ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


11.雛鳥の呼び声

 目次
 視界を奪うのは、叩きつけるような猛吹雪。
 すべてを凍てつかせる真白き厳寒の地、鉛色の空を巨大なウィンドシップが飛行していた。巡洋艦「サレージ」は、退役目前の旧式バトルシップだ。老朽化が激しいサレージは、まるで生き物のように渦巻く凶暴な風に翻弄される。
「ああ……嫌だ嫌だ、この吹雪。まったく憂鬱だねぇ」
 横目でブリッジの窓をちらりと見た、グランウェーバー国王立軍所属の老齢士官プローブ大尉が、無遠慮に重苦しい吐息をついた。
 白くて少ない頭髪に無精ひげ、分厚い眼鏡の奥にはしょぼしょぼの目。軍服などよれよれで、迂闊に近づけば臭ってきそうだ。
 若い頃はそれなりに熱意もあったのだが。この年齢、しかも退官前となってはすっかり燃え尽きて、灰のようになっている。
「悪天候での任務はホント、嫌だよねぇ」
 ブリッジ要員は、艦長のプローブ大尉以下、副官のオルグ中慰を含め七名。
 緊張感が無い指揮官のボヤキが、ブリッジへ虚しく響く。オルグ中尉のこめかみに、青筋がくっきりと浮かんだ。
「……大尉」
 怒りを抑え込んだオルグ中尉の低い声は、プローブ大尉の耳障りな声に掻き消された。
「この最果ての地、北部方面基地に配属されて、かれこれ二十年。良く頑張った、自分を誉めてあげたいよ」
「プローブ大尉」
 後二ヶ月もすれば退役だ、もう少し待てば恩給の支給も始まる。プローブ大尉の頭の中には、老後の生活設計ばかりが浮かんでくるようだ。
「雪と氷ばかりで面白味の無い、真っ白な世界から解放されるんだ、こんなに嬉しい事はないよ。王都に帰れば暖かいしね、何よりも食べ物が新鮮で美味しい」
「大尉! いい加減にして下さい!」
 コンソールパネルを両手で叩きつけ、オルグ中尉がシートから勢い良く立ち上がった。
 襟を正し、一段高い艦長席へ座る上官を睨み付ける。
「本艦は現在、任務遂行中です。口を謹んで下さい! 下士官の士気に、悪い影響を与えます!」
 オルグ中尉の苦言はしかし、頬杖をついてぶちぶちと鼻毛など抜いている、怠惰な指揮官の耳には届かぬようだ。
 ぎり! と噛みしめた歯を軋らせ、オルグ中尉は拳を握りしめると、シートに座り直して腕を組んだ。
「任務は順調に遂行中だろう? 定刻通りに基地へ到着すればいいんだ、任務としては至極簡単だよ」
 今回「サレージ」が就いている任務は、輸送機と女性士官の空輸だ。
 しかし老朽艦とはいえ、サレージは巡洋艦だ。本来は戦闘がその本分であろう、輸送機の護衛ならばまだ話が分かる。しかし何故、輸送機を巡洋艦の腹に積まねばならないのか。
(まったく、甚だ遺憾である)
 プローブは口をへの時に曲げ、抜いた鼻毛をふっと吹き飛ばす。
(それに、女性士官の移送だと? 馬鹿にするにも程がある。軍服を着ていても、まだ子供ではないか。それにあれでは、移送ではなく護送……囚人でも運んでいるようだ)
 しかしいくら不満を鬱積させても、今回は上官や上層部にその不満を上申する事など出来ぬ。
(皇太子殿下が直々に下された命令だからねぇ……。ああ、怖い怖い。王家の方々には、関わりたくないね)
 ぶるぶるっと身震いしたプローブは、思わず肩をすくめる。

 ハインリッヒ王は、王妃ライラとの間に二人の子供をもうけた。
