ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


5.その身に担うもの

 目次
 父の拳を受けた傷は癒えたが、フリードの心は晴れないままだった。
 ぼんやりと自室の窓から階下を眺めると、使用人達がせわしなく行き交う様子が見える。
 フリードはその中にニーナの姿を見つけて、思わず窓枠へ手を掛け身を乗り出した。名を呼ぼうとして躊躇し、思い留まる。
 ぎりっと窓枠を強く握りしめ、フリードはさっと厚いカーテンの陰に身を隠した。
「……何をやっているんだ」
 つぶやいてみると、喉の奥から掠れた声が漏れ出た。
 独白にしても、随分と声を発していなかった事に気が付く。フリードはそれほどに、己の思考に埋没していたのだろう。
 ニーナと言葉を交わしていない日々が、ずっと続いている。
 彼女の為に……と、そんなフリードの願いは叶うことなく、ただ悪戯に時だけが過ぎていく。
 窓際に寄せたカーテンで身を包むようにして、壁に背を預けじっと天井を見つめる。
 何かに反射した日の光が、ゆらゆらと揺れている。
 その様子を見つめていたフリードは、どうしても叔父に会わなければならない用件があったのだが、先延ばしにしていた事を思い出した。
 クローゼットに歩み寄り両手で扉を引く。その奥にある、小さな黒い鉄製の扉の鍵を開けた。
 手を伸ばして掴んだもの、それは鈍い光を放つ銀色の拳銃。ブロウニング家では不測の事態が起こった場合に備え、銃を携行せよと定められている。
 銃身に彫られているのは、飾り柄も美しい王家の紋章。
 領主となったブロウニング家が、爵位と共にハインリッヒ王より賜った特別な銃だ。
 フリードは肩に掛けたホルスターを隠すように、上着を羽織ると部屋を出た。
「フリード様、お出掛けですか?」
「……ああ」
 部屋を出ると、すぐにカリナと出会った。
 幼い頃から兄のように慕う黒髪の執事は、フリードの考えなど難なく見透かしてしまう。
 心がささくれているフリードは、カリナと視線を合わせられない。
「……行ってらっしゃいませ、お気を付けて」
 丁寧に一礼するカリナが声を掛けてくれるが、フリードは頷いただけで、まるでカリナを避けるように脇を通り過ぎた。

 屋敷の前に停められている車に乗り込み、エンジンを掛ける。ハンドルにもたれたまま、しばらくエンジンの回転が落ち着くのを待つ。
 体に感じる振動、肩に下げているホルスターに収めた銃の重み。
 気を紛らわせようとして肩を揺すり、フリードは乱暴にクラッチを繋ぐ。
 一瞬、空転したタイヤが悲鳴を上げて砂埃を巻き上げる。その車の挙動はまるで、フリードの乱れた心を表しているかのようだった。
 穏やかな陽気、遠方に霞んで見えるのはグランウェバーの王城。
 整備された街道に乗り、王都の中心街を目指すフリードは、ちらりと視線を動かして空を見る。遙か上空の気流の流れへと自由に身を任せることが出来れば、地上に縛り付けられた心は解放されるのだろう。
 気ままに舞う風の精が迎えに来てくれぬものだろうか……。
 フリードはそんな逃避めいた思考を、頭の隅に追いやった。

