私の人生体験と目的。




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私の63年前から手探り電子機器製作体験、リンク集。

(_1)●手探りでハンダ付けするのは。
(_2)●子供の頃から始めたハンダ付け。
(_3)●完全手探りでのハンダ付けの方法とは。
(_4)●実際に行なった手探りハンダ付けは。
(_5)●トランジスターを用いての製作時代。
(_6)●何とか限界を乗り越えたくて成功した事。
(_7)●並四ラジオ(ナミヨンラジオ)とは。
(_8)●受信機から送信機の原理を学び。
(_9)●電波法改正で障害者にも始めてのアマチュア無線免許が。
(10)●いよいよ視覚障害者で我が国始めての無線の免許を。
(11)●僅かな知識をフルに応用しての電子機器製作体験。
(12)●社会人として生きる為の大切な技術的幸運を頂。
(13)●世の中が進み全ての機器を自作出来無い時代に。
(14)●金無くして学んだだけではどうにもならない時代に突入。
(15)●アンテナ設備を設計自作で。
(16)●私も時代と共に完全にメーカー製の機器を。
(17)●トランジスターを用いてのちょっとした開発を。



初めてアクセス頂いた方へ。

私のページに付いての内容と方法。

 私のホームページの画面は基本的に何の飾りも細工も無い文字のみの内容にしています。視覚障害の身であれこれ創造して画面製作をしても、それ程に良い状態になるとは思え無い事を、若い頃に僅かな視力で「物を見る」と、言う事を体験していまして、普通に見える方の色々な話を聞いてもやはり、見ると言う事は正常に見えてなければその見方は人により違うと言う事を心得ているつもりだからです。

  そこで私はとてもシンプルに、ページ製作を、メモ帳を用いて簡単にやっていまして、サーバーへは(WINDOWS,system)既存の(FTP,program)を用いれば、サーバー内部の管理も含めてばっちりとやれるので、ちょっとした思いが有っても簡単に編集作業を毎日のようにやっているのです。この事は現在用いているパソコンが故障して最近の(WINDOWS,system)マシンに変っても特に困る事なく、直ぐに設定出来て便利だからなのです。

  私は18歳の頃から「アマチュア無線通信」を基本として、沢山の皆さんと出会えまして素晴らしい人生体験が出来ました。そして現在でさえも子供の頃からの視力障害者では困難な「電子工学」を学ぶ事が出来ての30年前の頃からは、電子技術的な基礎関係では不自由の無いとも言える現在迄に恵まれた人生なのです。

  私は子供の頃から電子工学理論に基づく技術と電子機器の工作が好きでしたので、その技術を生かして音楽製作等含め楽しみながらそれを生活や職業に生かせて、これ迄の人生でした。

  私は1955年「昭和30年」頃から、その頃の「真空管方式」による、ラジオ製作を始めたのでした。勿論手探りでの「ハンダ付け作業」を含めての事です。

  障害者に取って「アマチュア無線技士」の資格で1959年からの試験を法律が改正される度に受検し、1978年に最高の1級取得が出来るようになり、全ての受検を最初から行い免許取得している者は現在どうやら日本の視力障害者では私一人のようなのです。しかも私は「ペーパーライセンス」では無く、現在も「実用電子物理」と言う認識でその技術はパソコン時代と言われる現在も特に不自由無く、基礎知識を生かしているのです。

  その頃から「デジタルIC&LSIなどが部品として手に入るようになり、それらを学ぶチャンスも獲て、アマチュア無線のライセンスが取れ、電子技術関係の実用理論にも不自由無いと言える頃の1979年「昭和54年」に、友人から譲って貰った「Lキット16」と言う、ワンボードコンピュータとその頃言われていた「機械コンピュータ」で、コンピュータ原理の基本を学ぶ事が出来たのでした。

  そして1980年「昭和55年」に、事務機方コンピュータと言える現在のスタイルの基本とも言える「マイクロコンピュータ」が可也安くなって出た頃から世間にそのようなコンピュータが少しずつ普及し始めたのでした。

  その頃の1981年「昭和56年」に、同じコンピュータを機械コンピュータを譲って貰った友人から譲って頂いたのを初めとして私は「コンピュータプログラム」開発、製作を、熱心な友人の助けを頂きながら始めると言うチャンスを頂き、その頃は暫く「時代を先取りする」と、言えるような体験をしながらの人生でした。

  それからの発達により、20年前の頃から基本的な人生目的に大きな不自由が無くなり、若い頃から犠牲にしていた、音楽関係やオーディオ機器関係との技術を地味ながらも実際に実現するようになったのが1997年の頃からでした。

  このような事から私は若い頃から好きだった音楽に関してはチャンスさえ有れば学ぶことはしていましたが、その活動などは犠牲にして来たと言えます。

  人生長年何事に対しても心から努力していればそれなりの思いがけないチャンスは有るもので2008年から思いがけなく小さな「ライブスタジオ」のような部屋を使えると言う、幸運な体験が出来たのは、今にして思えば二十歳前後の頃から一貫した「人生目的」と、言えるように地味ながらも努力していたお蔭で、60歳代半ば頃迄でさえも「願っても無い」と、言えるような最高の思いが出来たのだと思います。
「2004年8月23日TIKIよりページ開設許可。」2014年11月25日修整。




手探りでハンダ付けするのは。

 2010年の中頃だったが、視覚障害者の集うメーリングリストで私の事を知り、熱心な人らしい方から「手探りでハンダ付けをするのに何か良い方法は無いか」と言う個人メールが届いたのでした。

  私は、直ぐに人受けするような感心する恰好良くパホーマンス出来る方法と言う事は、電子機器製作作業技術に付いては特に持って無いのです。余り特殊な方法でと言う事になりますと、いつでも必要に応じてやれると言う環境では無くなるので私は、子供の頃から、常に可能な限り障害者で無い人が一般的にやっている方法で、自分の目的を果たせる努力をしてなければ、特殊な材料などを用いての工夫では折角努力しても時代の変化でその環境が無くなれば、それ迄やれていた事がやれなくなると言う考えから、私の努力、工夫は特に用いる道具や材料には普通に普及した物を用いる方法でやって来ました。

  その事を伝えましたが勿論メールには「リターン」が無ければ先ず、届いている筈なのですが、数日過ぎても何の返信も無いのです。時に障害者の方からの個人メールでの質問など有ると何度かこのような事が有りましたので、こちらからもう一度、メールするとちゃんと読んでいて私が用いている「エンパイヤチューブ」を早速注文したのでそれが届いたらメールするつもりだった。なんてちょいと言い訳みたいな事と、これ迄やって来たがこの方法には気付か無かったなんて事も書かれてました。

  この人は色々なパホーマンスを日頃からなさっているようで、このような場合にはとかく色々な工夫の内容が多い程によく感心されるもののようです。私観たいに殆ど障害者が弁理にと言うような工夫の状態が形に無く、自分の持てる技術でやっているような場合と言うのは、人目見て判る物が無いので、余りぴんとこないらしいと言うのは、私の所に訪問されたような人によく有りました。

  私の場合はこのような時に人が驚くような特殊な事をして無い事が多く、自分なりにいつでもやれる工夫と努力をしている事を中心に表現するものでなかなか判り難いらしく、最初の内は信じ難いらしいのです。

  それで続いての質問が来なければ私のしている事は信じられ無いままに終わる事も多いのですが、自分の目的道理だった場合にも時には、やはりそのままと言うような事も有り、今回もそのような事を思っていましたらやはり、続いての交流を持とうとはなさいませんでした。

  とかく物事大切な中身より、パホーマンスの上手い人の方が隣人から感心されるような事が多いものですが、私の目的は可能な限り実践的に、いつでも一般的に誰もが関係の人ならやっている環境作りをしておかなければと言う努力をしたもので結果的にはシンプルな方法で必要ならいつでも材料や道具が手に入る方法でやって来たので現在も不自由が無いのです。


子供の頃から始めたハンダ付け。

 私は昭和30年の14歳の時から真空管方式の時代に、ラジオ組み立てを始めたのでした。それは単に工作作業が好きだと言うだけで無く、1955年の子供の頃から「電子理論」を学びたいと強く思い始めてもそれは実に困難な事でした。

