ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 3.夜風に揺れる想い |
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ブロウニング邸、屋敷の前に広がっているのは美しい庭園。 たくさんの木々は何人もの庭師によりきちんと手入れされていて、花壇では色とりどりの花が目を楽しませてくれる。 他の領主達にはあまり知られている事ではないが、ブロウニング家に雇われて働く使用人達の数はとても多い。 ブレンディアは領内の貧しくて暮らし向きが苦しい家々から、多くの人間を雇い、自分の屋敷で働かせていた。 農業用治水工事や道の整備など、領内や屋敷内で人夫など様々な仕事をさせているのだ。領民達は遠方の土地への出稼ぎなどで、家族がばらばらになってしまう事もなく暮らしている。 静かに降りて来る夜の帳、切なさに溜息を誘われる薄墨色の空……。人々は一日の疲れを癒し、明日を生きるために眠りにつく。 そっと……まるでその足音を忍ばせるように、すべてを覆う優しい闇が浸透していく。 しかし今宵のブロウニング邸には、まだ静かな夜が訪れそうにもない。 「良いご身分だな、フリード」 「……父上」 「この馬鹿息子が!」 屋敷内に響くのは、魂を砕くような恐ろしさを感じる声。部屋の空気を振動させるようなその響きに、壁に飾られた絵画や調度品が揺れるようだ。 父の厳しい口調に、フリードは口を引き結んで押し黙る。 眼前に立つ父の姿は、北方にそびえ立つ険しい山脈のようにフリードを威圧する。足下にひれ伏して、服従してしまえば恐怖から逃れられる、楽になれる。 しかしフリードは唇を噛みしめて、そんな恐怖心とただひたすらに戦う。 「気に入った使用人を屋敷から連れ出すなどと、どういうつもりだ!」 「父上、ニーナは使用人ではないと、認めて下さい!」 喉の奥から押し殺した声を発し、顔を上げたフリードが、ぐっ! と父を睨む。 その強い瞳の光など少しも意に介していないと言わんばかりに、ブレンディアは皮肉げに唇の端を上げた。 「何度も言わせるな。婚約は既に破棄している……白紙に戻したのだ。そもそもあの娘は我が一族が関係を結ぶ家もなく、野良猫も同然。私の深い情けで、この屋敷の使用人として置いてやっているのだ。お前もいい加減に、寝言をほざくのは止めておけ!」 何度繰り返した父との問答なのだろうか。 フリードがどれほどに懇願しても、父は首を縦に振る事は無く、決まって浅はかな愚息めがと罵るのみ。心に深々と突き刺さるあまりに非情な父の言葉に、フリードの全身を激しい怒りが駆け抜けた。 「何度だって言います! ニーナはっ……」 フリードが声を上げた瞬間だった。 固められたブレンディアの大きな拳が、視界の外からフリードの横顔を捉え た。凄まじい衝撃に、目に映る景色が激しくブレて意識が遠くなる。殴り飛ばされたフリードは、背中を大きなテーブルへとしたたかに打ち付け床の上に転がった。 瞬間的に記憶が混乱し自分が居る場所を見失う、それでもフリードは両腕に力を込めて懸命に体を支えた。 毛足の長い豪奢な絨毯を引き裂くように爪を立てる。ぽたぽたと鼻血が床に滴り、口の中に血の味が広がった。 「まるでサカリの付いた畜生だな、恥を知れ!」 父に吐き捨てるような罵倒を浴びせられ、渾身の力を込めて体を起こしたフリードが、怒りにまかせて拳を固め身構えた時だった。 「お館様。そろそろ、お休みになられる時刻でございます」 そう声言った黒服の男が、白い手袋をはめた手でフリードの腕を掴み動きを制した。 執事のカリナだ。フリードよりも十歳ほど年上。黒縁眼鏡の奥、柔らかな光を湛えた碧色の瞳が「いけませんよ」と、フリードに訴えかけている。 カリナは若いながらも優秀な男で、執事としてブロウニング家の使用人を統括し、フリードに学問を教える教師の役割も務めていた。 なによりカリナは、フリードにとって兄のような存在なのだ。 「もう夜更けでございます。湯を用意させますので、フリード様も汗を流してからお休み下さい」 華奢な身体をしているカリナだが、信じられない程の強い力を込められたその手は、拳を固めたフリードの腕をがっちりと掴んで離さない。 