 ☆★☆

 フリードはブロウニング・カンパニーの駐車場へと車を停める。隣に見えるのは叔父の車、今日はどうやら会社に居るようだ。
 車を降りて、上着の乱れを整える。
 父にウィンディの起動キーを取り上げられてしまった。叔父にその事を詫びねばと思いつつ、そのままにしてしまっていたのだ。
 そんな理由からとても気が重いが、フリードは腕にぐっと力を入れて事務所の扉を開けた。
「あら……こんにちは、フリード様」
 事務所に入ったフリードの姿に、いち早く気づいて振り向いたサラが席を立つ。机に山と積まれた、書類の整理をしている最中のようだ。
 ひらりと床に舞い落ちる書類を右手で素早く、はしっ! と掴み、にこやかに微笑む。
「……こんにちは、サラさん」
「ちょっと待って下さいね、フリード様」
 フリードが挨拶すると、サラは手にしていた書類をぽん!と、机上の書類の束に置いた。
 膨大な書類の山、サラはすべてに目を通しているのだろうかと、フリードは目を丸くした。
「良いお天気ですわね」
「ええ、それに風が気持ち良いですよ」
 サラとは取り留めない話題で、会話の足掛かりを掴まなければならないほどの他人では無いが。挨拶の延長のようなものだろう。
「こんな日は、木陰でごろごろしていたいですね」
 窓から外を見て、ちょっと羨ましそうな表情をするサラ。
 フリードは優秀な秘書の彼女らしからぬ、間が抜けた様子に苦笑した。
「あの、サラさん。約束をしていませんが、叔父に会えますか?」
「はい、社長ですね。フリード様……こちらへ」
 社長室は目と鼻の先だというのに、サラはすぐにフリードを案内しようと先に立って歩き出す。退屈な書類の整理作業をひとまず置いて、休憩したいのかもしれない。
「社長、フリード様がいらっしゃいました」
 右手で軽やかにノックをした後、サラは返事も待たずにさっと扉を開ける。
「ん? おお、よく来たな!」
 いきなり扉を開けたサラを注意する事もなく、机に座っていた叔父のアルフレッドが大きな声を上げた。
「こんにちは」
「まあ座れよ、フリード」
 アルフレッドにソファを勧められ、フリードは社長室を出ていこうとするサラに、小さく会釈をした。
「ああ、この間は災難だったようだなぁ。ん? もう顔の腫れは引いたみたいだな」
「……災難って、誰に聞いたんですか」
 落ち着いている心はもう騒ぐことはないが、フリードは殴られた頬の痛みと悔しさを思い出して頬を撫でた。父の拳はまるで鉄の固まり、奥歯が折れなかったのが不思議なくらいだ。
「カリナに聞いたんだよ、あいつがウィンディの起動キーを返しに来たんだ。おっと、無理矢理しゃべらせたのは俺だからな、カリナを責めたりするなよ」
「そんな事はしません」
 強い口調で答えたフリードは、すぐに神妙な面持ちで頭を下げた。
「その……起動キーを自分で返しに来る事が出来なくて、すみませんでした」
「何かと思えば、そりゃあ仕方がねぇ事さ」
 頭を上げぬフリードに、アルフレッドは「気にするな」と言って、からからと笑った。
 こんこんと、扉をノックする音が部屋に響く。
「……失礼します」扉を開けたサラが、コーヒーを運んで来た。
「フリード、いい時に来てくれたなぁ。ちょうどコーヒーが飲みたかったところなんだ」
 サラが丁寧に置いたカップから立ち上る香りに、アルフレッドは満足げな笑みを浮かべた。
「いやいや、我が社は今期も赤字でな、経費節減でコーヒーも好きな時に飲めないのさ」
「叔父さん。それで会社は大丈夫なんですか?」
「フリード様……。それが大丈夫ではありませんの」
 肩を落としたサラが、ぼそっとひと言残して扉を閉めた。
 コーヒーも自由に飲めないとは、いったいどこまで経営状態が逼迫しているのか。
 フリードは心配になり眉根を寄せる。
 しかし、アルフレッドはその問いには答えずにコーヒーをすすり、ニヤニヤと笑いながら、じっとフリードを見ている。
「あの、僕の顔に何か?」
「いやなに、お前も不器用だなぁと思ってな。もっと頭を使えよ、バレるような所でニーナといちゃついていたりするからだ」 
 アルフレッドはくっくっと、からかうように肩を震わせて笑う。
 真面目な顔をしたフリードは、カップをテーブルの上へと置いた。カップの中で、ゆらゆらと揺れる褐色を見つめていたが、すっと顔を上げた。
「いちゃついているだなんて。それに、こそこそと隠れて会わなければならない理由は、無いと思っていますから」
「あ、ああ! そうだよな。はは、こりゃすまねぇ」
