ミネルバの翼 「19.「別 離」」
「おはよう、リスティ……」
 レイチェルさんの結婚式の翌日。
 ジュエル号の格納デッキに立ってブレイバーを眺めていると、背中から美鈴さんの声が聞こえた。
「おはようって、美鈴さん。今何時だと思ってるんですか?」
「え? お昼前だと思ったんだけど、違ったかしら」
 しれっと答えた美鈴さんは、やや乱れた黒髪を手櫛で撫でつけながら、キャットウォークの手摺へと背を預けた。
 ぷし、片手で器用にドリンクパックの栓を開ける。
「昨日、あんなに飲むからですよ」
 美味しそうにドリンクを飲んでいる美鈴さんに、僕が皮肉たっぷりの口調で言うと、彼女は別段気にした様子もなく、ぷぁっと息をつき、
「頭が痛いわ、ちょっとハメを外し過ぎたみたいね」
 照れくさそうに笑った。
 あれがちょっとですか?凄い飲みっぷりだったって、みんなに聞きましたよ?
 僕は朝から緊張していた、美鈴さんに話さなければならない事があるからだ。
 うまい具合に辺りに人影はない。そうだ、チャンスは今しかない。
 僕は、最大限の勇気を振り絞った。
「あの……美鈴さん」
「なに?」
 美鈴さんは、気楽な調子でう〜んと伸びをしていたが、僕の真剣な顔に気が付いたのか、怪訝そうな顔をした。
「どうしたの? リスティ、怖い顔して」
 そこまで言った美鈴さんは、はっとして顔を強ばらせた。
「や、やだ……あたし、昨日酔っぱらってまた何かした?ほら、○★◇◎とか、☆▼◇とか、あっ! ∞〜な事とかしちゃったりした?」
 またって。そんな癖があるのか、この人は。
 そんなことを話したいんじゃない! 我に返った僕は、ぶるぶるっと首を激しく振った。
「め、美鈴さん、あ、あの、じ、実はっ!」
 緊張して、はっきりと言葉が出てこない。
 焦れば焦るほど舌が絡まり、喉の奥から言葉が出てこない。
「だ、だから何よ! 酔ってないから、ちゃんと聞いてるわよ!」
 ううっ、これはまずい。 
 美鈴さんの機嫌が悪くなってきた。
 僕は大きく息を吐き出し、肺に残った少しの空気を声にした。
「僕をヴィラノーヴァへ、海上都市へ連れていって下さい」
「なんですって!?」
 一瞬、何か肩すかしを喰らったような表情をしていた美鈴さんの黒曜石の瞳が、すうっと細くなった。
 彼女が瞬間的に、氷の刃を抜いたような錯覚を覚える。
「リスティ、本気で言っているの?」
 口紅を引いていない形の良い唇が小さく動き、美鈴さんがそうつぶやいた。
 全てを見透かされそうで、黒曜石の輝きを持つ瞳をまともに見ることが出来ない。
「ヴィラノーヴァがどんな場所なのか、知っているはずよね?」
 僕は、小さく頷く。
「理由は?」
「あの……」
「言えないの?」
 沈黙するしかなかった。そう、言えない。
 歯を噛みしめて、うつむいた、肩が小刻みに震えているのが分かる。
 僕がしようとしていることは、まさに自殺行為なのだ。
「めっ! 美鈴さん。あ、あのっ!」
 ことり。
 美鈴さんは、静かにドリンクのパックを置いた。
「理由も教えてもらえないなんて、危険な依頼内容にしてはあんまりな条件なんじゃないの?」
 僕を射貫く黒曜石の瞳。本当はこの瞬間に、すべてを美鈴さんに話すべきなのだろう。
 しかし、僕にはどうしてもそれが出来ない。
「すいません」
 甘かった。
 僕は消えて無くなりそうなほど身体を小さくして、美鈴さんに深く頭を下げた。
「しょうがないわね」
「え?」
 僕は自分の耳を疑い、まるでバネ仕掛けのおもちゃのように、勢い良く顔を上げた。
 ぷし。美鈴さんは、二本目のドリンクの栓を空けたところだった。
「付き合ってあげるって、言ったのよ」
 そう言って美鈴さんは、いつもそうするように僕の額を人差し指で弾いた。
「出発は、明日の未明。ちょっと頭が痛いから、私はもう一眠りしておくわ。長距離飛行になるから、ブレイバーの整備をお願い。それと携帯食料の調達もね。分かっていると思うけど、見付かっては駄目よ」
 いつかと同じだ。すたすたと歩きながら僕に何も言わせず、勝手に予定を決めた美鈴さんだったが、ふと振り返った。
「リスティ、あなたも徹夜なんかしちゃ駄目よ、それから……」
「はい?」
「高くつくわよ」
 空になったパックを振りながら、美鈴さん。僕の頬は引きつった。