 まず『キルウェイド皇太子』王位継承権第一位にあたる。
 現在は王立軍の最高指令官を務めており、グランウェーバーの軍事力を掌握している。幼少の頃から、物静かで大人しいといった雰囲気を持っていた皇太子 は、驚くべき事に十三歳で士官学校へ進んだ。そして四年間、軍学を学び終えると、そのまま士官として王立軍に入隊したのだ。
 その行動は愛国心の現れともいわれ一部では歓迎されたが、周辺の国家は軍へ積極的に関わりを持とうとする、皇太子の行動に懸念を示した。
 眉目秀麗な皇太子は深く思索を巡らす、穏やかな独自の思想家であることが良く知られている。
 そして王家の長女、『エクスレーゼ姫』
 優れた剣技を身に付け、その上に学問の素養が高く軍学に秀でている。世が世なら英雄として名を馳せたであろう。その激しい気性から「鷹の剣姫」と呼ばれている。キルウェイド皇太子とは、あまりに異なる性格故、不仲とも囁かれているようだ。
 もっとも、エクスレーゼ姫は数年前に突如、王都から姿を消した。
 王室からは他国への留学と発表されているが、どの国にどのくらいの期間留学するなどの情報は、一切公表されていない。
 暗殺計画を恐れて国を出奔したとの噂もあるが、その真偽は明らかになっておらず、依然姫の行方は分からない。
 そしてエクスレーゼ姫が姿を消した事により、姫の強い意向を反映して組織された精鋭部隊「竜騎士」は、王立軍の中で浮いた存在になってしまった。
(数年前に、王が体調を崩された。ほぼ同時期にエクスレーゼ様が行方知れずとは……。あの激しい気性のお姫様が、暗殺などを恐れるとはとても思えん。やれやれ、何があったのか。嫌だねぇ、他国に弱みを握られるような王政は、いかがなものかと思うがね)
 平和そうに見えていても、グランウェーバー国にも火種は無造作に転がっているのだ。
 眉を撫でながら、プローブはもごもごと口の中でぼやいた。前を見据えたまま身じろぎしない副官の後ろ頭をぼんやりと眺める。
(いいねぇ、溢れる情熱。身が焦がされる気分だ、君も兵歴を重ねれば、そのうちに軍人というものが分かってくる……。まぁどうでもいい。私が退役するまで平和であれば、それでいいよ)
 どこまでも自分本位な事を考え、遂行中の任務に全く興味が無いプローブは、大きなあくびを漏らした。

 ☆★☆

 ……冷えきった空気が、肌を刺す。
 暗闇の中で、少女はじっと時が来るのを待っていた、無機質な室内で頭を垂れ、身じろぎもせずに座っている。巨大な戦闘艇の中でさえ響いている、荒れ狂う暴風の雄叫び、魂を凍てつかせるような吹雪、その光景が脳裏に浮かぶ。
 短く切り揃えられた黒髪、軍服に身を包む小柄な少女。
 考えに耽るように、じっと部屋の薄汚れた壁を見つめる翠の瞳。そして、固く引き結ばれた薄い唇。
 微笑んだなら、花がほころぶように魅力的な笑顔なのだろうが。
 ……がちゃり。
 少女の両腕と両足を固く戒めている、鋼鉄製の枷を繋ぐ鎖が重い音を立てた。
 牢に囚われた、亡国の幼い姫君のような少女。
 しかしその翠の瞳に嘆きや悲しみの色は無く、決して輝きを失ってはいない。
(……チャンスは一度だけ、失敗は出来ない)
 慎重に機会を伺う、好機は僅かな間しか訪れないだろう。その好機を逸すれば、希望は永遠に失われてしまう。
