The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 53.開かれた心の扉 |
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退社時間を過ぎて慌ただしさがひいた社屋には、残業を抱えた社員の姿がちらほらと見受けられる。 活動していた人が持つ熱気が薄れゆく空間には、昼間とはうって変わって無機質な静けさが充満し始めていた。 夕暮れ時、ガラスを透過したオレンジ色の光が眩しい。 そろそろブラインドを閉めないと……。彩人はそう思いながら、もう少しもう少しと、パソコンのキーを叩く手を休めない。 報告書の作成も大詰めとなり、長い文章に一区切りがついた。肩の力を抜いた彩人がエンターキーを押したタイミングで、パソコンの隣にコーヒーを入れたカップが、とんと置かれた。 「お疲れ様、彩人君」 コーヒーカップから離れた長い指、差し出された綺麗な手を視線で辿る。 彩人に微笑みかけたのは、長身で活動的なショートカットの彼女。明るい色の髪が、よりその印象を軽やかにしている。 「ああ。星野さん、居たんだ」 「あ、もう、失礼ね」 ぷくっと頬を膨らませた星野久遠は彫刻などを専攻していて、アーティストブランドではオブジェなどの制作に力を入れているのだが。 実際に大きな作品を企画、制作するとなるとコストが掛かる。依頼の数も種類も限られる上、経験や実績という問題が眼前に立ちはだかる。 従って、まだ若く無名な人材を抱えているアーティストブランドは、この方面では苦戦を強いられている。 だが美咲にとっては、それすらも望むところなのかもしれない。各方面の見識者や経験者の協力も取り付け始めている事が自信にも繋がっているようだ。 コーヒーをくぴっと一口飲んだ星野は、彩人の背中からひょいと顔を覗かせて、パソコンの画面を眺めた。 「アーティストが一生懸命に、事務仕事してるのって辛そうね。何を書いているの?」 「報告書だよ」 アーティストなどと呼ばれるのは、どうにもくすぐったい。彩人はキーを叩く手を止めぬまま星野に答える。最近はこのような書類作成ばかりをしているので、事務方に回ったような気分だ。 創作活動とは全く関わりがなく、ただひたすらにパソコンのキーを打ち続ける作業をしていると、何やら社会について、労働について考えさせられる。 「こうしてデータ化しておけば、本城さんが帰って来たときに、目を通し易くなるからね」 「ふーん」 「星野さん、その複雑な表情は何?」 パソコンの画面から目を離した彩人が問うと、星野は意味ありげに「うふふ」と、笑った。 「私達の前では本城さんの事、美咲って呼ばないんだなって、思ったの」 「それは当たり前。彼女はアーティスト・ブランドの経営責任者なんだ」 「ふわ、彩人君っておカタイ、おカタイわ」 握った両手の拳を口に当てた星野がおどけてみせる、彩人はジト目で星野を見た。 「それに、味も素っ気も無いんだろ」 彩人は再びカタカタとキーを打ち始め、モニターから顔を上げることなくすました顔で言った。入力した文字が間違っていたのだが、どうやら星野は気付いていないようだ。 「あ、そこまで言っていないよ。冷やかしたんじゃないから、安心して」 ぱたぱたと、両手を振った星野。「ほらほら、冷めちゃうよ」と勧められ、彩人はコーヒーのカップを持ち上げる。コーヒーには、もうミルクも砂糖も入っているようだ。 彩人の好みを、星野は知っているらしい。 程良い甘さとミルクの柔らかな口当たりが、緊張をほぐしてくれる。 「はぁ、美味しい。ありがとう、星野さん」 「いえいえ、どういたしまして。お疲れさまのリーダーに、ほんの心尽くしでございます」 ほーっと息をつく彩人の隣のデスクに腰を当てて、星野はぺこりとお辞儀をした。 「みんなが彩人君を頼りにしてるんだ。最近のアーティスト・ブランドって、一致団結した感じでしょ?」 「そう……かな?」 「そうだよ」 わずかに首を傾げた彩人を眺め、星野はくすくすと楽しげに笑った。 同じ目的を持った仲間としてお互いを尊重し、その上でライバルとして自らの力を磨き合い、さらなる高みを目指す。辛さや苦しさとともに創作への意欲を掻き立てられているのなら、アーティストブランドの活動は順調なのだろう。 「彩人君がみんなをまとめてくれるから、ぎくしゃくが感じられなくなったんだ」 「俺は感じていないけどな、それに何もしていないよ」 「またまた。ご謙遜、ご謙遜……。アーティストブランドのリーダーは、とても謙虚ですねぇ」 星野はカップをデスクに置いて、天井に視線を固定した。そのまま思索に耽っていたようだったが、何かに思い当たったように瞳をぱちぱぱちとさせる。 「そうそう、結城君だって変わったんだよ? うーん。