御館の乱上田庄の攻防
御館の乱上田庄の攻防

上杉景勝軍が樺沢城を奪回した季節と同じ頃の城下町 現在の樺野沢桜町近郊




上杉景勝の誕生から生涯

上杉景勝肖像画
 弘冶元年(1555) 11月27日 上田庄、樺野沢で生まれたと言われております。景勝公の胞衣(えな・へその緒)が樺沢城の胞衣塚に安置されております。父は長尾政景、母は上杉謙信の姉、仙桃院でございます。幼名を卯松(うのまつ)、喜平次と称し、後に景勝と名乗りました。
 永禄七年(1564) 父の急死後、叔父上杉謙信の庇護をうけ、謙信の養子となり春日山城に移る。
 天正三年(1575) 上杉の名字と景勝の名乗りを与えられる。謙信の死後、もう一人の養子景虎と跡目争い「御館の乱」に勝って、名実ともに上杉を継ぐ。御館の乱に際し、武田勝頼と和睦し、勝頼の妹を妻とする。
 慶長三年(1598) 豊臣秀吉に会津へ国替を命じられる、秀吉の朱印状にその詳細が記載されている。
 慶長五年(1600) 関ヶ原の戦いで石田三成側について敗れ、降伏、米沢に移封されました。
 元和九年(1623) 三月二十日に死去(69歳)




   
    龍澤寺境内にあります上杉景勝公生誕の地碑







御館の乱上田庄の攻防

御館の乱上田庄の攻防






樺沢城最後の城主 栗林氏
    最後の城主は栗林肥前守
 栗林氏は、享禄の頃頼長の時に信濃から越後に入ってくる。
樺沢城の最後の城主は栗林肥前守である。
上杉家が米沢に移封された時に同行し、現在も米沢市にその家系は続いております。


樺沢城下の龍澤寺には、謙信公のご朱印状「門前五軒」があります。 他には景勝公の母親、仙桃院が寄進したと伝えられる厨子入り「文殊菩薩」などもあります。 一段高台の「お屋敷跡」には、仙桃院のお花畑もありました。  周辺には、元屋敷、中屋敷、下屋敷、黒金屋敷が並び、少し下がって小泉屋敷、古町、上田橋、 さらに宮島屋敷、鷹匠屋敷、桜町などの地名が現在も残っています。

 城跡の本丸は標高約304Mの山頂にあり、腰を帯曲輪が二重に取り巻き、 中腹以下を三重四重の空掘土塁で防御する堅固な山城です。 また、二の丸の奥には景勝公の胞衣(えな)を納めたと伝えられる「胞衣塚」が安置されています。 複雑な起伏と幾重もの防禦線が変化に富み、快適なハイキングが楽しめます。

