ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


10.姫巫女(後編)

 目次
「子供達はあそこだ、人数に間違いは無いはずだぞ」
 立ち止まり、振り返ったトゥーリアが指さした先。
 水の代わりに光を湛えたような、輝く泉に見える淵の岸辺に子供達が倒れている、そして子供達の横にいるのは……。
「お、狼!」
 子供達の傍らへ静かに立つ巨大な狼の姿に、フリードの全身が粟立った。
 フリ−ドは今まで、こんなに大きな狼を目にした事がない。
「いちいち騒ぐな。レイル、来い!」
 レイルと呼ばれた大きな狼は子供達の側を離れ、さっとトゥーリアの傍らへと寄り添った。
 美しい毛並み、意志さえ感じさせる瞳、屈強で強靱な体躯。
「ご苦労だったな」
 トゥーリアの小さな手で撫でられ、レイルと呼ばれた狼が気持ち良さそうに目を細める。
 この巨大な狼は、どうやら姫巫女の従者であるようだ。危険が無い事に胸を撫で下ろしたフリードは、ふらつく足元に苦労しながら倒れている子供達へ駆け寄り、その傍らに跪く。
「……みんな、大丈夫か!」
 怪我は無いか、苦しそうな顔をしていないかと確かめる。
 微かに身動ぎしたフローラに気付いた、その時だった。
「あっあっあっ……お、起こさずともよい! こ、子供達に怪我など無いっ……ええい、貴様っ! 我に背を向けるとは何事か!」
 何故か慌てているトゥーリアが鞘ごと抜いた細剣で、フリードの後頭部を思い切り小突いた。前につんのめりながらも、子供達の無事な姿にフリードは心から安堵する。
 どうやら命の危機に遭ったのは、フリ−ドの方だったらしい。トゥーリアに小突かれ、ずきずきと痛む後頭部をさすりながら、フリードは振り返った。
「姫巫女トゥーリア、ひとつだけ聞かせてもらいたい」
「何だ? 面倒な事でなければ答えてやろう」
「ここは、カーネリアの森なのか?」
 不思議な空を見上げたフリードの単純な問いに、肩を落としたトゥーリアは吐息をついた。
「今更、何を言うかと思えば。貴様達は昔からそう呼んでいるだろう」
「……でも」
「これが、この森……本来の姿だ」
 大きな葉擦れの音を立てて、フリードとトゥーリアの髪を撫でて渡る風。両手を広げ空を振り仰ぐ、トゥーリアの美しい髪が煌めく。
 森本来の姿……フリードはあらためて辺りを見回して、その美しさに見惚れた。
 恐怖も、不安も、孤独も心を苛む事がない。
 その代わりに、受け止められないほどの温かさ、安らぎ、木々の穏やかな囁きに感じる慈しみ。
「……感慨深げなところだろうが。古くからの言い伝えはよく知っていよう……我はこの安らぎの森を汚した子供等を、水晶柱に封じねばならぬ。貴様はブロウニングの血筋、我も手は出さぬがな」
「そんな、トゥーリア!」
 固い表情で、そう冷たく言い放ったトゥーリアだったが、身を固くしたフリード様子に、形の良い唇の端を上げた。
「ふん、貴様は領主の名代として、子供等を助けに来たのだろう。では問おう、どう償う気でおるのだ。貴様の答えによっては、考えてやらぬでもないぞ?」
 フリードの反応を試すように、挑発的な笑みを浮かべて見つめるトゥーリア。
「……それは」
 フリ−ドは、ぐっと声を詰まらせた。
「また水晶柱が増えるな、あまりに増えると整理に困る」
 本気でそう言っているのか、フリードの目の前に立ちはだかり、物騒な笑みを浮かべている姫巫女。
 機嫌を損なえば、今にも魔法を使いかねない。背に庇う子供達、傷ひとつ無い姿で無事に見つけられたのだ、何としても親達の元へ連れて帰らねばならない。
 ……姫巫女が贄でも必要とするのなら、フリードは覚悟を決めるつもりでいる。
 たとえ子供達の身代わりに、フリード自身が水晶柱に封じられる事になったとしても。
