ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


8.カーネリアの森

 目次
 広大な畑での農作業は、幾日も掛かる大仕事だ。
 子供達も年頃になると、農作業の手伝いをするようになる。若い力は労働力として頼りにされている、またそうやって仕事を覚え一人前になっていく。
 それに比べ、フリードは所詮何も知らない素人だ。
「……坊ちゃん。危なくて見ていられねぇでさ」
「わははは、なかなかのへっぴり腰ですねぇ」
 農具を扱うフリードの姿を見て、皆が声を上げて笑う。要領が悪いのか、どうにも格好がつかない。
 何とか一人で出来る作業は、草刈りや肥料運びなど。猫の手よりはマシかもしれないが、フリードにはその程度の仕事が精一杯なのだ。
 しかし、そんな役立たずのフリードにも、重要な役割があった。
「ねぇねぇ、ぼっちゃん〜」
「だっこぉ!」
「……あふ」
 甘える子、駄々をこねる子、あくびをして眠そうに目を擦る子。幼い子供達が、わらわらとフリードにまとわりついて離れない。
 家族総出の農作業、両親とも仕事をしなければならないが、子供から目を離す訳にもいかない。トラクターに取り付けられた土を耕す大きな鋼製の爪など、農作業用の機械や器具は、子供達にとってとても危険だ。
 そこで、子供達が誤って事故に遭ったりしないように、フリードが子守りをしているのだ。
 畑の傍らへ腰を下ろしているフリードは、子供達にされるがままで全く体を動かすことが出来ない。
 ケイトが小さな両手で握った右の手を引き、負けじとマークスが左の手を引っ張る。膝を枕にしたアンナは気持ち良さそうに眠っていて、一番年上のフローラ は背中にすがって絵本を読んでいる。一番年下のムウは肩を足場にして体をよじ登り、頭にひしっとしがみついている。フリードの色素が薄く繊細な髪 などはもう、くしゃくしゃだ。
 物怖じしない子供達、懐かれて悪い気はしないのだが……。
 『坊ちゃん』
 親達がフリードをそう呼ぶのを聞いていて、子供達もそれに習ってフリードを『坊ちゃん』と呼ぶ。
 正直なところ『坊ちゃん』は、やめて欲しいとフリードは思うのだが。
 ――領主の頼りない息子と、領民。
 そんな距離や、溝を感じてしまい寂しいのだ。
 子供達をあやしながらぼんやりしていると、頭にしがみついていたムウがバランスを崩した。同時に絵本を読み終え、背中にすがっていたフローラが立ち上がる。
 ムウが地面へ落ちないように慌てて抱きかかえたフリードは、ばったりと後ろへ倒れた。受け身を取る事もままならず、後頭部と背中を強く地面に打ち付けて顔をしかめる。
 しかし、フリードはそのまま身じろぎもせず、じっと青い空を見上げた。風に乗って流れてゆく雲へ届けとばかりに、真っ直ぐ腕を伸ばす。
(青い空……か)
 いっぱいに広げた手、雲を掴むようにぎゅっと強く握りしめた。
 空を見上げるのではなく、自由に飛びたい。その気持ちを、フリードはずっと持ち続けている。
 しかし、今はそんな事を言っていられない。胸を張って翼を広げられるようにならねば、空は決してフリードを受け入れてはくれないだろう。 
 そんな事を考えていると、不意に視界に映っていた空を遮るように影が差し、くりくりとした大きな瞳がフリードの顔を覗き込んでいる。
「フローラ?」
 フリードに見つめ返されたフローラが、照れたように「えへへ」と笑う。
 二人で転げ回っているケイトとマークスの所へ行きたいのだろう、じたばたともがくムウを草の上へ下ろし、フリードは起き上がった。
「どうしたんだい?」
「うん、あのね……ぼっちゃん」
「うん?」
 せめて「お兄ちゃん」と、呼んではくれないものだろうか。
 フリードは全身にのし掛かる脱力感に肩を落としたが、頑張ってフローラへにっこりと笑顔を見せた。フリードの目の前でスカートの裾を握って、もじもじとしていたフローラは、きゅっと唇を噛んで勢い良く顔を上げた。
「お願いっ、森にある聖域のお話を聞かせて!」
「森の聖域……。カーネリアの森のことかい?」
「うん!」
 フローラが、こくりと頷いた。