正確に言うと、変わり始めた……かな」 星野は空になったカップの縁を、人差し指で撫でた。飲み口に、星野の明るいルージュの色が微かに残っている。その痕をとんっと叩き、星野は口を開いた。 「以前はトゲトゲしい態度だったし、変に力んじゃってさ。感じ悪かったんだけど……。最近じゃ別人みたいなの」 結城和馬。アーティストブランド内で、突出する自信と強い自己主張ばかりが目立ち、トラブルの原因となっていたのだ。 そう言えば、最近は和馬と話をしていないことに彩人は気が付いた。 プライドに縛られて、おかしな対抗意識を燃やして己を見失わなければ彼も優秀なアーティストだ。そうでなければ、美咲がアーティストブランドに誘う事はなかっただろう。 「少なくとも、俺は関係ないよ。みんなの気持ちが繋がり始めたからじゃないのかな」 「もう、ホントに控えめなんだから。……それよりも」 話題を変えるように、ぴょこんと跳ねた星野は、じっと彩人を見つめた。 薄墨の色が濃くなりつつある室内に、息遣いすら意識してしまう雰囲気が漂う。星野の瞳の奥で瞬いているような光は、何かを彩人に伝えようとしているようだ。 「な、何?」 彩人がわずかに身を引くと、その分だけずずいと星野が顔を突き出してくる。眉根を寄せて、さらに彩人の栗色の瞳をのぞき込む。 「あのね。本城さんと彩人君は、付き合ってるの?」 「え?」 星野の一言で沈黙が破られ、危うさをはらんだ雰囲気は一気に霧散した。 いきなり何を言い出すかと思えば。 星野に向けられた素朴な疑問に、彩人はぽかんと口を開けた。 いやいや、ちょっと待ってくれ。逃げるように視線を左へとずらして考える。腕を組んでうーんと唸り、そのまま顔を上げて天井をに睨みつけた。 美咲と俺が? 動きを止めた彩人は、はたと気が付いた。美咲とはそんな間柄だったのだろうか? 「はいはい、ま、だいたい予想通りの反応だわ」 目まぐるしく変わる彩人の百面相を眺めていた星野が、堪えきれずに吹き出した。ぽんぽんと手を叩いた後「熱い熱い」と、手を団扇にして扇いでみせる。 「何が予想通りなんだよ」 ノートパソコンを前に押しやり、空いた隙間に肘を付いた彩人が、星野へうろんな目を向ける。彩人の視線をいとも簡単に弾き返した星野は、右手の人差し指を、ぴん! と立ててみせた。 悪戯っぽい笑みを見せて、少し多めに息を吸い込む。 「天然カップル」 「何だよそれ」 彩人は片方の眉を上げた。『馬鹿』が付いていないだけ、ましなのかもしれない。 「あら、気付いていないの? アーティスト・ブランド内では、共通の認識よ」 その言葉が追い打ちとなった。ぐったりと椅子の背もたれに体を預けた彩人が、再び天井を振り仰ぐ。 カップル? 恋人? そう言われても実感などまったく無い。美咲は、彼女はどう思っているのだろう。 少なくとも、デートどころか恋人らしい会話を交わした事も無い。 「俺には、そんな……」 「つもりが無いなんて、言わないわよね?」 不意に笑みをおさめた星野が、ひどく真面目な表情で彩人を見つめていた。彩人は口から出そうになった言葉を飲み込むと、背もたれから体を離して瞳を閉じた。 いや、だからといって思考の整理が付くわけではないのだが。 「つもりはないけど」 一度、口ごもる。 「……よくわからない」 「そう」 ぽつりと空気が漏れるような声。 星野は彩人の答えを責める訳でもなく、かといって肯定もしなかった。 再び部屋の中が静寂に包まれる、薄闇がその存在感を増し、彩人のパソコンだけが微かな音を立てていた。 ☆★☆ 控えめだった太陽が、久しぶりにその姿を見せた。 地面に並べられた幾つもの大きなペンキ缶を前にして、顎に手をあてて首を捻っていた彩人は、やおらセルリアンブルーのペンキ缶を手に取った。 マイナスドライバーを使って、器用に缶の蓋をこじ開ける。 割り箸を缶の中に突っ込んで、ぐるぐるとよくかき混ぜる。そうしないと、缶の中で塗料も有機溶剤も分離していて、きちんと発色しないのだ。 額に汗を浮かべた彩人は、懸命に塗料をかき混ぜる。マーブル模様だった濃い青と白い塗料が再び混ざり合い綺麗な空色になった。 「これでよしっと」 缶の中に溜まるペンキの色合いを確認して、一息ついた彩人は大きく深呼吸をした。それから揮発する溶剤を吸い込まないように防護マスクを顔に被る。こういった作業時の注意事項も、美咲が取り決めたのだ。 少々窮屈だがそれは仕方がない。彩人は割り箸を置くと溶剤に浸けておいた、小振りの刷毛を手に取る。 向かうは壁だ、白い壁に子供達の夢を描かねばならない。 長い長いスランプとでも表現するのが妥当なのだろうか。彩人が心の中に持っているアトリエは、未だにその扉を開いてはくれない。行方が分からない師の助力を求めることも出来ず、最大限の力を発揮する事が出来ないでいる。 