  それは先ず盲学校在学中の身では真の協力者に出会う事は困難だったからでした。その頃折角おいでになられていた物理専門の先生が昭和32年の春に一般の工業高校へ転勤された為に後任の方は科学が専門で他の理科関係の既にお出でになられる方も生物が専門だった為にそれからは私の目的に反発する教師はいても全く協力的な方はおいでにならない時代になったのでした。

  肝心の学齢期にこのように恵まれ無い経験から私は今から思えばその工夫の方法に可能な限り特殊で無い一般的な環境作りと言う事に努力するようになって来たように思うところなのです。そのような努力工夫の結果として昭和31年に1度だけ溶けた半田が足の上に流れ落ちた時意外にはやけどをした事も無いのです。

  しかしその頃運良く視覚障害者にも「アマチュア無線の資格を」と言う、法律改正運動が昭和32年から始まったお蔭で、昭和34年の4月期からそれが適いました。それで視覚障害者では我が国最初の「アマチュア無線技士」の資格を取れた一人になれた事でした。

  この事により盲学校外部に沢山の知り合いが出来それからは自分の望みが少しずつ専門的に学べると言うような人生になり現在迄の恵まれた自分が有るのです。


完全手探りでのハンダ付けの方法とは。

 さて、実践での私のハンダ付けの方法は実にシンプルで、それは用いるハンダの太さが丁度通る「エンパイアチューブ」にハンダを通しその先端にハンダをその太さ分だけ覗かせるだけと言う事なのです。勿論用いるハンダ鏝はハンダの太さやハンダ付けをする場所により決まります。

  特に半導体などの基板配線などの場合には大きなハンダ鏝やハンダを用いる事は出来ませんが、自己訓練によりやれるようになるもので私は、昭和50年の頃に2.4みりピッチの(IC)のハンダ付けを何とか出来るようになりたいと強く思い、結局思い付いたのはこの方法なのでした。

  勿論パターン図として、描かれた配線では手探り状態だけでは、図面が見え無いので正しく配線する事は不可能ですが、さらに手探りでやれるのは2.4ミリ間隔で、穴が開けられてその周囲に銅箔を塗られた「ユニバーサル基板」を用いての配線が限度です。

  さて、これ迄「手探りで」と書いて来ましたが当然の事ながら実際にはこんな小さい所でしかも穴の周囲に貼られた薄い銅箔も確認しなければならないものですから指先でだけハンダ付けの場合にはその部を直接、触っているのでは無く、それは鋭利に尖った錐の先端でゆっくりと場所を滑らせながらの確認をすると言うのが先ずその基本です。

  この感覚は丁度私みたいな者で、完全に手元や足元を見る事が出来無い者が、外出の時に足元を白杖の先端で地面を触り、確認する時の感覚をさらに鋭く確認しながらの技術なのだと言う事です。これによりハンダ付けした後にそれが正しく完成しているかどうかを確認すると言う技術なのです。


実際に行なった手探りハンダ付けは。

 さて、実際のハンダ付けの方法は、基本的に付けようとする物の所に、予めハンダ鏝を当てて、その場が一定の温度になるとハンダの先端をその場に持って行き、必要に溶けると付けようとする部分に溶けたハンダでその部が塗れるが如くに馴染み染み込むような感じになったところでハンダと鏝をその場から離し仕上がりを確認するのです。

  これは完全に見ながら行なう方法でしか出来ません。そこで実践とは、いくらか良い方法とは、言え無いまでも、私は昭和30年14歳の時からただやりたい一身で真空管方式のラジオ製作を始めた事によりハンダ付けを自分の工夫でやり始めました。当然の事ながらその仕上がりは先ず、見た目で決して良い筈はないのですが、たちまちしっかりと接触した事は手探りだけでその強度確認は出来る訳ですので、ラジオ製作から無線機製作までしまして昭和40年代前半の頃迄は自作の無線機で通信をしていたのでした。

  そこでその、方法と言うのは、ハンダ付けしようとする所の用意は、その場を固定しましてハンダもその場に当てますが、これは余り良い事とは言えないのは承知の上、鏝先で「ちょんちょんちょん」と軽く探るようにしながら鏝の先端を目的の場所に持って行きまして、その場だと感じましたら半だが溶けるのはそれ迄の練習により、感じを掴んでいますので溶けた状態を感じたらハンダと鏝を離すのです。

  勿論時にはハンダに鏝が先に触れて溶けてしまったり上手く行かない事なども繰り返していました。それでも毎日のように好きでやっているものですから、真空管方式のその頃の機器は形も大きかったのでなんとか機器を作り上げるなど出来まして、結構使えるようになりました。そんな事で、昭和40年代初めの頃迄はそのような自作の機器で無線通信もしていたと言う事なのです。


トランジスターを用いての製作時代。

 昭和40年代に入った頃から1台の大きな機器を一人で製作する事は、可也詳しい方でもそのような事を出来る時代では無くなりました。特に私の場合経済的に先ず部品を買い求める事が困難なのとメーカー製品を用いる時代に入りましてそのような物を製作せずに周辺のちょっとした補助装置を作るくらいの事でした。

  そのような事で私の製作方法の主な内容は、トランジスターを「ユニバーサル基板」を用いての配線もしましたがその頃迄は穴の感覚も広かったものでなんとかそれまでの方法でハンダ付けは出来ていました。

  昭和50年になる頃から(IC)が手に入り、トランジスターを沢山組み合わせて複雑な物を作るよりは遥かに性能が良い機能に作られた便利な物を製作出来る時代に入りました。それは7ピンから14ピン2.4ミリ間隔で並んでいる物に隣のピン同士へハンダが流れて接触し無いようにハンダ付けするにはこれ迄の私のやり方では先ず不可能です。

  そこで私は始めて電子機器工作がいよいよ困難になった事に悔しさが強くなり、自分の限界はここ迄で、この間隔でもなんとかやれないものかとどうしても諦められない強い心境になったのでした。


何とか限界を乗り越えたくて成功した事。

 私は昭和50年の頃迄やって来た電子機器工作でのハンダ付けに対して「もう少し何とかならないものか」と悔しく思い、考えた事はそれ迄には覚えが無かったくらいです。そこで学生時代のラジオ組み立ての時期に理科の先生から「内部配線の時にその頃からで始めたビニール製チューブで無くエンパイアチューブを用いるのは熱に強いからだ」と言われた事を思い出したのでした。その時に「これだ」と思ったのは殆ど糸ハンダを用いていたので、これをエンパイアチューブに通し、必要なだけ覗かせて置いて、目的の所に当てれば鏝先を目的の場所に誘導するのも左手で持ったハンダの通ったチューブを軽くとんとんとんと触れながら目的の場所に持って行きやすいと言う事でした。この方法だと、先端から覗いたハンダが溶けたところでそれ迄のように手に持ったハンダと鏝を離せば良いと気付き、早速やって見ると、実に上手くハンダ付けが出来、実際に(IC)を用いての製作が出来たのでした。

  この時のエンパイアチューブは長さ3センチくらいの物を用いますので、繰り返しハンダ付けをしているとそのチューブが鏝先の熱で焦げますので新たに取り替えれば良いと言う事なので、勿論頻繁に鏝先の手入れも、濡れた布などで不純物を拭うなどします。

  この時に思ったのはこの材料は私の子供の頃から有ったのでこの事に気付いていれば実に能率の良い上手なハンダ付けでその頃から機器製作が出来ていたのに、なんとかやれるようになっていたと言う事で、それ以上の努力を20年間も全くし無かったと言う事を思って大いに反省したものでした。

  そこで私が(IC)ハンダ付けをした所を見たその道の人はこれを手探りだけでやったとは信じれ無い思いだがと言いながらも、眼の前でその道具や材料を見ての事で私の努力を認めざるを獲なかったと言うエピソードなどは私が他の工夫に対してもよく体験した事なのでした。

  ただ、このような話題では肝心の視力障害者の皆さんは現在程に私をますます信じる事が出来ないもので数年前の頃「メーリングリストや(2CH)投稿サイトなどでの誹謗さえもしたの」を読んだ事も有るくらいでした。世間に対して障害者を理解してと、運動を声高に訴えますが、私が若い頃からの障害者の世界から私を信じられない現象は変らず、さらに強くなっている、正に真の障害者差別を障害者達自信から受けたと、この歳になればなおの事強く認識するものです。

