私たちを招いて下さる主イエス様を感謝いたします。
2017年2月19日(日)
礼拝メッセージ
あなたの体のともし火は目である。     ルカ福音書11:34

 人は目に見えるものによって行動する。この意味で、目は人にとっての「体のともし火」と主イエス様は教えている。ここで「澄んでいる」という言葉は「健全である」という意味がある言葉であり、また「濁っている」とい言葉は反対に「病んでいる」という意味があります。主イエス様の前でその人が何を見るかによってその人の存在が決定され存在意味が決定される。神様の救いの光が主イエス様によってもたらされ、それをまっすぐに見ることが大切であることが教えられます。この救いの光の中に招いて下さる主を感謝したいと思います。
2017年2月12日(日)
礼拝メッセージ
イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」                 ルカ福音書11:28

 主イエス様が教えて下さる神の言葉を聞き、それを守る者たちこそが幸いであることをイエス様は、弟子たちに教えています。それは、主の言葉を神の言葉として信じる態度が問われているのです。イエス様の言葉は聞いたままで終わるものではありません。信仰の決断を求められます。信じて守ることが、求められています。私たちは、聞いた後でどうしているでしょうか?信仰によって生活しているでしょうか、よこしまな時代に生きる私たちを、主イエス様が信仰を持たせ、それを守る、幸いな者たちと呼んで、導いて下さる恵みを教えられます。
2017年2月5日(日)
礼拝メッセージ
戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
                     ルカ福音書11:25

 主イエス様は、群衆に向かって教えておられます。ある人はイエス様の悪霊の追放を「ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言い、ある人は天からのしるしを求める人々がいた。そこで、イエス様は一つの譬えとして24節以下の話をされました。
 イエス様は、力によって力を排除することでなく、主イエス様を通して神の国を受け入れ、力の支配から神の支配に生きるように招いてくださることを教えられます。
2017年1月29日(日)
礼拝メッセージ
わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。                ルカ福音書11:23

 イエス様は、弟子たちに祈りの言葉を教えて、主イエス様がいつも祈っておられる「主の祈り」の世界に弟子たちを招いてくださいました。
 そして、この主の祈りを弟子たちが根気強く祈る事が必要なことを譬えを用いて教えて下さいました。そして、この祈りをともに祈る仲間として弟子たちをイエス様は呼んでくださいます。かつてはイエス様を知らず、敵対していた者たちをイエス様は、恵みによって導き、共に主の祈りを祈る仲間としてくださることを私たちは感謝いたしましょう。
2017年1月22日(日)
礼拝メッセージ
天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。
                     ルカ福音書11:13

 主イエス・キリストの十字架の贖いによってクリスチャンは罪を赦され、神様の子どもとされました。神様の子どもとされたということは、天の神様がわたしたちの父親となってくださったということです。天におられる父なる神様は、地上の人間の父親以上にあふれる愛を注いでくださるお方です。その父なる神様に祈ることをイエス様は教えて下さいました。主イエス様が私たちを執り成し祈ってくださるから、私たちは安心して、神様に祈ることが出来ます。神様は私たちに与える最上のものとして、聖霊なる神様を与えて下さるとイエス様が約束してくださいます。イエス様は、弟子たちに対して熱心に祈り求めることを教えられました。神様は祈りに答え、最上の贈り物として聖霊を与えて下さり神様に喜ばれる生活を聖霊が導いてくださることを感謝して礼拝をささげたいと思います。
2017年1月15日(日)
礼拝メッセージ
彼女にはマリヤという姉妹がいた。マリヤは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
                     ルカ福音書10:39

 イエス様の周りには女性の弟子たちもいたようです(8:1〜3)。そして、ベタニヤ村にもマルタとマリヤという主イエス様の弟子がいました。
 マルタはイエス様を自分の家に迎え入れました。それはマルタが信仰をもってイエス様に従う者であったことの表れでもありました。しかし、家にお迎えした後、彼女は「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と記されています。マルタと対照的に「マリヤは主の足もとに座って、主の話に聞き入っていた」主イエスはこのマリヤの事を「マリヤは良い方を選んだ。」と高く評価されました。信仰を持つ者たちが何を選ぶ必要があるのか、大切なのかを主イエスは教えて下さった。私たちも主の足もとでその話に聞き入る信仰生活を選ぶ者に変えて下さることを感謝して礼拝を捧げよう。
2017年1月8日(日)
礼拝メッセージ
「感謝の歌を歌って主の門に進み、感謝をささげ、御名をたたえよ。」
                      詩編100:4

 神様は、祭司を通して神の民を礼拝の場へと呼び集めておられます。この世に生きる者たちを神様は恵みの場へ呼び集め、神の救いの確かさを人々に教えます。この世界は、世の権力者によって、人々を苦しめていました。戦いの続く混乱した世界に人々は生きていました。詩人は生活に困難を覚えていました。その中で、神様は、この人々が絶望することがないように恵と真実を示し希望に生きる幸いを教えてくださいました。私たちは、今年も新しい思いによって信仰を持たせてくださり、主に信頼する者が、確かな希望を持つ事ができるように神様が導いて下さる事を感謝しつつ前に進むことができるように願わされます。
2017年1月1日(日)
礼拝メッセージ
感謝の歌をうたって主の門に進み 感謝をささげ、御名をたたえよ。
                      詩編100:4

