ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 34.アレリアーネ |
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広大な敷地、豊かな緑、歌いさざめく小鳥達、セディア家の豪邸を流れる時間は穏やかだ。 静かな室内で紙が擦れる微かな音が聞こえた。執事も使用人もすでに見慣れているので何とも思わないのだが、初めてこの部屋に足を踏み入れれば誰もが驚きの声を上げてしまうだろう。 部屋の中に並んでいるのは、たくさんの本棚だ。整然と並べられているどの棚にも、ぎっしりと本が収められている。それもきちんとした装丁をしている高価な本だ。そしてそれだけではない、本棚に入りきらない本が部屋の中のあちこちで山になっている。 「う、ん……」 長椅子にもたれるように腰掛けている若い娘が、悩ましげな声を漏らした。 艶のある長い黒髪が、肩から形の良い胸へと流れ落ちている。ほんのりと桜貝の色に染まる白い肌、とても美しい娘だ。穏やかな西方の海を想わせる碧い瞳が、彼女が手にした本のページに並ぶ活字を追っている。 彼女の名はアレリアーネ、セディア家の次女だ。 ずるり……。ソファにもたれ掛かっていたアレリアーネの姿勢が崩れ、彼女はそのままずるずるとソファに寝そべる格好になった。貴族の、それも年頃の娘がとても人に見せられる姿ではないのだが、読書に夢中になっているアレリアーネはまったく気にならないようだ。 しばらくその姿勢のままでページを繰っていたアレリアーネが、突然ぴょこん! と体を起こした。 切なそうな表情で「ふう……」と吐息をつくと、開いていたページに可愛らしい栞を挟み、丁寧に本を閉じてそっと抱きしめる。美しい瞳を瞼で隠してしばらく瞑想していたが。抱いていた本を傍らに置いて、すっと立ち上がった。 ぼんやりと視線を天井辺りに固定していたアレリアーネは、はっとした表情で両手を胸の前で組み合わせる。 「きらびやかな装飾を施された金色の短剣。それは美しく輝き、心を魅了するのよ。彼女が受けたのは、まさに裏切りの行為……それは酷い仕打ちだった」 不意に顎に手を当てて、思案深げな表情でソファの前で行ったり来たりを繰り返していたが。 ふとテーブルの前で立ち止まったアレリアーネは、冷めた紅茶のカップを手に取ると、くいーっと一息で飲み干した。どんなに香しい紅茶も、喉を潤す水分でしかないのだろうか。 「そうだわ! だから彼女は、殺意を抱かざるを得なかったのよ!」 カップをテーブルの上の皿に戻し、空いた右手を勢い良く宙に差し伸べる。 きゅっと眉根を寄せた苦悩の表情、伸ばした右手が微かに震え出す。アレリアーネは右手を引き寄せて、じっと見つめた。 「深い闇へ墜ちようとしている魂……。それを救えるのは、彼女だけなのに。ああっ!」 その場で軽やかにステップを踏んでくるりくるりと体を回す、鮮やかな赤い長衣の裾がふわりと舞った。 「何故すれ違うの、何故気づかないの!」 まるで大きな劇場の舞台で観客を前にしている女優のように、アレリアーネは情感たっぷりに振る舞う。 「己の気持ちを信じることが、何故出来ないの!」 何かの痛みに耐えるように、身を丸めてつぶやく。自ら苦難を求める修行者のように、震えながら苦しげな声を絞り出した。 「でも貴女の気持ちが、私には痛いほど分かるわ!」 こんこん。 高揚する気分が最高潮に達した瞬間、ドアをノックする無粋な音が聞こえた。 『お嬢様、旦那様がお呼びでございます』 「もう! いいところだったのに」 先ほどまで読んでいた物語を反芻していた、アレリアーネが頬を膨らませた。 「クゥエル、私は忙しいの……」 『終わりのない妄想。いいえ、空想は後になさいませ』 「くっ!」 ドアを隔てているのに、しっかりとばれている。 まったく! 妄想とは何という言い掛かりかしら。アレリアーネは老執事、クゥエルの輝く禿頭を思い浮かべてげんなりとした表情になった。