The Story of Art Gallery Coffee shop Memories 54.真夜中のお茶会 |
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お風呂で少しぬるめのお湯に浸かりながら、ぼんやりと物思いに耽ります。 手ですくったお湯を肩に流すと、疲れが流れていくようです。忙しい一日、たくさんの出来事がありました。 今日はたくさんのお客様がお越しになり小さな茶館はパンク寸前で、一日中テーブル間を飛び回っていました。触れ合った心と気持ち、そのひとつひとつを大切に過ごしていきたいと、私はいつも思っています……。 湯上がりの火照った体をゆったりとした部屋着で包み、カーペットを敷いた床にぺたんと座ります。そのまま、白い小さなテーブルへぱたりと突っ伏しました。 「ふう」 ひんやりとしたテーブルに頬を当てると、思わず吐息が漏れ出ます。 お湯で温まった体がほかほかと気持ち良いのですが、濡れた髪に大振りなタオルを巻いただけなので、湿り気を取って手入れをしなければなりません。 きちんとブラッシングもしておかないと、明日の朝にとんでもない事になってしまうでしょう。 とろんとしてくる頭をぶんぶんと振って、濡れた髪に丁寧にタオルを当てていきます。長い髪を羨ましがられたりしますが、なかなか気を使うのです。 ドライヤーでゆっくりブローをすませると、はっきりとしてくる意識。柔らかくブラッシングをしながら、髪を一房摘んで毛先をじーっと見つめます、痛んではいない様子に安心しました。 使い終わったドライヤーを片付けて立ち上がり、薄手のカーディガンを羽織るとスリッパを履いて部屋を出ます。 明かりを点けて階段を降りると、短い廊下を抜けた先には洗面台。食後に磨いてはいるものの、寝る前にもう一度歯のチェックをしなければなりません。 笑顔に欠かせないのは健康な白い歯ですから。い〜っと口を開けて、やっぱり歯ブラシを手に取ります。 歯磨きを済ませると、私はふと気になってお店へと通じるドアを開けました。暗い店内ゆっくりと足を踏み入れ、空間を支配している静寂の中へと身を置きます。 カウンターへ手を当てて目を閉じていると、よみがえってくる昼間の賑わい。ドアベルの音、お客様の談笑なさる声、私が扱うコーヒーミルの音……とても芳しい、珈琲の香り。 そんな楽しい気分に、しばらくゆらゆらと身を任せます。店内に飾られている絵を優しく照らすのは、窓から射し込むほのかな月明かり。 まるで美術館にでもいるようです、絵達は夢の中にいるのでしょうか。それとも私の姿に驚いて、寝ている振りをしているのかも。 ぼんやりと絵を眺めていた私は、不思議な事に気が付きました。 おぼろな月明かりの中で、じっと目を凝らします。壁に掛けられている絵の中に、見慣れない一枚の絵があるのです。 「あら、この絵は……?」 カーディガンの胸元を掻き抱いて、テーブルの間を歩き、壁際へと寄りました。やっぱり間違いありません、見たことがない絵です。 この絵は、どうしたのでしょう? もしかして、遙さんが飾られたのでしょうか。でも、この絵が掛けられている場所は空いていなかったはずです。私は指先でそっと額縁に触れると、もう一度目を凝らして、じっとその絵を見つめます。 描かれているのは、深い深い夜の森。 幅広の葉を豊かに茂らせる木々には、枝の所々に掲げられているオレンジ色の光を放つランタン。それはまるで木の実のようで。 絵の中心には、切り株のテーブル。 可愛らしいティーセット。お皿に盛られているのは、たくさんのクッキーです。 そしてテーブルの側に腰掛けて、長い足を組んでいる青年の姿……。 背が高くて均整の取れた体、白いシャツにベスト、パンツも靴も白。整った横顔に艶ややかな銀髪、虚空を見つめる瞳は紫色。色濃い闇を描いた中で、彼の姿は浮き上がるように目を引いてます。 「やあ、お嬢さん」 不意にそう言った彼が、私に微笑みかけました。 「え!?」 「いい夜ですね」 瞬きをしたのは、紫色の瞳。 気が付けば、絵の中の青年に真正面から見つめられていました。 「ええっ!」 驚いて数歩跳びすさり、異変に気付いて辺りを見回します。 信じられません、私を包んでいるのは深い森。その森を支配する夜の帳はなお暗く。木々の枝に掛けられたランタンの光が、彼と私をぼんやりと照らしています。 夢を見ているのでしょうか。 思い切って、自分の頬をつねってみます。 「ひゃあ!」 ひりひりしている頬が痛いです、とても痛いです。 