 神様は、祭司を通して神の民を礼拝の場へと呼び集めておられます。この世に生きる者たちを神の恵みの場へ呼び集め、神の救いの訪れを待ち望む人々にと導かれました。この世界は、世の権力者によって、人々を苦しめていました。戦いの続く混乱した世界に人々は生きていました。詩人も生活に困難を覚えていました。
 その中で、神様は、この人々が絶望することがないように恵と真実を示し希望に生きる幸いを教えてくださいました。信仰を持たせてくださり、主に信頼する者が、確かな希望を持つ事ができるように導いて下さる事を教えられます。
2016年12月25日(日)
礼拝メッセージ
エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さい者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。
                      ミカ書5:1

 預言者ミカが預言した時代、ユダヤの民は、アッシリアとエジプトの強国の間で戦争の危険におびえて生活していました。戦争と死の恐怖に囚われている人間を神様が、開放して平和と自由を約束して、自由の民としてくださると預言者は語りました。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。私たちはその道を歩もう」(2節)と預言者は人々を励まし、慰めを伝えます。
 神様を礼拝し、感謝を忘れている人間を神様が憐れんで下さり、人間らしく生きる道を示してくださいます。その道をはっきりと教え、導くために主イエス・キリストがこの世界に来てくださったことを感謝いたしましょう。
2016年12月18日(日)
礼拝メッセージ
見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
                      イザヤ書7:14

 預言者イザヤは、神様の言葉によって、ユダの王アハズのもとに遣わされました。北イスラエルと・シリヤの連合軍に対して恐れを抱く王に対して神様「恐れることはない」と教え、「落ち着いて静かにしていなさい。」と命じます。しかし、神様を信じることができない王は、自分の知恵を尽くして、エジプトやアッシリアの力を頼みとします。人間の力を頼ることが良いのか、神の力に頼るのが良いのか、聖書は私たちに決断を求めています。信仰は目に見ることができない、神の言葉を信じることです。神様はご自身の言葉を信じる者を喜んで祝福して下さることを教えられます。
2016年12月11日(日)
礼拝メッセージ
主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。           イザヤ書59:20

 聖書が私たちに教える神様とは「贖い主」なるお方です。贖うという言葉は、一般的にはあまり使われることがない言葉ですが、その意味はまず、代価を払って買い取るという意味があります。イザヤが預言した時代、ユダヤの民は、バビロンに捕囚の民となっていました。囚われの身である人間を神様が、まるで奴隷を開放して自由の身にするように、バビロンの国から買い戻し、自由の民としてくださるということです。また、「贖う」というのは身代わりとなるという意味もあります。奴隷を自由にする代わりに、自分がその、奴隷の身代わりになることです。どちらにしても、そこには大きな犠牲が伴います。その犠牲を神様ご自身が行ってくださいました。そのために「主はシオンに来られる」ことを預言者は告げています。私たちの身代わりとして来てくださったイエス様に感謝をささげたいと思います。
2016年12月4日(日)
礼拝メッセージ
しかし彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。                               ルカ福音書10:29

 律法の専門家は、最初は主イエス様を試すために質問しました。しかし、イエス様は、彼の心を開き自分が抱いている問題について質問するように導かれました。どれだけ隣人に奉仕すれば神様の戒めを守れば、神様は義と認めて下さるのだろうか、救いを受けて永遠の命を受け継ぐことが出来るのだろうかと彼は主イエスに問うのです。イエス様は彼の人間的な限界を教えることによって真の助け手、限りない愛を与える隣人としてイエス様が来てくださったことを教えています。自分の力によって、努力によって永遠の命を受け継ぐことはできません。ただ私たちは、主イエス・キリストにより頼むのみです。
2016年11月27日(日)
礼拝メッセージ
「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見る事ができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」                     ルカ福音書10:24

 主イエスは、伝道から帰って来た弟子たちを祝福し、父なる神様を賛美してお祈りされました。その後に再び、弟子たちに幸いを告げて祝福を与えて下さいました。イエス様と共に伝道の旅を続けることが許されている者は幸いである。イエス様の言葉を学びながら、イエス様のお姿を見続けることができることが何にも変えることができない祝福です。
 私たちも、主の日ごとに主イエスの前に招かれることによって、この祝福を受けていることを覚えたいと思います。
2016年11月20日(日)
礼拝メッセージ
しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、よろこんではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
                     ルカ福音書10:20

 主イエスは、伝道旅行からもどり、その成果を喜んで報告する弟子たちに対して喜びの中心になるべきことが何かを教えていました。「名が天に書き記されている」ということは神様ご自身が私たちの名を覚えておられ、知っておられるということです。私たちは永遠に変わることのない、神様の救いを喜び続けることを求めて歩みたいと願わされます。
2016年11月13日(日)
礼拝メッセージ
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。                ルカ福音書10:16

 主イエス様は、72人の弟子を主ご自身が行くつもりのすべての町に遣わされました。そして、悔い改めることのない町のために嘆いておられます。痛みを覚えておられます。裁きの時にはシドンやティルスの方が軽い罰で済む、耐えやすいであろうと語られました。
 ガリラヤ湖畔でなされた奇跡がシドンやティルスの町で行われていたらこれらの町で悔い改めが起こったであろうと語られます。イエス様は弟子たちを派遣することによって人々を悔い改めへと招いてくださいます。主の御声に耳を傾ける者たちを神様は、豊かに祝福してくださるお方であることを教えられます。
2016年11月6日(日)
礼拝メッセージ
どこかの家に入ったら、まず、「この家に平和があるように」と言いなさい。                      ルカ福音書10:5