 固い声で答えた真面目なフリードに、アルフレッドは気まずげに、ぽりぽりと頬を掻く。
「しかし、若いってのは羨ましい事だな。お前、そんなにニーナが大切か?」
「え?」
 アルフレッドは、太い腕を組んでソファに背を預ける。
 改まってそんな事を問う叔父を、フリードは訝しげな表情で見やった。
「フリード、銃を出して見ろよ、持っているんだろう?」
「でも、これは……」
 急に言われて困ったフリードは、左の脇を手で押さえる。上着の上からでも感じる、固くて冷たい感触。
「いいから出せよ。俺だって、ブロウニング家の人間なんだぜ」
 銃は滅多な事で抜いたりするものではない。それは銃を手にした時からきつく言い聞かされていた。
 だが、叔父にそう言われたならば仕方ない。フリードはホルスターから銃を抜いてテーブルの上へと置く。
 ごとりと重い音を立てる拳銃、その存在は冷たい緊張感をもたらす。
「なぁ、フリード」
 アルフレッドは目を細めて、テーブルの上で冷たい輝きを放つ銀色の銃を見つめ、太い指で銃身に施された見事な飾り柄をなぞった。
「俺は跡取りじゃないからな、この銃を持つ事にならなくて良かったと思っているよ」
「叔父さん、何の話です?」
「いいから聞けよ、フリード。この銃を持つってことはな、領民を守るという責任を担う事なんだ。いざという時には領民達の前に出て両手を広げ、彼らを命懸けで守ってやらなきゃならねぇ」
 古来から貴族はそうやって、自らが治める領地と領民を守ってきた。
 その手に剣を握り国家間で起こる戦に赴き、時には土地を奪わんとする蛮族や、恐ろしい魔物の類と戦ったのだ。
 領民達はそんな領主の姿に、信頼を寄せてくれる。
「お前も、毎日食事をするだろう? 俺は神なんぞ信じていないから言うんだが、貴族は神に感謝する前に、領民達に感謝しなきゃならんのさ。家名を継いだ兄貴はずっと、領主として王家に与えられたカーネリアを守って来た。そのあたりは、きちんと分かってるんだぜ?」
「それは、分かっています……」
「ふん。そりゃあ、頭だけでだろうが」
 アルフレッドの声が温もりを失った。
 心の隅に寄せていたものがじわじわと広がりはじめ、フリードの心がぐらりと揺れる。
「次期領主様よ、覚悟は出来ているのか? 下手をすると兄貴が領民達から得た信頼を、失う事になっちまうんだぞ?」
 フリードの幼さを、じわじわと炙り出すアルフレッドの言葉。
「フリード、お前はウインディの起動キーが欲しいんだろう?」
 叔父にそう言われたフリードは微かに体を震わせた。まさに不意打ちだ、ぎゅっと唇を噛む。
「おいおい……。図星なのかよ、参ったな」
 アルフレッドは、やれやれといった表情で肩を竦めた 
「よく考えろよ、フリード。お前が優雅に空を散歩している時に、ニーナは生きるために屋敷で一生懸命に仕事をしているんだぞ、ええ?」
 アルフレッドが大きな手でテーブルを叩き、銀色の銃が微かに跳ねた。
「今のお前にゃ、空を飛ぶ資格はねぇよ。よく覚えておけ、空は憂さ晴らしの場所じゃない!」
 語気を強め、テーブルの銃を手に取ったアルフレッドは、手のひらで器用に銃を回し、グリップをフリードへ向けた。フリードにとって、その銃は自らを牢へと繋ぐ、頑丈な銀色の枷にも見えてくる。
「人に想いを寄せる事が悪いとは言わねえ。しかし、その前に大切な事があるだろう? ニーナ、ニーナとそればかり言って、父親に反発しているだけのお前は、ただ爵位に乗っかっているどうしようもないお坊っちゃんさ」
 眼前に突きつけられたのは己の未熟さだ。アルフレッドの瞳に宿る強い光を、正面から受ける事が出来ずにフリードは俯いた。
 頭から冷水を浴びせられたように体と心の温度が下がっていく。羞恥に体が固まったようで、口を開くことも出来ない。
「ようやく自分の姿が見えたか? しばらく空を飛ぶのは禁止だ。ウインディは俺が責任を持って管理してやる」
 アルフレッドが懐から取り出したのは、ウインディの起動キーだ。フリードには叔父が手にしたそれが、自由への扉を開く鍵に見える。
 しかし、その鍵を手に入れる事は叶わぬ。
 堅く閉ざされてしまった空への扉を、開く事は出来ないのだ。
「空ばかり見上げていると、ぽっかり空いた地面の穴に落ちるぞ? まずは自分の足下を見つめろよ、大事な物がたくさん落ちている筈だ。まず、それをひとつずつ拾っていくんだよ……いいな?」
 少し声を和らげたアルフレッドは、フリードの手に銃を乗せた。