  これこそ技術を持ち、実体験している者にだけしか表現出来無い事で、現在の方が私の所には若い頃よりは道具も設備も揃っていて私の所に来られたらただ恰好だけで物を集めているのでは無い事を認識して貰える物はそのまま有るのですが、そろそろ私も良い歳になりましたもので元気な内に色々処分しておかねばと思う物も沢山貯まってしまってもいるのです。


並四ラジオ(ナミヨンラジオ)とは。

 私が始めて作った真空管方式のラジオは「並四ラジオ(ナミヨンラジオ)」と言う方式の物です。これが判る方は還暦を過ぎての、60歳代以上の方だと思います。勿論話題としてくらいならさらに若い方でも聞いた事が有るとか何かの本でそのラジオ発達の歴史として知っていると言う人はおいでになられるでしょう。しかし部品を買い集めて製作したと言うような人はもう、60歳代以上の方がその殆どでしょう。

  しかしさらにこれより簡単な「鉱石ラジオ」と言う事になりますと、その表現とそのように言われていた部品で製作した人はやはり60歳代以上の年輩の方が殆どだと思います。

  ところが原理的には同じなのですが昭和30年代前半の頃から出始めた「ゲルマニュームダイオード」を用いての製作キットになった物が「ミニミニラジオ」と言う商品名で、現在の30歳代くらいで私の子供の世代の者が小学生の頃に販売されていると言う事を私は知ったのです。

  この「ゲルマニュームダイオード」と言う部品は昭和31年の頃の物価で70円くらいしていた物ですが、これを用いて「鉱石ラジオ」を作った時にはそれ迄に用いていた「正に鉱石」と言う部品は用いている内に使え無くなる物だっただけにしかも25円もする物でした。

  それらに比べて、取り替える必要も無く永久的に使えると言う物で、それを用いて作ればとても良く聞こえるようで、その頃本当に感動したのでした。

  あの頃の物価での100円と言えば、交通費や食料品の価格などを参考にして思うなら現在でそのまま考えれば約3,000円にも相当するような感じで、その頃食パン一組30円くらいなのですから、14歳くらいの子供が小遣いで買い求めるには大変な事でも有りました。

  既に私は真空管方式の製作技術が身に付いて来始めた頃でしたが技術的には実に深い興味を持ち、製作実験などもしたのでした。それは昭和29年の頃に「電器がいらなく聞こえるラジオ」と言う事を聞いたのがこの「鉱石ラジオ」で、強く興味を持ちました。

  これはダイヤルに直接付いている放送局を選択する部品により局を選んで受信すると直ぐに「鉱石検波器」から音を取り出し「クリスタルイヤホーン」で聞けると言うラジオとしては最も単純で基本的な物なので全く電源を必要とし無い物です。現在は電子工学を学ぶ場合の、最も基礎の部分で簡単に学ぶ程度にしか話題が出るくらいの事では無いのではなかろうかと思います。

  それに対して「真空管やトランジスター」と言う物は「検波器の働きや音などの電気信号をを強めてスピーカーを鳴らせる」程にまでの機能をその種類によって持っている部品なのです。昭和30年代迄はこの「真空管」が、主に用いられていてまた、昭和30年代に入った頃から一般にも携帯ラジオとしての構造により「トランジスター」が真空管に変る部品として用いられるようになり出し、基本的に真空管を、用いる時代の終わりになり始めたと言う事なのですが「並四ラジオ」は、トランジスターでも当然作る事は可能ですがその話題は殆ど聞く事は無かったです。

  そこで「並四ラジオ」とはどのような物かと言えば、主に真空管時代から作られた、ラジオが発達し始めた最初の真空管方式での物で、放送局を選ぶ部品によりキャッチされた電波は最初の真空管に入り、音を取り出しながら信号増幅機能も有る一本目の真空管に入ります。次に二本目でさらにその信号を強くします。さらに3本目の真空管でスピーカーを鳴らせる程に強められ、繋がっているスピーカーを鳴らすと言う構造なのです。

  「並四」と言うのはこのように真空管が4本並んでいる事を現している表現ですのでもう一本の真空管はどのような働きをするのかと言う事になります。それはこれまで説明した3本の真空管を働かせる為に200ボルトくらいに、電灯線から入った交流電圧をラジオ内部の「トランス」と言う変圧器により作られた交流電圧を乾電池のような「直流電圧」にする為の電源用として用いる「整流器」としての物だったのです。

  そのような事で、真空管はトランジスターに置き換わる時代に入ったと言う事ですからやはり「トランジスター」と言う「半導体」と言われる部品もやはり同じ働きをする物ですので電源にも、用いられる物も有るのです。


受信機から送信機の原理を学び。

 昭和32年の春には前の年から1年がかりで少しずつ部品を集めてその頃10歳代半ばの子供が持つには贅沢とも言えるような「6球スーパーラジオ」を完成させたものでした。その1年間の昭和31年の間に父親が何度か値段の高い部品を買って呉れた事も有りました。余り裕福では無く苦労続きの「育ての父親」でしたがそのような子供の言う事を聞いて部品を買って呉れたのは今このように書ける程にはっきりと記憶しているくらいなのです。

  あの頃はラジオなどの性能を現す方法として真空管の数で表し「スーパー」と言うのは前に書いた「並四ラジオ」に対しての内部構造でさらに複雑な技術を導入して放送局の電波の強さが可也違っていても接近している周波数の局を完全に分離して混信の無い性能の良い技術で作られた方法のラジオの事を言います。

  勿論私もその頃には技術的な基本原理を学べていたのでしたがそんな技術が内部に設けられて無いラジオなんて昭和30年代に入る頃からのメーカー製ラジオにはそのような事は無くなってましたが、買い求めるにはその時代としては可也高価な物でした。

  そのような事でしたもので自作する段階ではその違いもラジオによっては特に経済的な理由では考えなければならない時代は、昭和30年代初めの頃迄でした。自作したラジオのスピーカーは、あの頃「8インチスピーカー」と、言っていましたが、今で言う20センチスピーカーで、なんとか木製ケースも手に入り、可也形の大きな物にはなりましたが音質も先ず先ずと思える物で、その頃は色々な楽器も扱えるようになり特に昭和29年から「ヴァイオリン」などを習う事が出来たのでいくらかの「クラシックサウンド」も判るようになっていたもので、音質に付いても可也理解出来ていて子供の自分が持てるラジオとしては、実に満足の出来るものでした。

  このように私は単にラジオ製作の作業が好きだと言うだけで無く音楽を元にしての音に関しての事もいくらか理解出来、ラジオ製作の技術的な事も、本が読め無い不自由さの割には先輩たちでラジオ製作などしている人より可也原理的な事に強い関心が有り、可也その理解も出来始めた頃でした。

  その頃結局は他のラジオ製作していた先輩達からは原理的な事を習う事は困難でしたがちょっとした話題での中に有った事や弱視の人に主な真空管の規格表を読んで貰うチャンスが昭和32年に有り、それを点字で書き取っていましてその中の用語から可也の学びが出来たもので原理的なことをその時なりに知って色々な実験もできたのでした。

  そんな子供の頃でしたが、現在でも(AM,radio)で用いられている方式の電波を出す基礎的な事も理解出来たもので、自作のラジオにいくらかの細工をして、電波を出して、借りたレコードプレーヤーを用いて音楽をかけたり、自分の声を乗せて出したもので、その頃寮生活でしたので他の部屋の者達がそれを聞いて騒いでいるのを機器、楽しんでいて理科の先生から驚かれながらも、お叱りを受けたのも思い出の一つです。これなどは自分がラジオ受信機の構造を理解出来た事によりそれを応用して作り上げたのは、今から思っても子供の頃の大きな思い出です。

  アマチュア無線の免許が取れる前の昭和32年の後半の頃から盲学校外部に私の世代前後のまだ高校生だった優秀な数人の皆さんとの出会いにより、今から思えば色々情報を頂ける恵まれた時代の始まりになったのでした。


