岩国教会礼拝メッセージ

2018年5月20日(日)
礼拝メッセージ
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
                エフェソの信徒への手紙1:4

 この手紙は驚くことを記しています。それは、神様が天地の造られる前からキリストにおいて私たちを愛して下さり、選びに入れられていたということです。この神様の選びの恵みがどんなに偉大なものかを示してくれます。そしてこの選びの目的は人間の罪の赦しを与えるためであり、私たちの救いのために神様は選び取って下さったことを書き記しています。私たちは取るに足らない人間です。人間は神の言葉に反して勝手に罪を犯し神様との関係を壊してしまいました。しかしそれにも関わらず、神様はその人間を救うことを決意して、そのためにキリストを遣わしてくださいました。この神様の愛を感謝したいと思います。
2018年5月13日(日)
礼拝メッセージ
神はわたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
                エフェソの信徒への手紙1:3

 パウロは教会に集まる人々を祝福して「父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」と祈った後に、神様が与えて下さる恵みについて記しています。「神の恵み」とは、神様が与えて下さる愛と憐みであり、慈しみの心からあふれ出る一方的な賜物です。
 この賜物を「天のあらゆる霊的な祝福」という言葉で言い換えて彼は教会に人々に教えています。その最初に挙げられているのが「神様の選び」です。旧約の時代に神様はアブラハムを選び、イスラエルの民を選んで救いの約束を与え、神様の祝福へと導いて下さいました。そして、救いの完成のためにイエス・キリストを遣わしてくださいました。
2018年5月6日(日)
礼拝メッセージ
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。
                エフェソの信徒への手紙1:1

 この手紙を書いたパウロは、この手紙の最初に教会に集められている一人一人の事を思いながら、キリストを信じる者がどんなに大きな恵みを受けているのかを教えています。その最初に彼は、キリストを信じる者を聖なる者たちと呼んでいます。教会に集まる人々は「聖なる者」であり、それは神様が「聖」として下さった人々です。神様がこの世から選び分かち、神の者として下さり、神の子どもたちとして集めて下さっている者という意味で、聖なる者なのです。ですから、私たちが自分の力と努力で清くなったわけではないのです。この恵みをさらにパウロは後で、教会の人々に詳しく説明します。私たちも、この手紙を読みながら、神様の恵みがさらに深められる事を求めて礼拝いたしましょう。
2018年4月29日(日)
礼拝メッセージ
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」
                エフェソの信徒への手紙 5:1

 パウロは小アジアのエフェソの教会の人々にキリストを信じる者たちの生活について教えています。罪と過ちの中で、死に閉じ込められていた者たちが神様の恵みと憐れみによって、神のいのちの中に入れられ、神の子供とされた祝福について教えています。なぜ、罪人が神の子供となることができたのか、それはキリストがご自分を香りのよい供え物となって下さり、神に対するいけにえとなって下さったからだと、ここで教えています。
 このキリストの愛に教えられ、この愛に生きるようにパウロは教えています。私たちも、この愛を学びながら、この愛の中を歩み続ける者たちでありたいと願うのです。
2018年4月22日(日)
礼拝メッセージ
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
                ガラテヤ書5:16

 使徒パウロは、ガラテヤ教会の人々の顔を思い出すようにして、この手紙を書きました。イエス・キリストの福音を聞いて信じた人々が、間違ったユダヤ主義の教えに従って生きるようになったことを聞いて、急いでそのような教えに従うことが無いようにこの手紙を書きました。
 キリストを信じて生きる人は、自分の欲望を満足させる生き方、律法主義に生きる事から自由になり、キリストの霊によって生きる自由を与えられたことをもう一度教えなおしています。それが霊に従って生きる事であり、キリストの教えと戒めに従って生きる事でもあることを私たちは学びます。
2018年4月15日(日)
礼拝メッセージ
誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
                Uコリント11:30

 使徒パウロはイエス・キリストを述べ伝え、イエス様から与えられた使命を果たすために多くの苦難を通りました。しかし、それらの苦難はイエスキリストの愛にお答えするしるしでした。キリストの福音を信じ主に従う生き方が始まる時、信仰者はこの世の歩みから離れる必要があります。そこで起こるのことが、信仰による苦難です。しかし、イエス様は復活の恵みによって、この苦難に耐え忍ぶ力を与えて下さいます。パウロが苦しみに耐えることができたように、私たちを守り導いて下さるお方があることを感謝いたしましょう。
2018年4月8日(日)
礼拝メッセージ
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
                Tコリント書15:20

 パウロがコリントの教会の人々に最も大切な事として伝えたのはキリストの復活でした。それは「聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」と教えています。「聖書に書いてある通り」というのは神様の約束の通りという事です。神様は預言者を通して民に救いの約束をして下さいましたが、それは、イエス・キリストによって完成され、実現していることを主イエス様の復活を知ることによって教えられました。
2018年4月1日(日)
礼拝メッセージ
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」              ヨハネ福音書20:15

 マグダラのマリアに復活された主イエスが名を呼び、声をかけて下さったように今も復活され天の父のもとに上げられた主は、聖霊によって私たち一人一人の名を呼んで、主のもとに集めて下さり、主との出会いと慰めを与え続けて下さるお方である事を教えられます。
2018年3月25日(日)
礼拝メッセージ
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。」
                 ルカ福音書19:42

 イエス様はエルサレムの都を見上げて涙を流されたとルカはここに記しています。その涙の理由は「平和への道をわきまえていない」ということでした。イエス様の到来によって救いが訪れていることを認めることが出来ない人間の罪の深さを教えられます。それは神様との和解である平和の道が見えていない。分からないということでもあります。主イエス様ご自身を救い主として受け入れることが出来ない人間のために主イエスは涙を流してくださいました。そして、罪の赦しのために苦しみに耐えて十字架への道を進まれたことを教えられます。
2018年3月18日(日)
礼拝メッセージ
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
                 ルカ福音書19:37

