ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 6.月明かりの歌姫 |
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瞼を閉じても、一向に眠りの海へと漕ぎ出せない。 今夜は水先案内役の睡魔が仕事を放棄しているに違いない、フリードは苛立たしげに天井を睨みつける。 もう、何度寝返りをうったことだろう。 子供の頃から羊を数えると余計に目が冴えてしまう、今夜は冴えた頭の中ではぐるぐると、羊の代わりに叔父の言葉が駆け巡っている。柵を大きく開いて綺麗さっぱり追い出そうとしても、後悔や羞恥という首輪に繋がれた言葉の羊は逃げ出してくれない。 とうとう体が火照り出してしまい、フリードは堪らずベッドの上へと身を起こし た。 目を擦って部屋の大きな窓へ顔を向ける、カーテン越しに届くのは柔らかな月の光だ。ベッドから降りて、ゆっくりと窓辺へと歩み寄りカーテンを握る。少しの躊躇した後、勢いよく引き開けた。 その瞬間に部屋を満たす、清らかな明かり。 何人の夜も乱したくはない、フリードは音を立てないようにそっと窓を押し開いた。テラスへと出ると、思わずため息が漏れ出る。 頭上に広がる美しい夜空。 天空で輝く大きな蒼い月、そして何かを伝えようと瞬く星々。 宵闇を支配するのは、耳が痺れるほどの静寂だ。ガラス越しではなく直接浴びる月の光に強い力を感じて、少し心臓の鼓動が早くなった。 フリードは誘われるようにテラスの手摺りに乗ると、背伸びをしてひさしの端を掴む。両腕に力を込めると固く盛り上がる上体の筋肉。二、三度揺さぶった体を引き上げて、ひさしを足掛かりに屋根へ登った。 眠れない夜に、こうして屋根の上で夜空を見上げている事など誰も知らないだろう。フリードの小さな秘密だ。 素足に感じる、ひやりと冷たい屋根の感触。幾つもの天窓を避け、滑らないよう慎重に歩みを進める。 屋根の端まで歩くと、そろりと階下を見やった。黒髪の執事でも下を通れば脅かしてやろうかと、子供じみた悪戯を考えた。しかしこんな夜更けでは、あいにく彼の姿は見えない。 いつも冷静なカリナの事だ、脅かしたところで眉ひとつ動かす事はないだろう。 それどころか「今からそちらに参ります、決して動かないで下さい。長い小言を申しますが、お覚悟をなさいませ」と、凍り付くような声を出すのは間違いない。 そんなカリナを想像して身震いしてしまう。屋根に座り込んだフリードは、顔を上げて真っ直ぐに夜空を見上げる。体にまとわりつく夜気は、暖かなベッドで弛緩した意識を覚醒させ、幻想的な景色は心を洗い深い思索に誘う。 その景色は夜が見せる幻影でしかなく、日が昇れば儚い幻影は常闇へと去り行き、また現実の世界が目を覚ますのだが。 静寂に包まれて、気持ちが澄んだのだろう……。 フリードは素直に己の甘さを受け入れ、自分自信を見つめた。叔父の言葉に間違いはない、突き付けられた己の未熟さ故の醜態に歯噛みする。 父の大きな背中を見て育ったというのに。 幼い頃、心に芽生えたニーナへの淡い想い。 少しずつ大きくなり、次第に心を占めるようになったその想い……それは大切に育んで来た、揺るぎのない大切なものだ。 フリードは決して、不幸な境遇に身を置く事になったニーナを、憐れんでいるのではない。これまでずっと変わらなかった、ニーナとの絆が失われてしまう事を恐れたのだ。 「……ニーナ」 そっと、名前をつぶやく。 その時、不意に風が呼び掛けるように髪を撫でた。取りとめのない考えに弄ばれるフリードの耳に届いた、宵闇に紛れる微かな声。 「これは?」 じっと耳を澄ます。 誘われるように、屋根伝いに歩いて声を辿る。それは夜風に乗って届く、軽やかに響く美しい旋律だ。 ブロウニング家の屋敷、母屋を挟んで建っている東棟と西棟には、客人を泊めるための部屋が設けられている。その東棟の二階、客室の小さな出窓が開いてい る。闇を退ける月の明かりに照らされ、頬杖をついている姿を見て、フリードは胸が高鳴った。足音を忍ばせて、そろそろと近づく。 「お嬢さん、とても綺麗な歌声ですね」 歌声に誘われた通りすがりの紳士を気どり、屋根の上からそっと声を掛けると、不思議そうに声を追っていたニーナがふと上を見上げ、フリードの姿に気付いた。 「フ、フリードっ! 何をしているの、危ないわ!」 まるで夢から覚めたように、はっとしたニーナが悲鳴のような声を上げる。 「大丈夫だよ、慣れているから心配ない」 「慣れているって? 屋根なんかに登って、もしも落ちたりしたら」 「声が大きい、皆が起きてしまう。そんなに心配しなくてもいい、たとえ落ちたって下までさ」 慌てているニーナを落ち着かせようと、フリードは冗談を言ってみたが、ニーナはまったく笑えないようだ。 「フリードっ! お願いだから早くそこから降りて!」 「せっかく静かな夜に、大声を出すのは無粋だよ」 微笑んだフリードは片目を瞑り、人差し指を立てて唇へと当てた。母屋と東棟とは別棟なので、それ以上ニーナに近づけない。仕方なく屋根の上に腰を下ろす。 よほど驚いているのか、月明かりの中でもニーナの表情がこわばっているのがよく分かる。フリードはもう一度「大丈夫だから」と言って、空を見上げた。 