電波法改正で障害者にも始めてのアマチュア無線免許が。

 電子機器製作技術に関係の内容から離れて電波法に付いてです。ラジオ製作が出来るようになりますと私みたいな性格では電波を出す為にはと言う事に強い関心を持つようになったのでした。ラジオ受信機の構造をあの頃の浅い理論知識から理解して電波の出し方が判りそれを実行した事を既に書きましたが正式な事は、電波を出す為には免許が必要な事はあの頃から誰もと言って良いくらいに認識されていたようなものでした。

  私にしてみれば実に幸運にも昭和32年春の頃から視力障害者にもアマチュア無線の免許をと言う事で、電波法改正運動が始まったのでした。それが実ったのは昭和33年の11月5日付けで法律改正が施行されて新しく出来た「電信級と電話級」により障害者には「電話級のみ昭和34年春の、受検から与え、試験の方法は「口頭試問で」と言うものでした。

  私は嬉しさと共にとても残念な思いをしたのでした。以前には最高の1級と2級との2階級しか無く私は子供心にも漠然と法律改正と言うものは許可になれば全てがそのままだと創造していたからでした。新しい制度での2階級は既に有った資格より小さい設備しか許されず障害者には「マイクを持って喋るだけ」の資格だけ。それは設備する送信機の出力は10ワット以下の設備で「無線電信も許され無い」と言う厳しい制限付きだからでした。

  「2級は100ワット以下。1級は特に法律的制限無し」と言うものだったからです。出しても良い電波の強さと言うのは、よく放送局などが毎日、放送開始の時に周波数と共に言っている。「出力何ワットです」と言っているのと同じ考えなのです。

  それから後に法律改正がやっと行なわれたのは昭和40年の秋に電信級が解放され昭和41年の受検から。さらに1級迄と全てやっと障害者に開放されたのが昭和53年の春に改正されて秋から受検可能になったのでしたが、これには障害者で無い立場でしかも行政関係から問題が有ると言う事になりました。

  それは「数千ボルトと言う高電圧」に関係の機器を用いる事の有る資格に視力障害者に免許を与えて感電事故など有った時にその責任は誰が持つのか。と言う確たる裏付が出来無い為に電波法改正を決定出来無い状態に有る事を私は昭和52年の春の頃に知ったのでした。そこで私が問題をクリアーするべくあの頃の「仮名アルハベット混合タイプライター」で、書いた文章を「日本アマチュア無線連盟」に私が送った文章が裏付けとなり電波法改正が実現したのでした。

  それをはっきり意識したのは電波法改正がされた事をマスコミでその時の「郵政大臣」が発表されて直ぐに関係の所から私に連絡が有り、他の視覚障害者で社会運動をした方の連絡先を私に聞かれて東京からの長距離電話でも有りましたしその頃は現在のように電話料金が安くは無いもので、日頃の密な連絡の無い皆さんばかりでしたので誰の電話番号も答える事が出来なかったからなのです。

  その内容と言うのは先ず敗戦後、日本の教育制度がスタートして「盲学校」でも、一般の皆さんと、文字が点字と言うだけで変り無い教育を受けられるようになった事により、その知識内容はそれなりの工夫により持てた事によりその体験から私観たいな物もこのような免許が頂きたくなる事。

  その為、国は国民を教育する義務を果たして頂いていること。そのお蔭で視力障害者と言えどもそれを学び、知識が獲られた事は、国の制度での免許を頂ける国民としての権利が有る筈。と、言う事を基にしての、知識を持てている裏付けとなる内容を説明したのでした。

  特に昭和40年代の終わりの頃迄には電子技術の発達のお蔭でその部品からの応用により視覚障害者もそうで無い人のように色々なチェックもその技術で出来るようになり、受検に合格する程の知識技術を持てばそこには視覚障害者に免許を与え無いと言う根拠が全く無い事になります。

  その事は試験に合格出来る程の知識技術が有るのに、視力障害者だからと言うだけで完全に素人と変り無い、考え方をすると言うのは、教育制度的に我が国の教育を否定する根拠になる事。その事は余りにも大きな根拠に反する事になる。それは寧ろ責任に付いては免許を受けた以上その責任は視力障害者と言えどもそれ迄の立場と変り無いと言う事になる。我々はその認識の元に試験に合格すれば免許を頂く事により全ての責任は国民として免許所持者としての立場にこれ迄と違いは無い筈。ただ、違うのは用いる文字が点字と言うだけでこれさえ認められれば何の問題は無い筈。と、言う意味の内容が主だったのです。

  ですからそれ以外に無条件での試験とその合格した後にはやはり無条件での義務と権利は同じでなければならない、それが出来なければ免許取得の意味は無いと言う認識の元に私は国へこの事を御願いするのです。と、言う概略このような文章でした。

  これによりますます私は「電子工業会専門家の世界は全く違う。だからこそこの免許を頂く意味が有る。」と言う事を改めて強く意識し、感謝の思いを強くしたのでした。

  このように電子工業系の免許が可也高度なレベルで障害者にも与えられるようになったのですが世の中が進んで学びさえすれば障害者にもこのように高度な電子工業系大学出身の人並みの免許が取得出来るようになったとは言え免許証に「アマチュア」と言う名称が付いている為に無関係の素人の人や「電信級、電話級」現在の「3級と4級」だけの単なる通信のみを楽しみにすれば良いと言う感じの皆さんからさえも私みたいな立場では色々説明しても「電子技術を職業人波に持てている事」を認識されません。

  電子工業会は先ず学歴よりも免許を持てば社会的立場はそれで認められると言う、私みたいな目的の為には努力する者にとても魅力的な世界だと子供の頃から認識出来ていました。その為に40歳近くになる迄意欲を持ち学び、あの頃の資格だから受検しました。

  昭和の終わりの頃に全ての資格に対して法律的欠格事項が無くなった事は人権的にとても良い事で、誰でも学べば受検出来るのですから実に素晴らしい事です。しかし、その為に緩和された事の素晴らしさの裏にはその能力を性格に認めて貰い難い時代になっている状態ですもので現在の緩和されてしまった時代になり、やっと受検出来るようになっていたとしたら私は受検し無かったと思います。

  アマチュアと言う語源を辞書で調べますと「素人」と書かれていますが、無線技士で言う「アマチュア」は、素人を現しているのでは無く、商業無線局の通信をその資格ではさせ無いと言う法律的区別なのです。電波を発射する為の権利義務は全てその責任が無線従事者としては全く同じなのです。

  車の免許で道路を運転するのに誰も先ず一種免許が必要ですがアマチュア無線技士の資格がこれに同じです。車の場合には営業免許としては二種が必要ですがこれがプロ免許と言われるのと全く同じに解釈出来ると言う事です。アメリカでは無線技士の資格に「素人」と言う考えは無いのです。私は折角高度に学びながらこの点では残念な人生でした。


いよいよ視覚障害者で我が国始めての無線の免許を。

 アマチュア無線の免許がなんとか最低の視覚では有ってもたちまち取れたと言う事はあの時代は特に今から思えば世間が高度成長に入る初めの頃だっただけに、私も10歳代半ばでいくらかの事が判り出し、今から思えば何も無いような時代と言えども、その頃は全く何もそのような事は判らない訳ですので、何もかもが皆さん前向きで一生懸命進み出していた時代だったと言えます。

  昭和34年4月期の、視覚障害者では日本で最初の「アマチュア無線技士」の資格を取れたとは言え、やはり経済的にはなかなか私は思うようにならず送信機の製作方法は基本的に身に付いていたものの、部品を買い求める事が出来ません。それもあの頃は現在の(AM,radio)と同じような技術で電波に音を乗せると言う方法での製作です。特に家庭用「短波ラジオの7MHz」での電波を出す送信機を作るのにその部品の全てはその頃普通のラジオ受信機の部品だけで製作する事も可能だと言う事でした。

  ですから特殊な物を買い求める必要は無く「もう一台ラジオを作る」と、言うような部品の集め方なのですがなかなかそれが出来ない為に昭和34年の秋の頃にやっと親から3,000円を貰い、足りなかった部品を求めて送信機を作り、受信機は昭和32年に完成した「6球ラジオ」を改良して短波受信が出来るようにした物を用いる事ができたのでした。あの頃は子供に3,000円持たせると言う事が、私の両親は大変な苦労が有ったのでした。

  このようにしてやっと「無線局開局申請」をして、現在もこのページアドレスにも用いている(JA4AIB)と言う世界で国が発行しているたった一つの私が免許人で有る事を現している「無線局コールサインの予備免許」が届いたのでした。

