ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 7.大地を踏みしめて |
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翌朝、まだ陽が昇らぬうちにフリードは起き出した。 頭がすっきりとしていて、気持ちが高揚している。それは昨夜、ニーナの歌声に励ましを得たせいなのだろうか。 ベッドから出たフリードはすぐに動き易い服に着替え、少し体をほぐすように動かした後、クローゼットの奥の扉を開ける。微かな緊張に身を震わせて銀色の銃に手を伸ばし、しっかりとその手に掴む。手のひらに感じる重みが、以前よりも増しているような気がした。 身支度を整えて屋敷の扉を押し開くと、体に感じるのは清々しい朝の空気。闇によって作り出されていた儚い幻影は、跡形も無く消え去った。 幻を打ち消した朝日は登り始めたばかり、地平から現れる巨大な火球は、ゆらゆらと揺らめく陽炎を伴い激しく燃えている、その熱を全身に感じた。耳に響く大気の鼓動、呼吸をする度に冷やされた空気が肺を刺す。 しばらく朝露に輝く庭園を見ていたフリードは、体を反らせて一度屋敷を振り仰いだ。 足早に、真っ直ぐ向かった納屋の前に立つ。一度躊躇したものの、フリードはぐっと腹に力を入れて納屋へと足を踏み入れた。 「おはよう、カナック」 「うぇ?」 まだ随分と早い時間だ、誰かに声を掛けられるなど予想外だったのだろう、カナックはぼんやりとした顔で振り返った。 「こぉら、カナックっ! 坊ちゃんが挨拶なさってるんだ、何をぼんやりしていやがるっ!」 納屋の奥から顔を出したトムが慌てて飛んでくると、いきなりカナックの後ろ頭をはたいた。若い頃から長く屋敷で働いているトムは老齢で、みんなから「トム爺さん」と慕われている。 老齢といっても背筋はぴんと伸びている、まだまだ衰えはみられず元気一杯だ。 「坊ちゃん、おはようございます!」 「トム爺さんも、おはよう。良い天気だね」 「あわわわ! ぼ、坊ちゃんじゃないですか! どうしたんです、こんなに朝早くから」 寝ぼけていた頭が一気に醒めたらしい、フリードの姿に驚いたカナックが大慌てで姿勢を正した。 トムとカナックは、屋敷内や領地内の力仕事を任されている。フリードは幼い頃、まだ若かったトムに木を削って作った、ウインドシップのおもちゃを貰って大喜びしたものだ。 「トラックを借りたいと思ったんだ。カナック、今日は使うのかい?」 「いいえ、使いやしませんが……。坊ちゃん、こんなオンボロトラックを、いったい何にお使いになるんです?」 トムとカナックは一度顔を見合わせると、二人揃って不思議そうな顔をした。 「……散歩だよ、散歩」 気恥ずかしげにそう言ったフリードは、納屋の隅に固めてある木切れや、太い針金と工具箱を小型トラックの荷台に乗せた。 「じゃあ、ちょっと借りるよ」 トラックに乗り込んだフリードはエンジンを掛け、窓から顔を出して二人に手を振り、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。 朝日を浴びて走ってゆくトラックを、トムとカナックが呆然と見送っていると、 「トラックが出掛けたのが見えたのですが……おや、二人ともいるんですか?」 「ああ、カリナ」 トムは納屋へと姿を見せた黒髪の執事へ、狐に摘まれたような顔を見せた。 「坊ちゃんがトラックを貸してくれってさ、今出掛けちまったんだ」 頭を掻きながら首をかしげているカナック。 「カリナ、お前さんは何か知らないか?」 トムに問われて、顎に手を当てて思案していたカリナは、ふと顔を上げた。納屋の中を見回す、工具箱が見当たらないことに気付いて、ぽん! と手を打つ。 「なるほど。ええ、確かにフリード様は散歩に出掛けられたのですよ、領内を散歩です」 「はぁ〜。こんな朝早くから散歩ねぇ……しかもトラックで」 トムもカナックも、腑に落ちない顔で首を傾げている。そんな二人の様子を見て、カリナはくすりと笑みを漏らした。 (どうやら吹っ切れたようですが、驚きましたね。