The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 28.「遙色のPalette」〜Cherry red〜(2) |
|
目次 |
|
遙が愛用するイーゼルへセットされている、大きなキャンバス。 その少し先には、花瓶にたくさん活けられている綺麗な生花。 キャンバスとモチーフを見比べる遙の真剣な表情、そして光を湛える栗色の瞳。 口を固く引き結び、体は少し前傾姿勢になっている、額にはうっすらと滲む汗。軽く指を添えるように持った鉛筆が、リズム良く遙の心に映ったモチーフを描き出す。 キャンバス全体を見渡し、練りゴムを使ってはまた線を引く。 そんな作業をずっと繰り返している。 一度椅子から立ち上がった遙はキャンバスから数歩離れ、腕を組んで小首を傾げると隅々までキャンバスを見渡す。 制作に精を出していた部員達も、気力が途切れた者からひとり減りふたり減りして、美術室にはもう他の部員は残っていない。 夕闇に気持ちを急かされる事もなく、静かな室内で遙が持つ鉛筆の音だけが微かに響いている。 不意に、遙の手が止まり、鉛筆がこぼれ落ちた。 眉を寄せて表情を歪めた遙が、練りゴムを強くキャンバスに押しつける。 「これじゃ駄目よ……」 キャンバスを両手で掴んで俯いた遙が、喘ぐように小さく開けた唇から、弱音が漏れ出した――。 「美樹原は花を描いているんだ、展覧会に出品するの?」 「うみゅわああっ!」 突然、後ろから声を掛けられて遙は飛び上がった。 その拍子にイーゼルを強く蹴飛ばしてしまい、派手な音を立ててイーゼルが床に倒れ、キャンバスが床に転がった。 「誰よっ! びっくりするじゃないっ!」 振り返った遙が怒鳴ると、目の前で固まっていた幸一郎がすまなさそうな顔をした。 「ご、ごめん、美樹原」 「あ、いいんちょ」 現れたのは、またもや幸一郎だ。そしてまたもや、ぷしゅうと遙の怒りがしぼんだ。 たぶん悪意は無くて、タイミングが悪いだけなのね……と、遙は思う。 遙がぽん!とエプロンをはたいてキャンバスを拾い上げると、幸一郎は慌てて床に倒れているイーゼルを拾い上げて苦労しながら組み上げた。 幸一郎が組み上げたイーゼルへとキャンバスを乗せて、遙がふうと息をつく。 「どうしたの、私に何か用?」 気分が沈み込んでいるので、ついつい刺がある口調になってしまう。 幸一郎は俯いて頭を掻いていたが、思い切ったように顔を上げた。 「み、美樹原がどんな絵を描いて、展覧会に出品するのかって、き、気になったから」 真っ直ぐな幸一郎の視線に、遙は何だか後ろめたくなった。 「……そう」 言葉に詰まって視線を床に落とした遙に構うことなく、幸一郎はイーゼルに乗せられてるキャンバスをじっと眺める。 「美樹原の絵、とても綺麗だね」 「ねぇ、いいんちょ。ほんとにそう思う?」 意地悪なんかする気はまったく無かったが、もやもやとした想いを抱えている遙は、反射的に強い口調でそう問い詰めてしまった。 「あ、ええと、ご、ごめん。実はよく分からない」 ちょっと視線を泳がせた後、照れ笑いを浮かべた幸一郎があっさりと白状した。 「へんなひと」 自分に向けられた、淡い想いに気付く様子もない遙がぽつりと言うと、幸一郎は目の前で胸を反らすほどに息を吸い込んで……思いっきりむせた。 げほげほと悶絶する幸一郎を、遙は何か変わった生き物でも見るような、複雑な表情で見つめる。 「だ、大丈夫? いいんちょ」 幸一郎の目まぐるしい変化に、目を白黒とさせていた遙は、それでも最低限の気遣いだけは出来た。 両膝に手を当てた前傾姿勢で、ぜぇぜぇと肩で息をしていた幸一郎は、「はーっ」と息を整え、ばっ!と勢い良く顔を上げた。 「ね、ねえ、美樹原。気晴らしに、ぼ、僕を描いてみてよっ!」 「ええっ! い、いいんちょを描くの? い、今から?」 「うん。ほ、ほら、櫛だって持ってるから!」 幸一郎はそう言って、一生懸命に髪を整え出す。 