 ――カーネリアの森。

 樹齢の高い木々が鬱蒼と茂る広大な森が、カーネリアの領内に存在する。
 太古から脈々と、静かな営みを続けているであろう奥深い森。その存在はとても神秘的で、人々は森を畏れる気持ちを忘れず大切に接してきた。
 そして森の何処かには、聖域と呼ばれる場所があると伝えられている。
 『聖域に近づけば、森を護る巫女姫に魔法を掛けられ、水晶柱の中へ閉じこめられてしまう』
 カーネリアに住む者達は、幼い頃からそう伝え聞かされて育つ。それはカーネリアの民に古くから言い伝えられてきた、古い森を守るための戒めだ。
 領主以外は、立ち入る事を許されぬカーネリアの森。
 聖域には美しい花々が咲き誇っていると、お伽話のように伝えられている。
 花が大好きで、大きくなったら花屋さんになりたいと、嬉しそうに話してくれたフローラ。聖域で静かに息づくたくさんの花、美しいその光景を想い描きたいのだろう。
 フリードは思案深げな顔で唸ったが、フローラのきらきらと輝く瞳で見つめられると、まさか駄目とは言えない。
「ぼっちゃん……駄目ぇ?」
「いいよ、聞かせてあげる」
 上目遣いだったフローラが、ぱっと笑顔になる。スカートをふわりとさせて、ぺたんと草むらに座った。それを見ていた他の子供達も、フリードの前に行儀良く並んで座る。
「はじめに言っておくよ、カーネリアの森へは絶対に近づいちゃいけないんだ。森には血のように真っ赤な瞳をした、姫巫女様が住んでいるんだ!」
 自分の目を指さして、くわっ! と、開いて見せる。その顔が可笑しいのか子供達が一斉に吹き出した。
 ……これでは逆効果だ。子供達を笑わせるのが目的ではない、フリードはこほんと咳払いをして続ける。
「いいかい? 姫巫女様はとっても怖くて、怒ったら尖った角に牙がにょっきり生える。言いつけを守らない子が森の奥深くに入ってくると、どこからともなく姫巫女様が現れて、さっと剣を振るうんだ!」
 フリードは剣を振る仕草を真似て、ぶんっと腕を振る。
「姫巫女様に魔法をかけられると、ぴかぴかの水晶の柱に閉じこめられてしまう……もう、お家に帰れなくなってしまうんだ!」
 怖がらせるつもりはないが、子供達にはこのくらい大げさに言っておかなければならない。フリードの大きく歪めた顔と、芝居っけたっぷりの語り口に、ケイトとマークスが揃って身震いした。
「でも、カーネリアの森にはね……」
 そこからは、フリードも乳母からよく聞いたお伽話。思い出を頼りに、ゆっくりと話し出す。
 フローラは頬を上気させ、真剣な表情でフリードの話をじっと聞いていた。

 ☆★☆

 それから、数日が過ぎ――。
 フリードは留守にしている父の代わりに、領主達が集まる恒例の茶話会へ顔を出した。父とは未だ多く言葉を交わす事は無いものの、気持ちが落ち着いたフリードは父へ向けた嫌忌がやや薄れていた。
 作り笑いを続けた顔が、ひりひりとしている。
 多くの貴族達に混じり、腹の探り合いに自慢話……。とりとめのない談笑に興じた茶話会を何とかやり過ごし、午後から畑に向かったフリードは、畑の真ん中で一カ所に固まっている大勢の人々に気付いた。
 皆一様に、表情を曇らせている。
「皆さん、何かあったんですか?」
「ああ、坊ちゃん。大変なんです! 子供達が居なくなっちまった……」
「子供達が?」
 フリードに答えたフローラの父親が、不安を隠せぬ様子で頭を抱えた。
 姿が見えないのはフローラ、ケイト、マークス、アンナ、ムウ。フリードが面倒を見ている子供達だ。
「心当たりは、探したんですか?」
「ええ……隠れんぼなら、いつも納屋の辺りで遊んでいますし、家の中にも姿が無いんです」
「まさか、神隠しじないかって!」
 ケイトの母親が、悲鳴のような声を上げた。
「おいおい、お前……」そんなはずが無いと、しかし父親の言葉が続かない。
「……司祭様を、呼ばなきゃならないか」
 まさか魔物や悪魔の仕業だろうかと、皆の心を暗黒が支配し始める。
 子供達の行方に、誰一人として心当たりがない……。
「いけない……。森だ、カーネリアの森へ行ったんだ!」
 子供達の行方に、思い当たったフリードが叫んだ。
 おそらく間違いはない。
 数日前、フリ−ドは子供達にカーネリアの森、聖域に存在する花園の話をしたばかりだ。
「日が暮れるとまずい、すぐに森へ向かいましょう。松明でもなんでもいい、出来るだけ多く明かりの準備を。それから誰か僕の屋敷へ走って、当家のカリナという執事に事情を説明して下さい!」
「カリナさんなら知ってる、俺が行くよ!」
 若い農夫が、すぐさま自分のトラックへと走り出した。
「お願いします、皆さんは早く森へ!」叫んだフリードも、急いでトラックへと乗り込んだ。

