The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 「遙色のPalette」〜Cherry red〜(1) |
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校舎の窓から、目映いオレンジ色の夕日が射し込んでくる。 目を細めるとその光から、プリズムを通したように綺麗な虹色が見えたりするけど、今はそんな感動に浸っていられない。 「もうっ、日が暮れちゃうじゃないっ!」 暮れゆく大きな太陽を、幾分恨めしそうに睨んだ栗色の髪を揺らす少女。 遙は「よいしょっ!」と小さな掛け声と共に、デッサン用の石膏像を抱え直した。 複雑に面取りされた顔はなかなかに色男だけど。どうして薄暗い学校の廊下で抱擁してなきゃならないんだろうと、可愛い唇がぶつぶつと不満を漏らしている。 胸像が重いので少しがに股気味になってしまうのが、ちょっと恥ずかしい。 「じゃあ美樹原、頼んだぞ〜」 お気楽な非常勤の美術講師から、授業で使った胸像を片づけておいてくれと仰せつかってしまい、遙はひとりで美術準備室へと向かう途中だ。 「もう。紫織と二人で、帰りにケーキを食べようって思ってたのに」 ふんわりとしたスポンジと、とろけるような生クリーム。 カフェ「CO・MO・DO」のシフォンケーキは芸術品だと遙は思う。 「う〜っ、それにしてもあの怠慢講師め。か弱い女生徒に、こんなもの運ばせるなんて」 ついてないなぁ……深いため息をついて肩を落とした遙が、それでも使命感を奮い起こし、む! と唇を引き結んだその時、 「みっ、美樹原っ!」 「みゃああっ!」 突然背後から名前を呼ばれて、遙は驚いて飛び上がった。びくりと背中に電気が走る。 「ああっ駄目っ!」 膝がかくんと力を失い、抱えていた胸像から手が離れる。遙の脳裏に、床へ落ちて砕け散る胸像のイメージが鮮明に浮かんだ。しかしその瞬間に、遙は背後から胸像ごとしっかりと抱き留められた。 どうやら窮地は脱したようだが、心臓が早鐘を打っている。 「な、な、な」 わなわなと体が震えている。ほっとしたからとか、そんな理由ではない。 部活で忙しい紫織とおしゃべり出来ないし。ケーキにありつけなかった上に、重い荷物も運ばされた。そんな不機嫌が相まって、お腹の底からふつふつと怒りが湧いて来る。 遙は勢い良く、ぐるんと首を後ろへ回した。 「何て事するのよっ!」 栗色の大きな瞳を、いっぱいに見開いて怒鳴る。 「危ないじゃない! 落としたら割れるのよ、これ! しかも案外高いのよ!?」 あれ? 遙の剣幕に困惑しているのは、見知った男の子の顔。 「なぁんだ、いいんちょか」 風船から空気が抜けるように、遙の怒りがぷしゅうとしぼんだ。 遙の剣幕に驚いたのか、眼鏡がずり落ちている。2ーC、同じクラスの委員長、沢渡 幸一郎。 背が高くて均整のとれた体つき。口数は少ないものの、勉強もスポーツもそつなくこなしてしまう優等生。 頼まれれば断り切れない性格は、クラスで案外頼りにされている。だから、いつでもクラス委員長らしい。 皆は「ミスター委員長」と呼ばれている。 「とりあえず離してよ。もう大丈夫だから」 「あ、あああっ、ごめん!」 ちょっと腕が痛い、遙がそう言うと幸一郎はひどく慌てた様子で、ぱっと遙を離して飛び退いた。 解放されて一息ついた遙は、ずり落ちた眼鏡を掛け直す幸一郎を見つめる。 「な、なに?」 顔が紅潮している、そして明らかに挙動不審。 (んーと、こヤツは、いったいどうしたんだろ?) 眉間に皺など寄せて、「ぢーっ」と幸一郎を見据える遙。 だんだん胸像を抱えている腕がしびれてきた。 (あ、そういえば) ぽん! と、心の中で手を打った。目の前に、ちょうど男の子が立っているではないか。 「あのね、いいんちょ」 「えっ! な、なに?」 ……あれ、鈍いなぁ。 「重いの」 「う、うん」 ……ん〜もうちょっと。 「さっきはびっくりしたな〜」 幸一郎には、遙のお尻に生えている黒くて尖った尻尾が見えているかもしれない。 「お、重そうだね、僕が持つよ」 よし、通じた。 遙は「待ってましたっ!」と、胸像を幸一郎に持たせた。 「美樹原、この石膏像を何処へ運ぶの?」 「美術の準備室よ」 手ぶらの遙は、軽やかな足取りで廊下を進む。 