頬を強くつねりすぎました。あまりの痛みに滲んでくる涙、頬をさすっている私を見て、くすくすと笑っている青年。夢でないなら、いったいこれはどうした事なのでしょう。 「あはは、面白いね。君は……」 青年はゆっくりとした足取りで歩み寄り、僅かに腰を屈めて私の顔を見つめます。 「どこから来たの?」 まるで湖のような輝きを湛えた瞳。落ち着いた優しい声は、私を気遣っているようで。 質問をするつもりが質問されて、私はきょろきょろと辺りを見回しました。何処からと問われても、それを説明する事が出来ません。 身を堅くして唇を噛み、上目遣いで目の前に立っている青年の端正な顔を見ます。 「ここは、何処なんです?」 逆に問い返した私に、顎に手を当てた青年は困った顔に。そのしなやかで整った指先で、顎をとんとんと叩いて。 「うん……。何処って聞かれても、説明しにくいな」 苦笑する青年。 柔らかな髪を掻き上げる仕草はとても自然で。彼はシャツの襟を整えて、胸を軽く叩いて埃をはらう仕草をした後、会釈をしました。 「自分から名乗るのが礼儀なんだろうけど、無礼を許してくれないかな? 君の名前を教えて欲しいんだ」 片目を瞑って軽やかにウインク。茶目っ気がある仕草、嫌味には感じません。 「……瞳子、水無月 瞳子です」 つられるように、私はぽそりと名乗っていました。 「トウコ、か。うん、良い響きだね、力ある瞳に相応しい名前だ」 「あ、ありがとうございます」 一瞬、笑みを浮かべているその口元が、石膏像のように固まったかのようでした。ですが青年の表情は、それ以上の変化を見せるでもなくて。 「さて、僕の名前だけど。何が良い? ピエール、アシュレイ、シルベスタ……君のお好みは?」 何でしょうかこの人は、私はきちんと名前を教えたのに。 「あなたのお名前を、教えてください」 思ったことが、そのまま顔に出てしまったのかもしれません。私の顔を見た青年は、困り顔で両手をぱたぱたと振りました。 「ああ、ごめんごめん。お調子者に見えちゃったかな? うん、簡単に名乗るわけにもいかないんだけどね、仕方がないな」 少しの逡巡に揺れるのは不思議な色……紫色の瞳に映った淡い光。 でも悪意や不安を感じることはありません。 「僕の名前は、パステルっていうんだ」 「パステル?」 「うん、そう」 つぶやく私に、こくこくと真顔でうなずく……パステルと名乗った青年。 日本人には見えません、かといって外国の方というわけでもなくて。パステルの唇が紡いだその名は、遙さんに教えてもらった、画材の名前と同じだったと思います。 「ようこそ、瞳子。じゃあ、さっそくお茶会を始めようか」 名前を名乗っただけで、その他に山と積み上げられた謎はその場に散らかしたまま。 「え?」 こんな所で、いきなりお茶会なんて。 うきうきとしているパステルを、ぽかんと見つめてしまいます。 「少し待っていてね」 パステルがさっと手を振ると、まるで魔法のように彼の手の中へと白磁の艶やかさを持ったポットが現れました。子供のように得意げな表情、その見慣れぬ容姿からは年の頃を予想することが出来ません。 ひょっとして彼は異次元人、もしかして彼は宇宙人なのでしょうか? 茶館で起きる不思議な出来事は幾つあったのでしょう、私は心の中で指折り数えてみます。 「そのどちらも違うよ。でも、夢とロマンがあふれる豊かな想像力だ、大切にするといい」 「わ、私が考えていることが、分かるんですか?」 「うん? いや、何ていうのか」 ポットを高く掲げたままのポーズで、固まっている彼の眉毛がハの字になっています。 「珍妙な生き物を観察するような視線が、ちくちくと体中に刺さるのがよく分かる」 「ご、ごめんなさい」 頬の温度が急上昇、思わず俯いて不躾な視線を逸らします。 ふわ……と、パステルの体を淡い光が透過したように見えました。幻想的な光景に目を奪われていると。 いつの間にか切り株のテーブルには真っ白なレースのクロスが広げられ、大きめのカップがふたつ並んでいます。 彼がポットを傾けると湯気が立つ褐色の液体が注ぎ込まれ、カップの中でゆらゆらと踊ります。 「これくらいかな?」 続いてぽんと現れたのは、よく磨かれて光る金属性のミルクピッチャー。 満たされているミルクがゆるりとカップに流れ込み、先に陣取っていた褐色の液体と混ざり合い、せめぎ合い、互いを受け入れて、親密になるように溶け合っていきます。 「さ、召し上がれ」 そうして出来上がったのは、カフェオレでした。 「は、はい。い、いただきます」 不思議なお茶会の始まり。 