おたてのらん

上杉謙信突然の死去(1578年)により、後継者争いである「御館の乱」が上越市の春日山城にて勃発。

景勝vs景虎(北条氏からきた謙信の養子)の義兄弟で戦いが行われ、遂には、越後国内を二分する戦乱にまでなり、数年間続いた。旧南魚沼郡は最大の激戦地になりました。

争いがはじまると、上田衆はいち早く景勝擁立に立ち上がります。

景勝・兼続が一番信頼を寄せているのは、上田衆。黒金上野介・宮島参河守・栗林肥前守・深沢利重・樋口主水 等の名前が頻繁に「北越軍記」に書かれております。

景勝は関東の北条氏から来る、景虎の援軍の侵入を警戒して、坂戸城将・深沢利重に宛てて栗林治部少輔とともに、国境の境を、油断無く晋請を施し防備するように、また、直路〈清水城〉は念を入れて守るようにと申しつけている。

五月 いよいよ、関東の北条は景虎を助ける為、三国峠を越え侵入しようとしてきた。 坂戸城将・深沢利重らは、越後上田の庄には一歩たりとも入れぬと、猿ヶ京でこれを撃退したが、なかなかの苦戦。景勝と兼続が守る春日山城に援兵を要請したが景勝は援軍をこちらに送ることはできなかった。このため、景勝は地元の百姓を出来るだけ多く集めて、三国と清水の両口を守るよう命じている。

六月 北条と同盟を結んでいる、甲斐の武田勝頼に黄金などを送って和睦。

七月 景虎側の攻撃が激しくなってきた。上田の庄は景勝の出身地であり、関東からの玄関口でもある。影虎軍はここをつぶしておく必要があった。

九月 北条軍は4万人ともいわれる大軍をさしむけてきた。一挙に三国・清水の両口から侵入してきたのだから、どうすることもできなかった。樺沢城は北条軍に攻められ落城。北条軍は樺沢城を改築して本拠にした。ここから坂戸城をはじめ、郡内の諸城を連日攻撃したのである。とくに九月十二日は北条軍全勢力で総攻撃を行った。絶体絶命のピンチ。坂戸城で止めないと一気に、本城春日山城へ・・・必死に上田衆は坂戸城を守った。

十月 そのとき、雪が味方した。北条軍は雪に慣れないため、不利と見て、北条(きたじょう)輔広・河田重親らを置き一旦関東へ引き上げた。

翌年 天正7年二月 しみわたりができるころから攻勢に転じ、三月手薄となった樺沢城の奪回にも成功し、やがて上田の庄の乱はおさまった。

しかし、 ここに露と消えし両軍将兵その数を知らず。
時移り寛文年中(1661〜1673年)山麓の開墾とともに人骨の出ることおびただしと。村人、懇ろに彼地に移し、観音堂を建立してその霊を慰む。よってここに古(いにしえ)を顧み、万世不易の碑をもって追悼のまことを捧げんとす。
(一部・御館の乱 上田庄の攻防追悼碑より引用)


御館の乱 上田庄の攻防追悼碑 建碑の辞

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