The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

10.風にまかせて
 目次
「それでは、ここにサインをお願いします」
 開店前の早い時間に、コーヒー豆が販売業者さんから納入されました。
 茶館が以前にコーヒー豆を卸して貰っていたのは、隣町の「真那井珈琲工房」というお店。
 探求心旺盛な店主が考案する、数々の香り豊かで味わい深いオリジナルブレンドが人気で、お目当ての品を求めにわざわざ遠方から訪れるお客様も多いのだとか。
 再開店の準備をするために慎吾さんが取引再会のお願いに出向かれると、先代の店主の方がとても喜んで下さったそうです。
 私は領収書にボールペンで丁寧にサインをすると、コーヒー豆を届けて下さった営業兼配送係の加藤さんに手渡しました。
「ありがとうございます、いつも力仕事をさせてしまいますわね」
 入社してから今年で二年目、まだ若い加藤さんは帽子を目深に被っているので、表情がよく分かりません。
 定番の銘柄から店主ご自慢のブレンド品など、様々な種類のコーヒー豆が詰まった袋を保管場所まで運び入れて下さるので、もっと丁寧にお礼を言いたいのですが。
「い、いえ!簡単な事ですから。で、では、またのご利用をお待ちしています!」
 残念なことに、加藤さんは早口で一気にまくし立てると、いつも茶館を飛び出してしまうのです。ともあれ納品されたコーヒー豆も落ち着き、私は開店前の茶館の店内を見回します。
 隅々まで磨き上げた窓硝子から入って来る清々しい朝の日差し。
 心も体も温めてくれる光に、きちんと並べたテーブルも椅子も輝いています。
 お客様達はお茶を飲みながら、どんな会話を交わされるのでしょうか。
 たくさんの楽しい会話なら良いなと、私は毎日思っています。
 小さな冷蔵ショーケースに用意した本日のケーキは、『チーズスフレ』と『ショコラケーキ』それから『ロールケーキ』の三種類。
「本日のケーキセットをお願いします」そうご注文下さるお客様を、私は密かに心待ちにしているのです。
 後は茶館の裏手に建っている離れに行って、慎吾さんを起こして朝食を……と、そこまで考えて私は 「あっ」と、小さな声を上げました。

『出掛けるから、後を頼む』

 それだけを告げてもう三日、慎吾さんは留守にされているのです。
 そうやって、たまにふらりと出掛けて行かれますが、いったい何処へ行かれるのでしょう?
 慎吾さんは、とても不思議な方です。
 背が高くて、お向かいの恵子さんに“熊”と形容されるほどの、鍛えられた大きな体をしていらっしゃいます。
 端正な顔の造作、寡黙でいつも少し憂いのある表情です。
 煙草をくわえて静かに目を閉じていらっしゃる姿は、映画のワンシーンのように見えます。
 ただ残念なのは、いつも髪はぼさぼさで無精髭も気になさらない様子です。
 服装にも興味がないのか、毎日同じようなTシャツにジーンズ姿。
 もう少し身だしなみに気を遣われた方が、よろしいのではないかと思うのですが。
「おはよう、瞳子ちゃん」
 首を捻りながらまとまらない考え事に埋没していると、耳に届いた優しい声。振り向けば、窓際で光に目を細める遙さんの姿。
「あ、遙さん。お早うございます!」
 突然声を掛けられて驚きましたが、いつお見えになったのか考えるのは愚問です。ただ、出来ればちゃんとドアから入って来て欲しいのですけど。
 一応「ご霊体」の遙さんですが、朝早くから陽の光など浴びても大丈夫なのでしょうか?