「森の外では、皆が子供達の無事を祈っている。その憔悴した姿、胸を引き裂かれるほどの想いだろう……必ず子供達を無事に返してやりたいんだ。僕はどうなってもいい……だから!」
「どうなってもいいだと? ふん! それは己の命を差し出すということか? ならば、我が貴様の命を貰い受ける。やれっ、レイル!」
 フリードの言葉を遮ったトゥーリアが叫んだ瞬間、彼女に付き従っていた巨大な狼が勢い良く地面を蹴って跳ね、フリ−ドに飛び掛かった。
 強靱な前足が信じられぬ力でフリ−ドを押し倒し、大きな体がフリードの上へとのし掛かる。
 大きく開いた口から覗く、鋭い牙。勢い良くフリードの喉笛に食らいつく寸前、レイルはぴたりと動きを止めた。
 鋭い牙は、フリ−ドの肌に触れる手前で静止している。獣の荒い息づかい、体温と強く逞しい心臓の鼓動を間近に感じた。
「獣への恐怖は我が剣以上だろうが……つまらぬ。無様に泣き喚いて、命乞いをするかと思ったが」
 舌打ちしたトゥーリアは、腰に手を当てて不満そうに呟いた。
 レイルが体から降りると、フリードは仰向けのまま息を吐いた.元より覚悟は決めていた、そうでなければ禁忌を破り、聖なる森に足を踏み入れたりしない。
 フリードから離れたレイルはトゥーリアの元へと戻り、目を細めて体を擦り寄せる。トゥーリアが頭を撫でると、嬉しそうに喉を鳴らした。
「見上げた自己犠牲、博愛精神だが……自分の命を軽んじるでない、この馬鹿者が! 貴様を見ていると、この先が思いやられるわ」
 言葉を切ったトゥーリアは、剣帯に吊った細剣の柄に手を当てた。
「……お前の命が潰えれば、森を焼き尽くす忌まわしい炎を止める術は無くなる」
 ぽつりと言葉をこぼしたトゥーリアの眉間に、苦悩を顕す深い皺が刻まれた。
「トゥーリア?」
「黙って聞け、よいか? 命は己だけの物だなどという考えを捨てよ。支え合う想い……お前の命が失われて、悲しむ者もおろう。そう思えば、決して軽はずみな言動など出来ぬだろうが!」
 体を起こしたフリードは座り込んだまま首を撫で、神妙な面持ちでトゥーリアの話を聞く。
 トゥーリアの機嫌を損ねるのは得策ではない、フリードは延々と姫巫女の説教を聞かされた。
「領主の頼りない息子なれど、我が身に構わず森へ足を踏み入れたのだ。お前に免じて、子供達はこのまま返そう。覚えておけ、二度目は無いぞ?」
 トゥーリアが厳しい表情で、腰の剣帯に吊った細剣を鳴らした。
「あ、ありがとう! トゥーリアっ!」
 こみ上げる嬉しさに、フリードは勢い良く立ち上がり、トゥーリアの両手を握りしめた。
 その瞬間、紅い瞳を大きく見開いたトゥーリアの顔が、熟れた果実のように真っ赤になった。
「きっ、き、き、気易く我に触れるでないわっ! こっ、こ、この無礼者がっ!」
 再び細剣を抜き放ちそうなトゥーリアの剣幕に、フリードは首を竦めると慌てて手を引っ込める。
 胸に手を当ててしばらく深呼吸していたトゥーリアは、どうやら落ち着いたらしく表情を改め、正面からフリードを見つめた。
「……お前に伝えねばならぬ事がある。我の前に跪け」
「跪けだって? ちょっと待ってくれないか、トゥーリア」
 フリードがすっと身を引くと、トゥーリアの右手が細剣の柄を握る。
「我にも都合があるのだっ! 貴様の方が背が高いから手が届かぬ、さっさと言われた通りにせぬかっ! まったく、いまいましい……いつの間にか、背丈ばかり伸びおって!」
 悔しそうなトゥーリアが、地団駄を踏みながら大声で喚き散らす。
「分かった、分かったから」
 フリードはいきり立つ姫巫女を宥めようもなく、慌てて膝を折り頭を垂れる。
 それはまるで、王国の姫君と騎士のような二人の姿。
「しばらくの間、目を閉じていろ」
 トゥーリアはそっと、目を閉じたフリードの前髪を掻き分けて額に触れた。
 細い指先の感触は滑らかで、それでいてひやりと冷たい。