 主イエス様は、12人の弟子たちを伝道に派遣した、後で、さらに72人を任命して、伝道に派遣されました。彼らはイエス様の命令によって遣わされた人々です。そして、イエス様は彼らに対して、何を語るべきかを教えておられます。弟子たちが告げることはまず、平和を祈る事であり、次に神の国が近づいたことを宣言することでした。たとえ、迎え入れる者がなくても、神の国が近づいたことは告げるようにと言われています。神様のご支配が私たちにとって、大切であり、確かなことであることが教えらいます。私たちはイエス様によって、この神の支配の中に招き入れられていることを喜びたいと思います。
2016年10月30日(日)
礼拝メッセージ
すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは、全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに、生き返った。・・・・・」             ルカ福音書15:31

 弟息子の帰宅を父親は、心から喜び、祝宴を開きました。兄息子は畑仕事を終えて家の近くまで来ると家から音楽や踊りのざわめきが聞こえてきました。そこで兄息子は僕を呼んで、これはいったい何事かと尋ねます。僕は父親の喜びを伝えますが、兄息子は納得できませんでした。息子は父親に不平を告げます。父親はこの兄息子にも、弟の帰りを一緒に喜んでもらいたいと願っています。天の父なる神様は、悔い改めて父のもとに帰ってくるものを温かく迎えて下さり、喜んで下さるお方であることが教えられます。神様はこの喜びの中に私たちも招き入れてくださいます。
2016年10月23日(日)
礼拝メッセージ
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。                    ルカ9:51

 主イエス様は、弟子たちが「神からのメシアです」と信仰を言い表すことによって、ご自身にこれから起こる受難について預言されました。しかし弟子たちにはこのイエス様の言葉を理解し、受け止める事はできませんでした。その中でイエス様は、神様が計画されている十字架と復活、昇天の時期が近付いていることを悟り、エルサレムに向かうことを決意されました。イエス様のまなざしは十字架の待っているエルサレムへと向けられています。弟子たちはこの後、サマリヤの人々を呪う言葉をイエス様に語りますがイエス様は、この弟子を諭して教えてくださいます。イエス様はエルサレムに向けたまなざしを、弟子たちに向けてお話下さいました。
 イエス様はいつも、弟子たちを愛し、神様の愛に招いてくださいます。
2016年10月16日(日)
礼拝メッセージ
イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」                  ルカ福音書9:50

 弟子のヨハネは、主イエスのお名前によって悪霊を追い出している人を発見しました。そこで、私たちと一緒に主イエス様に従うように願ったことでしょう。しかし、彼は、何かの都合で、その申し出を断ったようです。そこでヨハネは、私たちと一緒に主イエスに従うのでなければ癒しの業を行ってはならないとやめさせようとしました。弟子たちはイエス様と一緒にいることによって、ある種の特権意識を持っていたようです。主イエスと一緒にいる弟子たちの群れに加わることが大切でした。
 しかし、イエス様は、この悪霊を追い出している人もまた、弟子のひとりとして受け入れることを求めておられます。弟子たちは、主イエス様のみ栄を賛美するために生かされている者たちです。そのことを忘れて、自分たちの業績を賛美するのではありません。心を合わせてともに主を賛美したいと願います。
2016年10月9日(日)
礼拝メッセージ
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」
                     ルカ福音書9:48

 主イエス様の2度目の受難予告を聞いた弟子たちの間で誰が一番偉いかという議論を起こったことを福音書は伝えています。弟子たちの間で、この議論は繰り返されました(ルカ22:24。弟子たちは、この世の価値観に支配されていました。自分が偉くなること、支配する立場になることを願っていました。しかし、イエス様は、弟子たちに対して、仕える者、人々の僕として生きることを教えて下さいます。それは、主イエス様が歩まれた生き方です。クリスチャンはイエス様のようにこの世にあっては、人々から小さく見える、奉仕の生活に導かれることを教えられます。
2016年10月2日(日)
礼拝メッセージ
「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」             ルカ福音書9:44

 イエス様の2度目の受難の予告が弟子たちに告げられました。しかし「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。」と聖書は教えています。イエス様が「神からのメシアである」という理解に対して、弟子たちの考えているメシアのイメージと実際にイエス様が行われる事との間には大きなズレがありました。その違いを弟子たちはまだ、このときには理解できませんでした。
 けれども、理解の不十分な弟子たちにイエス様は大切なことを繰り返しお教えて下さいます。私たちも弟子たちと同じように、十分にイエス様を理解することができない者ですが、イエス様は忍耐深く、私たちに神様の恵みを教えて下さるお方であることを学ぶことができます。
2016年9月25日(日)
礼拝メッセージ
その子が来る途中でも、悪霊は投げた倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやし父親にお返しになった。
                     ルカ福音書9:42

 主イエス様は、祈るために山に登られて、そこで真っ白に輝くお姿に変わり、モーセとエリヤとエルサレムで遂げる最後のことを話していました。
 その後、麓に降りたとき、人々の不信仰をご覧になりました。イエス様はそこで、病に苦しむ息子を持つ父親の悲しみに同情して下さり、癒しを与えて救ってくださいました。イエス様は助けを求める者の祈りに答えてくださいました。私たちも、この父親のように主イエス様に助けを求めるように祈ることの大切さを教えられます。
2016年9月18日(日)
礼拝メッセージ
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。          ルカ福音書9:31