自らと向かい合う創作活動にあたり、その不思議な空間に頼りきっているわけではないが。彩人にとって感性という名の翼を思うがままに広げられる、無限ともいえる大切な空間なのだ。 そんな訳もあって主要な依頼は他のメンバーに任せ、彩人は誰もが敬遠する地味な仕事を、自ら進んで引き受けていた。 今回の仕事場は幼稚園だ、建物の壁に子供達が喜びそうな絵を描いて欲しいとの依頼が寄せられた。 美咲はこの依頼に妙に乗り気で、創作と労働の対価である報酬を提示せず、無償で引き受けたと胸を張っていた。いわゆるタダ働きではあるのだが、報酬の件は彩人自身に関係ない。 さて、何を描けば良いのだろう? と、首を捻ってみる。子供達の興味を惹き、想像力を掻き立てられる幻想的で楽しい絵にしたい。彩人は幾晩も頭を捻って考え抜いた。 思いついたのが明るい空に浮かぶ雲、柔らかな風の表現だ。奇抜な絵などは論外だと考え、素直で優しいイメージにしようと心に決めて下絵を描いていた。 作業を始めるにあたり、壁の周囲にプラスチック製のコーンを置いてロープを張り、園児達が中に入らないようにと留意している。 わいわいと、賑やかな声が背中から聞こえる。好奇心に目を輝かせた園児達が、彩人の作業をじっと見ているのだ。 あっちでは笑い声、こっちでは泣き声が響く。 優しい顔つきのせいなのだろうか、小さな子によく懐かれる彩人に子供達からの注文が飛ぶ。 「お兄ちゃん、くじらさんをかいて、くじらさん!」 リンゴのように、赤いほっぺをした男の子。 小さな手でロープに掴まり、ぐいぐいと揺すりながら元気な声を上げる。 振り返った彩人は、思わず吹き出した。園児達がロープにぶら下がるように連なっている、その様子を見て笑いを堪えた彩人はペンキの缶を下に置き、園児達の前にしゃがみ込んだ。 「お空に、くじらかい?」 栗色の瞳を見開いて、真顔で訪ねる。 「うん! ぼくね、おーっきなくもを見たことがあるんだ!」 「もくもくってしてた」 「くじらさんて大きいんだよね? ぼく、おおきなくじらさんにのりたいんだ」 元気よく手をあげてはしゃぐ子供達は、皆、真剣な表情だ。ぴょんぴょん跳ねながら、一生懸命に彩人へと思い描いた絵を伝えようとする。 「そうか、雲か……」 彩人は丁寧に頷きながら、子供達の想像に自分が描くイメージを近づけていく。 「そっか。じゃあ空を飛ぶ、大きな大きなクジラさんを描いてあげるよ」 空に浮かぶ、大きなクジラの背に乗っている子供達。良いイメージを子供達に貰ったと思う。 何より、子供達の希望に沿った絵を描く方が良いに決まっている。 ゆったりと優雅に空を泳ぐ、大きなクジラの姿を思い浮かべた、その時。 彩人の脳裏に閃いたのは、師である瑠璃子の厳しい表情と緑の泣き顔だった。師の怒りと緑の涙が重なり、心の奥底に浮かび上がるのは亡き母の言葉だ。 「ね、あーちゃん」 栗色の髪を揺らして、幼い彩人の顔を覗き込む母の大きな瞳。 「あーちゃん。キャンバスに向かったら、自分の胸に手をあてて、じーっと考えるの。そうするとね……」 あの時、母は何か大切な事を教えてくれたように思う。しかし、母の言葉をすべて思い出せない。 (母さんは、何を言いたかったんだろう?) もどかしさが渦を巻く胸に手を当てた彩人は、過ぎ去った時の彼方へと意識を飛ばして考える。 幼い頃に、小さな手に余るクレヨンを握っていた。水彩紙でもキャンバスでもない、ましてやスケッチブックでもない。 広告の裏側や、紙の切れ端、捨てられた用済みのメモ用紙。 想像を膨らませながら夢を描いた。巧みな色調の表現だとか、正確なデッサンがどうとか全く考える事などなかった。 のびのびと、自由に自分の想いを投影した……。 そこだ、もうすぐそこに答えが見えている。 「あーちゃんの心に、映ったものはなぁに?」 彩人の中で、水泡がぱちんと弾けたようだった。瑠璃色に輝く殻を破って浮かび上がったその言葉。 「俺が、俺が描きたい絵は……」 その瞬間だった。ずっと閉ざされたままだった、彩人の心にあるアトリエの扉が大きく開いたのだ。 迸る光の奔流が押し寄せてくる。その様々な色彩は互いに主張し合いながら、彩人の胸を駆け抜けて行く。 目まぐるしく変わりゆく、光と影が織りなす映像に翻弄された。 その映像に映える色彩のひとつひとつには、心を揺さぶるしっかりとした意味がある。手を伸ばして触れれば、その変化する色の粒子は彩人の五感に繋がっている事を知覚した。 彩人の胸に浮かんだのは、母の大切な茶館に飾られているたくさんの絵だ。 「そうだ、俺は……」 ペンキ缶をぶら下げた彩人は、空を降り仰いで眩しさに目を細める。空にはまるで彩人を迎えに来たように、大きな大きなくじらの形をした雲が、ふわりと浮かんでいた。 |
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