 ☆★☆

「社長っ! あんなに言わなくても……フリード様がお気の毒です! フリード様はとても優しくて、思いやりを待っていらっしゃいます、なにより紳士ですわ! 間違いなく領主にふさわしい方です、ゆっくり成長を見守ったっていいじゃないですか」
 フリードを見送った後、社長室に顔を出したサラが、納得いかないといった表情を見せた。
 しかしアルフレッドは、口の端を上げて皮肉げな笑みを浮かべる。
「なんだよサラ。聞いてたのか、油断も隙もねぇな。いいか? フリードを甘やかす訳にはいかないんだよ、カーネリアの領民達のためにもな。いつか誰かが言わなきゃならん、それなら早い方が良いのさ」
 陰口を叩く事はあるだろうが、フリードにあえて苦言を呈する者など誰もいない。
 畏れ多い領主の息子というだけで、どこへ行っても注目される。おだてられて、いい気になっている馬鹿ではないだろうが。
 フリードを囲む環境は良過ぎるのだ、世間という大地……肥沃な土壌は好意など様々な感情……栄養が過多で、かえって成長が妨げられている状態だ。これで根腐れでもすれば、大変な事になる。
「兄貴はあれで臆病だからな。殴った顔の腫れはいつか癒える、それはちゃんと目に見える……だが心の方は見えないから厄介だ。だから兄貴は、フリードの心に深く斬り込めないんだ。大事な一人息子だ、気持ちは分かるがな」
 自分の未熟な姿を思い知らされた程度で砕けてしまう、フリードの心はそんなに脆弱ではないと、アルフレッドは思っている。
 見上げる空に舞い上がってみるとよく分かる。空は翼を持たぬ人間に対して、おおらかな優しさなど、欠片ほども持ち合わせてはいない。
 しかしフリードは心にその厳しい空を映し、自らの翼を広げたいと願っている。ウインディで空を駆けるフリードの姿に、アルフレッドにはそんな心の片鱗を垣間見るのだ。
「社長。何だか息子を見守る、父親のような口振りですわね」
「ん、そうか? こりゃいけねぇな、俺も年かなぁ。ま、何にせよ火は付けてやったんだ。これで何も変わらなきゃ俺の見立て違い、ただのボンクラ息子だ。ブロウニング家の将来も、お先真っ暗って事だな」
 ……そうだ、逃げ場所は封じた。さあ、どうする? これでニーナに逃げ込むようなら、今度は鉄拳制裁では済まさないつもりだが。
 思いを巡らせるアルフレッドは、わざとらしい憎まれ口を叩き、ウィンディの起動キーを目の前にぶら下げた。
 ゆらゆらと揺れている、フリードが心から求める空への扉を開く鍵はアルフレッドの目にも、どんな宝よりも輝いているように見えた。
 
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