 主イエス様は、弟子たちが「神からのメシアです」と告白したことを受けて、神様の計画について「多くの苦しみを受け、最高法院から排斥され殺され、三日目に復活することになっている」と教えました。
 この話をしてから八日ほどたったとき、イエス様は3人の弟子と共に祈るために山に登られました。祈っているうちに、イエスの顔の様子は変わり、服は真っ白に輝きました。
 弟子たちは、栄光に輝くイエス様のお姿を見て、心から喜び感動に震えていました。弟子たちは自分たちが目で見ている光景を喜びましたが、神様は「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」とお語りくださいます。イエス様の言葉を聞くことが求められています。私たちは、イエス様の教えを聞くために、日曜日ごとに集まる者であることを教えられます。
2016年9月11日(日)
礼拝メッセージ
次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」
                       ルカ9:22

 主イエス様は、ペテロの信仰告白を受けると、これから後に起こる出来事について弟子たちに語られました。当時の人々が期待したメシア像とイエス様がされる御業の間には大きな隔たりがありました。神様の御子としてこの世界に来てくださったイエス様は、人々の救いのために、十字架の死を遂げることが神様のご計画でした。だから、イエス様がメシアであることを誰にも話さないようにと命じて行かれました。これから後、イエス様は弟子たちにメシアがなすべき御業を教えてくださいました。
2016年9月4日(日)
礼拝メッセージ
ハイデルベルク信仰問答 問88「人間のまことのざんげ、悔い改めは、いくつのことから、成り立っていますか」
答え「二つからです。古い人が死滅することと、新しい人が復活することです。」と教えられています。

 救い主なるイエス様によって罪を赦され、贖われた人々は、神様に対する感謝の生活を送るように導かれます。この感謝の生活の中に悔い改めがあります。神様の元に立ち返り、そして、そこで、心からこれまでの背きの罪を悔い、それを憎み、そこから逃れることを求める思いを神様が持たせてくださいます。そして、そこから生まれる生活は、私たちの平安と喜びに満ちたものであることを教えられます。
2016年8月28日(日)
礼拝メッセージ
いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいたものは。
                        詩編32:1

 詩編の記者はこの詩の冒頭で神様の恵と慈しみを力強く賛美しています。神様の与えてくださる赦しの恵を感謝してほめ歌います。この詩の全体に響き渡っているのは、罪の赦しの喜びです。人間は、神様の前に誇るものを持たない罪深い者です。しかし、詩人は自分の罪を自覚しつつ、その罪の赦しを体験しました。その赦しは「主にわたしの背きを告白しよう」と言った時に起こりました。それはまことの神様との出会いであり、この関係の回復によってはっきりと示されるものでした。そして、神様との交わりの中で、神様の恵がさらに増し加えられました。「あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方」と神様を告白し、また、賛美しています。神様がともにいてくださることがどんなに力強い励ましになるかを教えられます。
2016年8月21日(日)
礼拝メッセージ
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。    詩編51:9

 天地万物を創造された神様は、荒れすさんだ人の心を再び新しい神様の神殿として造り変えて下さる力があることを教えられます。この清さは神様によってのみ造ことができるものです。「キリストに結ばれた人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、あたらしいものが生じた」と記されている通りです。私たちを新しくするためにイエス・キリストが十字架にかかって、尊い血潮を流してくださったことを感謝したいと思います。
2016年8月14日(日)
礼拝メッセージ
わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき御言葉を待ち望みます
                     詩編130:5

 詩編の記者は、深い悲しみ、悩みの中にいました。それはまるで「深い淵の底」にいるようでした。神様との交わりを失い、罪のゆえに、死が支配する世界に入れられた感じがしていました。しかし、詩人は信仰のゆえに神様を求めて祈ります。「この声を聞き取ってください」と叫ぶように祈るのです。自分の犯した罪と過ちを思いながら、赦しは神様のもとにあることを知り、主の御言葉を待ち望むのです。主がすべての罪から神の民を贖ってくださることを信仰によって信じて祈るのです。この祈りに神様は答えて下さり。主イエス様を遣わしてくださいました。ここに私たちの救いの確かさがあることを教えられます。
2016年8月7日(日)
礼拝メッセージ
イエスが言われた。「それではあなたがたはわたしを何者だというのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」    ルカ福音書9:20

 イエス様は男の人だけで5千人ほどいる中で、人々に食物を分け与え、すべての人を満腹にしてくださいました。その後、イエス様は一人で祈っておられました。このイエス様の祈りは、弟子たちが確かな信仰の導かれるための祈りでした。神様の祝福を受けてイエス様を正しく知ることが出来るようにイエス様は祈っておられました。その結果、ペトロは弟子たちを代表してイエス様を「神からのメシア」と呼ぶ者にされていきました。私たちもイエス様の祈りと執成しによってイエス様を信じてメシヤ・キリストと呼ぶ者としてくださることを教えられます。
2016年7月31日(日)
礼拝メッセージ
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
                    ルカ福音書9:16

 主イエスは、弟子たちとともに、人里離れた静かなところに退いて行かれました。しかし、群衆はこのイエス様たちを追いかけて行きました。
 弟子たちの手元には五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。弟子たちの持っていたものは、群衆に対してはわずかなものでしかなく、とても人々にたいして役立つようには、思えませんでした。
 しかし、主イエスは、それをもって、天を仰ぐことを弟子たちに教えてくださいます。私たちもこの弟子のように、どんな場合にも天を仰ぐものでありたいと願うのです。
2016年7月24日(日)
礼拝メッセージ
イエスは12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。             ルカ福音書9:1