ニーナ様の歌声は、魔法でも込められているのでしょうか? でも先は長いですよ、フリード様。皆から『坊ちゃん』と呼ばれているうちは、まだまだです……) 黒縁眼鏡を掛け直したカリナは、うんうんと何度も頷く。 (そうです! お帰りになるにはまだ時間が掛かるでしょうから、朝食の準備を遅らせるように、ハンナとミレーヌに言っておかないといけませんね) いつもは冷静なカリナだが、嬉しくて頬が緩んでしまう。 納屋を後にすると、弾む足取りで屋敷へと急いだ。 ☆★☆ クラッチを繋ぐタイミングが掴みづらい、ガタガタと振動する乗り心地が悪いトラックで、領内の畑道をゆっくりと走る。体を突き上げる強い振動に、胃がおかしくなりそうだ。そんな不快感を何とか誤魔化しながら、フリードはハンドルを握る。 広大な平原の一本道に、フリードはトラックを止めた。 そこは領地の境界、木製の柵が延々と大地を二分している。柵の向こうは、ゴレット卿の領地だ。王家から任された領地には、それぞれの領主に管理責任がある。 また柵は家畜を狙って出没する、肉食で危険な野獣の侵入を防ぐという大切な目的も担っている。 トラックを降りたフリードは、柵を手で確かめながら歩く。柵は頑丈に作られているがやはり木材だ。腐食防止はされているが経年劣化は避けられない、定期的に見回る必要があるのだ。 今は主にトムが見回りをしているようだが、老齢でもあるのでそろそろ辛いのではないだろうか。 トラックで移動しながら、数時間を掛けて領内を見回ったが特に傷んだ箇所は見られず、夜間に恐ろしい野獣がうろついた痕跡も見られない。 フリードは休む事なく、次は領内を流れる川を見て歩く。 農業用にきちんと整備されている箇所、そうでない箇所を確かめて詳細を紙に書き付けていく。 子供が川や溜め池に落ちたりせぬように柵や金網が設置されているが、風雨にさらされればやはり傷んでしまう。破れた金網を見つけたフリードは、トラックに積んでいた工具を取り出して補修して回った。 眩しい日の光に手をかざし、目を細めて景色を見渡す。 考えていたすべての予定を終えるまで、かなりの時間が掛かった。慣れぬ作業をこなし、体が重いと感じるほどに疲れたが、領内の様子に心配は無いようだ。 こうして、フリードは領地内の見回りを始めた。 幼い頃、父に連れられて領地を歩いた記憶を辿る。父の作業を間近で見ていたフリードは、きちんと為すべき事を覚えていた。 守らねばならぬものを、たとえそれがどんなに重圧であろうと……爵位を与えられたブロウニング家の人間として、背負っていかねばならないのだ。 しばらくそうして朝早く見回りを続けていると、出掛けるフリードをニーナが見送ってくれるようになった。 「行ってらっしゃい」 そう言って小さく手を振るニーナを見て「坊ちゃん! 恋人のお見送りだぁ、幸せ者だねぇ」とカナックが冷やかす。 ほんの少しだけ寂しそうなニーナ。その微かな表情の変化は、フリードにしか気付く事は出来ないだろう。そしてその理由を、フリードは痛いほどよく分かっている。 「じゃあ、行ってくるよ!」 大袈裟なくらい明るくニーナに答え、フリードはトラックへと乗り込むのだ。 夜のうちに、かなり激しい雨が降った翌朝。川が増水でもしていたら大事だと、フリードは真っ先に川へと向かった。 時間を掛けて丁寧に見回ったのだが、増水した水も心配ないほどの水量だ。カーネリアは治水工事がしっかりと行われている、このあたりは父の手腕に因る処が大きいのだろう。 雨が大地を潤し、農繁期が始まると領民の多くが畑に出て、農作業を始めるようになる。 川の様子を見回り終えたフリードが屋敷への帰り道にふと気付くと、昨夜の大雨で出来轍にトラクターが車輪をとられて、畑の中で立ち往生しているのが見えた。 「これは、いけないな」 見かねたフリードは、躊躇いもせずにトラックを降りた。 畑の中で大きなトラクターの車体が、斜めになっている。その傍らで座り込んでいる父親を息子が腰に手を当てて、困った顔で見下ろしていた。 「大丈夫ですか?」 近づいたフリードの姿に、立っている息子が驚いたようだ。 