Castle

Castleといってもパチンコ屋さんではなく・・・・・城のことである。
岩国音楽シーンを代表する城フェチである河村貴乏がお気に入りの城を詳しく説明します。





姫路城(Himeji Castle)

兵庫県姫路市、言わずと知れた国宝にして世界遺産の「姫路城」である。別名を「白鷺城」。 姫路の街のあちこちから望める白亜の天守群はまさに大空に羽ばたく白鷺のようだ。私が訪れた日は寒いながらもなかなかの好天。3名の城仲間と興奮を抑えきれずに大手門より三の丸に入る。一帯には桜の木がやたら生えまくっていた。おそらく花見シーズンは浮かれぽんちの大人達でごった返すのであろう。私もここで浮かれたい、と強く思った。そして三の丸に面している便所の近くに「猫」を発見。近づいても逃げる気配は全くなく、むしろご機嫌である。この猫、「人間は給食係」位にしか思ってない。絶対にそうだ。姫路城に限らず観光地の猫はこうして労せずして食にありつく輩が多い。「働かざる者食うべからず」の言葉は彼等には完璧に通用しない。 猫に小判なんかもってのほかである。とか言いながらもやっぱり餌をあげたかったのだが、猫ばっかり構っている場合でもないので城仲間と三の丸を北方面に突進。ターゲットは入場券売り場だ。素早く切符を買い求めゲートを突破。ここからは江戸時代から今に伝わる城郭建築の嵐である。ひたすら歩く歩く。建物内部も歩き散らす。いつになったら天守にたどり着くのか、というほど歩きまくった。石垣、櫓の配置、塀に開けられた無数の狭間(さま)などをチェックしながら、ここが軍事施設であった事を実感する。でも今は猫が平和に暮らしている。姫路城は平山城だ。標高46mの姫山を中心とした造りである。従って坂が多い。通路を曲がったら上からオバサンが転がってきたりもした。凄い迫力だ。さすが姫路城。私は転がってはないがそろそろもう足が痛い。日頃の運動不足がここで遺憾なく発揮されたという訳だ。しかし頑張って歩く。すると遂に、やっとあの美しい白亜の天守群に到達!巨大な大天守に小天守3基が渡櫓で四角形に繋がった連立式天守群である。この構造により、天守群で囲われた部分が内庭のようになっているのだが、それを「天守郭」とマニアは呼ぶ。大天守内部からその天守郭をどうしても覗きたかったので覗いた。すると、そこにはなんと、「洗濯物」が干してあった。職員が使ったと思われるタオルが白亜の天守に負けず劣らず眩しい。まさかの光景であった。そうして天守と洗濯物を後にし、またグルグルグルグル城内を歩く。するとたどり着いたのは「お菊井戸」。そう、あの「いちまぁい…にまぁい…」のお菊の井戸だ。あの話が本当なのか作り話なのか知らないが、そこでは小学生が「イッチマ〜イ!ニマ〜イ!」とはしゃいでいた。こうして見て回った姫路城。見学に二時間半はかかったと思われる。足も相当に痛くなり筋が張ってしまったが、そのまま更に神戸まで足を延ばし豚まんを食べて帰ったのであった。





福山城(Fukuyama Castle)

元和5年(1619)、安芸、備後四十九万石を領有していた福島正則が、広島城を幕府に無断で改築したとされ領地を没収されると、安芸と備後の一部の領主として浅野長晟が広島城に入城、そして残りの備後10万石が徳川家康の従兄弟である水野勝成に与えられた。当時の備後を取り巻くのは、安芸の浅野氏をはじめ、備中・美作の森氏、備前の池田氏、出雲・石見の堀尾氏、そして周防・長門の毛利氏(後に明治維新で倒幕を果たす)等そうそうたる顔ぶれである。これらの大名はすべて外様大名。普代大名である勝成には西国の外様大名達を監視する役割があった。そのために築城されたのが福山城である。
全国の多くの城が1600年前後に築城されたのに対し、福山城は1622年の築城。他の城に比べて新しいといえる。その間に石垣の施工技術も当然進歩しており、天守台石垣は殆どゆがみのない方形である。比較対象として例をあげると、1590年代築城の広島城の天守台は、東西の石垣の辺の長さが1.1mも違う不等辺四角形である。石垣の施工技術が進歩すると当然その上に建てられる天守や櫓の工法にも新しい技術が導入されてくる。広島城天守は歪んだ1,2層の上に方形の3,4,5層を乗せた望楼型で、上部の層で下部の歪みを吸収している。この場合必然的にシルエットは下が大きく上が小さい三角形となる。しかし福山城天守は石垣の形状が既に方形を成しているため一階から方形で作る事が可能なのである。従って途中の層で歪みを吸収する必要がなく、下から上まで一体となった塔のような天守(層塔型天守)を建てる事ができるようになったのだ。実際福山城天守は、一階は広島城天守より面積が狭いのに、最上階面積は逆に広い。建築技術の進歩が広島県の二つの城を比較する事で見られるのだ。
江戸時代から現存していた天守は惜しくも戦争で焼けてしまい、現在のは昭和の再建天守である。かつての天守は北面が総鉄板張りで武骨なイメージであったが、現在のは北面の壁も白漆喰総塗込で仕上げられている。また、窓枠の形状も違い、忠実な再現とは残念ながらいえない。しかし福山城には伏見櫓や筋鉄御門が戦災を免れ現存しており、それらを見ると否が応にも興奮する。貴方もするはずだ。
ところで、私が訪れた時は超大雨土砂降りで、ズボンをまくってつま先歩きで水溜まりを歩くハメになってしまった。一面ぬかるみしかないのである。靴下までビチョビチョ。こんな日に訪れるバカは私一人だった。天守閣の博物館の受付のオッチャンがずっと私を見物してたので、そっとしておいてほしかった。
帰りは、筋鉄御門の階段を豪快に流れ落ちる水流が、なんと「ゴー」っと滝の音を発していた。
そして、ライブ会場へと向かった。