 イエス様の伝道の旅に従っていた弟子たちは、いよいよ主イエス様に代わって、イエス様の伝道の御業を継承するように、派遣されることになりました。その準備として主イエス様は、弟子たちに力を与えてくださいます。弟子たちは、イエス様から力と権能を授かっているのだから、心配することなく、働くことができるのです。私たちもイエス様から弟子たちのように主を信頼して主の力によって働く者として下さることを教えられます。主に力を求めて祈りたいと思います。
2016年7月17日(日)
礼拝メッセージ
イエスはこれを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」   ルカによる福音書8:50

 ガリラヤの町に帰ってきたイエス様を待っていたかのようにヤイロという名の会堂長が、イエス様の足もとにひれ伏して娘のことを願いました。12歳になる「娘が死にかけていたからである」と記されています。会堂長はユダヤ社会では地位の高い人々から信頼される人物です。その人がイエス様の前にひれ伏しているということは、彼の娘の病気が人間的に見て絶望的な状態であったと想像することができます。人間の力によって、この病気を治し、回復させることはできないひどい病状だったのです。イエス様はヤイロの願いに応えてくださり、家に向かって進まれました。しかし、その途中、計画を遅らせてしまう事件が起こりました。その結果、娘は亡くなりましたという知らせが届きます。ヤイロの絶望を私たちは想像することができます。しかし、主イエス様はこの絶望を神様の祝福の喜びに変えてくださいました。そのために必要なことは「ただイエス様のみを信じる」ということでした。
2016年7月10日(日)
礼拝メッセージ
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」         ルカ福音書8:39

 主イエス様はガリラヤ湖を渡りゲラサ人の地へと入って行かれました。そこにはたくさんの悪霊に苦しめられている人がいました。彼を救うためにイエス様は、湖を渡って行かれました。イエス様によって救われた人はイエス様の御業に感謝して「お供したいとしきりに願った」(38)と記されています。しかし、イエス様はこの願いを退けて、自分の家に帰り、神の御業を話して聞かせることを命じました。
 イエス様は彼だけにしかできない使命を与えました。そして、それは彼にとっては簡単なことではありませでした。けれども、彼は、イエス様の言葉に従い、町中に言い広めたとルカは記しています。神様は彼をこの町の証言者として用いてくださいました。
2016年7月3日(日)
礼拝メッセージ
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人のことである」
                    ルカ福音書8:21

 イエス様は、弟子たちを集めて、神の国の福音を伝道しました。休む間もなく伝道に励んでおられたイエス様を家族、肉親は心配して、イエス様のところに来ました。イエス様は血肉の関係を大切に思う人々を前にして、神様は霊によって結ばれる新しい家族の絆を教えてくださいます。イエス様のもとで神の言葉を聞いて、従う人々をイエス様は、まことの神の家族として天の御国に導いてくださる恵みを覚えます。
2016年6月26日(日)
礼拝メッセージ
イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ、それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
                      ルカ福音書8:10

 イエスさまは、群集を前にして神の国がどのようなものか「種まきの譬え」を用いて話されました。そして、この後、弟子たちにはこの譬えの説明をしておられます。ここで大切なことは、イエス様がお語り下さる神の言葉をどのように聞いているかということでした。「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたと、ルカはここに記しています。イエス様は、弟子たちを神の言葉を聞いて信じる者として招き続けてくださいます。
2016年6月19日(日)
礼拝メッセージ
彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。
                       ルカ福音書8:3b

 イエス様は、弟子たちと共に伝道の旅を続けておられました。その伝道の旅の中に女性たちがあったことをルカは証言しています。この女性たちの中に「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」があったことを記しています。主イエス様は彼女たちの病気を癒し、主を信じる者たちに神様の愛に応答して奉仕するものへと造り変えてくださいます。イエス様は、罪を赦して救いをあたえてくださるおかたです。私たちはイエス様の愛に応える者に造り変えてくださる主の恵みを教えられています。
2016年6月12日(日)
礼拝メッセージ
イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
                        ルカ7:48

 イエス様はファリサイ派のシモンの願いを聞いて、食事の席に着かれました。そこに、この町の罪深い女がイエス様の後ろから近寄り、涙でイエス様の足をぬらし自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻し香油を塗るという事件が起こりました。そして、イエス様はこの様子をご覧になり、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と教えてくださいます。イエス様は神の愛の大きさを示して下さり、この罪の赦しに私たちを招いてくださることを教えられます。
2016年6月5日(日)
礼拝メッセージ
「わたしにつまずかない人は幸いである。」    ルカ福音書7:23

 イエス様は、洗礼者ヨハネの弟子たちに答えて教えました。ヨハネはイエス・キリストが来られる時の道備えをした人ですが、彼がヘロデに捕らえられた後でも、ヨハネを先生と呼び、従っていた者たちがあったことを知ることができます。ヨハネはイエス様に弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせました。イエス様は試みの中でイエス様を信じる者が、疲れ倒れてしまうことがないように、つまずくことが無いように願っておられます。自分の願うこと希望する形と違う状況の中でも主イエス様を信じ続ける者に神様の恵みが私たちを養い育ててくださることを教えられます。
2016年5月29日(日)
礼拝メッセージ
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
                   ルカ福音書7:13