びっくりの連続で、私の感覚は麻痺してしまったのかもしれません。 パステルの視線を気にしながら、おそるおそるカップに指を掛けて持ち上げると豊かな香りが鼻腔をくすぐり。ひとくち飲むと、体の隅々に柔らかなミルクの甘みが広がるようです。 「とても美味しいです……」 「そう? 良かった」 嬉しそうに笑うパステル。 胸を張り、ぴんと人差し指を立てて空中にくるりと円を描きます。小さなつむじ風が巻き起こり、彼の指が描いた軌跡に重なる葉擦れの音。 「ホットミルクとも考えたんだけど。君は美味しいカフェオレを知っているようだからね、飲み比べて欲しかったんだ」 もっとカフェオレの感想をねだるような、紫色の瞳は穏やかで。 「私が大好きな方が淹れてくださるカフェオレと、同じくらい美味しいです」 ひとときの安らぎを与えてくれる、包み込んでくれるような……。ええ、まるで遙さんのカフェオレみたいです。 「ありがとう。お茶の時間って大切なんだよ、家族、恋人、気のおけない友人達。うん、一人でだって構わないんだ。ゆっくりと心を落ち着ける、気持ちをリフレッシュする大切な時間だね」 そんな語りは子供のような表情にかき消され、満足そうにカフェオレを味わう不思議な青年。 「それに甘いお菓子があれば、もっと幸せな時間を過ごせるんだよ」 またまたパステルが手を振って、何処からともなく取り出したのはイチゴが乗った美味しそうなショートケーキでした。 「そうだね。以前、ここへ来てくた女の子がいたんだけど。ええと、名前は何だったかな、ちょっと待ってね」 瑞々しいイチゴに輝く銀のフォークをぷすっと刺して、ぱくりと口の中へと放り込みます。もぐもぐとイチゴを味わっていたパステルは、ごくりと喉をならして目をぱちくり。 「うん、そうだ! ハルカっていう名前の女の子だったよ。栗色の髪と瞳をした可愛い子だったね」 「は、はるかさん、ですか?」 栗色の髪と瞳。 もしかして遙さんの事でしょうか、私と同じように、この不思議な場所でお茶会を? 私は目眩を覚えて、ぱたりとテーブルへと突っ伏しました。茶館は異次元にでも繋がっているのかもしれません。 「明るくてお話が好きな女の子だったよ。ホント、ケーキが好きみたいだったなぁ」 あの子は幾つケーキを食べたんだっけな? と、真面目な顔で指折り数えているパステル。 確信になりました……食いしん坊の遙さんに、間違いありません。 「ふふ。君はいつも、その衣装で働いているの?」 「え? えええっ!」 しげしげと私を見つめるパステルの視線に、自分の服を確かめてまたも悲鳴を上げました。 部屋着の上に、カーディガンを羽織っていたはずなのですが。いつの間にか、私は黒いジャケット姿になっていたのです。 闇から生まれいでた風が、襟元を飾るリボンタイをそっと撫でて過ぎゆきました。 「綺麗な飾り石だね。そのエメラルドグリーンの石は、君を見守ってくれている。今も、そしてこれからもね」 パステルの言葉が触れた心の一角が、熱を帯びてゆらりと揺れます。 困ったお客さんはいないかい? 水仕事で手が荒れたりしていない? パステルの問いは、まるで我が子を案ずる父親のものみたいです。 もう、これ以上驚くことはないでしょうか。 小さなフォークをお皿に戻し、私はふと視線を巡らせます。オレンジ色のランタンが放つ光に浮かぶ、いくつもの棚が整然と並んでいて。 そうです。まるで恵子さんの雑貨店、メモルの店内の様子と同じ。 「気になるの?」 そう言ったパステルは、カップをテーブルに置いて、すたすたと棚の方へと歩いていきます。 彼はその棚に並べられている、銀色をした小さなチューブを手に取りました。 それは、小さな小さな絵の具です。 「僕の店は、時の彼方の画材店……。扱うのは、たくさんの絵の具さ」 彼の手のひらにある絵の具。 思い出すのは、夢を見ているような栗色の瞳。 パレットに解き放たれた様々な色は、筆先によってキャンバスへと運ばれて、絵描きの自由な心の内を映すの。 それは、遙さんから聞いたお話です。 「僕の店にはね、時々絵描きさんが訪ねて来るんだ」 パステルは、手のひらの上で絵の具のチューブをころりと転がします。 「真剣な面持ちでキャンバスに向かい合う。皆、自身の想いの中を旅しているんだよ。でも、でもね……誰でも、ふと自分が歩く道を見失うことがある。自らを信じて、脇目も振らずに辿り歩む道なんだけどね」 微かに震えているパステルの声。 闇を突き抜けて遠くを見つめる、その紫色の瞳には何が映っているのでしょう。 「彼女もそうだった。