 とても心配なのですが、本人は全く気にしていらっしゃらないようです。
 今日は大きめの襟をしたベスト付きのブラウス、胸元には豪奢なフリルネクタイ。ウエストがきゅっと締まった、光沢感のある黒いタイトなスカート。
 遙さんは、とても女性らしいスタイルをしていらっしゃるのです。
 そしてシャープな印象の眼鏡に輝く知性、いつもより赤い色のルージュが凛々しいです。
「良くお似合いですけど、どうなさったのですか?」
「ありがとう、嬉しいわ。こんな服なんて、着る機会があまりなかったから」
「はぁ」
 気の抜けた返事を返す私を放っておいて、こつこつとヒールが床を踏む硬い音を響かせて歩く遙さんは、カウンター席へと腰を下ろしました。
 自然な仕草で足を組み、柔らかなな微笑みを私に向けられます。
 いつもと違う遙さんの様子に、私は何だか心臓がどきどきしてしまいました。
 遙さんもお店にいらした事ですし、これはちょうど良い機会です。
「あの、遙さん。慎吾さんの姿をここ三日ばかりお見かけしないんです。たまに行方が分からなくなるのです。たいていは、すぐにお店へ戻っていらっしゃいますけどいったい何処へ行かれているのでしょう?」
「瞳子ちゃん、それは本人に言いなさい」
 遙さんのつれないお返事に、私はもじもじとしながら背中で手を組みます。
「あ、はい……そう思いましたけど。あらたまってなんて、何だか詮索しているようで、聞きにくいじゃないですか。まさか、後を付けるわけにもいきませんし。出来れば行く先だけでも、教えておいて欲しいです」
「……まるで新妻のセリフね」
 私を見つめて「うふふ」と、笑う遙さん。
 ぼっ! と火の粉が弾ける音が聞こえたように、瞬間的に顔が熱くなりました。
 は、遙さん。お、お、お願いですから、ち、ちょっと待って下さい。
 何か大きな勘違いなさっているのかも知れません。それは誤解ですと言っておこうと思ったのですが。
 私のそんな心の叫びは、ヒールのつま先で床に転がされたままに。
「ところで、お店にいる時の慎吾は、どんな様子なの?」
「え?」
 そうでした。慎吾さんの姿がお店にあると、遙さんが茶館にいらっしゃることはありません。やはり遙さんにも、何らかの事情があるのでしょう。
 そしてそれは、何か触れてはいけない事のように思えました。
 私は遙さんに正確に伝えた方が良いのかどうか、一瞬迷いましたが。
 見たまま、感じたままを話す事にしました。
「茶館では一日カウンターの奥に置いた椅子に座って、目を閉じていらっしゃいます。寝ているのか、それとも起きていらっしゃるのか分かりません」
 一瞬、私の話を聞いている遙さんの栗色の瞳が半眼になりました。
 見たまま感じたままを、ストレートに伝え過ぎたのでしょうか。遙さんの赤いルージュを引いた口元が、少々引きつっています。
 そして何となくこめかみの辺りが張っているように見えるのは、気のせいではないでしょう。
 ああ、ごめんなさい慎吾さん。
 何か告げ口をしているみたいです。
「え、ええと。そ、そうですね、し、慎吾さんは商店街でも有名人なんですよ、商店会の皆さんと会うと、いつも慎吾さんのお話が出るんです!」
 これはまずいです。
 何とか慎吾さんの点数を稼ごうと、私は慌ててしまったのでしょう。
「あら、どんなお話なの?」
 興味深そうな遙さんの様子に、私は一瞬で凍り付きました。
 実は、とても遙さんに聞かせられないお話です。
「瞳子ちゃん?」
「は、はいぃ」
 遙さんの笑顔が恐いです。
 観念した私はぽつりぽつり、商店会の皆さんとの会話を話しました。
『茶館を再開店させて、慎吾君も一息ついたようですね。これからは、あちこち気の向くままに出歩いていられなくなるね』とは、商店会長さん。
『慎吾はまだ茶館にいるみたいだね。あいつはいつも、ふらっといなくなるんだよ。風まかせだからなぁ……ひとりで大変だろうけど、茶館の方は頑張りなよ!』
『大きなリュックを背負って、あちこち出掛けているみたいだったよ。でも以前より腰が落ち着いてるなぁ。ま、瞳子ちゃんが茶館に居るからかな』