「ふむ……カリナ。その馬鹿を部屋に叩き込んで、しっかり鍵を掛けておけよ。それから、あの使用人の娘は納屋で寝かせろ。おっと、こいつが夜這いなどせぬように見張りを頼んだぞ」 「父上、何て……事をっ!」 「フリード様、ご無礼をっ!」 激しくもがくフリードを、カリナは易々と床に倒して組み伏せてしまった。ブレンディアは、床に這い蹲って殺気を漲らせるフリードを軽く一瞥すると、何も言わずに部屋を出ていった。 扉が閉まった後ブレンディアの足音が遠ざかるのを待って、カリナは押さえ込んでいたフリードの体を離した。胸元から真っ白なハンカチを取り出して、体を起こしたフリードに差し出す。 「ご無礼をお許し下さいませ、フリード様」 「……どうして、カリナが謝るんだ」 フリードには、深々と頭を下げて謝罪するカリナを咎める気などまったく無い。怒りを向けているのは父に対してであり、カリナは自身の役目を果たしているだけなのだから。 「ありがとうございます……ですがフリード様、あまり無茶をしないで下さい。お館様にはかなわぬと、ご自分がよくご存知のはずでしょう」 床に座り込み、赤くなった手首をさすったフリードは、カリナからハンカチを受け取って鼻血を拭う。 ニーナを連れて散歩に出かけた事を、父に激しく咎められた。二人で一緒にいるところを誰かに見られたのか、それとも最初から父が後をつけさせていたのか……それは分からないが。 とにかく、父の逆鱗に触れたことは間違いなかった。 「お気持ちはお察しいたしますが、もう少し冷静になって下さい」 「カリナ、僕は……」 「よく分かっております。ですがお立場はどうであれニーナ様はこのお屋敷に、あなたの側にいらっしゃるのですから」 フリードの口元は痛みで痺れていて、うまくしゃべることが出来ない。それをよく分かっているのか、カリナはフリードの答えを待たずに話を続ける。 「ニーナ様を大切になさりたいのなら、お館様を刺激なさらぬ事です。それに、あなた自身も……」 カリナはフリードを諭そうとした、しかし。 「父はどういうつもりで、ニーナを……」 フリードの口から漏れ出た低いつぶやきを聞いて、カリナはそっと嘆息した。フリードを困った顔で見つめた後、表情を改める。 「さあ……。私にもお館様の胸の内は、推し量りかねます」 誰に向けられたのでもないフリードのつぶやきに、さらりと答えたカリナは立ち上がって扉へと向かう。 フリードは悔しさとやるせなさに歯噛みすると、拳を強く床へと何度も叩きつけた。そんなフリードの様子を見ていたカリナは「失礼します。では、後ほど……」と、扉を開けて廊下へと出て行った。 ☆★☆ 締めた扉をじっと見つめていたカリナは溜息をつくと、何かを吹っ切るようにすっと背筋を伸ばし、黒い燕尾服の襟を整えた。 さて、ハンナに湯の用意をさせねばならない。 後はニーナ様を探して……などと考えながら廊下を歩いていると、角を曲がったところでブレンディアに出くわした。 「……お、お館様」 太い腕を組んで、壁に背を預けていたブレンディアが顔を上げてカリナを見 た。強い光を放つ瞳に見据えられて心底驚いたカリナだが、冷静で優秀な執事である彼は、おくびにも出さない。 「まだお休みではなかったのですか。ブランデーでもお持ち致しましょうか?」 「いいや、酒など要らぬ」 酒を断ったブレンディアは少し逡巡していた様子だったが、ゆっくりと壁から大きな体を離した。 「カリナよ、言わぬでも分かるとは思うが。……まさかニーナを、本当に納屋で休ませるつもりではあるまいな?」 カリナは一瞬きょとんとしたが、心の中でくすりと笑った。 「それは心得ております。フリード様のお部屋はきちんと見張りますが」 「それで良い……あの娘は、フランネルの大切な忘れ形見だ」 そっぽを向きながらそう言ったブレンディアは、くるりと踵を返して寝所に向かって歩き出したが、ふと歩みを止めた。 「おお、そうだ。カリナよ、いいか? お前が気を利かせたのだ。私は何も知らんからな」 「はい、承知しております」 カリナは再び歩き出した主の背に向かって、胸に手を当てて深々と一礼する。 