  その頃迄はどのような無線局も、このように予備免許が届き無線設備を作り、完成しますと「落成届け」を出しまして郵政大臣が行なう「落成検査」をする為に、郵政相の係官の検査に合格して初めて本免許となるのです。

  現在は200ワット以上の無線設備で開局したアマチュア無線局は同じような検査を受けるのですがこれは「職業通信無線局」と全く同じ制度なのです。このような大きな設備の無線局を開局するには現在私が持っている「第一級アマチュア無線技士」の資格か本職の2級通信士以上の資格所持者でなければ開局出来ません。

  しかしその頃昭和34年11月に法律改正が有りその時の10ワット以下の無線局は書類審査だけで本免許となるようになり、私は翌年2月9日付で自動的に本免許となったのでした。

  それからは沢山の皆さんとの通信を通しての知り合いが出来まして日頃普通の本を読む事が不可能な私ですので知り合った皆さんから色々情報を頂き、教わる事が出来る素晴らしい本当に恵まれている事でした。特にあの頃は皆さんとても一生懸命で工業高校の通信化などに行かれている人やその頃のアマチュア無線をしている大人の皆さんからは実に親切に御指導頂けたものでした。

  その頃のマイクは私の場合、買い求める事の出来る程では無く、安くて「クリスタルマイク」だけでも1,000円もしますもので簡単には変えません。そこで無線の資格取得する前の昭和32年に電波を出す事をした時に工夫した物で、鉱石ラジオを作った時に用いる「クリスタルレシーバー」のコードをマイク用に取り換えた物をそのまま用いていたのでした。これなら200円くらいで買い求める事が出来まして、コードの取り換えは自分で出来ると言う状態だったからなのです。さらにその時、製作した無線機はちゃんとしたケースに納める事が出来る物も、買い求める事は出来ませんので、部品を取り付ける「シャーシ」と言う金属の箱型の物の前面に、アルミ板を立ててそれにメーターなどやスイッチ類の、つまみなど付けて正面からだけは何とか形が整っているような作り方をしていたもので、金属ケースに収納出来るような物を作りたいと憧れたものでした。


僅かな知識をフルに応用しての電子機器製作体験。

 強い希望だったアマチュア無線局開局が出来まして沢山の知り合いと話せるようにはなりましたが学内での無線通信を許可して頂く事は出来ませんでしたもので、幸いにも下関市内に住んでいましたもので毎週のように土曜に家に帰りますと無線通信が行なえるのとどうじに知り合った学外の皆さんの所に時に遊びに行ったり、私の所にも来て頂けてと、実に楽しい毎週の土曜日曜と言う事になりました。

  それと共に色々な知識も身に付ける事が出来ましてとても楽しい学生時代では有りましたがそれは全て学外での大きな体験でした。学内、詰まり寮生活では幸いにも色々な道具を持ち、ハンダ付けなどする事にも全く禁止される事は無かったので寮の自分の机ではちょっとした工作なども出来ました。

  しかし作ったラジオは無線機用として改良し、我家に持って帰りましたので寮ではラジオの無い状態になりました。ところが世の中が進んだお蔭で「ソニーのトランジスターラジオ」でその頃「携帯ラジオで実に素晴らし物」が出ていたのを父親は買って呉れました。(SONY-813)と言う型番だったのを覚えているのはその頃、無線送信機の大出力の電波を出せる真空管を知りそれが(813)と、言う型番の物で私には憧れの真空管だったのではっきり覚えているのです。

  日頃は無条件暗記の苦手な私ですもので、学校の試験勉強などは実に苦手だったのですが、あの頃のた易くやれない無線関係の電器の知識と言うのは、それを学ぶ事に困難が有るにも関わらず強い欲求を持っているのでさすがによく覚えている事になります。

  さてそこで電波が出せるようになりましたがマイクは「クリスタルイヤホン」での、代用品です、それでもやっと昭和35年になって憧れていた「アイワのマイクスタンドとクリスタルマイク」を買い求める事が出来ました。その頃になるとやはり私は自分の声を電波に乗せるのに出来るだけ良い音でと言う事を考えるようになり、父親から買って貰った「トランジスターラジオ」から電波に乗っている自分の声が出る音を聞きながら、あれこれ思うようになりました。その頃は音に関係の製作から電波を作りそれに音を載せると言う事が出来るようになった訳ですから、普通「オーディオアンプ」などを作ればスピーカーからその音を出すだけと言う事なのですが私の場合は「ラジオ放送局」のような設備製作が出来るようになっている事になります。

  そこで私が考えたのは後に知識が付いて判るようになる「マルチアンプ」と言う基本機能を自分で思い付いたのです。それは全く関係の本が読め無いのですが、自分で思い付いた発送でのやりかたなのです。それは、良い音とは、低い音から高い音迄可能な限り正直な音としてマイクからの音が電波に載せられるようにと言う事です。そこで低い音専用と、高い音専用の音を通す部分を夫々の別の真空管を通してそれを合成した信号を電波に載せる為の部分の真空管に入れれば良い。と、言うような発送を思い付き、そのような機能を持った部分を組み込んだ「オーディオアンプ」を作ったのでした。

  その時には父親からまた援助して貰い、以前から憧れていた「黒色の全く穴の開いて無い金属ケース」を買い求めそれに部品取り付け用の穴開けの作業から全て自分の設計で作り上げました。

  それを用いて電波を出し始めると知り合いの皆さんから「クリスタルマイクとは思え無い程の音質で」と、言われました。現在でこそ「ダイナミックマイク」は、普通に使われるようになりましたが、昭和35年の頃にはそんなに値段の易い「ダイナミックマイク」は無く、それは大きな憧れのマイクで私が在学中には母校の行動の拡声器でさえも用いて無いと言う時代だった、憧れのマイクだったのです。

  そのような時代でしたが一般のアマチュア無線で知り合った皆さんは色々な本により、その製作技術の情報は図面で書かれていて、理論的な事は主要な部分などの説明を読まれての製作なので殆ど「オリジナル」な、作り方はされません。いくらか「オーディオ関係で良い音を」と、言うような話題に花が咲いた事も有りましたが、あの頃私が発送した「夫々の専用の機能を持つアンプ部分を」と、言う発送などの話題は先ず聞きませんでした。

  このような発送はそれから後の昭和40年代半ばに私が知った「完全トランジスターステレオ」が普及し始めた頃にスピーカーは既に現在では当たり前のようになっている「低音、忠音、高音」と言うように専用スピーカーを用いますが、それらのスピーカーに夫々専用のアンプを取り付ける方式「正にマルチアンプ方式」なのですが、これを知った時にはいくらか目的とその構造は違うものの、私が昭和35年に思い付きそれを内蔵した「オーディオアンプ」を作ったのだったと嬉しくなったものです。

  話題はまた学生の頃になりますが、学校卒業が近付き、昭和38年に家を出ての「広島県」への就職が決まり、アンプを作ったのと同じケースに電波を出す送信部分を急いで作るなどしたり。また、その頃に知り合った北九州の方で後に私が電子工学の基礎を学びまた、新しい方式(SSB)電波が出せるような切欠を作って下さったその道に進まれた方からのお世話を頂「職業用受信機」の払い下げ品を私に譲って下さり自作のラジオ改良の物より遥かに良い物でしたのでそれらとの組み合わせでその時代としては実に良い体験が出来たのでした。

  このように現在とは違い、それ程に経済力が無くても技術知識を持てていれば、その時代なりの事が何とか出来たのはまだまだ現在から思えば機器が技術的に扱い易く部品も手に入りその頃としては機器的にも実に丈夫に作られていたので実践で学びながらの体験が出来たと言う事なのでした。


社会人として生きる為の大切な技術的幸運を頂。

 昭和30年代と言うのは、基本的に現在迄比較的、幸せに生きて来れた自分の人生で実に大きな力となる、最も大切な部分の基礎としてのスタートになる約10年近い時期だった二十歳前後の頃になります。この時の体験が現在自分の生きて来た基礎です。