「ほら、星が降ってきそうだ」 「……もう、フリードったら」 高い屋根の上で平然としているフリードの様子に、それでも少し安堵したのかニーナは胸元できつく握っていた小さな両手を開いた。 煌めきを映す青い瞳が、遠い遠い夜空の星の瞬きを追う。 「とても綺麗」 二人で息を止めて、神秘的な光景に震える気持ちを重ねる。 寄り添っていないから余計に気恥ずかしい。ニーナの温もりがすぐ側にあれば、そんな事など少しも気にならないのに。ぎこちない会話などを交わしたのはもう随分と前……お互いを意識し始めた頃ではなかっただろうか。 それに気付き、フリードとニーナは顔を見合わせて小さく笑った。 「綺麗な声が聞こえてきたんだ……。誘われるように声を追ったら、ニーナに会えた」 「夜風に乗せて、闇を統べる王に歌を届けていたの。静かな夜をありがとうございますって」 「ニーナの歌声を捧げて貰えるなんて、その王が羨ましいな」 フリードはニーナが想い描く王の姿に、ちょっとやきもちを焼いた。そんな子供じみた気持ちを察したのか、ニーナが楽しそうにくすくすと笑う。 「やきもちなんて失礼よ。ご褒美を戴いたもの、フリードに会えた」 照れ隠しに沈黙するしかないが、その言葉がとても嬉しい。 フリードは躊躇いがちに、ずっと思っていた事を口に出した。 「ニーナ、辛くないのかい? その、毎日の仕事は大変だろう?」 言葉の端は掠れてしまい、聞き取れなかったのかと心配したが。 口をつぐみ一瞬きょとんとしたニーナは、真っ直ぐにフリードを見つめると首を横に振った。 「私、案外丈夫なの。だから辛くなんてないわ、お仕事は誰でもしている事よ。毎日、一生懸命に働くの。……私、もう色々なお仕事を覚えたのよ。カリナさんに、ハンナさん。トム爺さんにミレーヌ。それからカナックさん……みんな優しいし、何でも教えてくれる」 風が乱す、柔らかな金色の髪を押さえているニーナ。 澄んだ湖を思わせる、その青い瞳が光を湛えている。 誇らしげな、その表情。 「すごいでしょう?」 「そうなんだ」 「……フリード」 囁くような声でニーナに呼ばれて、フリードは我に返った。 「心配してくれてありがとう、とても嬉しい。あのね、私はお館様に感謝しているわ。あなたの側にいられる、あなたの存在を感じていられる。だから……怒ったり憤ったりしないで、憎むなんて感情を絶対に持っては駄目よ。私は、大丈夫だから」 青玉石の瞳にじっと見つめられ、フリードは何も言えなかった。 もっと早く、こうしてニーナと話せばよかった。そうだ、自分は何を見ていたのだろう。穴があったら入りたいとはまさにこの事か、フリードは自分が抱えていた憤りなど、まったく意味が無かったという事を思い知った。 どうしようもなく焦る気持ちに囚われてしまっていた。いつも味方でいてくれるカリナを、屋敷で働く皆を全く信用していなかったのだ。 ニーナは屋敷の皆に受け入れられ、大切にされている。 父の胸の内へは未だに考えが及ばないが、ニーナに対して無体な扱いをするつもりなど無いだろう。 安堵したフリードは耳に優しい響きが、綺麗な歌声が心に残っている事に気が付く。 もう少し、このままニーナの歌を聞いていたい。 「麗しき歌姫様。どうか屋根を彷徨うこの孤独な旅人の心の慰みに、もう一度その歌声をお聞かせ願えないでしょうか?」 フリードが芝居がかった仕草で手を胸に当てると、小さく頷いたニーナは胸の前でそっと手を握り合わせて息を整えた。 「フリード。今度は、あなただけに……」 ニーナの澄んだ声が、夜気をそっと震わせる。 再び流れ始める、柔らかな旋律。 瞳を閉じて歌うニーナの姿が、まるで女神のように神々しく、フリードは一瞬見とれた。 桜色の唇が紡ぐのは恋歌だ。 古い国のお姫様が、遠い国の王子様へ淡い想いを風に託すという物語。 お姫様の大切な想いを託された風は、遙彼方の国に住まう王子様を訪ねるために、長い長い旅に出る。 草原を渡り海に山を越えて……その旅路は決して楽しい旅ではない。 しかし、意地悪なつむじ風に邪魔されても、大きな竜巻に住まう恐ろしい竜に脅かされても、風は決して諦めない。 そして、長い道のりを旅した風が届けたメッセージ。王子様は自分を慕うお姫様の温かな気持ちに気付いた。 しかし旅を終えた風は、そこで力尽きて消えてしまう……。 フリードは思い出した。この歌は幼い頃に、ニーナがよく口ずさんでいた歌だ。 お姫様の想いを伝えて力尽きた風が可哀想で、その歌を何度聞かせて貰っても、フリードは涙ぐんだものだ。 そんな時、ニーナはいつも「フリードは優しいね。でも、泣かなくていいの。風はきっと嬉しかったと思う、二人の心をつなぐことができたんだもの」そう言って微笑んだ。 あの頃と、ニーナは少しも変わっていない。 フリードの胸を満たしてゆく強い想い。 力を得た心はウインドシップなど無くても軽やかに、そして自由に空を飛べる。 「……ありがとう」 お姫様の想いを抱いて、駆ける風を想像する。 歌を紡ぐニーナの邪魔にならないように、そっと呟いたフリードは目を閉じて、優しい旋律を乗せた夜風にその身を任せた。 |
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