The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 13.すみれ色の君 |
|
目次 |
|
声が、聞こえる。 自分の名を呼ぶ微かな声。時に優しく、時に朗らかに。 伝わる音のイメージは、白い霧に煙る静かな水面を揺らす波紋のごとく広がり。 同時に深淵より沸き上がる幾多の水泡。 意識の中に虹色の水泡が弾ける時、一瞬ではあるが声の主の姿が断片的に伝わる。 「……誰?」 彩人<あやと>は出来るだけ穏やかな声をイメージして、自らも心の水面を振動させる。 しかし、返ってくる答えはなく……。 彩人が発した声のイメージは虚しく広がるだけで、波紋は静かに消えてゆく。 静まりかえった、鏡のような心の水面。 仕方なく深い意識の下、静かなアトリエのイメージを出た彩人はゆっくりと現実の感覚を取り戻した。 体を起こすと栗色の瞳を大きく見開き、数回瞬きをする。 間借りしている狭い四畳半にはそれほど荷物もなく、たくさんの画材や美術関連の書籍がきちんと重ねられている。 下宿している喫茶店の二階、開け放った窓。 ふわりとカーテンを揺らして入ってくる、爽やかな秋風が瞳と同じ栗色の髪を撫でた。 まるで生き写したように母親の遙に似ていると、兄の慎吾や親戚連中に言われるほどに彩人は繊細な容姿をしている。 今年の、初夏が訪れた頃からだろうか。 キャンバスに向かう際、静かに意識を集中させると不思議な声が聞こえるようになった。 こんな事を話せば、友人達には気味悪がられてしまうだろう。 一番親しい緑に相談しようかと思ったが、慌て者の彼女は驚いて救急車を呼んでしまいかねない。 どうしたのだろう、今日はその声が気になってしようがない。 彩人はふと、やや大きいサイズのスケッチブックを手に取った。 部屋の隅に置いてある母の形見の大切なイーゼルを壁際へ置くと、丁寧にスケッチブックを乗せて固定する。 彩人は幼い頃から、母に絵の手ほどきを受けていた。茶館の二階のアトリエで、楽しそうに色々な話を聞かせてくれた母。 しかし母は彩人が小学生の時に病を患い、その後一年足らずで他界してしまった。 高校を卒業して美大へ進学した彩人は、母に教えられた言葉の意味をひとつひとつ確かめるように、懸命に絵と向かい合っている。 真っ白なキャンバスを前にした彩人は、ゆっくりと肺の中に溜まっている息を吐いた。 呼吸を腹式に切り替え、全身の力を抜く。 再び自らの心の中へしっかりとアトリエをイメージさせ、練りゴムを手に取ると芯が柔らかく太い鉛筆をそっとキャンバスに当てる。 観察すべき対象物は無く、彩人が持っているイメージだけだ。 彩人は耳に響く声のイメージと、一瞬だけ視覚に感じられる姿だけを頼りに、キャンバスへと向かう。 少しずつ、少しずつイメージを視覚化して表現する。 何度も顔の輪郭をなぞった。 髪は黒くて長く、優しい瞳、きっと穏やかな表情だろう……。 息をつく事もなく、ただイメージを追ってひたすらに鉛筆を動かし続ける。 どれほどの時間が経ったのだろうか……。 鉛筆を置きかけた彩人は少し離れてキャンバスを見つめた後、もう一度鉛筆をキャンバスへと伸ばそうとした。 しかし、手を止めて小さく息をついたあと、ゆっくりと鉛筆を置く。 キャンバスの中で微笑んでいるのは、彩人より幾分年上に見える女性の姿。 一枚の肖像画が出来上がっていた。 少し物足りなさを感じた彩人は、画材をしまってある机の引き出しから、パステルの箱を取り出して開いた。 めったに使う事がない画材だが、きちんと並んでいる淡い色を順番に目で追っていく。 ふと、ある色に呼びかけられたように感じて、彩人の目がその色にとまった。 小指でそっとパステルを撫でて、指にうつし取ったきめの細かい粉で薄く瞳を染めた。 優しい瞳の色はViolet Lake……すみれ色の湖。 「俺の名を呼ぶのは、貴女なんですか?」 彩人はキャンバスの中で微笑む女性……。 「すみれ色の君」へそっと語りかけると、また意識を集中した。 しかし心の水面に波紋は起こらず、しばらく待っても声は聞こえてこない。 どうやら、そう上手くはいかないらしい。 肩の力を抜いて吐息をついた彩人は、すっかり日が暮れた窓の外へと目を やった。 眺める星空に郷愁を誘われる事など無いが。決まって思い出すのは、母が大切にしていた小さな茶館。 「兄貴は、どうしているんだろう?」 あの規格外の体だし、元気にやっているに違いない。飄々と生きる兄、慎吾はどうにも掴み所がない。 今は実家へと連絡する事も叶わぬ身だが、どうにか茶館の様子も尋ねたい。 彩人はもう一度、キャンバスをじっと見つめる。 「また、声が聞けるといいな……」 栗色の瞳を細め、優しい笑顔でそっとつぶやいた。 |
|
|
|
HOME The Story of Art Gallery Coffee shop 「メモリーズ」 |