  昭和36年には「アマチュア無線で知り会った方」とのお世話を頂き、強く願っていたあの時代の真空管敷き「オープンリールのテープレコーダー」を譲って貰えると言うチャンスを頂いた事も私の電子機器に関しての知識や、音楽に関しての体験がそれ以後通学もその頃からで、大きな実体験が出来る事になりました。

  それにより、電子機器工作に関係の基礎理論からそれを応用して物理学と言う理論的根拠からの、音楽に付いての「音の基礎知識」などにも繋がる事に気付いた事から、そのような学びを基礎にして総合的な感覚からますます学べて行けるようになりました。

  そのような実践的体験技術が基礎になっての恩師「医師」とのご縁を頂けた事で、昭和39年春の学校卒業の時から翌年の4月迄は私みたいな立場では学び体験する事は出来無いだろうと思える程の立場も頂いてのそれからの人生、生きて来れた真の基礎体験も頂けたのでした。

  その事は盲学校で学んだ事も無関係では無いとは言え、そのような所で働かせて頂きながらの学びは寧ろ「電子工学から学び、音楽に関しての私に身に付いたノーハウ」を基礎にしての体験で、恩師の下での病院勤務中私の人生に大きな力を頂いたのでした。

  その一つの例として、あの頃はまだ「テレビカメラ」などは実に珍しい時代だと言うのに、それらの設備を移動する場合のアドバイスが出来る事により私のノーハウを信じて頂けその基本計画などは私の考えで、他の職員の皆さんとの作業により特殊教育関係の教室やその他に必要な部分の内容を「院長室でモニターする」などの基本的な仕事内容経験が出来た事などは今から考えても視覚障害者と言う私の状態では信じれ無い程に、恩師のお蔭で大きな幸運を掴めた時期でも有りました。このような実体験を基礎としての私の視力障害を遥かに補えるノーハウによりその頃の私の未来には大きな希望が膨らみました。

  勿論そのような場所で地域の「アマチュア無線」をしている人との出会いなども有り、その頃の「アマチュア無線通信」の内容は私が最も人生の目的に大切な電子技術を学ぶ為に色々な話題が話せると言う、実に素晴らしい環境でしたので、全く関係の本を読め無い私はそのような皆さんとの出会いにより何とかその時代なりに学びながらの仕事も出来たのでした。

  それが「テレビカメラ」などを初めとするその頃では特殊な技術だったもので普通は地方の電器店でもなかなか対処出来無いような仕事を私が出来たり、ちょっとした機器の修理などの基本的な事が出来たり、大きな配線設備作業がいくらか器用にやれる職員との協力で可也の事もやれたと言う体験が出来た事により実に充実した若い頃でも有りました。


世の中が進み全ての機器を自作出来無い時代に。

 昭和40年代に入り、先ず40年5月に恩師の所から退職させて頂きました。それはやはり私みたいなレベルの立場ではやはり外科勤務意外はそんなに働ける場が有るものでは無いと考え、どうしても自分の人生目的としての「電子工学関係」では単に理論的な事を学んでも実際に電子機器を作り、時にはその時代的に発達した基礎となる機能を持った機器を持たなければどうにもなりません。その為には自分の、折角免許を取得した「鍼、灸、マッサージ」でなければそれなりの収益を獲る事は困難だと思うようになりました。

  それでも、せめて普通文字の読み書きが可能な程の視力が有ればそれなりのノーハウが有るもので、可也働ける事だと考えましたが現在みたいにパソコンが扱えれば数年は働かせて貰える環境では有ったと現在だからこそ思える事なのですが、勿論あのような時代に全く、そのような発送での創造さえ出来無い時代でした。

  そこで昭和40年に入ってからちょっとした事が切欠で昭和42年の1月から43年の3月迄は幸運にも外科勤務のチャンスが有りその時代並の給料が貰えたものでその時、初めて出始めた(TRIO)から出た、50MHzの僅か5チャンネル送信しか出来ないトランシーバーが出たもので、隣人に何人かの人も求めまして、私も幸いに固定給が有ったもので買い求める事が出来その頃迄は何とか皆さんと変り無いような事も出来ました。

  昭和30年代に自作した送信機と友人の世話で手にする事が出来た短波帯の通信機を用いていましたが昭和30年代後半の頃から(SSB)方式での通信が出来る機器を製作していた人が有ったのは勿論知っていましたが、いよいよ私もそれがやれればと思っていたら学生の頃に受信機を世話して呉れた人が自作された時に用いた(SSB)ジェネレーターを譲って下さり、それを元にしての(SSB)電波が出せる送信機を私も作る事が出来たのでした。

  丁度その頃で昭和41年に「電信級」の資格が取れるようになったのでその時にはまだ学生の時に自作した送信機で、電信の電波も、公式に出せるようになったので最初からの設備で折角自作した機器で「モールス通信」が出来たのは感動でした。その時、私が直ぐに普通に通信出来たもので特に「本職の通信士の方」からは驚異的だと言う程に関心されたものでした。

  しかし私は既に昭和35年には和文でもアルハベットでも通信出来る技術は持っていて、いつ免許が取れるようになっても良いようにしていたので、本職の皆さんとの通信も続けて行なう事が出来たのでした。

  そしていよいよ(SSB)と電信が能率良く出せる送信機も出来た頃さらにその友人がその時の自分が作られた(SSB)受信に、実に性能の良い受信機を格安で譲って下さり私もその時代の人並みに新しい方式の(SSB)通信が出来るようになったのでした。

  これ程に高度で複雑な機器になりますと全てを完全に、以前のような通信機を手探りで自作するのはやや困難にもなってました。しかし機器の内部構造の原理適な事は全て理解出来ていましたので「単に自作作業をしなかった」と言うだけと言えるのです。

  その後昭和40年代の後半に(TRIO)メーカーの通信機を別の友人から譲って貰い、何とか私も他の人のようにメーカー製の通信機を使う事が出来るようになったのでした。

  この頃から寧ろ技術は免許が取れさえすれば良く、機器は金無くして買い求められる事では無いので、その時代の物を直ぐに買い求めてと言う訳には行かなくなったのは、私が安定したサラリーマンのような収益を獲られる生活で無かった為と言うのは現在迄続いていると言う事になります。


金無くして学んだだけではどうにもならない時代に突入。

 昭和30年代迄は今から思えば先ず、良く学べば実際に部品などを直ぐに買い求める事が困難な場合には先ずしっかりと学びながら貯金したり、部品を少しずつ買い求めながら組み上げて行けば1年2年後にはそれが報われる事の多い時代で特にラジオを初め、オーディオ機器や「アマチュア無線局の送信機」でさえも可也の物が数年かかってでも「努力すれば」と言う時代でしたので私みたいな者でもその時代なりにやれたような事でした。

  ところが昭和30年代迄は特に「無線通信が出来る人」と言うのは「余程にお金持ちで秀才の人がやる事なのだ。」なんて自然に世間から思われていた時代でも有りましたもので、視力障害者で学生だった10歳代の私でさえ未来へ向けての大きく希望の持てる時代だったとも言えまして、勿論た易く無い事も心得てました。

  それは勿論今から思えば真空管方式で有りながらその技術内容は電子技術の基本的な範囲の理論内容で物が作られていたからだと言える事を私は30年前の頃には理解出来たからでした。と言う事は既に電子工業会では電子光学理論の基礎が昭和の時代には解決していて、その時代からの材料開発から部品が作られ真空管から半導体製作がその電子理論によって働く物が作られた事により現在のようなデジタル理論道理に働く「デジタル機器部品」までが作られているのだと言う解釈が私には出来ているのです。

  さらに昭和30年代頃迄のメーカー製品は同じ機能を持つ物を自作した場合でもその頃迄はメーカー製品の半値からそれ以下で部品を求めて作り上げられると言う時代だったからでした。しかし電子理論の基本は既に学者さんの間ではその時代以前から既に現在のデジタル機器を考え設計するのに必要な基本理論は全く変って無いと言えるのだと私が気付いたのは昭和50年代前半に「第一級アマチュア無線技士受検」の為に一冊の本を家内に全て読み上げて貰った時に完全にその理論内容を理解し、それ迄に可也の基本的な知識で納得出来ていればこそさらに奥深い専門的な部分に疑問になっていた事の基礎を全て現実と理論の一致できる程に全てが解決した時だったからでした。