 僕はそれから、一心不乱にブレイバーのチェックを重ねた。今までの戦いとは違う、ほんの少しの油断が死に直結するだろう。場合によっては、数百機のセラ フィムから追われる事になるのだ。逃げる手段だけは、しっかりと確保しておかなければならない。僕はフライト・ユニットの整備を、特に念入りに行った。
 そしてスイフリーさんが厨房の片付けと、翌日の仕込みを終わらせたところで、そろりと厨房に忍び込む。泥棒みたいな真似は心苦しいが、この際仕方がない。薄暗い厨房できょろきょろしていると、何故か大量の携帯食料が調理台へと山のように積まれている。
 ちょうど良い、これだけあれば十分だろう。
 それにしても、消費期限が近いのだろうか? 僕は罪の意識にさいなまれながら、大きな背負い袋に大量の携帯食料を詰め込んだ。

 そして、次の日の未明――。
 ガディさん達に、別れを告げられないのが心残りだったが、ヴィラノーヴァへ行くと言えば、必ず止められるだろう。
 そう思っていたのだが、僕と美鈴さんはブレイバーの格納されている薄暗がりのデッキで二人並んであんぐりと口を開け、揃ってブレイバーを見上げた。
「ち、ちょっとリスティ! なによ、これ!」
「くっ苦しい。それは僕が知りたいですよ!」
 美鈴さんに胸元を捕まれ、僕はじたばたともがく。
 格納デッキに立つブレイバーの容貌が、一変していたのだ。ライフル、肩部ビームバルカン、接近戦用大型ブレードなどの基本装備の他……ミサイルポッド、バズーカ二丁、ライフル固定用グレネードランチャー、ビームガトリング……。
 ブレイバーの火器固定用のアタッチメント全てに武器が固定されており、まさにハリネズミのような武装状態だ。
 そして真紅の機体は、ネイビーブルーの迷彩柄に塗り替えられている。僕が整備を行った時には、こんな事無かったのに。
 その時いきなり格納デッキに照明が煌々と灯り、思わず目が眩んだ。
「がははははははは!」
 空気を震わせるほどの、ぶっとい笑い声。
 ガディさんが、ブレイバーの足下からひょっこりと現れた。そして皆で隠れて待っていたのだろう、デッキにジュエル号のクルー達が勢揃いしたのだ。
「ガディさん……どうして」
 眩しさに手をかざした僕がそう問うと、ガディさんはばつが悪そうに頭を掻いた。
「いやぁ、そんなつもりはなかったんだがな、聞こえちまったんだよ」
「あの……ガディさん、僕は!」
 ガディさんは片手をあげて、僕の言葉を制した。
「いいんだよ、坊主。お前の事は聞かねぇって言っただろ。ヴィラノーヴァへ行こうって言うんだ、これくらいの装備は必要だろうが」
 ガディさんはのっしのっしと歩いてくると、大きな手で僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「ま、お前なんざどうでもいいけどよ。水くさいぜ、お嬢……」
 ジト目で睨む僕をごつい歯をむき出して威嚇した後、ガディさんは美鈴さんにそう言った。
「言ったら間違いなく止めるでしょう? それにね……」
 美鈴さんはくすりと微笑み、ガディさんに捕まっている僕の腕を掴んで自分の方へ引き寄せた。
「このぼんやりくんの側に、ついていないと心配で」
 美鈴さんが返した答えに、ニヤリと笑ったガディさんが肩をすくめ、どよどよどよっとクルー達がざわめく。四方八方から、僕の身体に容赦無く突き刺さるやっかみの視線。
 早く出ていかないと殺される。
「さ、行くわよ。リスティ」
 まるでピクニックにでも出掛けるような、軽い口調の美鈴さん。
「あ、はい!」
 僕と美鈴さんは、機体乗降用のリフトに乗った。
 ヘルメットを被り、美鈴さんがブレイバーのコクピットへ滑り込む。
「今まで有り難うございました。みなさんの事、一生忘れません!」
 大声でそう言った僕は、ガディさんをはじめジュエル号のクルー達に深々と頭を下げた。
 リュウジさん、ベルドさん、モッズさん、パメラおばちゃん、スイフリーさん、テロップ船医……。
 みんなが見送ってくれる。僕は作業服の袖で、ごしごしと顔を強く擦った。
 この荒れた大地、荒んだ世界で出会った、大切な人達。僕は、束の間の安らぎを与えて貰ったのだ。
「馬鹿野郎! 辛気くさい挨拶をするんじゃねぇ。いいか? 必ず帰って来いよ、リスティ!」
 ガディさんが、初めて僕を名前で呼んでくれた。僕は、一人前に認められたようで嬉しかった。もう一度、深々と一礼するとコクピットに潜り込み、改良して少しはましになった美鈴さんの後ろのシートへ座る。
 ハッチが閉まり、操縦桿を引き起こした美鈴さんがキーボード、各種コントロールパネルを操作する。
 ブレイバーが起動した。
 前面モニターへと映し出される、起動チェックの数々。
「リスティ、覚悟は良いわね!」
「はい」
 僕は、少し緊張して答えた。
 ジュエル号のカタパルトデッキに誘導灯が灯り、ブレイバーのフライト・ユニットが力強く呻りを上げていく。
 夜明け前の、冷たい大気の振動。
 この星はまだ、死んではいない。
 カタパルトの両脇で大歓声をあげるクルー達が、モニターに写っている。
 美鈴さんは、彼等にひとつウインクを送った。
 そしてブレイバーはカタパルトに絡みつく朝靄を蹴立て、今だ明け切らぬ宵闇の中へと飛翔した。


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