 少女は今日まで、この機会を待ち続けていたのだ。絶望の淵に立たされても、歯を食いしばり必死に耐えてきた。無力な少女を装い、あらゆる辛酸を舐め尽くして来たのだ。
 少女は頭の中で、ずっと計算している。
 開発プラントからグランウェーバー国北部方面基地までの空路移動間に、行動を起こさなければならない。北部方面基地に到着すれば、少女は間違いなく自我を失う事になるだろう。そうなればもう、「あの子」を救う事が出来なくなるからだ。
 開発プラントから離れ、北部方面基地からもまだほど遠い位置だ。吹き荒れる激しい吹雪は危険であると共に、姿を隠すヴェールにもなってくれる。ここで脱出を図れば、追っ手を撒く事も可能だ。
 少女は固く閉じられた鉄製の扉、その見張り窓へ目をやった。
 はやる心を静めるように深く静かに息を吸い込む、両腕を戒める枷をじっと見つめた。
 しばらくすると、両腕を繋ぐ太い鎖の中心の輪に変化が起こった。
 赤黒く変色してきた輪は次第に赤く、そして燈色に変わっていく。鉄の輪は目映い白光を放つほどに熱せられ、紅の火花が散り始めた。
 その瞬間、少女が両腕に力を入れて引くと、あっさりと鎖が切れた。自由になった両腕、少女は同じように両足を戒める枷を繋ぐ鎖を切断する。
 少女は自由を得た安堵に、両肩をきつく抱いて一度体を丸めた。
 しかし、安心している場合ではない。
 荒れた息を整え、覆い被さる不安を振り払い勢い良く顔を上げる。
 椅子から立ち上がり、音を立てぬように壁際へ移動し、そっと身を沈めた。扉の外には小銃を装備した、見張りの兵が二人居るはずだ。大きく息を吸い込み、ぐっと拳を固めた少女は、振り上げた腕を扉に叩きつける。
 どんっ!
 大きな音が響き、少女は壁に身を寄せて様子を伺う。
 扉にある小さな見張り窓が開かれ、見張りの兵士が少女が囚われている室内を確認する。
「おいっ、居ないぞ!」
 部屋を覗いた兵士が叫んだ。
 扉の鍵を開ける音が聞こえ、見張りの兵士が部屋へと踏み込んできた。その瞬間を見逃さず、少女は兵士の背中へ向かい床を蹴って跳躍した。
 全身のバネを使って、空中で素早く体を捻り回転する。少女の細い脚が繰り出す鋭い回し蹴りが、見張りの兵士の首を刈った。
 倒れゆく兵が気絶している事を確信している少女は、着地してすぐに姿勢を低くする。
「こいつっ!」
 身を屈めた少女の頭上を、後から室内に入った二人目の兵士が振り抜いた、小銃のストックが通り過ぎた。
 攻撃を避けた少女は、空振りして体が前方に泳いだその無防備な兵士の鳩尾に、渾身の力を込めた肘を叩き込む。
「ぐえっ!」
 白目を剥いた兵士が、力を失い崩れ落ちる。
 瞬く間に二人の兵士を昏倒させ、静かに息を吐いた少女が意識を集中すると、両の手足に残っていた鋼鉄製の枷が塵となって完全に消失した。
 少女は無表情なまま、床に倒れている兵士を見下ろしている。兵士が抱えていた小銃に、手を伸ばそうとして思い止まった。
 部屋から慎重に通路を見渡す。大丈夫だ……気付かれてはいない。
 少女はぐっと唇を噛み、監禁されていた部屋から足を踏み出した。
 通路の壁に背を預け、そろりそろりと進みながら、少女は艦内の様子を把握しようとする。旧型艦のデータは豊富に持っている。頭の中へと構造を記した図面を導き出し、目に映る様子と見比べながら方向を定める。
 そして少女は、心の中で静かに「あの子」へと呼び掛ける。
(私の声が聞こえる……?)