 この福音書を書いたルカは、イエス様のエルサレム入場を喜ぶ人々の姿を「弟子たちの群れ」と呼んでいます。それは、すべての者たちがこの出来事を喜ぶわけではないからです。ファリサイ派の人の中には「弟子たちを叱ってください」という人もいます。主を救い主メシヤとしてお迎えし喜ぶことが出来るのは、主イエスを信じる者たちに与えられた恵みの賜物です。私たちは、日曜日のたびに主をお迎えする喜びを学び、イエス様との交わりに入れられるにことを喜ぶ信仰に生きる者であることを教えられます。
2018年3月11日(日)
礼拝メッセージ
イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国に旅立つことになった。」
                 ルカ福音書19:12

 主イエスはエルサレムの都に入る前に人々に王の即位とそれを待つ僕たちのことを譬えによって教えてくださいます。王の位を受けて帰ってくるというのは、これからイエス様が、十字架によって栄光を受けることによって天の御国において真の王の座にお着きになること、そして、再び帰ってくるとは、この世界に再臨するときのことが教えられます。主イエスの再臨は裁きの時です。しかし、主イエスを信じる者たちにはその裁きは栄光に変えられる喜びを教えられます。
2018年3月4日(日)
礼拝メッセージ
人の子は失われたものを捜して救うために来たのである。
                 ルカ福音書19:10

 主イエスはエリコの町に入られ、徴税人のザアカイの家を訪れました。彼は「金持ちであった」と記されています。ルカは18章で「財産のある者が神の国に入るは、なんと難しいことか(24節)。」というイエス様の言葉を記していました。「人間にはできないことも、神にはできる」ことを、イエス様はこの出来事によって弟子たちに見せて下さいました。エリコの町に於いて、イエス様は人々から嫌われ、見下されて者に対しても救いの道が確かに与えられることを弟子たちに示してくださいました。イエス様は一人の人を救われるだけでなく、この家に連なる人々も救いに導いて下さるお方です。「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言してくださるイエス様によって、私たちも神の子たちとして、新しい生き方に変えて頂きたいと願うのです。
2018年2月25日(日)
礼拝メッセージ
そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
                 ルカ福音書18:42

 主イエスが、エリコの町に近づかれた時に、盲人が座って物乞いをしていました。その時、群衆がイエスの後に従っていました。盲人はいつもと違う町の様子に気づき何事かと尋ねます。そこで「ナザレのイエスのお通りである」と知らされました。彼は、この時自分の目を開いて下さるお方はこの方以外にないと確信し、大声で叫びます。人々は彼を押さえつけ黙らせようとしましたが、彼は、その力に屈する事はありませんでした。そして、ついにイエス様とお話する機会を得ました。この出会いによって彼は変えられ、主イエスの後に従う者になりました。
2018年2月18日(日)
礼拝メッセージ
12人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
                 ルカ福音書18:34

 イエス様は、エルサレムに向かう旅の中で「今、私たちはエルサレムに上って行く」と宣言されます。イエス様にとって、十字架の死が待っているエルサレムの町が、そぐ目の前に迫っている時に、都に上ることを弟子たちの前に宣言しておられます。この時、いよいよ神様の御心に従って十字架の刑罰を受ける事を主ご自身、覚悟を決められた言葉として響いています。イエス様はエルサレムで起こる、受難の事を弟子たちに教えて行かれます。この意味を弟子たちをはじめ人間は理解できませんでした。神様の愛を理解しないものたちのために、十字架への道を進まれたイエス様の恵みを教えられます。
2018年2月11日(日)
礼拝メッセージ
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
                 ルカ福音書18:24、25

 イエス様は議員が非常に悲しむのを見て言われます。この言葉は、この悲しむ議員に語られた言葉として、ここでは読むことが出来ます。自分の力によって神の国に入ろうとする者たちにイエス様は悔い改めを求め、自分の力、人間の業によっては永遠の命を受ける事が出来ないことを教えておられます。人は神の恵みによる以外、神の国に入る事はできません。そのために、イエス様は十字架の死を受けられたことを私たちは教えられます。私たちはこの主が成し遂げて下さった救いを共に喜び、感謝をささげましょう。
2018年2月4日(日)
礼拝メッセージ
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
                 ルカ福音書18:17

 主イエスは、とても強い言葉で弟子たちに教えておられます。イエス様は神の国は大人と子供たちが共に生きる世界としてお語りになりません。「神の国はこのような者たちのものである(16)。」と語られています。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる(14)。」と告げられています。主イエスのもとに集まる者は、だれでも、高ぶる者からへりくだる者へと変えられます。自分が立派な大人だと思っている者も神様の前では、幼子に等しい者であると認める者へと変えられます。神の国においては、全ての人々が幼子として父なる神様から祝福を受ける事になるのです。
2018年1月28日(日)
礼拝メッセージ
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は、低くされ、へりくだる者は、は高められる。
                 ルカ福音書18:14

 この譬え話ではファリサイ派の人と徴税人の二人の祈りの姿が示されています。神様は高ぶる者を低くし、「思い上がる者を打ち散らし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」(1:51〜53)て下さるお方です。自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人について主イエスは教えて行かれます。神様の恵は、自分を低くして神の前に罪を悔い改める事を教えます。御霊の導きによって神様に救いと憐みを求めて祈る者へと変えて下さることを教えられます。