月明かりを頼りに旅を続けていて、ふと気が付けばおぼろな光を投げかけていた月は厚い雲に隠れ、闇は目標になる山々の稜線、その境界をも塗り潰していた。それでも彼女は、凛とした表情で真っ直ぐに立っていた」 パステルが語るのは、彼自身の思い出なのでしょうか。 目を細め、記憶の糸を手繰り寄せる姿はとても切なげで、そして儚くて。 「彼女は優しい、とても優しい絵を描く女性だった。でも、彼女が求めていたのは光さ。強い光、夜の濃い闇を吹き払う明け方の空、その黎明の色。でもね、優しさ故に迷い、その力強い表現を見付けられずにいたんだ」 手にした絵の具へ、そっと唇を寄せるパステル。 それは恋い焦がれた恋人へ送るようでもあり、また、別れを惜しむ口づけのようでもあり。 「僕は少しばかり、そんな彼女に手を貸すことが出来たのだろう」 私が声も出せずにいると、眉間に刻んだ皺を深くしたパステルが、持っていた絵の具を私に差し出しました。私の手の平でころんと転がった絵の具、それは彼が話した黎明を現す色。じっと、その絵の具を見つめます。 「いけない」 その時でした……。 瞳を閉じて僅かに首を横に振り、不意にパステルの口をついて出た言葉は鋭くて。 「星が動き始めたようだ、やはり交わる事が出来ない時間なのか。これ以上待ってはくれないらしい」 その言葉に不安を覚えて、暗闇が覆う天空を振り仰げば。先ほどまで静かに瞬いていた星々が動き出し、夜空を切り裂くような軌跡が無数に走っています。 まるで急くように、その様相を変えてゆく天蓋。 パステルから手渡された絵の具を、私はしっかりと握りしめます。 「僕は彼女の側にいて、苦しみをほんの少しも引き受けてあげることが出来なかった」 苦しげに声を絞り出し、胸の奥底に溜まった感情を吐露するパステル。 眉間に寄せた皺からは、その苦悩が窺えます。秀麗な顔を歪め、ひたすらに自らを責める青年。彼の声を聞いていた私は胸が締め付けられるようで。パステルの側に寄ると、そっとその腕に手を触れました。 「……瞳子」 私の手に重ねられた彼の手はひやりと冷たくて、癒される事がない孤独を抱えているようで。 「今日まで、君に会えるなんて夢にも思っていなかった。これで罪滅ぼしが出来たなんて思ったりはしない」 「あ、あの。パステル?」 「君は間違いなく望まれた命だ、二人が温めていた想いの結晶だよ。だから、幸せになって欲しい。僕は心からそう願っている」 どうしたのでしょう。声を震わせるパステルの瞳から、涙がとめどなく溢れ出して頬を伝います。その涙を拭うこともせず、彼は優しい笑みを浮かべました。 「瑠璃子に、瑠璃子に感謝しないとね」 「パステルっ!」 だんだんと、彼の笑顔がぼやけていきます。 私は思わず叫びました。「ルリコ」というその名前の響きは、私の心の何処かにずっと引っかかっている名前です。 「僕は心から、彼女を愛していた。愛していたんだ……」 「愛していた? 誰を? 誰をなんですか?」 その名前を。パステルが愛した人の名を。どうしても聞いておかなければならないと、私は精一杯に手を伸ばします、でも。 彼と私を隔てるのは光、明滅する様々な光が私の体にまとわりついて離してはくれません。 「カナエだよ。忘れないでね、瞳子」 「その名前は……」 彼が口にしたのは、私の母の名前です。温もりも優しさも、いいえ、その姿、笑顔さえも私は知りません。 「叶」という名が胸の奥底に浸透した時、私の意識は目映い光の奔流に飲み込まれていたのです。 「朝……」 目が覚めると、頬に当たっているはカーテン越しの陽の光でした。 長い長い夢だったのでしょうか。でも、それにしては現実味を帯びていて。強い印象を持つ、紫色の瞳を持つ彼の姿をはっきりと覚えています。 「パステル、あなたは……」 急いでベッドから降りるとそのまま部屋の扉を開け放ち、階段を駆け降りて店内へと飛び込みました。 早鐘を打つ胸を押さえて、茶館の壁へと視線を向けます。でも。彼の姿を、パステルが描かれた絵を見つけることは出来ませんでした。 私は店内に所在なく佇み、両手を吐く息で暖めます。 夢うつつ。胸にあるのは、温かなお茶会の記憶なのに。壁に飾られた絵達から何も感じる事は出来ず、ただ無機質な静寂だけが店内の空間を支配しています。 私は所在なげに、その場へと立ち竦みます。 でも、胸に残る切なさと温もりは、とても大切なもののように感じられました。 |
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