小倉城(Kokura Castle)

関ケ原合戦の功労により入国した細川忠興により1602年(慶長7年)に本格的に築城。天守は4階よりも5階のほうが大きく張り出す「唐造り」と呼ばれる構造である。この唐造りの天守は小倉城のほかには四国の高松城と、我がふるさと岩国城の3つしかない。現在の小倉城天守は昭和34年に復興されたものである。各層の屋根は様々な破風により華やかに彩られているが、これらの破風は昭和の再建時に追加デザインされたもので、慶長に建てられた当時の「本物」にはこれら破風は一切なく、各層が塔のように積み重なるシンプルな姿であった。このような造りの天守を層塔式天守と呼ぶ。この層塔式というのは当時の最先端であったために、現在の姿は個人的には少し残念である。一般的に昭和の再建はこのように史実に基づかないものが多い。
しかし、小倉城の見所は、なんといっても石垣である。自然石を殆ど加工せずにそのまま積み上げた「野面積み」の石垣がなんとも風情があり、たくましくもあり、たまらない。苔むしてたりしたら私的には相当ヤバい。ロマン溢れる石垣である。私が行った時は石垣の上を猫が歩いていた。


岡山城(Okayama Castle)

戦国乱世の備前を制覇した宇喜多直家の息子秀家により、大大名家にふさわしい城郭にと慶長2年(1597)拡張されたものが現在見られる岡山城である。下見板張の天守閣はその黒装束の姿から「烏城」(うじょう)とも呼ばれた。姫路城を白鷺城と呼ぶのと好対象である。この天守を乗せる石垣は、何と不等辺五角形である。従って一階も五角形なのだが、最上階は方形になっている。パズルの様な天守である。二層目の屋根の歪み具合いが面白い。太平洋戦争で惜しくも焼失してしまったが昭和41年(1966)に 外観復元された。平成8年には築城400年を機に、創建時を想定して金の鯱を上げている。金鯱といえば名古屋城だが、私は岡山城のほうが建物と金鯱のコーディネイトが良いと勝手に思っている。また、現存する遺構として天守の西方に月見櫓がある。これがまた変わっていて城の内側と外側で見た目が全く違う。外から見ると望楼型の二重櫓だが、内からだと層塔型の三重である。一見の価値あり。私のオススメは天守のそばにある案内所のオジサン。旅人にとても優しく、私と城談義で盛り上がった挙げ句、百均の場所まで教えてくれた。お陰で必要だったA4版ファイルを迷わず購入できたのである。

月見櫓(外側から)

月見櫓(内側から)



ダンボール製岩国
城天守(河村作)
岩国城(Iwakuni Castle)

慶長13年(1608)、毛利氏一族の吉川広家により築城。錦川沿いにそびえる横山(城山)山頂に要害、山麓に居館があった。築城からわずか7年後の「元和一国一城令」で戦闘用施設である山頂の天守、櫓、石垣等が破却されてしまった。以後は山麓の居館(土居と称した)だけで藩政を行う。横山の三方をとりまくように流れる天然の外堀、錦川に架る錦帯橋は、それはそれは美しい。現在の天守は古図面に基づき築かれた昭和37年3月21日完成の外観復興天守。四層六階の望楼型天守であるが、三階より四階のほうが大きく張りだしており、更には最上階までもが張りだしている。これを「南蛮造り」と呼ぶが、全国でもほかには小倉城、高松城位しか例がなく、貴重な城なのである。私のオススメは、山頂の茂みの中をかきわけていくと突如現れる石垣。いにしえのロマンを感じずにはいられない。ただし、普通の人が歩いている通常の散策コースに戻る時、茂みからの突然の登場となるので恥ずかしい。

錦帯橋

山頂要害

石垣

藩政時代には、ここに三階建ての櫓が建っていた
(本人撮影)
美しくなった錦帯橋
(本人撮影)


広島城天守(復元)
広島城(Hiroshima Castle)

毛利輝元が天正17年(1589)より築城した広島のデルタ地帯にある広大な平城。市民球場の沿いの相生通りの下から外堀が発見されたというからかなりの規模である。規模を示す資料として、櫓88基・門21棟・橋19箇所と記述されたマニア本が私の手元にある。天正19年(1591)に完成したとされる五層五階の大天守には、東と南に三層の小天守をともなっていた。それぞれの小天守は多聞櫓で大天守とつながっており、複合連結式の天守群の荘厳さは完成当時日本一であったとも言われる。毛利氏、福島氏、浅野氏と引き継がれていった広島城は、廃藩置県後徐々に陸軍の施設が設けられ、建造物は次第に姿を消していったが大天守は取り壊しをまぬがれ、昭和6年(1931)1月19日には国宝に指定される。しかし昭和20年(1945)8月6日の原爆投下により爆風で吹き飛ばされてしまう。現在の天守は昭和33年(1958)鉄筋コンクリートによる復元。天守を眺めるには、東西方向よりも南北方向からの眺めが安定感、優雅さ共に感じられてオススメである。特に北面からの眺めには興奮する。

広島城古写真(倒壊前)

広島城古写真

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