  樺沢城略史
樺沢城は南北朝時代は鞠子城と称し、新田義貞の家臣である田中右衛門尉の居城といわれている。
戦国時代後期の戦乱の時代に長尾景虎(後の上杉謙信)が越後を平定した。
天文20年(1551)年、景虎は姉の綾姫を坂戸城主である長尾政景に嫁がせ、樺沢城の改築を命じた。
政景はその家臣である栗林・深沢・登坂等の武将に命じ改築させた。城下は桜町と称され関東遠征の際の宿所とされた。
樺沢城は清水街道、三国街道を扼す重要な位置にあり、春日山城から関東までの最短距離上にあったので、政景はここを関東からの情報基地にしたと思われる。 政景夫人の綾御前も常に当城に居たらしく、結婚5年目の弘治元年(1555)11月27日に当城で男子が誕生した。
幼名は「卯ノ松」といい、後にこの男子が上杉景勝となるのであります。
母の綾御前は夫の長尾政景亡き後、仙桃院と号し常にこの城に住んでいたと思われます。
景勝は永禄2年(1559)3歳で上杉謙信の養子となり、同年5月11日元服して喜平冶(顕景)と称した。
その後、天正3年(1575)1月11日、弾小弼景勝と改名し、天正6年(1578)3月謙信の死去に伴い、上杉家を相続しました。
謙信は天正6年(1578)3月13日に49歳で脳卒中が原因でなくなったが、その直後、後世「御館の乱」と言われる家督争いが始まった。
謙信にはもう一人養子がいた、それは、関東小田原城の北条氏康と同盟を結んだ時に人質として越後に来た、氏康の七男の氏秀である。
謙信は氏秀を気に入り、養子とし自分の青年時代の名である「景虎」を与え、さらに元亀元年4月景虎17歳の時に景勝の妹の華姫を妻としたのである。
謙信の死後家臣団は二手に別れ、一方は景勝(24歳)を立て、もう一方は景虎(25歳)を立てて、家名相続を争う戦いとなった。
景虎の兄である北条氏政は九月初め氏照、氏邦に命じ大軍を率いて三国峠を越境、上田の庄(魚沼)に乱入し、樺沢城を攻略。
北条軍は樺沢城を本拠として坂戸城などを攻撃していたが、冬の迫る九月末に樺沢城に北条(きたじょう)輔広・河田重親を置き帰国した。
当初、景勝軍は劣勢であったが、翌天正7年2月から攻勢に転じ、手薄となった景虎軍を攻め、遂に3月中旬から同24日に景虎を追い詰め 自刃せしめました。夫人の華御前も自害し、樺沢城を奪回いたしました。
この戦いにおいて当城の番将である栗林政頼は「肥前守」の位を与えられ、樺沢城主を命じられた。
御館の乱から20年後の慶長3年(1598)に景勝は豊臣秀吉から会津120万石に国替えを命じられた。
これに伴い、樺沢城は廃城となった。
昭和35年(1960)頃から地元有志による城跡保存会をつくり、上杉景勝公生誕の碑を建立し、同40年(1965)に新潟県文化財を申請しました。
翌昭和41年(1966)3月に新潟県教育委員会審議の結果、新潟県文化財35号として指定されました。

 

  樺沢城跡散策順路
青マークは散策順路です。

■ 龍澤寺より→三の丸跡→二の丸跡→胞衣塚→本丸跡→西の丸跡→龍澤寺 ■

樺沢城跡散策順路図
龍澤寺
龍澤寺
臨済宗円覚寺派に属し、室町時代前期・応永二十七年(1420)に開創された。現在の堂宇は、江戸時代中期・天文二年(1737)に再建されたものである。ご本尊は「文殊菩薩」であります。
文殊菩薩
文殊菩薩
ご本尊・文殊菩薩は、卯歳生まれの守護仏であり、上杉景勝公(弘治元年十一月二十七日・卯歳生まれ)の母・仙桃院は、文殊菩薩に深く帰依し、永禄十年(1568)に守護仏・厨子入り文殊菩薩像を奉安し、景勝公の武運長久を祈願され、祈祷仏供米料として五十石を寄進された。
ご朱印状
ご朱印状
樺沢城は、関東方面に備える重要な拠点でもあった。このことから天正五年七月上杉謙信公より龍澤寺宛てにご朱印状を賜っている。
空掘
空掘
いたる所で見られ往時を偲ばせております。
胞衣塚
胞衣塚
景勝公の胞衣(えな)を納めたと伝えられている。城の中腹に安置され、往時から「安産の宮」として信仰を集めております。
帯曲輪
帯曲輪
帯状に城を囲んでおり、上の帯曲輪、下の帯曲輪には樹齢90年のソメイヨシノが聳え、格好の憩いの広場となっています。
帯曲輪
帯曲輪
帯状に城を囲んでおり、上の帯曲輪、下の帯曲輪には樹齢90年のソメイヨシノが聳え、格好の憩いの広場となっております。
本丸跡からの眺望
本丸跡からの眺望
ツツジなどの植え込みがあり、晴れた日は「旧上田の庄」が一望できる。写真には写っていないが左手に坂戸城を望み、正面に見える巻機山の右奥が清水峠である。そして、写真右側が三国峠に通じている。まさに、ここを制することが関東への出入り口を制すると言っても過言ではございません。
西の丸跡
西の丸跡
南側大斜面には、上下二段の横堀土塁がめぐらされております。


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