煙草

 煙草を吸うために外へ出て行った加賀を見て、みきがいきなり笑い出した。だが笑い出した理由が分からず、他の者はあっけにとられていた。

「おい、みき?」

「ん、ごめ・・・いきなり思い出しちゃったからさ」

 まだケタケタと笑い続けている。

「どうしたの、みきさんらしくないわね?」

 今日子が不思議そうに言った。

 現在レースは残り2戦、レーサー、スタッフともに佳境に入っているが、加賀となにより今日子が元気な顔を見せてくれたことが、皆に活気と安心感を与えていた。

「どうしたのお?やけににぎやかねえ・・・って今日子さん!?」

 ひょいと顔を出したアスカが大きな声をあげた。その声を聞いてハヤトも顔を出す。

 以前なら決してハヤトには見せなかった優しい笑顔を向けられて、ハヤトは純情な少年のように頬を染めた。

「そういえば何大笑いしてたの、みきさん」

「煙草のこと」

「煙草?」

 みきはようやく笑いを納めて、それでも苦しそうに涙を拭きながら話し始めた。

 

 

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 それはみきがアオイのスタッフとなって初めてのシーズン。

 

 そのときの加賀は何故だか機嫌が悪かった。いつものように心の底を見せない笑いを張り付かせていたが、どこかしらピリピリしていた。あるいは本人も気づいていなかったのかもしれない。本当に普段どおりだったから。

 だが、いつもなら聞き流すような言葉にいちいち眉を逆立てる。軽口にも乗ってこない。とうとう冷たい苛立たしげな視線を向ける。

 ようやくスタッフも加賀の様子に気がつき始めた。

「片桐さん、今日子さんは?」

「今日に限って本社で会議です」

 二人は顔を見合わせて溜息をついた。

 その日の雰囲気はそのまま予選まで続いた。いや、ずっと悪くなっていたかもしれない。今日子は本社との会議が続いて顔を出さないままだった。

 加賀の空気はスタッフにまで伝染し始めていたらしい。レースに不慣れな新人スタッフは場の雰囲気に飲まれ、簡単なミスを連発した。

 居心地の悪い緊張感。

 マシンの整備も完璧とは行かず、加賀の予選結果は信じられないほど最悪の結果だった。マシンを降りる加賀を皆が怯えるように意識していた。

 苛立たしげにヘルメットを外し、叩きつけるように片桐に投げる。

「整備くらいまともにやれよ。プロならな」

「なっ、加賀!?」

 加賀が横を通り過ぎる瞬間、みきは震えた。これまで加賀に感じたことのないもの──恐怖。みきはそれ以上追えなかった。

「どうかしたのか」

 タイムアタックから戻ってきた新条は凍りついたように立ち尽くすみきに声を掛けた。振り返ったみきは縋るように新条を見た。

「なんで・・・」

 戸惑った新条は片桐に救いを求めた。片桐は視線を加賀のマシンに向け、それから外に流した。それで新条も納得した。

「今はあいつ自身にもどうしようもないんじゃないのかな」

「けど」

「俺もああだったから、あいつの気持ちも分かるよ」

「そういやあんたの八つ当たりもすごかったっけ」

「そんな言い方・・・」

 

 結局、第3戦目のカナダ・モントリオールでは加賀はマシンの不調によるリタイヤに終わった。

 

 続く第4戦、フランスに行っても加賀の様子は変わらず、アオイのピットは妖気すら漂っていた。

「神様〜」

「聖水まけ、聖水」

 そんな軽口も加賀の前では出てこない。まして予選結果が前回とさして変わらないとくれば。皆はただ遠巻きにするだけ。

 加賀はもう誰の顔も見ずにピットを出て行った。

 嫌な空気が流れた。

「あいつがこんなになるなんてな。分かってるんだろうが・・・」

 新条は自分のことを思い出す。苛立ち、不調、プレッシャー、どうしようもなく他人のせいにして八つ当たりばかりして、それで自分が楽になるわけでもなく、皆に嫌な思いをさせて、それが自分でもわかるだけに自己嫌悪に陥って、悪循環。

 諌めてくれたのは加賀だった。手荒な方法だったが効果はあった。そしてみきと今日子が力をくれた。

「きっかけ、なんだろうな」

 それが掴めれば加賀ならすぐにも立ち直る。

「おしっ、あたし達は整備を頑張る!あんたや加賀が思いっきり走れるようにさ」

「ああ、頼りにしてるよ」

 

 深夜、加賀はふらりとピットに戻ってきた。吹っ切れないまま、苦しい眼差しを中に向ける。まだ黙々と作業が続いている。新人も必死の形相で片桐の作業を手伝っている。

 加賀は中には入らず壁に背中を預けた。煙草を取り出して火をつける。苦い。

 眉間に皺を寄せて、加賀は辛そうに目を伏せた。

 中で作業を手伝っていた新条が気づいて、みきに耳打ちした。みきも手を休めて加賀を見上げた。加賀は気づかない。

「あ」

 みきが小さく声をあげた。作業に熱中している皆は気づかない。

 本社と工場を往復していてずっとサーキットに来ていなかった今日子が加賀の前に立っていた。すべて承知しているのか加賀の様子に驚くこともない。加賀はじろりと睨み上げて、しかしすぐに逸らして煙草を吸い続けた。そのまま何本目かに火をつけたとき、サッと今日子が取り上げた。