いや、あの、櫛はどうでもいいんだけど……と、苦笑する遙。 そんな遙に構うことなく、幸一郎はやる気満々だ。遙は仕方なく、イーゼルへフリーサイズのスケッチブックを載せ、丸椅子を引き寄せる。 「じゃあ、いいんちょは椅子に座って」 「う、うん。わ、分かった」 椅子に向かって歩く幸一郎、右手と右足が同時に前へと出ている。 ぎくしゃくとした動きで丸椅子に座った幸一郎を、遙がじーっと見つめていると。 「ど、どうしたの? 美樹原」 「いや、あのね……」 ちょっと口籠もった遙の頬が、ほんのりと朱に染まった。 「脱がなくてもいいのーなんて、聞くのかなーって」 「そ、そんなこと聞かないよっ!」 真っ赤になった幸一郎が、恥ずかしそうに大声を上げた。緊張も少しはほぐれたのかもしれない。 「じゃあ始めるわね、体の力を抜いていて。自然な表情で、特に意識して笑ったりしなくてもいいから。私に話しかけても良いわよ、でも大事なところでは黙ってって言うか ら」 鉛筆を手に取りイーゼルの前に座った途端、遙の表情が変わった。優しげな栗色の瞳が強い光を帯び、遙の視線が幸一郎を射貫く。 「ね、ねぇ、み、美樹原……」 「どうしたの? お手洗い?」 「ち、ちがうよっ!」 「言われた事を理解するのに時間が掛かるから、出来ればドモらないできちんと話して」 遙の口調までが変わった、それだけ真剣だという事なのだろう。一度身じろぎをした幸一郎が、ごくりと喉を鳴らして、ぴしっと背筋を伸ばした。 遙が持つ鉛筆が少しずつスケッチブックに振れるたびに、微かな線が描かれる。じっと幸一郎を凝視しては、イメージを指先へと伝えていく。 「美樹原は、子供の頃から絵が好きだったの?」 「うーん、よく覚えていないけど。クレヨンを握ったら離さない子供だったらしいわ。床や壁はもちろん、テレビや冷蔵庫にまで描いちゃったんだって」 「うわぁ」 「お願いだから、紙からはみ出ないでねって、お母さんがいつも私に言っていたらしいわ」 極彩色の花やら何やらがたくさん。床や壁、家具にまでも描かれた部屋を想像した幸一郎が苦笑する。 「ねぇ、さっきまで描いてた花の絵、気に入らないの?」 不思議そうに首を傾げた幸一郎の言葉に、遙の規則正しい鉛筆の動きが微かに乱れた。 「気に入らないという訳ではないわ。ただ、想いが伝えられないの、あれじゃ見たままを描き写しただけでしかない」 遙はキャンバスから目を逸らし、肩を落とす。 「え? でも、写真みたいだよ」 「いいんちょ、私は絵を描いているの」 この感覚は、話しても分かって貰えないかもしれない。 遙はなるべく口調がきつくならないように、やんわりと答えた。 「モチーフへの気持ちを整理出来ないの。早く描かなきゃいけない、表現しなきゃいけないって」 「それは、締め切りがあるから?」 「うん、それもあるけど」 遙の心を苛むのは焦りだ。 誰もが与えられた時間の中で、最大限に力を発揮して作品を仕上げる。 皆と同じように、心に映したモチーフをキャンバスに表現する事が出来ないのは、自分自身の感受性が低いからだと遙は思っている。 「そうだね。公平性を保つためでもある締め切りだから、それは仕方ないけど」 幸一郎は考え込むように、微かに視線を動かした。 「美樹原、君の感受性については関係ない」 「え?」 きっぱりとした言葉に遙は手を止めて、ぽかんと幸一郎を見つめた。 幸一郎は遙に見つめられていても、穏やかな表情で言葉を続ける。 「美樹原は、モチーフに心を動かされる部分を見極めたいんだ。そしてそれを表現したい。だから感じる心が無いっていうんじゃない、僕はそう思う」 口を引き結んだ遙は、幸一郎を見つめながら鉛筆を動かし続ける。 「美樹原が強く惹かれるのは、心の水面に波紋を起こすものなんだよ。それは大切なものだったり、心を奪われたものだったり」 ひとつひとつの言葉を、大切そうに話す幸一郎。 自分が思っている事をちゃんと伝えたい、そんな誠実さが感じられる。 