やっぱり男の子は、こーあるべきよねーなんて勝手に納得する。 でも紅い顔してどうしたんだろ? いいんちょって、細身だから胸像が重いのかな? 幸一郎の後ろを歩く遙は、学生服の背中を見ながら小首を傾げた。 美術室の扉が見えたが、幸一郎は両手が塞がっている。 遙は小走りに扉へ向かうと扉を大きく開けた。 「あれ、誰もいない」 美術室はがらんとしている。その静けさに、遙は腕を組んで唸った。 窓から差し込む夕日を浴びて、樹木のように立っているイーゼルの群が床に落とす陰。 夕日を受けて、ちらちらと目に映る塵芥。 「展覧会も近いのに、みんな余裕ねー」 遙は扉のところで胸像を抱えたまま、一緒に石膏像になってしまったように直立不動の幸一郎へと声を掛けた。 「入ってきていいわよー。でも足元に気を付けてね、制作途中の作品が置いてあるから。蹴り倒したりしたら大変なことになるわよ」 一応、釘を刺しておく。 「わ、分かった」 声に緊張感を漲らせた幸一郎が、そろりそろりとイーゼルの間をすり抜けて準備室に入る。律儀に息でも止めていたのか「ぷはっ」と息を吐いた幸一郎は、抱えていた胸像を慎重に棚へと置いた。 「ご苦労様。ありがと、いいんちょ」 「う、うん」 にっこり笑った遙が礼を言うと、真っ赤な顔をした幸一郎がふいっと、そっぽを向いた。 さあ、お仕事はこれで終わり。 「じゃ、いいんちょ、帰ろっか」 「あ、あの、みっ、みゅっ、美樹原っ!」 「ん〜?」 遠慮気味に呼び止められ、遙は足を止めて振り返る。 上を向いて、何やらぶつぶつ言っていた幸一郎が、また「ぷはーっ」と息を吐いた。 「み、美樹原はこ、今度の展覧会用に、ど、どんな絵をかきゅの?」 「え?」 『かきゅの』って? ああ、『描くの?』……ね。 真っ赤な顔でどもりまくる幸一郎を、いぶかしげな表情で見ていた遙は納得した。 さて困った、どんな絵を描くの? と問われても。遙は口元を引きつらせながら頬を掻いた。 「私は、ちょっと変わり者だから……」 準備室に並べられているイーゼルには、みな部員達が制作しているキャンバスが乗せられている。どの作品も、部員達が一生懸命制作に取り組んでいる様子がよく分かる力作揃い。 しかし遙が使っているイーゼルは、空のまま寂しそうに置かれていた。 「美樹原 遙」、その名前は近隣の高校の美術部に知れ渡っている。 だが、遙は美術顧問の頭をいつも悩ませていた。 遙はよほど心が動かない限り、その力を発揮することが出来ない。美術部の部活動としては、愛鳥週間などの啓発ポスターや交歓写生会、各展覧会への応募作品の制作等、年間を通じてかなりの点数になる。 その中で、遙が出品した作品は数少ない。 モチーフが心にコトリとはまれば絶大な才能を発揮する遙だが、心動かぬ時はどうにも表現に深みが無く作品に輝きを感じられぬと評される。 溢れる才能はあるが、発揮させる事が難しい。おだてられたり持ち上げられたりしても、遙の感性はぴくりとも動かない。だから今回も、遙は制作に出遅れてしまっている。 しかし心捕らわれぬものを表現する事など、遙にはとても出来ない。 「あはは、はぁ……」 遙の乾いた笑いが溜息に変わり、萎んで消えた。 自分でも、こればかりはどうしようもない。 「み、美樹原?」 「あ、えーと。まだよ、まだ決めていないの。さ、さぁお仕事も終わったし。帰ろ、いいんちょ!」 遙はくるりっと踵を返すと、逃げるように美術室を飛び出した。 前だけを見つめて、薄暗くなった廊下をずんずんと足早に歩く。後ろを歩いている幸一郎とは、ひと言も言葉を交わすことがない。 「あっあの、美樹原……暗くなっているし、賑やかな通りまで送るよ」 荷物を取りに教室まで戻ると、幸一郎が男の子らしくそう申し出た。 心配しているのがよく分かる、とても真面目な表情。 「え? いやあの……いいんちょは、バス通学でしょ? 私は自転車だから大丈夫、じゃあねっ!」 遙はそれだけ言うと、ちょっとがっかりした表情の幸一郎を残して慌てたように教室を走り出た。 翌日の放課後――。 自転車を押す遙は、親友の『九條 紫織』(くじょう しおり)と並んで歩く。 弓道部に所属している紫織は、いつも部活動で帰りが遅くなってしまう。 しかし今日は珍しく弓道部がお休みになり、遙は久しぶりに紫織と下校していた。 