「身に降り掛かる災いと対峙せねばならぬ時、人の身に備わった力だけでは越えられぬ壁もある。少しばかり我の力を貸そう……お前なら、力の片鱗でも上手に使えるはずだ」
 フリードの閉じた瞼を、トゥーリアの指が優しく撫でた。
「よく聞け、フリード。傲慢で幼い意志が暴走を始め、すべてを飲み込んでゆく……世界を覆う暗雲を、我は感じている」
 トゥーリアが何を言っているのか、フリードには分からないが。
 瞼に感じる心地良い温かさは、遠い昔に忘れた何かを呼び起こしてくれるようだ。
「もう、目を開けても良いぞ」
 柔らかなトゥーリアの声に促され、フリードは顔を上げた。
「……可愛い寝顔だな」
 トゥーリアは子供達を愛しげに見つめ、側に寄り添うレイルの美しい毛を撫でる。
 目を細める姫巫女の横顔は、少々幼いが慈悲深く神々しい。美しい周囲の景色に重なる姿は、まるで絵画のようだ
「この場所は自然に満ちる力と人の感情、心の奥深くの純粋な意識を繋ぐ。そしてこの世界に流れる、大いなる力のうねりを作り出す……そんな役割を為す場所 だ。光と影が雑多に入り交じる感情は、世界の構築に欠かせぬ力に悪影響を及ぼしてしまうのだ。領主のみが立ち入るのを許されているのはな、人間一人程度の 意志が及ぼした歪みならば、我も浄化が容易いからに過ぎぬ」
 トゥーリアが吐息をつく様に語る言葉に、フリードはじっと耳を傾ける。領主とて所詮は森の番人役、特別ではない。純真な子供達でも、人である事に変わりないとトゥーリアは言った。
 カーネリアの森は、清浄であらねばならない。
 この世界を形作る、大いなる力を見守らねばならない。
 そんな役割を課せられた姫巫女とは、それにしても不思議な存在だ。
「トゥーリア……」
 トゥーリアは、いつの頃からこの森に住まうのだろう。人を遠ざける森に一人で暮らし、孤独に押しつぶされる事ははないのだろうか? 少女の姿をした姫巫女を思い、フリ−ドは胸が苦しくなった。
「優しいな……お前は。心配には及ばぬ、我はこの世界に満ちた力の一部だ。お前と言葉を交わす為に、この姿をしているに過ぎん……それからな」
 トゥーリアは何故かほんのりと頬を染めて、そっぽを向いた。
「我には、尖った角も牙も無いわ! 我はお前達人間が持つ、貧困な想像力に姿を合わせてやっているのだ。下品な噂を流布し、無垢な子供達に嘘を教えるな」
 微風がトゥーリアの髪を揺らす。柔らかな燐光が、フリードの鼻先を掠めて消えゆく……。
 姫巫女も、人々の間で語られる醜聞が気になるものらしい。しかし語り部として子供達へ戒め教えるには、そうならざるを得ない。トゥーリアは、フリードが子供達に聞かせた話を、どうして知っているのか。
「やれやれ、お前があまりにも恐れさせたからであろう。角が出るだの牙が出るだの、食べられるだの……我の姿を見た子供達に、大泣きされて困り果てたぞ。レイルの風貌では幾らあやしても怖がらせるだけでな、仕方なく眠らせた。貴様を痛めつけたのは、憂さ晴らしも少々だ」
 トゥーリアは恨みがましく、フリードをちらりと睨む。
「子供等の親が心配しているだろう……早く起こして共に立ち去れ。その後、我が森を浄化する」
 そう言って背を向けたトゥーリアが、ふと動きを止めて振り返った。
「囚われの雛鳥が、寂しさに泣いているようだな。無理もない、まだ生まれたばかり……自由を奪われて、羽ばたく事すらもままならぬ」
 形の良い眉を顰める。
 その紅い瞳は哀しく、遠くの何かを見つめているようだ。
「フリードよ……自由を求める蒼き翼を広げ、旅立つ日が訪れるだろう」
 予言めいた事を言ったトゥーリアが、少女らしい微笑みを浮かべた。
「お坊ちゃんも、そろそろ一人前だな。世界は広い……決して臆するな」
 そう言い残し、姫巫女と狼の姿が突然、光の塊となって弾けた。
『覚えておけ、我はお前の傍らにいる……』