  それ迄の私は晴眼者の人手しかも、工業学校の電子化を出た人でさえもが「本を読んでもなかなか判るものでは無い。」なんてよく言われていたのを聞いていたものですからそのような立場の人に1冊の本を読み上げて欲しい。ましてや電子関係で無い立場でボランティアの人に御願いする事も出来なかったのです。

  それさえも解決出来たのは私が一般的な基本形がさすがに理解出来ていたもので、家内に本を読んで貰うのに本の読み方などは家内がその文章から特に「数学式」などで「これこれこのような意味を表す方程式だ」との説明を聞けば私が「これこれはこのように読んで欲しい」との説明が出来た事で、それらを読むのも心得て呉れたからでした。

  そんな事ですから録音しながら聞いていて、私がそれ迄にはっきりして無かった部分の内容を聞きながら、それ迄疑問だった事はちゃんと判りやすく理論的、部品の性質からの理論内容などは書かれている事を知り、改めて本当に本が読め無い悔しさと共に「本が読める事の素晴らしさを感じ、それ迄によく聞いた「本を読んでもなかなか判るものでは無い」と言っていた人の方が理解力が無いからなのだと気付かされまして、図面を見なくてさえ判る私には殆ど理解出来た事ばかりでした。

  そんな事ですから500余も有る図面の内容を私が友人に図面の事で尋ねたのは、書かれている電子理論的内容が理解困難だからでは無く、書かれている文章と図面の中に有る記号とその回路構成とを知る為だけの事だったのでした。

  昭和40年代と言うのは「アマチュア無線通信で知り合った工業学校で物理学の先生」からの話題で数学的な事と実際に作られている部品との法則関係を中心に可也の情報を頂き、教えて貰えた事にあります。

さらに私へ真に電子技術的理論から無線通信機の構造からの根拠などを、とても上手く言葉で説明して貰えたのは、昭和30年代後半の頃から色々と協力して貰えた既に書いた人で、ちょうど専門学校在学中で学びながら実に上手く論理的にメモも見ないで私の質問に答えて貰えたのは今、思い出しても彼の学び方の素晴らしさを感じ、私も障害者で無かったら一人で本を自由に読めてこの人のように学んだだろうとその頃によく思ったものでした。

  さらにもう一人、下関市内の工業高校で後に私の3人の子供達が行くようになる学校へ行かれていた頃に「アマチュア無線通信で昭和40年代後半」に知り合った人からも同じようにその基礎理論を教えて貰えたと言う事も有り、私に基本技術が大まかにでも身に付いていたのでこれ迄に書いて来た皆さんからのお蔭で家内から読み上げて貰えた本からの理解を高める事が出来たと言えます。

  その方が高校生だった頃から知り合いだったのですが、昭和54年に機械方式の16Bitコンピュータを譲って貰いそのマニュアルを家内に読んで貰い、実験できた事で既にデジタル部品の理解が出来ていただけにコンピュータの心臓部とも言える基本を実践的に学べたチャンスを頂けたのでした。さらに昭和56年には出始めの(8Bit)「マイクロコンピュータ」とその頃言っていた現在のような事務機型コンピュータを譲って貰いその情報を頂けた事で今で言うパソコン技術を学べるスタートになったのでした。


アンテナ設備を設計自作で。

 アマチュア無線で電波を出すと言う事は必ず外に「アンテナ」を立てなければなりません。特に昭和30年代迄は30MHz以下の電波での通信が主な方法で波長が長い為に特に家庭用ラジオでも聞けると言う7MHzが技術的にも特にラジオ用部品だけでも製作可能な周波数帯です。そうしますとメーカー製のアンテナは昭和30年代では殆ど話には聞きませんで後半の頃にはメーカー製も出始めたのでしょうけれど、余りにも高価でした。現在では当然のようにテレビアンテナに用いる引込み線「同軸ケーブル」などはまだまだ高値の花と言うような時代でした。そこで先ず私などが安上りに行なったのは10メーター近く有るような竹を買い求めてこれを単線の10メーター長さのビニールコードを貼り付けるように固定して、室内の送信機に繋ぐと言う方法でした。

  特に電波を出す為には適当な長さのビニールコードを外に出していれば良いと言うやり方をしますと技術上とても難しいので波長計算と言う事をして7MHzの電波を出す為には10メーターのコードが必要と言う事になるのが1例なので、このような事を先ずしたのでした。他にはあの頃のテレビでよく用いられていた「平らな手触りのリボン型フィーダー」と、言われていた物をよく用いたものです。それは少しずつのテレビの普及であの頃の物価でメーター当たり20円くらいで買い求められるようになり約30メーターくらい必要だったからです。

  学生時代の終わりの頃には「超短波」と言われる周波数(VHF)」電波を出す為にと言う事で皆さんが無線機製作に努力され始めた頃でしたが、私はそんなに部品を次々と買える状態では無かったので、可也皆さんから教わっての知識は身に付いて来ていたのです。

  そして昭和42年に始めてのメーカー製品での「5チャンネル」だけの送信しか出来無い物でしたが、オールトランジスター方式でやっとそれを求めたのが(50MHz)帯のトランシーバーで、単1乾電池8本でも使える携帯用でしたがちょっとした「ショルダーバック」くらいの大きさで可也重量も有りましたがそれを持って山に上がり、通信出来る時代の始まりでとても楽しく思いました。

  その時にテレビアンテナと同じ構造で今年7月で廃止になる「てれび(VHF)1チャンネル」より、凡そ半分の周波数ですのでテレビアンテナよりは倍の長さの物を私も始めてアマチュア無線で屋根の上に上げての、メーカー製のアンテナも使ってみたのでした。

  勿論トランシーバーにもよくラジオなどに付いているのと同じ手触りのアンテナも付いてましたので山などに移動した場合などはそのアンテナや、自作の物も用いるなどしたのでした。

  さらに昭和40年代前半の頃は現在迄のテレビ(VHF)3チャンネルと4チャンネルとの間が周波数的には空いていて144MHzから146MHzがアマチュア無線バンドとして割り当てられているのですがさすがにこの周波数になりますと部品を集めるだけでも製作技術でも個人で1台の通信機を作ると言うのは勿論障害者で無い可也の技術を持っている方でも困難でした。しかしよくしたもので、私の友人の中には「タクシー無線機」が鉄屑として払い下げられた物などを関係の所から解体直前に見つけて鉄屑の値段でそのまま買い求めて「アマチュア無線バンド用」に改良して用いる方も有りました。

  その頃アマチュア無線用通信機を作るメーカー製も有りましたが、さすがに可也の裕福な方しかまだ持たれてませんでした。私の知り合いで私を技術的に学ぶ為に助けて下さった方は会社社長さんの子供さんでしたがそれを持たれてましたもので私はそれを触らせてもらいそのような物のメーカー製も知る事が出来たのは昭和43年でした。

  私がこの(VHF_145MHz)チャンネルで電波を出せるようになったのは船舶用の払い下げ機をアマチュア無線バンド用に改良して1チャンネルしか出せ無い物でしたが、営業用通信にはそれしか必要は無いのです。それを譲って貰いまして、真空管方式ですもので、私が蓋を開けてその構造を知り私の考えで部品を集め、部品取り付けの金具なども自分で作り、いよいよそれを取り付けるのには手探りだけでは困難ですので、工業学校電子化出身の方に手伝って貰って4チャンネル通信出来るようにしたのでした。

  アンテナは最初自作の物を用いまして、テレビアンテナのような構造では無く「グランドプレーン」と言う、ラジオなどに付いているような垂直の棒型にさらに細工をした形の物だったのです。

  昭和47年にメーカー製6チャンネルで「オールトランジスター」方式で、そのバンドのトランシーバーで単3乾電池8本内臓出来る小形になった物が出たのを随分無理をして求めました。その時にテレビアンテナと同じ形のアンテナを2本求めてそれをダブル「スタッグ接続」にして用い始めたのでした。そうしましたらそれを回す設備セットを譲って下さった方が有りましたものでそれを用いたのです。これらのアンテナは、路地裏の奥まった所に住んでいた頃でしたが、長さ5.5メータ直径5センチの「ガス管パイプ」を買い求めましたら知り合いの方が一片3センチの「L型アングル」を3メータくらい譲って下さったもので、私は鉄鋸でそれを40センチずつに切りまして中央に「Uボルト」で、パイプに50センチ感覚で取り付けての足場を作り、上って行けるようにしました。そして何度もアンテナのチューニングなどしたものです。