 しばらく待った。
(……くるる)
 微かに届いた声は、怯えるように震えている。
(すぐに行くから、もう少し待っていて)
(……くるる、きゅる)
(ね、良い子だから)
 ねだるように、すがるように耳の奥へ響いてくる声。
 少女はその声に心乱されぬよう、しっかりと己を律する。
(大丈夫、大丈夫だから)
 己自身にもそう呼び掛けながら、少女は慎重に道を選んでいく。
 格納庫への道順を、しっかりと把握した。 「あの子」を積んだ輸送機は、基地に到着した際に搬出の手間を省くために、カタパルト付近に駐機されているはずだ。
「急がないと」
 少女は、姿勢を低くして走り出す。
 急作りの部隊編成らしく、艦内要員は最低限しか乗艦、配置がなされていない。艦内を駆ける少女は、目的の格納庫へと飛び込んだ。
「あった!」
 目的の輸送機を発見する。
 急いで輸送機に近づくと、操舵室に乗り込む。
(きゅう!)
 少女の存在を身近に感じたのか、雛鳥のような鳴き声が弾んだ。 
「まだよ、まだ安心出来ないの」
 そう答えた少女は、コントロールパネルに開いた両手を押しつけた。
 指先からいく筋もの光が走り、機体の隅々まで走査する。
 ものの数秒で輸送機の情報をすべて把握し、少女は機体のコントロールを己の管理下へと置いた。
 少女はウインド・シップの起動キーなど必要としない。少女の命令で動力炉に信号が伝わり、輸送機が起動する。
 輸送機が起動した事を確認すると、動力炉が臨界に達するまでに艦のハッチを開かねばならない。
 少女は、再び機体を降りた。
 その時。
「あそこに居るぞ!」
 鋭い兵士の叫び声の後、耳障りな警報が格納庫へと響き渡った。
(見つかった!) 
「発砲を許可する、殺さなければそれでよい!」
 士官の上擦った声、よほど慌てているらしい。小銃の発射音に続き、激しく跳弾の火花が散る。少女はとっさに、輸送機の影に身を隠した。
「もう少しなのに」悔しそうにつぶやいて、きつく唇を噛む。
 銃撃で少女の動きを封じ、格納庫に次々と小銃を構えた兵士達が進入してくる、少女を包囲しようとしているのだ。
「……仕方ないか」
 少女は大きく息を吸うと、両の腕に意識を集中した。
 両腕が次第に発光し始め、輝きを増していく。両腕に目映い光を蓄えた少女は、心に燻り始めた破壊衝動に打ち震え恍惚とした表情を浮かべた。
 輸送機の影から躍り出た少女は、光を溜めた左腕を格納庫の入り口へ向けて無造作に振るった。少女の左腕から放たれた目映い光が、壁に当たって弾け爆発が連続して起こる。
 突然起こった爆発に驚いた、大勢の兵士達が頭を抱え、悲鳴を上げて逃げまどう。
「死にたくなければ、大人しく隠れていろ!」
 叫んだ少女は振り向きざま、残った右腕の光をカタパルト・ハッチへ向けて解き放った。
 閃光が煌めき、凄まじい爆音が轟くとハッチが爆砕し、跡形もなく消失する。爆発の際に生じた、熱と黒煙が瞬く間に霧散するほどに、格納庫へと吹き込んでくる暴風と吹雪。
 少女の小枝のような体が、吹き飛ばされてしまいそうだ。
 両腕から放った光の衝撃波は、少女の体力を根こそぎ奪い去った。気絶しそうな意識を辛うじて繋ぎ止め、少女は輸送機の機体にすがりながら歩き、やっとの思いで操舵室へ乗り込んだ。
 格納庫で燃え盛る炎。
 兵士達の混乱が収まる気配はない……好都合だ。
(きゅい……)
「艦が心配なの? 大丈夫、沈んだりしない。お前は優しいね、あんなに酷い事をされたのに」
(きゅう……)
「ありがとう。私も大丈夫だから」
 少女の声が、思わず震えた。
 気遣うような、とても心配そうな声に力無い微笑みで応じた少女は、操縦桿を握りスロットルを全開にする。
 少女は今、戒めから解き放たれたのだ。
「私が救うんだ、この子を。絶対に、私が護るんだ……絶対に」
 少女はおまじないのように、何度もつぶやく。
 動力炉が唸りを上げ、輸送機は恐ろしい厳寒の世界へと飛び出した。
 
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