 姫巫女が去り際に残した言葉、光の残滓が瞬いて天に上って行く。
 淡い光に満たされた美しい聖域は跡形もなく消え去り、森は再び寂しく暗い闇に支配された。
 そして、おそらくトゥーリアの力なのだろう。フリードは、森の入り口にほど近い場所に居る事に気が付いた。
「ありがとう……トゥーリア」
 トゥーリアは、森に入った子供達をわざと聖域に迎え入れ、守っていてくれたのではないのか? フリードは、そんな事を考えた。しかし、世界を覆う暗雲とは何なの事だろうか……この世界に、何が起ころうとしているのか。
 トゥーリアのように神秘的な存在でも、どうにもならぬ事などあるのだろうか。
 残された謎掛けの様な言葉が、フリードの心へと静かに沈んでいく。
 いや……考えていても仕方がない。
 子供達が無事で良かった、早く子供達を起こして連れ帰る事が先だ。フリードは、まずフローラの肩にそっと手を掛けて、優しく揺さぶった。

 ☆★☆

 子供達を励ましながら、歩みを進める。
 小さなムウを背負い、不安がるケイトとマークス、アンナが服を掴んでぴったりと寄り添うので歩きにくい。フローラは泣きそうな顔をしているが、フリードはここで子供達を咎めるつもりもない。
 フリ−ドは、花が絶える事が無い屋敷の花壇をいつでも見に来て良いと、ただそれだけをフローラに優しく言い含めた。
 森の出口、前方に煌々と焚かれている幾つもの松明が見えた途端に、膝から力が抜けそうになる。フリードと子供達が森から姿を見せると、集落中から集まっていた大勢の人々から大歓声が上がった。
 子供達はフリードから離れ、それぞれに親の元へと転がるように駆け出した。大泣きしながら、互いに強く強く抱き合って無事を喜ぶ。親達は子供の体の隅々までさすり、怪我など無いか確かめている。
「フリード様っ!」
 フリードの元へは、青い顔をしたカリナが駆け寄った。
「心配掛けたね、カリナ……」
「寿命が縮む思いでした! よくご無事で……ここに居てくれと申されましたが、私の方が居ても立ってもいられず、森へ向かって走り出しそうでした。そ、それにしても、そ、そ、そ、そのお姿は、い、いったい……!?」
 トゥーリアと戦ったからだろう、フリードの服はボロボロだ。
「ああ、心配ない。ちょっとお転婆な女の子にじゃれつかれたんだ」
 トゥーリアが聞いたら、また細剣を抜き放つのだろう。
 フリ−ドは、その姫巫女の表情を思い浮かべ、思わず肩を竦めた。
「お、お、お、お召し物は、あ、あ、あ、明日、ハンナに採寸させますのでっ! いいえ、い、今は医者が先ですねっ! くっ! ほ、包帯は、く、薬は、ああああ、カナックは何処ですっ! ミレーヌっ!」
 何やら混乱しているカリナの様子に、フリードは思わず吹き出した。
 いつも冷静なカリナも、こんなに慌てる事があるらしい。
「カリナ、僕は大丈夫だから」
「は、はい?」
 ぴたりと動きを止めたカリナは一瞬だけ、恥ずかしそうな表情を見せた。……こほんと、わざとらしい咳払い。ぎこちない仕草で黒縁眼鏡を掛け直す手が、微かに震えている。 
 しかし、数回ほど大きく深呼吸したカリナは、すっかりいつもの黒髪の執事だった。
「フリード様。お預かりしていた銃を、お返しします……」
「信じてくれてありがとう、カリナ。」
 フリードが銃を受け取ると、とても嬉しそうに微笑んだカリナが胸に手を当てて一礼した。
「フリード様!」
 大きな声で名を呼ばれて振り返ると、集落中の人々がフリードの周りに集まっている。感極まって、わあっと、フリードへと押し寄せる人々。
 もみくちゃにされながら、皆と手を取り合って喜ぶフリードは心から安堵し、温かな充足感に満たされていた。
 
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