The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

9.遙色のパレット 〜White〜
 目次
 パレットの上で綺麗に並んでいる絵の具。
 互いに混ざり合い、キャンバスの上で踊る様々な色は描き手の心。
 アトリエで静かにキャンバスに向かう遙の姿。
 過ぎ去ってしまった時間は決して戻る事がなくとも……。
 茶館はずっと、遙の楽しそうな笑顔を憶えています。

 ☆★☆

「あの、どうなさるんです? こんなにたくさん……」
 目の前の状況を見て途方に暮れた遙は、隣でため息を付いた義父、幸太郎の横顔を栗色の大きな瞳で見つめながら聞いた。
「どうするって言われてもねぇ……はっはっは」
 笑いながらぽりぽりと頬を掻く幸太郎だが、言葉とは裏腹に全く困った様子ではない。
 グレーの髪をオールバックにきっちりと撫でつけ、同じ色の口ひげを引っ張りながら目を細め、乾いた笑い声を上げ続けている。
 遙は沢渡家に嫁いでもう数年が経つ。
 夫である幸一郎は役所勤めをしていることもあり、とても生真面目な性格なのだが。
 それに対して義父は掴み所が無く、遙はどうにも調子が狂う。
 ここは、義父の幸太郎が経営する小さな喫茶店。緑色をした屋根の小さな店は、賑わう商店街の端にひっそりと建っている。
 店の経営はほとんど趣味程度ではあるが、商店街のオアシス的存在のお店だ。
 遙は義父を手伝って、この店でウエイトレスとして働いていた。
 決して広くない店内をぐるりと見回すと、壁の所々に飾られている絵が目に入る。一見すると画廊のようだ、この状態ではとても喫茶店とは思えない。
 そして、揃って嘆息した遙と幸太郎の前に山と積まれているのは、きちんと額縁に収められているたくさんの絵。
「お義父様が、壁に飾ったりなさるから……」
「でも、せっかく常連のお客様から頂いたのだし。飾ってあげなきゃ絵だって可愛そうじゃないですか、遙さんは絵描きさんだから分かるでしょう?」
「ええ、それはそうですけど」
 遙はこくりと頷く。
 幸太郎の知人で喫茶店の常連客達は皆絵が趣味であり、自称芸術家を名乗るほどだ。
 休日の午後など、描き上げた絵を持ち寄ってはよく品評会を開いている。
 以前その常連客の一人が、店に絵を置いて帰ってしまった事があった。その絵を届けようにも連絡がつかず、幸太郎はどうしたものかと思案していたのだが。
 後日、その絵は進呈するつもりだったんですと電話があり、絵を貰い受けた幸太郎はせっかくだからと店内に飾った。
 するとそれを見た他の常連客達が我も我もと絵を持ちかけ、今では店内の壁が絵で埋まってしまいつつある。
 そして先日、店で開かれた品評会で持ち寄られた絵は、そっくりそのまま幸太郎に預けられたのだ。
「まあまあ、遙さん。このまま眺めていてもしょうがない。お腹も空いたし、とりあえずお昼にしようか」
「はい、そうですね」
 お昼の準備をしようと、遙は黒いジャケットの皺をぽん!と叩き、エプロンを身に付けてリボンタイに止められている、エメラルド色の飾り石を整える。
 エメラルド色の飾り石は遙のお気に入り、遙はこのリボンタイがきちんとしていないと調子が出ない。
「遙さん、お昼は何かな?」
「今日は焼き魚と煮物で、お弁当を作ってありますから」
 手洗いを済ませてテーブルへ着いた幸太郎は、もう待ちきれないといった様子だ。
 遙も綺麗に手を洗い、でん!と風呂敷に包んだ重箱をテーブルへと置く。
 風呂敷を広げて重箱の蓋を開けると、がんもどきと南瓜の煮物、焼いた鮭に卵焼き、漬け物などが綺麗に収められている。
 遙は義父の健康を考えて出来るだけ油物を控え、献立に和食を取り入れるようにしている。
 ちょっとサービスして、デザートには林檎のコンポートを用意してあるのだが。
「おや、ヘルシーだねぇ。もっとこう……ボリュームが欲しいかなぁ?」
「お義父様、何かおっしゃいまして?」
「い、いや、私は幸せ者だねぇ。遙さんの料理は美味しいから」
 こめかみをひくつかせながらにこやかに牽制する遙に、幸太郎はあらぬ方向を向いてすっとぼけた。
「嫌ですわ、お義父様。ほんとに良く出来た嫁だなんて! そんなに褒められると困ります。お義父様ったらもう、お上手ですわね!」
 ――毎日、昼食時に繰り返される寸劇である。
 初老といえる幸太郎だが妙に嗜好がハイカラで、特に洋風の料理が好みなのだ。
 しかしそこは聡い遙のこと、よく心得ていて。
 今のところ健康面で問題があるわけではないが、食生活には特に注意を払うようにしている。
 健康な体であるからこそ、怖い病に気を付けておかなければならない。
 幸太郎も和食のお弁当に食欲が湧かない風を装っていても、箸を持てば「旨い旨い」と、遙が作った弁当をすべて綺麗に平らげる。
 和食、洋食、中華に、どんな種類のスイーツも。
 食材選びに包丁捌き、味付けに火加減、それこそ後片づけの手際まで。
 それらをみんなひっくるめて、遙の料理の腕前は確かなのだ。
「はぁ、食べた食べた。いや、本当においしゅうございました」
「毎日どの料理も褒めて下さるのなら、初めから黙って食べて下さいな」
 きちんと手を合わせる幸太郎に、遙が重箱を片づけながらぶつぶつ言うと、
「いやいや。こうやって遙さんとひと騒ぎしてからでないと、美味しくないんだ」
「はぁ、そうですか」
 ほんとに素直じゃないんですから。こっちは毎日ひやひやしているのに、と遙は思う。
 肩をすくめてポットのお湯を急須に注ぎ、ほうじ茶を湯飲みに注ぎ足した。
「茶柱でも立たないかねぇ、縁起が良いのに」
「それは、朝の一番茶じゃないですか」
「いつでも良いんだよ、珍しいし縁起が良い」
 丁寧に両手で湯飲みを持ち上げ、美味しそうにお茶をすする幸太郎は万事がこの調子なのだ。
 そのせいか、この喫茶店の店内はゆっくりと時間が流れているように感じられる。
「さてと遙さん。少し休んだら、やっぱり今日はお店を閉めて、増えた絵を飾ってしまいましょうか」
「はい。そうでないと不自由ですものね」
 遙は横目でカウンターの前に置かれている、たくさんの絵を見た。
 どの絵も早く飾って欲しくて、わくわくそわそわしているように見える。
(でも……本当に壁が絵で埋まってしまいそうね)
 それはそれで楽しそうだ。
 自らも趣味で描くほど絵が好きな遙は、その様子を想像して微笑んだ。