『あれ?居ないな〜と思ってたら、またいつの間にか帰っていて茶館でぼーっと煙草をふかしているのよね』
 八百屋さんと魚屋さん、それから恵子さん。
 皆さんの話を聞いていると、慎吾さんはまるで「糸が切れた凧」みたいです。
 点数を稼ぐどころか藪蛇が、それも大蛇が顔を出してしまいました。
「まったく、あの馬鹿は何をやっているのかしら、労働意欲というものが欠如しているわね。躾がなっていないわ!」
 憤慨している遙さんの顔をじーっと見つめると、急にふいっと視線を外した遙さんの額に、じわりと冷汗が滲んでいます。
 何かしら思い当たるのでしょう、なにしろ慎吾さんのお母様ですから。
「あ、あの、遙さん」
 慌ててこれ以上私が何か言うと、出てこなくてもいいものが、ぼろぼろとこぼれそうです。
 私は一度、深く深呼吸をしました。
「茶館をもう一度開店させるために、慎吾さんはひとりで奔走されました。それはもう、驚くくらいに真剣で……」
 私は目を閉じて、茶館が開店するまでの数ヶ月を思い出します。
「設備業者さんとのお話や、お役所への届け出や交渉事もきちんとされていました、それにとても礼儀正しくて」
 慎吾さんの印象について、随分な事を言ってしまったような気がします。
 でも慎吾さんと初めて会った時の印象が、がらりと変わったのは確かです。
「最初は、近寄りにくかったでしょう?」
 あはは……と笑った遙さんは、眼鏡を外してカウンターに置いて頬杖をつきました。
「もう、遙さんったら」
 でも、それは遙さんが仰る通りなのです。
 話しすぎて少々喉が渇いた私は、冷蔵庫からよく冷えたミルクを取り出して、二つのグラスに注ぎます。
 すぐに水滴が浮かぶグラスの片方を、遙さんの前に置きました。
 ひとくちこくんとミルクを飲めば、舌に感じる甘さと喉を通る心地良い冷たさ。
 あ、忘れていた事がひとつありました。
「そう言えば商店会の皆さんが、慎吾さんの話をされると最後に必ず言われるのが……」
「慎吾なら大丈夫だよ」
「慎吾なら大丈夫だよ」
 同じ言葉を口にされた遙さん、私は驚きました。
「つまりそう言う事。私が言うのも何だけど、慎吾なら大丈夫よ」
 遙さんの表情からは、慎吾さんへの信頼が感じられます。
 確かに慎吾さんの話で、悪い話などひとつも耳に入って来る事はありません。
「何処に行くのか何をしているのか、必要があればあなたに話すはずよ。特別な事ではないから言わないだけ。自分は風まかせ、茶館はあなたまかせなのよ。もともと何処か遠くを見ている子だったから。それにね……」
 優しく微笑む、栗色の大きな瞳。
「色々な出来事を少しずつ少しずつ積み重ねて、人と人の繋がりは出来上がっていくの。友達も恋人も、それは家族だって同じ事よ。それが信頼に、そして愛情になるの……不思議よね」
 遙さんは椅子から立ち上がると、私のリボンタイに留められているエメラルド色の飾り石にそっと指で触れた後、タイの形を整えて下さいました。
「瞳子ちゃん、だから慎吾の事なら私に尋ねるまでもないの。時が経てば自然に、全て分かっているようになるわ。あなたは人との繋がりを大切に出来る、そんな人と人の『絆』を感じるのが上手だから」
 遙さんの褒め言葉に、頬が熱くなってくるのが分かります。遙さんに顔を向けていられなくてふと時計に目をやると、もうのんびりもしていられないようです。
「遙さん、お腹が空きませんか? 朝ご飯にフレンチトーストでも作りますから、ご一緒にどうです?」
「ありがとう、もちろん頂くわ。そうしたら帰るわね、開店時間が来るから」
「はい」
 私はカウンターへと入り、フライパンを手に取りました。
 慎吾さんの事については、何だか遙さんにはぐらかされてしまったような気がしますけど。
 ミルクにバターと卵を取り出そうと冷蔵庫を開けながら、私は心の中で遙さんの言葉を反芻します。
 やっぱり、慎吾さんはちょっと不思議な方です。
 風に任せて、気の向くままに……今頃、何処にいらっしゃるのでしょう?
 でも、とっても頼りになるんですよ。
 
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