 イエス様と弟子たちはナインという町に向かわれました。その町の門の近くで、葬儀の列に出会いました。その棺の前で母親が涙を流していました。この母親はやもめと呼ばれています。若い時に夫を失い、母と子供の二人暮らしであったということです。心の支え生活の希望であった息子の死を悲しむ母の心は私たちも想像することが出来ます。イエス様はこの母の思いに同情し憐れんでくださいました。そして「もう泣かなくともよい」と宣言してくださいます。イエス様は神の権威によって語りかけてくださいます。それはただ、泣くことを禁止されることではなく、その悲しみの根本にある死の支配から人間を解放するという宣言でした。神様は死の支配から解放されるのだから泣かなくともよいといわれているのです。イエス様のこの恵みの御業を私たちは喜びたいと思うのです。
2016年5月22日(日)
礼拝メッセージ
「ひと言おしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
                       ルカ福音書7:7

 百人隊長は主イエスのことを聞いて自分の僕のためにユダヤ人の長老に頼み、イエス様に助けを求めました。長老たちも「熱心に願った」と記されています。イエス様はこの願い求めに従って百人隊長の家に向かわれました。イエス様が来てくださると聞いた百人隊長は驚いて友達をイエス様のところに遣わしました。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。わたしの方からお伺いすることさえふさわしくないとおもいました。」と友人に言わせています。彼は自分の立場をわきまえて、そして自分を低くして願うのです。その願いは、「ただひと言、お言葉をください」ということでした。この言葉を聞いてイエス様は感心されました。そして、百人隊長の信仰を喜んでくださいました。主イエス様の言葉に信頼し、従うことを喜ぶ信仰を私たちは、ここで教えられます。私たちも主イエス様のお言葉を求める信仰に生きたいと願うのです。
2016年5月15日(日)
礼拝メッセージ
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものをだす。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」                ルカ福音書 6:45

 イエス様は、祝福を求めてイエス様の前に集まる弟子たちに対して神の国に生きる幸いを告げてくださいます。イエス様は、弟子たちの心の中に神の言葉を納めてくださり、善い人へと変えてくださいます。心の倉から良いものを出すことができるようにイエス様は弟子たちの心に神の言葉を与え続けてくださいます。
 弟子たちは、自分たちの口から心にある神の言葉があふれ出るようにイエス様の祝福の言葉を心の中に蓄える者になりました。
2016年5月8日(日)
礼拝メッセージ
「しかし、あなた方は、敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも、情け深いからである。」                   ルカ福音書6:35

 主イエス様は弟子たちに人生の歩みの中で主を信じる者たちがどのように生きることが幸せな人生であるのかを教えてくださいます。主はここで、天の父なる神様がどのようなお方であるかを示してくださることによってイエス様に従う道が、幸いに満ちたものであることを教えてくださいました。「敵を愛する」ことは人間の力ではできないことです。神様の御業です。イエス様が十字架によって明らかにしてくださったことです。イエス様によって示された神様の恵の世界にイエス様は私たちも導いてくださいます。この喜びの中に入れていただけることを感謝いたしましょう。
2016年5月1日(日)
礼拝メッセージ
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」
                                ルカ福音書6:20

 イエス様は、信仰を持ってこの世に生きる者たちが、信仰を持たないで生きる人々とは違った生き方をするようになることを教えてくださいました。信仰のゆえに、この世界の中でつらいこと、苦しめられる経験をすることがある。その時、主イエス様は、「あなたがたは幸いである」と告げてくださるのです。困難と悩みの中で私たちは主イエス様を仰ぎ、このイエス様の祝福をいつも、胸に刻みながら、主に従って歩む者たちでありたいと私たちは願うのです。
2016年4月24日(日)
礼拝メッセージ
イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
                     ルカ福音書 6:18

 イエス様と弟子たちは祈るために山に登られ、夜をそこで明かされましたが12人の使徒たちが選びだされて、その山を下りて行かれました。
 するとイエス様のもとには、大勢の人々が集まったことが記されています。人々はイエス様の教えを聞くため、また、癒しを求めて集まりました。その一人一人にイエス様は触れてくださり、多くの人々が癒しの恵にあずかりました。主を信頼し、主に助けを求める人々にイエス様は答えてくださいました。私たちも、この人々のようにイエス様のもとに集まり、豊かな祝福に満たされることを期待いたしましょう。
2016年4月17日(日)
礼拝メッセージ
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
                      ルカ福音書6:12

 イエス様は弟子たちを連れて祈るために山に登られました。それは、日常の生活から離れ、神様の御心を悟るために静けさを求めてのことでした。そこで、イエスさまは祈って夜を明かされました。祈りつづけてくださるイエス様の姿を私たちは見ることができます。そして、特別な使命を与えるために人の弟子たちが選ばれました。彼らを「使徒と名付けられた」とあります。彼らは、イエス様の十字架の死と復活の証人としてこの出来事を人々に伝える者になりました。
2016年4月10日(日)
礼拝メッセージ
そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」                   ルカ福音書6:9

 イエス様は主イエスの行動を批判する人々に対して問われます。安息日に本当の意味で守るできことは何かということを。イエス様は形式にこだわり本来の戒めの意味を知らずに生きる人々に神様の愛と恵みを教えてくださいました。右手の自由を失い、生活に困難を覚える人に喜びを与えてくださいました。今も私たちのために主イエス様はこの喜びの中に私たちを招いてくださることを覚えて感謝します。
2016年4月3日(日)
礼拝メッセージ
そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」       
                     ルカ福音書6:5