 ☆★☆

 ブロウニング邸の前で派手に急ブレーキを掛け、土煙を巻き上げてトラックが停車した。
 大きな音を聞きつけて、何事かと黒髪の執事が顔を出す。トラックから降りた若い農夫は切羽詰まった顔で、カリナの両腕をがしっと掴んで揺さぶった。
「こっ、子供達の姿が見えないんです! カーネリアの森へ行ったのかもしれない、坊ちゃんがカリナさんに知らせてくれって、そうおっしゃって!」
「子供達が、森に!?」
 農夫がそう言った瞬間、いつもは冷静なカリナの表情が険しくなった。 
「トム、カナック! 急いでライフルと、ありったけの弾丸を用意して下さい。ハンナは薬と包帯を! ミレーヌっ! パリィ先生に連絡を入れて下さい!」
 屋敷へとって返したカリナは、矢継ぎ早に大声で指示を飛ばす。
 とたんに屋敷中が大騒ぎになった。
「お館様は、今日はお帰りになりませんし……こんな時に」
 カリナは爪を噛んだ。
 しかし、このまま手をこまねいてはいられない。主からの咎は、後で自分がすべて受ければいい。日が落ちれば、野生動物が活発に活動する時間帯になり、森はいっそう危険になってしまうのだ。
「フリード様は?」
「先に森へ向かうとおっしゃって!」
「分かりました。急ぎます、トムはパリィ先生を迎えに行って下さい。カナックはミレーヌと準備を整えてから来て下さい!」
 トムから弾丸のケースを受け取ったカリナが、ライフルを肩に掛けた。
「カリナさんっ!」
 事情を聞いて、青い顔をしたニーナが階段の手摺りに掴まり、小刻みに震える体を気丈に支えている。
「お任せ下さい。どうか、ご心配なさいませぬよう」
 不安そうに揺れている青い瞳。
 強い口調でそう言ったカリナは、ニーナを安心させるように微笑むと、急いで屋敷を飛び出した。

 ☆★☆

 子供達に森の話をしたのは、迂闊だったのかもしれない。
 がたがたと揺れるトラック。車を走らせながら、フリードは厳しい表情でハンドルを握りしめる。カーネリアの森の入り口は集落からほど近く、子供達も森を身近に感じているのだろう。
 フリードが森のお伽話など聞かせたために、子供達の好奇心を刺激してしまったのだ。
 子供はどんなに恐れさせられていても、強い好奇心を押さえ切れない事がある。好奇心は探求心に変わり、衝動的な行動になってしまうのだ。
「僕の責任だ……」ハンドルに拳を叩き付け、フリードは血が滲むほどに唇を噛んだ。
 日暮れ間近、森の入り口に到着する。
 大人達が途中で集落へ立ち寄り、たくさんの松明を持って集まった。明かりの準備を急ぐ子供達の親は、皆一様に焦りの色を濃くしている。母親の幾人かが泣き崩れ、夫に励まされていた。
 すぐにでも探しに向かいたいのだろうが、恐ろしい姫巫女が住まう森の言い伝えは、大人達にとって重い枷になっている。子供達の安否を思えば、胸が張り裂けそうなのだろう。その気持ちを感じるフリードも、カリナの到着を今かと待ちわびる。
 しばらくすると、屋敷の大きなトラックが到着した。
 カリナが車から飛び降りると、大人達の視線が集中する。
「フリード様、遅くなりました!」
 さっと黒い上着を脱いだカリナが、ライフルの弾倉に弾を込めながら言った。
「待ってくれ、カリナ!」
 フリードは真剣な表情で、ライフルの動作を確認するカリナへ声を掛ける。
「フリード様、どうなさいました? もうそろそろ日が暮れます、皆さんと待っていて下さい」
「森には、僕が行く……」
「何をおっしゃるのですか、フリ−ド様!」
「カリナは、皆を励ましていてくれ」
 フリードは上着を脱ぎながら、森へ目を向ける。
「日が沈めば、野生の獣も出没するんですよ? 危険です、私は絶対に認めません!」
「それは分かっている。でも、僕が行かなくちゃならない。父の代わりに皆を護るのは僕の役目だ。森の奥に立ち入るのは、ブロウニングの人間でなければならないんだ」
「……フリード様」
 黒い瞳を見開いたカリナが、息を飲んでフリードを見つめた。
 フリードは、肩に吊っていたホルスターを外してカリナに差し出す。
「これを預かってくれ、森へは武器を持って入れない」
 そうだ、森には領主しか足を踏み入れられない。領主の血を引く自分ならばとフリードは考えた。
 武器を持ったカリナが森に入れば、彼をも危険にさらす事になってしまう。カリナにはこの場に留まり、親達の力になって欲しかったのだ。
「僕が父の……領主の代わりとして、今から聖域へ向かいます! 必ず子供達を連れて帰りますから!」
 カリナから離れ親達へと向かい合ったフリードは、叫ぶようにそう言って深々と頭を垂れた。
 そんなフリードの姿に、その場が静まり返る。
(頼りないでしょうけど……僕を信じて下さい)
 お願いしますと、フリードは心の中でそう呟く。
「坊ちゃん! どうぞ頭を上げて下さい。待ちます、坊ちゃんを信じて待ちますから!」
「子供達をお願いします!」
「坊ちゃん! どうか、どうかっ!」
 祈るように、すがるように懇願する親達に、フリードは力強く頷いた。
「……フリード様、ランプです。くれぐれもお気を付け下さい!」
「分かった」
「銃は確かにお預かりしました、あなたに返さねばなりません。ですから、必ずお戻り下さい!」
 ランプを受け取り、真剣な表情のカリナと視線を交わす。
 深い闇を睨み据えたフリードはランプをかざし、森へと足を踏み入れた。

 ……姫巫女が護る、カーネリアの森へと。
 
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