「こ、こりゃあ、坊ちゃん! どうしたんです? ほら、親父、領主様の坊ちゃんだよ!」 肩で息をしながら顔を上げた父親は、立ち上がろうとしたが、足もとがおぼつかずふらついて尻餅をついてしまう。 無理矢理に笑顔を作る父親に、フリードは「構いませんよ、座っていて下さい」と言って微笑んだ。 「ちょっと油断したら、こいつが泥濘にハマっちまいましてね……いやいや歳には勝てませんな。押してやりたくても、もう力が出んのです」 二人で相当に難儀をしたのだろう、フリードはさっと辺りを見回す。トラックで牽引しようかとも考えたが、それは不可能だ。畑のど真ん中、トラクターの位置が悪い。 「僕も手伝いますよ、二人で押せば動くかもしれない」 「えええっ! そんな、勿体ねぇ! 何より坊ちゃんのお召し物が、汚れちまいます」 「そんな事は気にしないで、ちょっと待っていて下さい!」 慌ててぶるぶると首を振る息子へそう言うと、フリードはトラックから板切れと、痛んだ布を持ってきた。トラクターの駆動輪の下に、板切れと布をかませる。 「おじさん、運転をお願いします」 「ぼ、坊ちゃん! 本当に勿体無い事で……」 父親は懸命に立ち上がると、息子の手を借りて運転席へ乗り込んだ。 トラクターのエンジンが始動し、車体が震える。 「いいですか!?」 「はい、坊ちゃん!」 「せぇーのぉ!」 フリードは肩をトラクターの後部に押し当て、力任せに押した。その瞬間に駆動輪に動力が伝わり、大きなタイヤが泥濘を掻く。泥跳ねが盛大に飛び散り、フリードの顔といわず体といわず、もう泥だらけだ。 トラクターは動きそうなのだが、今少しの力が足りない。それでもフリードは歯を食いしばり、勢いを付けてトラクターを押し続けた。 「ぼ、坊ちゃん、少し休みましょう」 「そ、そうですね」 どれくらいの時間を頑張ったのだろう? 息子の方が先にへばったらしい。顔の泥を拭いながら、情けない声を出した。 (二人では無理か……別のトラクターで引っ張れば良いんだけど) 肩で息をするフリードは、腰を伸ばし辺りを見回す。 その時だった。 「おおい! ハマっちまったのか、バーグよ!」 「夕べはよく降ったからなぁ」 「親父さん、俺達も手伝うぜ!」 気が付けば、たくさんの農夫たちトラクターの周りに集まっていた。 「おお、皆助かるぜ! 何てったって、坊ちゃんまで手伝って下さってるんだからな!」 「えええええ! ぼ、坊ちゃんだって?」 泥まみれのフリードをしげしげと見て、皆が一様に声を揃えて驚いた。 その時初めて、集まった農夫達はフリードに気付いたらしい。 無理もない、フリードの姿はまるで泥人形だ。 「じゃあ始めましょう! 皆さん、よろしくお願いします!」 農夫達を急かす、フリードの大きな掛け声。 大勢の人達が力を合わせると、大きな頼もしい力が生まれる。あっと言う間に、トラクターは泥濘を脱した。それだけのことだが、皆で歓声を上げて喜ぶ。ほっとしたフリードが肩をさすっていると、バーグの父親が手拭いを差し出した。 「本当にすまねぇ事です。坊ちゃんを、そんななりにしてしまって。儂等親子は、領主様に追放されちまう」 そう言って鼻をすする父親に、皆が意気消沈したように口を閉ざす。 「そんな事は絶対にありません。見て見ぬ振りで通り過ぎたら、それこそ父上にぶん殴られます!」 手拭いを受け取り、泥だらけの顔を拭きながら大真面目なフリードが言った。 「……だってよ親父さん。良かったなぁ、坊ちゃんも領主様に折檻されなくてすむんだぜ?」 戸惑っていた農夫達はきょとんとした後、大声を上げて笑い始め、フリードも一緒になって笑う。 その明るい笑い声は、広大な大地に響き渡った。 己の二の足で、しっかりと母なる大地を踏みしめる。フリードは次の日から、農作業の手伝いをするようにもなった。 草の、土の、陽の光の、そして風の匂いを感じる。真っ直ぐに畑の中に立つ、フリードの頭上に広がる空は、どこまでも青く澄み渡っていた。 |
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