 イエス様は、イエス様と弟子たちが安息日の戒めに違反して、罪を犯していると批判しました。そこで、イエス様は神様の定められた安息日の意味をファリサイ派の人々に教えて行かれました。文字にとらわれて、神様の御心を悟ることができない人間の姿をファリサイ人の中に見ます。イエス様は、神様の変わることのない、安息日へと信じるものを導かれます。神様の愛に中に入れるためにイエス様がこの世に来てくださり、罪の贖いとなられたことを感謝したいと思います。
2016年3月27日(日)
礼拝メッセージ
古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」と言うのである。           ルカ福音書5:39

 イエス様は新しいぶどう酒と古いぶどう酒のたとえを用いて、ユダヤの宗教と主イエスが告げる福音の違いを教えて行かれました。ユダヤ人にとっては自分たちがこれまで信じて行ってきたユダヤの習慣に従うことが正しいと考えていました。しかしイエス様の教えは、この世の価値観を変えてしまう新しいものでした。このイエス様が語ってくださる新しい教えを喜ぶことが、イエス様の信仰に生きる喜びであることを教えられます。
2016年3月20日(日)
礼拝メッセージ
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。                ルカ福音書5:32

 主イエス様は、ファリサイ派の人々その派の律法学者たちのつぶやきに答えるように教えてくださいました。イエス様がこの世界に来られた目的が明らかにされます。イエス様はこの地において、弟子たちばかりでなく、自分は正しい人間であると自負していた人々に対しても、自分の愚かさ、神様の義に対して罪を認め、悔い改めることを求めておられます。
 神様の愛と憐みはこのイエス様の言葉によって開かれた信仰によらなければ知ることができません。私たちは主イエス様の力によって導かれ、悔い改めの信仰に生かされていることを教えられます。
2016年3月13日(日)
礼拝メッセージ
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。
                       ルカ福音書5:24

 イエス様はこの時、ファリサイ派の人々と律法の教師たちの前において中風で苦しむ人を癒してくださいました。そして、ここでイエス様は癒しの言葉ではなく、罪の赦しを宣言されました。
 これは、イエス様が誰何かを人々に知らせるものでした。「神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と律法学者、ファリサイ派の人々が考えたのは当然のことでした。しかし、イエス様は神の御子として、神様からの権威によって地上で人間の罪を赦すことがおできになることを人々に教えています。人間は自分たちの常識に縛られ、イエス様の本当の姿を知ることが出来ません。イエス様に躓いてしまう者に、イエス様は人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを教えて下さいます。この権威ある言葉、力ある言葉によって信じる私たちも生きる力を与えられていることを感謝したいと思います。
2016年3月6日(日)
礼拝メッセージ
イエスは手を差し伸べてその人に触れ「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。        ルカ福音書5:13

 イエス様が、この時、重い皮膚病を患っている人に触れられたことは、当時の常識では考えられない事でした。この病気は、人々に病が伝染する事を恐れて隔離されていました。この人は汚れた者と呼ばれ、その人に触れることは、自分も同じように神様の前に、汚れた者となります。ですから、自分の意思で病人に触れることはしませんでした。彼は全身に病気が有り、長く孤独な人生を歩んでいたと思われます。しかし、イエス様は神様の力によってこの人を神様との交わりに立ち返えらせて下さいました。イエス様の力によって清められて神様との交わりに生きることができる者になりました。イエス様はいまも変わらず、神の交わりから遠い者たちを、清め、癒し神様との交わりに招いてくださる事を教えられます。
2016年2月28日(日)
礼拝メッセージ
イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」             ルカ福音書5:10

 シモンは、イエス様が人々に福音を伝えておられたとき、神の言葉を聞こうとして集まっていた人々の中にいましたが、仕事の疲れを覚え、今日の不漁の事を考えていました。イエス様が、「網を降ろし、漁をしなさい。」と命じられた時も、イエス様の言葉を神の言葉として聞くことは出来ませんでした。シモンは、渋々「先生のお言葉ですから」と網を降ろすだけでした。魚が網にかかることは期待していませんでした。このシモンをイエス様は弟子として招いて下さいます。神様はイエス様の言葉を聞いて信じる心を与えてくださいました。私たちも人間的な知識、常識から神様の御旨とご計画を信頼する信仰に生きる者へと変えられる事を信じて従って行きたいと願うのです。
2016年2月21日(日)
礼拝メッセージ
しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
                      ルカ福音書4:43

 主イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、神の御子として伝道を開始された時に、まず、ガリラヤ地方で宣教を始められました。故郷のナザレでは、人々から命を狙われる事になりましたが、カファルナウムでは多くの人がイエス様を受け入れることができました。「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた(42節)。」と記されています。
 人々がイエス様を引き止めた理由は幾つかあるでしょう。確かにそこにはイエス様を必要とする人々があったのです。理由はどうであれ、人々はイエス様を必要としていました。だからこそ、自分たちから離れないように願ったのです。この思いは私たちの思いと共通しています。神の国の福音はイエス様によって人々の中に伝えられます。この神様の恵みの御業が今のこの世界に続いています。そのことを私たちは御霊によって信じています。
2016年2月14日(日)
礼拝メッセージ
人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力をもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」  ルカ福音書4:36