バス通学の紫織は学校の最寄りではなく、少し離れた停留所まで遙と一緒に喋りながら歩いてくれる。 「それで展覧会も迫っているというのに、遙はモチーフすら決まらない……と」 「うん」 「遙に掛けられた期待は大きいからね」 ちょっとうつむき加減に歩く遙。じっと話を聞いていた紫織のおっとりとした声。 遙が悩みを打ち明けると、紫織は優しく丁寧に答えを返してくれる。 弾むような足どりで先を歩く遙を見つめる眼差しは柔らかく、形の良い唇が微笑を浮かべている。 遙よりも幾分高い背丈、真っ直ぐに伸びた背筋。 色白で整った顔立ち、紫織はまるで日本人形のようだ。 遙は、風に揺れている紫織のさらさらとした長い黒髪が羨ましい。 「遙の明るい栗色の髪、とても可愛いわよ」 「そうかなぁー」 紫織がそう褒めると、人差し指にくるくると栗色の髪を巻いた遙は、いつもちょっと不満そうだ。 長い弓を収めた弓袋を、肩に掛けた紫織はゆっくりと歩く。 自転車を押しながらぽんぽんっと先を歩く遙が、立ち止まって紫織を待つ。しずしずと歩く紫織が追いつくと、遙がまたぽんぽんと先を歩く。 明るい遙と、落ち着いた紫織。 正反対に感じられる二人だが、不思議と気が合う。 「ね、ね、しおりん! 『CO・MO・DO』に寄っていこ……駄目ぇ?」 振り返った遙の、ねだるような上目遣い。 「遙にその顔をされたら断れないわ……。でも、お願いだから私を呼ぶのに『しおりん』はやめてね」 紫織は一度眉をひそめたが、くすりと笑って頷いた。 カフェ『CO・MO・DO』には、遙と紫織のように学生の姿もちらほら見かけられる。 先生も学校から少し離れたこの店へは、見回りに来ることも少ない。見付かったところで、停学までの騒ぎにはならないが。 案内された四人掛けのテーブルへ向かい合って座り、遙は鞄を脇に置いてお尻が落ち着く位置を確かめる、長い弓袋をちょっと持て余し気味の紫織は諦めたようで、窓際に立て掛けた。 お互いに落ち着いたところで、さっそく遙は身を乗り出す。 「しおりんも、シフォンケーキで良いよね!」 「もう! シフォンケーキはいいけど、しおりんはやめなさいっ」 紫織の抗議をあまり意に介していない遙は、水のグラスを運んで来たウェイトレスにシフォンケーキとカフェ・オレを注文した。 「さっきの続きだけど。そう言えば昨日、沢渡君に何か言われたの?」 「え? ううん、いいんちょはなにも……ただ、どうして私はこうなのかなーなんて」 遙が水が入ったグラスを人差し指で弾くと、透明な水がさざ波が起こったように揺れて、氷がカラリと音を立てた。 「こうなのかなって?」 「……描けないの。ううん、描けないんじゃなくて」 「モチーフに、気持ちが向かないのでしょう?」 遙は頷いて自分の両手をじっと見つめる。 手が痛いとか動かし難いといった理由ではない、動かないのは遙の心だ。 デッサンの練習をしているときには、モチーフについて特別考えることはない。ただ正確に対象物を観察することだけだ。 美術部の先輩も、同級生も、後輩達もみんな与えられた課題についてきちんと意見を持っていて、自分の感性と技量を発揮させて想いを作品へと反映させていく。 しかし遙は、なかなかそれが出来ない。 (我が儘なのかな……私) 遙は、ちょっと落ち込んでいた。 美術顧問からも指導を受けるが、遙の心に変化はない。 これでは美大に推薦してやれないと言われたが、遙は特に美大へ進学したいわけでもない。 「お待たせしました」 遙と紫織の目の前にシフォンケーキとカフェ・オレが運ばれて来た。 ぼんやりとしていた遙は、フォークを手にとってシフォンケーキをつついてみる。 いつもふわっとしているお気に入りのシフォンケーキが、なんだか今日は固くて萎んでいるように感じられる。 「ねぇ、遙」 カフェ・オレをひとくち飲んで口を湿らせた紫織が、遙の栗色の大きな瞳を覗き込んだ。 「遙は好きな人っていないの?」 「にょええっ?」 紫織の真剣な口調に、がたん!とテーブルの上に乗っているカップやお皿が跳ねるほどに遙が驚いた。 「な、何を言い出すのよ、紫織っ!」 「心揺さぶり揺さぶられ……ああ、この胸を焦がすのは我が淡き恋心か」 「な、何よそれっ!!」 「好きな人でも出来れば、考え方も変わるのではなくて? 感受性もより豊かになると思うけど」 ぐるぐると動揺する遙をよそに、紫織はにこにこと遙を見つめている。 