The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 8.カフェ・オレと優しい言葉 |
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「どうして分からないのかしら?!」 アスファルトを、まるで蹴り付けるように歩く。 「ああっ、もう!」 後悔しても遅いけど、なんでこんな高いヒールを履いてきたのかしら。 私の足は、自然とあのお店へと向いている。 緑色の屋根の小さな茶館。 ちょっとだけ強く、その扉を引いたわ。いつもは軽やかに響くドアベルが、うるさい音を立てた。 「いらっしゃい……ませ?」 そう言って私の顔を見た瞳子さんが、目を丸くして動かなくなったの。 私、そんなに怖い顔してる? 「どうなさったのです?」 「どうもこうもないわ」 瞳子さんに案内されたテーブル。 バッグをぽんと放った私は、体まで投げ出すように席へと座る。 「落ち着いてください。今、お水をお持ちしますから」 「ねぇ聞いてよ、瞳子さんっ!」 思わず声を上げた私は、背を向けた瞳子さんの黒いジャケットの裾を掴むと、思い切り引いてしまったの。 「きゃあ!」と、小さな悲鳴を上げて、瞳子さんがその場に尻餅をついた。 彼女が持っていた銀のトレイが床に転がって、うるさい音を立てる。 「あ、とっ瞳子さんっ!」 わたしは慌てて、瞳子さんを助け起こそうと席を立って彼女の手を引く。 瞳子さん、とっても軽いのよね。 「だ、大丈夫ですわ。お気になさらないで」 腰をさすりながら、瞳子さんがちょっと苦笑い。 「ほんとに、ごめんなさい」 深々と頭を下げる。 さすがに冷静になったわ。 とんでもない事しちゃった。 ☆★☆ 「お待たせしました」 私の前にカフェ・オレのティーカップを置くと、 銀のトレイを持ったままの瞳子さんが、向かい側の席へすとんと腰を下ろす。 紅いルージュを引いた唇。いつも思うけど、羨ましいくらいに形が良い。 他にお客さんの姿はないけど、いいの? 私と話なんかしていて。 そっとカウンターの方へ目をやると、まるで熊みたいに大柄のマスターは、椅子に座ったまま目を閉じてる。 難しい顔してるけど、ひょっとして寝てる? 少しほっとして、銀のトレイを胸に抱いた瞳子さんへと視線を戻す。 「そんなに、真剣な顔をしないでよ……」 お店が迷惑するのは分かってるんだけど。 気分が落ち込んだりすると、いつもここに来ちゃうのよね。 今日もそう、原因は。 2年くらい付き合ってる彼。 些細なことで、ちょっとした喧嘩をすることだってあるけど。 ミルクが多めのカフェ・オレをひとくち。 ささくれた心を包んでくれる、甘くて優しい香り。瞳子さんのカフェ・オレは、とても美味しいの。 カップの縁を、つい……と撫でて、溜息をつく。 「彼が仕事で机に向かっていたんだけど、後ろから思い切り枕をぶっつけて部屋を飛び出して来ちゃった」 「お仕事中だったのでしょう?それはまた、思い切ったことをなさいましたね」 私の告白に、ちょっと驚いた瞳子さんが気の毒そうな顔をした。 同情なんて要らないのよ? 投げつけたのがフライパンじゃないだけ、ありがたく思って欲しいわ。 私だって子供じゃない。 ずっと一緒にいて欲しい。 ずっと囁いていて欲しい。 なんて、我が儘は言わない。 「彼が心配なのですね?」 私は、はっとして思わず瞳子さんを見つめた。 しぼんでゆく怒りと、急に膨らんでくる後悔。 こくりと頷いて、うつむく。 「いつもの事なの、人の仕事まで引き受けてきて、毎日遅くまで仕事をしているわ」 この間、休日にはドライブへ行こうねって約束してたの。 でも。 「すまない、どうしても片付けなきゃならない仕事があるんだ。ドライブはまた今度行こう」 ですって。 だから、私は聞いたのよ。 「あなたには、お休みがないの?」って。 そしたら……。 「仕事なんだ、仕方ないだろ? 我が儘言わないでくれよ」 ほんとはドライブなんて、どうだってよかったの。 公園だって、どこだっていい。 ただ、ゆっくりと休ませてあげたかった。 「仕事が終わればソファーに倒れ込んで、そのまま寝ちゃうような生活しているんだもの」 向かいの席を立って、肩を震わせる私の傍らに座った瞳子さんが、優しく背中を撫でていてくれる。 優しくて綺麗な手。 「どうして分かってくれないのかしら」 やるせなくて、枕なんてぶつけちゃった。 我が儘を言ったつもりはないんだけど。 言い方が悪かったのかしら。 それとも、もう私なんて……。 「大丈夫ですわ」 まるで急な坂道を転がり落ちるような私の心を抱きとめてくれる、瞳子さんの言葉。 力強くはないけれど、柔らかくて温かい。 「あなたの言葉には、彼を気遣う優しい気持ちがたくさん詰まっていますもの」 「……でも」 微笑んでいる瞳子さん。 私を見つめる不思議な色合いの瞳。 濃い紫色に見える真剣な瞳に、思わず吸い込まれそうになったの。 「あなたの言葉は、必ず彼の心に届きます!」 きっぱりと断言した瞳子さんが、お店の中に飾られているたくさんの絵を見回したその時だった。瞳子さんの言葉が合図だったように、いきなりバッグの中の携帯電話が鳴ったの。 驚いたわ。 「あ……」 着信を知らせるメロディと彼の名前。 私は音を奏でる携帯電話を、きゅっと胸に抱いた。 ☆★☆ 「ごめんね」 今日も瞳子さんに迷惑かけちゃった。 身を小さくして、そっと頭を下げる。 「彼を想うあなたの優しさは、ちゃんと伝わるんですよ。疲れた心と体には、そんな優しさがたくさん必要なんです……だから自信を持って!」 瞳子さんに頷き返した私は、ちょっと急いでお店を出た。 いつもと同じ、軽やかなドアベルの音が、私に“ばいばい”って言っている。 ええ、早く帰らなきゃ! 彼が待ってるから。 私の不安な心を癒やしてくれたのは、瞳子さんが淹れてくれたカフェ・オレと、優しい言葉。 高いヒールも、もう気にならなかった。 |
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