やれやれ、面倒な親子だ。 お館様もフリード様にその言葉をお聞かせになれば、あれほど憎まれる事もないだろうに。 いや、しかしそれでは……。 人の心とは、なかなか思うようにいくものではない。カリナはもどかしさを感じて、少し苛ついた。 「それにしても、今夜は忙しい。ニーナ様はどこにいらっしゃるのか」 屋敷の中に、ニーナの姿は無い。 屋敷を出たカリナは、きょろきょろとニーナの姿を探しながら、広い敷地内を歩く。 夜はその静けさを取り戻し、微かな夜風が心地良い。しかし夜が更けても、さやさやと揺れるそれぞれ想いは、眠る事などないようだ。 屋敷中を探し回らなければならないかと思ったが、思いの外簡単にニーナは見つかった。ニーナは納屋の前でぽつんと立って、じっと爪先を見つめている。まさか、本当に納屋で寝るつもりなのだろうか。 薄汚れたその姿からは、とても貴族のお嬢様だった事など想像出来ない。だが毎日慣れぬ仕事をしながら、懸命に生きるニーナは輝いているように感じられる。 その強い心は、フリード様に良い影響を与えてはくれないものだろうか。 カリナはそんな思いを巡らせながら、足早にニーナの元へ向かった。 驚かせないように、遠くから声を掛ける。 「こんな所にいらっしゃったのですか、屋敷中を探しました」 ニーナは微かに体を震わせて、顔を上げた。 カリナがニーナに接する態度は以前と変わらない。もっとも、他の使用人が側に居ない場合に限られるのだが。 「……カリナさん」 脅えたような言葉の端が、夜風の中へと掠れて消える。 憂いの表情は己の不幸を呪っての事ではない、心からフリードの心配をしているからだ。 「夜風に長く身をさらせば、お体に障ります。お風邪を召しますよ? 早く屋敷へお入り下さい」 「カリナさん。フリード、フリードはっ!」 「いつもの事です。ご心配なさらずとも、フリード様は結構頑丈ですからね」 苦笑をひらめかせたカリナは、ひょいと肩を竦めた。 主の事など、どうとも思わぬ不忠な執事がおどけてみせれば、幾分気が楽になるのではないのか。しかし自分の事よりも、フリードを心配しているニーナの表情が晴れる事はない。 ニーナはフリードと共に時を過ごし、不安ながらも嬉しかったのだろう。 自分を愛し慈しんでくれた家族を失い、寂しさと切なさに苛まれる日々を送っているニーナにとって、フリードの存在は唯一温かな絆であり心の拠り所なのだから。 しかし自分の立場を考えれば、とてもフリードと共にいる事など許されぬ。その想いは、どれだけ彼女の胸を締め付けているのだろう。 「さ、ニーナ様」 「カリナさん、私は!」 「しっ……私は承知しておりますから」 後に続くはずのニーナの言葉を、ぴん! と、立てた人差し指を口に当てて制し、カリナが優しい微笑みを浮かべた。 「貴女は聡いお方です。でも、フリード様へのお気持ちが押さえられませんでしたか」 瞬く間に頬を染めたニーナが、きゅっと唇を噛んで俯いた。 カリナは、決してからかっているのではない。ニーナが胸に抱いている、その真剣な気持ちを強く感じている。 そして自分はただの使用人だからと、傍観者を決め込む事など決して出来ない。それほどに、カリナはフリードとニーナの事を案じている。 出来る事ならば二人に幸せになって欲しいものだが、今はまだその時期ではないようだ。 それならば、待つしかあるまい。 そしてなにより、フリード様にはもう少し大人になって頂かないと。宵闇の中、胸に抱く愛情に身を焦がしながら、ひたすらに想い人の身を案じる心優しいレディが不憫ではないか。 カリナは、心からそう思う。 フリードとニーナ、二人をどんな危機からも守りたい。それはこの屋敷に仕える執事だからというのではなく、弟と妹を心配する兄の心境だ。 「さ、参りましょう。ニーナ様」 貴女が胸に抱いたその想いを、大切になさいませ。 黒髪を柔らかな夜風が撫でていく、乱れた髪を白い手袋をはめた手で優雅に掻きあげ、カリナは優しく微笑んだ。 |
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