遙は両手で頬を挟んで、ぶるぶると首を振った。 何だか落ち着かなくなって、紫織の視線を避けるように窓の外へ目を向ける。 (す、好きな人……なんて) 何かこそばゆい。 自分にはまさに縁遠い物だと、遙はそう思う。 頬杖をついて窓の外を見つめる、足早に道を往く人々。流れゆく時間は止まることなどない。 でも遙は、なぜか自分だけが取り残されたような気分になった。 今の遙には、自分自身への疑問すら分かりかけたような、まだ分からないような、そんな曖昧な気持ちが心の中で揺れている。 せっかくのシフォンケーキを前にしても、いつものようにワクワクしない。 それでも、バニラの香りに誘われてケーキを口へと運ぶ。 (う〜なんなのよ) 遙は思わず天井を振り仰いだ。 「あのね、遙に聞きたいことがあるんだけど」 「なに?」 澱んだ雰囲気を押し流すような、紫織の明るい声。 あらたまった顔で紫織に聞かれ、遙は空になった皿にフォークを置いて脇へと寄せ、カフェ・オレのカップを置いた。 「遙は、沢渡君ってどう思う?」 そう言えば。昨日見た幸一郎の百面相を思い出して、遙は何だか可笑しくなった。 「いいんちょ? ん〜真面目で世話好き。どうしてか分からないけど、顔がすぐ赤くなってすぐにドモる。それから挙動不審……かな」 「案外よく見ているけど、それだけ?」 「うん」 遙の簡潔な答えを聞いた紫織は、黒髪を揺らして首を二、三度振ると呆れたような表情を見せた。 親友の苦笑を見とがめた遙は「なによー」と、唇を尖らせる。 「遙ったら鈍いわね……でも、そんなところが良いのかしら?」 「え?」 遙の疑問に答えず、紫織は伝票を手に取ると席を立つ。 「さ、もう帰りましょう。そろそろバスの時間だから……久しぶりに遙とたくさんお話が出来て楽しかった。しばらく悩みなさい、それがあなたの糧になるはずよ。まだ締め切りには時間があるのでしょう?」 「……うん」 鞄を手にした遙は、やはり沈んだ表情で頷いた。 紫織と別れた後も、遙はずっと考え続けた。 道の真ん中を、ぼんやりと自転車を漕いでいて車にクラクションを鳴らされたりしながら、ようやく家に辿り着く。 「ただいまー」 「お帰りー」 キッチンで夕食の支度をする母に声を掛けると、すぐに二階へ上がる (あ、カレーの匂いだ) 食欲を刺激する良い匂いが鼻をくすぐる。 でも食欲がわいてこないのは、多分シフォンケーキのせいじゃない。 遙は自分の部屋に入ると、鞄を置いてばったりとベッドへと倒れ込む。 微かに絵の具の匂いがする遙の部屋、嫌いな匂いではないはずなのに今日は何だか妙に鼻につく。 着替えなきゃ、制服が皺になっちゃう……。 頭の中へちかちかと警告灯が点滅するが、どうにも脱力感に抗う事が出来ずに、遙はぎゅっと体を丸めた。 このまま、サナギになったら大変だ。 「遙ーっ! もうすぐご飯よーっ!」 「はーい」 階下から聞こえる母の声。 やや面倒くさそうに返事をした遙は、ふと思いついてベッドの上で仰向けになった。 体の力を抜いて、ゆっくりと呼吸を整える。 静かに目を閉じて、いつものようにしばらく闇を彷徨う。 そして淡いエメラルドグリーンの光と共に心の中へと現れたアトリエの扉へと手を掛けた。 ひどく静かなその空間、今は何のイメージも湧く事が無い。 込み上げてくる無力感に身震いした遙は栗色の瞳を閉じて、イメージの中で扉に背を当てて考える。 しかし様々に姿を変える想いは掴み所がなく、考える事をあきらめた遙はさっと左手を振ってアトリエのイメージを掻き消した。 目を開けて大きく息を吐く。 ぼんやりしている遙の頭に、ふと紫織の言葉が浮かんできた。 『遙は好きな人っていないの?』 ぼっ! と、いきなり顔が熱くなる。 「こんな事考えている場合じゃないのっ、展覧会はもうすぐなんだからっ!」 癇癪を起こして、ベッドの上をごろごろと転がる。 ベッドから転げ落ちる前に疲れ果て、遙はぐったりと手足を伸ばした。 「はぁ……」 これはスランプ? ううん……きっとそんなんじゃない。 自分自身と向き合わねばならない時が来ているのかもしれない。 遙はもう、回数も数えられないほど繰り返した溜息をまたついた。 |
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