 この福音書を書いたルカは、安息日に行われた主イエス様の力ある御業を証言しています。32節では「人々はその教えに非常に驚いた」と記されています。人々の中で起こる驚きの大きさが示されています。イエス様の語られる聖書の教えは、これまで、人々が耳にしたことがないものでした。旧約聖書に記されている戒めと救いの約束の中で神様の恵みと憐れみを告げるイエス様の教えに驚いています。イエス様の言葉と教えには、権威と力があったことが35節からの出来事の中で示されています。それは、人間が持つ権威ではなく、天の父なる神様から与えたれた権威であり力でしたが、このことは信仰によってはじめて知ることが出来るものです。ですから、人々は、ただ驚いているのです。
 私たちは、信仰によって、神様の権威と力を持つお方として主イエス様を信じるように祝福を与えられたことを教えられます。
2016年2月7日(日)
礼拝メッセージ
そこでイエスは「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。          ルカ福音書4:21

 主イエスはナザレの会堂で聖書の言葉を解き明かされました。それは力強い聖書朗読に続いて行われました。主イエスの教えは人々に驚きと賛美と感嘆をもって受け入れられました。主イエスの語られる言葉は、神の言葉であって「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:10、11)と告げられた通りです。この神の言葉を私たちは託されています。この御言葉の力に信頼して生きる者に主イエスがしてくださることを喜びましょう。
2016年1月31日(日)
礼拝メッセージ
イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。                 ルカ福音書4:4

 主イエスは、人々の前で宣教を開始する前に、荒野に退き、そこで悪魔からあらゆる誘惑をお受けになりました。悪魔の誘惑は、神様に対する信頼を揺り動かすものでした。「神の子なら、このくらいのことは簡単にできるはずだ」と誘います。自分の持っている力を自分のために使うことを勧めます。神様に信頼する心を奪おうと試みます。
 しかし、主イエスは、悪魔の誘惑に対して、神の言葉、神様の戒めを守る事を教えています。私たちの人生においても、様々な困難な出来事が起こります。その時、私たちは神の言葉を忘れ、自分の知恵や力によって問題を解決しようと試みます。神様に祈り、神様を信頼する事を忘れてしまうのです。神の言葉を思い出す事を忘れてしまうのです。しかし、イエス様の事を思い出して、御言葉を信頼し主に祈る事を始めたいと思います。
2016年1月24日(日)
礼拝メッセージ
ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」      ヨハネ福音書1:26

 洗礼者ヨハネは、エルサレムから遣わされた人々に対して答えています。それは、当時人々が、救い主、メシヤの訪れを待ち望んでいたからです。ヨハネ自身は、自分は人々が待ち望むメシヤではない事を、はっきりと告げ知らせ、その後に、すでに、人々の中に救い主が立っておられる事を告げ知らせました。
 ヨハネは、このお方の到来を神様のお告げによって知らされていました。すなわち「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と言われていました。そして、その出来事を私は見たと証ししました。
 そしていま、この預言は、私たちの生活する教会に起こっている事です。私たちは、聖霊によって、かつて私たちの知る事の出来なかった、救い主が私たちの真ん中に立っておられ、集まる者たちに救いを与えてくださる事を教えられます。
2016年1月17日(日)
礼拝メッセージ
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」                  ルカ福音書2:49

 イエス様の両親は、敬虔なユダヤ人として毎年、過越祭を守るためにエルサレムへと旅をしていました。イエス様が12歳の時も同じようにエルサレムにおいて過越祭を守りました。祭りの期間が終わってみんなが帰路についたとき少年イエスは、旅の道連れの中にはいませんでした。イエス様は、律法を教える教師たちの中におり帰る事も忘れて、神の言葉を学んでいました。両親はイエス様が旅の道連れの中にいない事に気付き、エルサレムまで引き返しました。三日の後ようやく神殿において、イエス様を見つけることができました。この間、イエス様は神殿で教師たちの中で話を聞いたり、質問したりしておられました。このイエス様の姿に私たちも学び、神の言葉を学ぶ者にしてくださる神様の恵みを覚えたいと思います。
2016年1月10日(日)
礼拝メッセージ
「主よ、あなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」  ルカ福音書2:29〜30

 幼子であった主イエスは、両親の信仰によって、エルサレムの神殿で律法に従って(レビ記12章)神様に献げられました。神殿にいたシメオンはこの時、霊に導かれ、幼子イエスに近づき、神様をたたえて賛美しました。彼はこの日の出会いを聖霊によって告げられており、その日を待ち続けていたことに違いありません。
 神様は、シメオンに救い主キリストに出会う約束を与えてくださり、その約束を果たしてくださいました。その目は、確かに救いを見る事ができました。私たちは、このシメオンのように神様から救い主との出会いを約束された者です。神様はみ言葉を通してキリストに出会うようにわたしたちを導かれます。そして、救いの出来事を確かに知って、神様を喜び、賛美する者へと変えてくださいます。
2016年1月3日(日)
礼拝メッセージ
 あなたのまことにわたしを導いてください。
 教えてください。
 あなたはわたしを救ってくださる神。
 絶えることなくあなたに望みをおいています。
                        詩編25:5

 神様は、この世に生きる者たちを救いの訪れを待ち望む人々にと導かれました。この世界は、世の権力者によって、人々を苦しめていました。戦いの続く混乱した世界に人々は生きていました。詩人も生活に困難を覚えていました。
 文字通り、飢えと渇きを覚えていました。その中で、神様は、この人々が絶えることなく希望に生きる幸いを教えてくださいました。
 信仰を持たせてくださり、主に信頼する者が、確かな希望を持つ事ができるように導いて下さる事を教えられます。