「でも、展覧会だってもうすぐなのに」 遙は無意識に、現実を引き合いに出して逃げようとした。 しかし……。 「うん。無理矢理に書いたって良い結果にはならないさ、でも美樹原なら大丈夫。自分を信じなよ、僕もその……応援するから」 遙を否定することなく、頬を掻きながらそう言った幸一郎は。 「何にも出来ないけどね」 そう付け加えて、照れ笑いを見せた。 どきっ……! その瞬間、遙の胸が大きく高鳴った。 「あ、あれ? やだ、なに?」 どうしたのだろう、頬が妙に熱い。 遙は、幸一郎の笑顔をじーっと凝視している自分に気が付いた。 『美樹原が強く惹かれるのは、心の水面に波紋を起こすものなんだよ』 幸一郎の言葉が、頭の中へ響いている。 自分の胸に、心に抱えている重い物を、デッサン用の石膏像を抱えてくれたように、幸一郎が支えてくれたような気がした。 (いいんちょって、こんな顔してたんだ……) この時になって、遙は初めて幸一郎の顔をはっきりと見た。 真面目な表情、整った顔立ちが目立たないのは眼鏡のせいだろうか。 遙はそう意識したとたんに、幸一郎の顔が真っ直ぐに見られなくなった。 (あ、あれ、ど、どうしたんだろ、うわ、こ、こまったなぁ……) 遙はイーゼルへ乗せている、大きなスケッチブックで次第に顔を隠し、視線をあっちこっちへ動かしながら、ちらちらと幸一郎の顔を盗み見る。 ああ、もうっ! ちゃんと見ないと、スケッチなんて出来ないのに。 ああ駄目、意識すると駄目、でも見ないと描けない、でも意識すると駄目、でも見ないと……。 遙の頭の中で起こっている、ぐるぐるぐるぐるの堂々巡り。 (ええいっ!) 覚悟を決めた遙は制服の袖をまくり、栗色の瞳を見開いてスケッチブックを睨み付けた――。 夕日はすでに姿を隠し、茜色の空は宵闇に浸食されてもう細い筋にしか見えない。 そろそろ下校しないと、先生に叱られてしまうだろう。 「かっ、描けたわっ!」 遙が鉛筆を置くと、幸一郎が興奮したように丸椅子から立ち上がった。 「え、ほんと!?」 「う、うん。あはは」 しかしスケッチブックを胸に抱く、遙の答えは歯切れが悪い。 「ねえ、美樹原。早く見せてよ!」 遙はおずおずと、スケッチブックを幸一郎へと差し出す。 緊張した様子でスケッチブックを受け取った幸一郎が、顔を紅潮させて開いた。 その瞬間、幸一郎の動きが止まり、眼鏡の奥の目が点になった。 「み、美樹原……。これは、僕?」 ゆらりとスケッチブックを掲げる幸一郎。 そこへ描かれていたのは、学生服を着た「しゃれこうべ」 遙が持てる想像力を最大限に発揮して描いた、幸一郎のガイコツはとても良く描けていた。両目が入る大きな眼窩が、空虚で静謐な雰囲気を演出している。 これはこれで、なかなか会心の出来なのだが。 「あ、あははー。ごめんね、いいん……沢渡君。どうやら内面を描きすぎちゃった、えへ」 「何が内面だよっ! 僕は一生懸命だったんだぞ、緊張してたのに!」 「だから謝ってるんだってばっ! それに自分の骨なんだから、いいじゃない!」 何となく頬を染めた遙は、幸一郎の手から素早くスケッチブックを抜き取った。 「お、遅くなっちゃったね。えーと、いいん……沢渡君はバス通ね? わ、わたしは自転車だから、じ、じゃあさよならっ!」 舌を噛みそうになりながら、一気にそうまくし立てた遙は、いい加減に荷物をまとめて美術室を飛び出す。 またもや幸一郎を置き去りにしたままで。 「明日はもう一度、展覧会用の絵に挑戦するわっ!」 遙は走りながら、ぎゅっと手を握る。 上手に描けたら、またいいん……沢渡君に見て貰おうかな、見て……くれるよね、きっと。 遙は照れ隠しとほてった頬を冷ますように、自転車置き場を目指して薄暗い校舎を全速力で駆け抜けた。 「遙色のPalette」〜Cherry red〜 ほのかな恋心は、艶やかで優しいさくらんぼの色。 |
|
|
|
HOME The Story of Art Gallery Coffee shop 「メモリーズ」 |