 ☆★☆

「お義父様、そんなに適当に飾っていたら、壁のスペースが足りなくなりますわ。その油彩のひまわり』はサイズも大きな絵ですし。それに高木さんは、もう少し高いところに飾って欲しいと言われるのではないですか?」
 幸太郎は絵を収めた額を手に取っては、それこそ適当にあっちの壁、こっちの壁へと飾ってまわる。
 その様子を見ていた遙はにわかに不安になって、たまらず声を掛けた。 
「自分の絵はこの場所じゃないと駄目だ、なんて不満を言う人は、私の仲間内には居ないよ」
 幸太郎は全く気にする様子がない。
「それに見ていてご覧なさい。絵達がお互いに相談して譲り合って、それなりの所に収まるから。私は絵達の意見を聞いて動いているだけだよ」
 信じられないことを言って、幸太郎は金槌片手にほいほいと壁に釘を打つ。
 なんだか自身満々な様子なので、遙は呆れながらも何も言うことが出来ない。
「私が付いていながら、みすみす……なんて事にならなきゃ良いけど」
 どうにも不安が拭えないが、肝心の義父があの調子なので仕方がない。遙は覚悟を決めて、釘を手渡したり吊り紐の長さを揃えたりと作業を手伝った。

 そして、数時間後――。

「ほんとに収まりましたわね」
 幸太郎の言うとおり、空いていた壁のスペースに綺麗に絵が収まっている。
 油彩、水彩、パステル等々、用いられた技法もモチーフもバラバラなのだが。
 あらためて店内を見回すと、これだけたくさんの絵を飾ってあるのにも関わらず、どうしようもない賑々しさを感じるどころか不思議と雰囲気が落ち着いている。
 その信じられない光景に、遙はぽかんとした顔でつぶやいた。 
「ほらね、言ったとおりでしょう」
 幸太郎は満足げな笑顔で、どうだとばかりに胸を張った。
 遙は悔しい以前に、不思議でしょうがない。
「私は遙さんのように絵は描けないけどね、何となく気持ちは分かるんですよ。もっとも、皆とても親しい人達が描いた作品ですからね」
「お義父様……」
 店内を見回しながら、いつも飄々としている幸太郎の横顔を見た。
「なんてね。偶然ですよ、偶然」
 突然、片目をつむった幸太郎が、おどけたようにぺろっと舌を出す。
「もう! お義父様ったら、真面目に聞いていましたのに」
 幸太郎の肩を叩いた遙だが義父の事ではあるし、ひょっとしたらそんな事もあるかもしれないと心の中で思った。
「あら?」
 カウンター内から見える壁の一部に、ちょうど一枚絵を飾れるくらいのスペースが空いている。
 遙はふと、それに気付いて声を上げた。
「ああ。そこはね、遙さんが描いた絵を飾ればいいよ。あなたも描きたい絵があるでしょう?」
 幸太郎が好々翁のように、穏やかな笑みを浮かべた。
「男の子かな? 女の子かな?」
「お義父様……」
 遙は優しく柔らかな母親の笑顔で、そっと自分のお腹に手を当てる。
「いよいよ、私もお爺ちゃんなんだよねぇ」
 寂しいね……。なんてつぶやいているが、目尻に皺が浮かんでいる。
 素直ではない義父の事だ、本当は嬉しくてしょうがないのだろう。
 芽吹いたばかりの命があたたかい祝福を受けるまで、まだまだ時間が必要なのだが。
 満足そうに店内を見回している幸太郎。
 また明日から、コーヒー一杯分でも穏やかな時間を過ごして貰いたいと願いカウンターに立つのだろう。
 店内に飾られている絵について語らせると、少々話が長くなるかもしれない
が。
 遙は尊敬する義父の背中に、そっと頭を下げた。
 
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