  このように私はお金をそれ程に使わない分、学んだ知識で自分の設計道理に外のアンテナ設備を自分で考え設計して作ったのです。


私も時代と共に完全にメーカー製の機器を。

 私も時代の流れと共に完全にメーカー製品を用いてのアマチュア無線通信をしなければならなくなったのは昭和40年代後半の頃からでした。いくら勉強していてもそれらの機器を直ぐに買い求める事が出来るものでは無いもので私にしてみれば可也苦しい思いでせめて、普通の本が読めるくらいの視力が有り、サラリーマン生活だったらと強く、思ったものでした。

  昭和47年にはメーカー製の145MHz帯用の6チャンネル方式のトランシーバーを求めました。皆さんの間でこのような通信方が普及し始めましたもので私は電子工学を学ぶ為にはこの地区の皆さんとのつうしんが出来なければ関係の事を学ぶ事が困難な為に、可也無理をして求めたのでした。

  その頃には「HF帯のメーカー製通信機」を友人が暫く貸して呉れるなどしまして、私は初めて自分の所でそれらの操作体験をする事が出来たのもそれ迄に情報を獲て学んでいたからでした。

  勿論その頃は、オール真空管方式の機器で実際に電波を出す時チューニングしなければなりませんが出力調整をするのにランプが用いられていました。ほんの僅か、眼を近付ければ光が見えていたものですから私は、自作した機器なども電波を発射する時の調整はその為に取り付けたランプを用いていましたのでそれらには余りなんとか困らなかったのでした。

  その頃には「VHF帯通信機」は特に「FM用を数人の人から貸して頂きその時代に進歩し始めたメーカー製機器の操作体験をする事が出来たのも電子理論関係の情報を頂きながら実践的にも学べ機器のチューニングの必要も無い構造でしたので実に便利なものでした。

  メーカー製「VHF通信機」は完全トランジスター方式の構造で昭和40年代終わりの頃からで始めたメーカー製とは言え「HF通信機」で、電波を出す最終とその前の所は真空管を用いていたもので、自作した通信機と同じ方式でのチューニングをしなければならないと言う構造に違い無かったのです。

  その他の機能は、受信部分との共通的構造でオールトランジスター方式で作られた物が普及し始めたのでした。それと共に「VHF帯通信機」などの発達は実にその頃は凄い物だと思ったのが「HF帯通信機」で、行なわれていたSSB方式とCW「電信方式」の機能、それにAM電波方式まで。さらにFM方式と言うように、アマチュア無線で用いる全て詰まり「オールモードの電波の種類」での通信が出来る機器が出始めたのです。

  値段もそれ以前から出ていた「HF帯通信機」と同じように20万円近くする物だったのです。もう、これではそれ迄用いていた自作も含めての物で無く「HF帯通信機」を私もメーカーの製品での短波帯通信が出来るものならと思っていても買い求める事は適いませんでした。ところが友人が昭和49年の頃に「オール真空管方式HF帯通信機」を格安で譲って呉れた事により私も何とか形だけは皆さんと同じくメーカー製の通信機ばかりでのその時代なりの方法で、人並みな形にやれるようになりました。


トランジスターを用いてのちょっとした開発を。

 私が始めて「トランジスター」を手にしてそれで実際に製作実験したのは昭和43年の頃に友人から、基本となるその頃特に普及していた物を5個貰い、色々と情報を獲る内に真空管一本から実験した子供の頃のように学んで行く内にちょっとした小さな物から実験的に作り始めたのでした。ただ、真空管の時と違うのは、それらの部品で「ラジオ一台など」と言うように大きな物を作ると言う事は無かったのです。

  その、小形で小さな電圧や電力で用いる事の出来ると言う部品の性質を利用して、視力障害では操作に困難な無線機などをチューニングする方法の、考案です。それは「これさえ持っていればその頃のメーカー製無線機などの調整が出来るようになると言う物なのでした。そうしますと、私のように視力障害者でもそうで無い人のように、自分の好きなメーカーの短波帯通信機を買い求める事が出来る」と言うような、機器の改良を全くする必要の無い補助機の開発製作がちょっとしたアイディアでそれが出来た事でした。

  勿論それをする以前に、トランジスターでの低周波アンプや信号発生器などを作る実験などをして、その動作の素晴らしさを知っての事なればこそ、電子工学の基礎から学べたお蔭で人に相談しても解決困難な事を私はやれた事なのでした。

  それは、昭和49年の頃に友人から格安でお世話頂いた「メーカー製で、オール真空管方式の短波用通信機」を譲って頂いた事により、電波を発射する場合に必ずチューニングしなければならない為に、これ迄自作の送信機の調整のやりかたで行なえ無い構造になっていた事により自分にもその不便さから困る事になりまして、必要に迫られての事からなのでした。

  この事はその頃から同じ視覚障害者の皆さんが沢山「アマチュア無線」をされる方が多くなり、このような「送信機のチューニング」には困られている人が多かった事です。

  幸いにその隣人に可也技術を持たれている方との知り合いが有れば機器の改良をして貰いと言うように一見恵まれている人も有られたようですが、とかくそのような場合には人は注目し当然の事として納得し感心します。

  でも、私はこれでは良い事とは言えないと言うのが私の二十歳前後の頃から思うようになった事で、限り無く自分のように視覚障害が有っても世間の常識的な事がやれる環境作りをと機器設計製作をするようになって最も大切な事として意識するようになっていました。

  私の場合電子工学の基礎から学び、自らの視覚障害と言う直接体験を持ち日々の暮らしに不自由していればこそ、単に欲しいと言う感覚だけで無く、どうすれば人並みに色々な事がやれるかと言う事の大切さを考える事が出来るようになっていた事に有ると思います。

  そしてさらに時代は進み昭和50年代半ば頃からメーカー製短波通信機が「オールトランジスター方式」になった時に私はそれ迄、アマチュア無線を始めた頃から短波通信に許された周波数を一通り用いる事が出来る物が持てたらと言うのを理想としていましたが、真空管だけの時代や、送信機の一部にまだ真空管を用いている時代の頃には、昭和50年代に入りもう真空管を用いる必要の無い時代になったら何とかして求めたいものだと思っていたのが、それ迄に思った通り以上に新しい受診部の技術に入った物で、オールトランジスター方式による時代の始まりで有り、短波通信機の基本とも言える程にそれ迄の操作機能を設備した通信機が出たもので、私は可也無理をしながら求めましたが、現在これを書いているパソコンの傍に有ります。

  その頃、既に開発していた「トランジスター」を用いての手探りでも確実にチューニング出来る装置を考案していましたのでそれを用いる事により手動式チューニングは確実に行なえて理想的な機器の操作が出来たのでした。

  さらに昭和50年代後半になりますと、メーカーの技術は進みついに「ジドウチューニング」が出来る装置が機器内部に取り付けられた通信機が出ましたが私はそれらを直ぐに買い求める事は不可能でした。

  幸いにも色々なメーカーは他社の物にでも「チューニングの部分だけ」を独立してそれ以前に出た送信機にも使える物を出していたもので私はその性能が理想的に働いている状態の技術内容をカタログなどから一つのメーカーのエンジニアに聞きましたら、さすがに私が納得出来る答えでしたので早速求めましたら、全く狂いも無く理想的な理論道理に動作する別メーカーの機器なのに強く満足したのでした。

  以前からよく思っていたのですが、我々が買い求める事の出来るメーカー製品はその部品のレベルから「理論と実際は完全に一致する物だ。」と、言う事を理解出来るようになれたのでした。

  そうで無い場合には何か自分に知識不足の為や勘違いが有る為なのだと言う事には自信が有りましたので多額の費用を使って求めていても必ず満足出来、それは期待以上の物を買い求める事が出来たのには電子工学を基礎から好きで学んでいて良かったと言う体験ばかりでした。

  この事はそれから後の、パソコンやオーディオ機器など電子機器全てに言えるもので、限られた予算の中でやっと手に入れた物にがっかりする事の無いのは、実に楽しく幸せな現在迄実体験を沢山持てている人生なのです。
2017年 5月10日修整。