 カッと睨みつけた加賀の顔が、次の瞬間呆けた。

 今日子は取り上げた煙草を吸っていた。咳き込むことも咽ることもなく、ごく自然な動作で。だが眉間に皺を寄せて。

 ゆっくりと1本吸い終ると加賀の出した携帯灰皿に押し付けた。まっすぐに加賀を見る。

「まずい煙草ね。───もっと美味しい煙草吸いなさいな」

 そうして背を向けて立ち去る。

 加賀は毒気を抜かれたようにしばらく立ち尽くしていたが、やがて煙草を箱ごと握り潰すとゆっくりと歩き出した。

 

 

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「で?」

 アスカが先を促す。

「次の日、見事に加賀は優勝してしまったわけさ」

 肩を竦めて新条が言った。

「んでね、表彰台から戻ってきて何をするのかと思ったら、わざわざ今日子さんのとこ行って美味しそうに煙草吸ってんの。おっかしかった〜!」

「そ、わざわざな。結局それ以来もとの加賀に戻ってたし」

「へえ〜」

 ハヤトは驚いたように唸った。

「あの加賀さんが」

「でもそれって、やっぱり今日子さんのおかげってこと?」

「でしょ?」

 みきとアスカの眼が今日子を見詰めた。今日子は「さあ」と惚けたが、その顔は笑っていた。

「俺が驚いたのは今日子さんが煙草吸えるってことだったな」

「あら、そう?・・・でもあなた達が見ていたとは思わなかったわ」

 参ったわ、と今日子が笑う。

「その煙草って、なにか意味があるんですか?」

「んん・・・別にないんじゃないかしら。銘柄変えたのが、いいきっかけになったんじゃない?だってひどい煙草だったもの」

「ええ〜?」

「ほんとにそれだけ〜」

 みきとアスカが疑わしそうに叫んだ。

「なにがそれだけ〜なんだ」

「加賀さん」

 新条がかいつまんで加賀に話した。

「あん時か、ありゃ俺にもわかんねーな。今日子さんにえらく驚かされたからな、そのせいじゃねえの」

 まるで人事のように言う。

「なによそれ」

「そっか、やっぱり今日子さんの力・・・」

 アスカが小さく呟いていた。

 

 

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 片桐から連絡はもらっていた。加賀の様子、スタッフにまで伝わってしまう苛立ち、悪循環。

今日子の知っているブリード・加賀らしからぬ低迷。

 会議、視察、報告、それらに追われて気になりながらもサーキットに顔を出せなかった。あの日ようやく抜け出せたが、到着したのは深夜遅くになってからだった。一瞬どうしようか悩んだものの、ホテルにはまだスタッフもドライバーも戻っていないのを知って、今日子もサーキットのほうへ足を向けた。

 暗く、冷たい空気が彼の周りを取り巻いているように見えた。彼の口から吐き出される煙草の煙がまるでバリケードを張っているように。

 いつもなら軽口を叩いてくる加賀が口を開こうともしない。ただ苛立たしげに睨み付けるだけ。拒絶。少なからず驚いたが、それは加賀の態度を意外にも思わない自分への驚きも含まれていたのかもしれない。

 珍しく素直に感情を出している。そんな加賀が新鮮だったのかもしれない。

 それでも煙草の煙が邪魔に思えた。だから取り上げていた。取り上げてから考えないうちに口元へ持っていっていた。

 苦い。

 よくこんなもの吸えるわ。

 最後まで吸いきったのは、もう加賀にこんな苦い煙草を吸わせたくなかったからかもしれないし、意地になっていたせいかもしれない。

 見ると加賀の冷たい空気はなくなっていた。ただ呆然と今日子を見ている。彼の呆けた顔を見たら、説教する気も失せて、今日子はそのままホテルに戻った。

 

 

 加賀が吸っていたのはその後発売禁止になったほど強い煙草だった。いつも吸っているものではない。ただ気を紛らわせたかった。

 だが、そんなもので気が紛れるはずもなく『まずい煙草』を吸っていた。

 あの瞬間、何もかも真っ白になった。すべてを忘れ、そして判った。突き抜けて、吹っ切れた。加賀自身にも何がどうなったのか、判らない。今日子の言葉に重大な意味が合ったとも思えない。

 けれどその効果は抜群だった。さっきまでの苛立ちが嘘のように消え、妙に可笑しくて堪らなくなった。まるで躁鬱病だな、自分で笑った。

 加賀はしばらくふらついてから、今日子の部屋に向かった。今日子はまだ起きていた。怪訝な顔で迎えた今日子に、煙草を1カートン押し付ける。

「何よ?」

「明日、美味い煙草、わたしてくれよ」

 その意味を理解して、今日子は少し斜めから見上げた。

「吸えるの?」

 呆れたように問い掛ける。

「頼みがあんだけど」

「・・・・・」

「なあ」

「・・・言ってみなさいよ」

 加賀は態度で示した。つかつかと部屋の中に入ると、ポイポイと靴を脱ぎベッドを陣取る。

「ちょっ、な、何してるのよ、あなた!?」

 叫ぶ今日子の声も心地いい子守唄のようで、加賀は毛布もかけずに寝入っていた。ここ最近ないほど気の抜けた顔で。

 眠れていなかったのかしら。

 今日子は軽く頭を振ると、加賀に布団をかけてやった。そしてその上から軽くたたく。母親がするように。

 いい夢を。

 今日子はもう一つの寝室に入っていった。

 

 優勝した加賀は皆に迷惑かけたお詫びとして夕食を奢り、1ヶ月近く漂っていた妖気も消えたのだった。