高ぶっていた感情が、急速に萎えてしまったのだ。 『お早く、旦那様もお忙しい御身でございます』 「分かりました、すぐに行きます」 主人に忠実なクウェルは、まったく融通が利かない。不機嫌そうに答えたアレリアーネは、ひとつため息を付いた。 どうして現実は、物語のようにいかないのだろう。 居間で待っていた父のアルバートは上機嫌のようだ。アレリアーネの姿を見ると、嬉しそうににっこりと微笑む。普段は留守がちで、屋敷には滅多に帰ってこないのだが。 「お帰りなさいませ、お父様。私に何か?」 アレリアーネの声には何となく棘があるが、娘を溺愛していてそれ以上に鈍いアルバートはまったく気付かない。可愛い娘の姿を見て堪えきれなくなったのか、アルバートはいきなり本題を切り出した。 「明後日に休暇が取れたのでね、ブロウニング家を訪れる予定だ。お前もそのつもりでいなさい」 「え?」 アレリアーネが首を傾げる、娘のきょとんとした表情にアルバートが不思議そうな顔をした。 「何を驚いているんだ。先週、話をしておいたではないか。ブロウニング家との縁談の話だよ」 「……あ、そのことですか」 いきなり父から言い渡された予定に、しばらく固まっていたアレリアーネはやっと声を出すことが出来た。 「お父様、ひとつお伺いします。どこから、そんなお話が転がり出たのですか?」 ブロウニング家のひとり息子、フリードとの婚約。アレリアーネは碧い瞳を瞬かせた。今頃、貴族諸侯の間では、大変な騒ぎになっている事だろう。交わされる言葉の端々に潜む羨望、嫉妬、そんな迷惑な感情を考えただけで、憂鬱になってくる。 「この間も話したはずだよ。どこからも転がり出た訳ではない、私はずっと考えていたんだ」 「私も申し上げたはずです。フリードには婚約者が、ニーナ・フランネルがいます」 「う、うん……そ、それはな、そうだが」 アルバートは、微かに表情を曇らせた。 「う、ううん。そ、そこだよ。ブレンディアはフリードとニーナの婚約を解消した、フランネル家はもう存在しないんだ。確かにブロウニングとフランネル、両 家の繋がりが強固であれば、このカーネリアも安泰だったのだがね。ニーナを屋敷に住まわせているのは、ブレンディアの情けかな」 「そんな言い方って……」 ありませんわと、アレリアーネは憤りを隠さない。もう少し言い方があるのだろうに。 この際、領内諸侯の力関係などどうでもいいことだ。煙に巻かれているような気がしてならないが、まぁ、父は策を弄せるような人間ではない、それは承知 している。娘を溺愛するが故に暴走気味なのだろう。ちぐはぐな父の言葉と微妙な表情から、そんな事情を読みとったアレリアーネは心の中で吐息を漏らし た。 「ブロウニング家で夜会を開く予定になっているんだ、集まった諸侯は驚くだろうな」 「お、お父様、ちょっと待って下さい!」 うきうきと話す勝手な父を、アレリアーネは腰に手を当てた姿勢で睨んだ。 「ですから、何度も申し上げています! ニーナは、ブロウニング家で暮らしているのですよ? フランネル家に起こった不幸をお考えになるのなら、気を利かせるべきではないのですか?」 「う……」 娘からの一言は痛かったらしい、答えに窮したアルバートは押し黙った。困ったように視線をさまよわせるアルバートは、そわそわと落ち着かない。アレリアーネが、なおも父に意見しようとしたときだった。 「旦那様、そろそろお時間でございます」 懐中時計を手にしたクウェルが父の予定を告げる。 「お、おおお。そうだったな! すまないね、クウェル! ささ、早く出掛けないと」 「クウェル、まだ私が話をしているのが分からないのですか! お父様、お待ち下さいっ!」 「わ、分かったね、アレリアーネ。私は当日まで戻らない、お前もちゃんと準備しておくんだよ」 目をつりあげるアレリアーネだが、アルバートはこれ幸いと部屋を逃げ出す。そそくさと部屋を出て行く父と、付き従う執事の後ろ姿を、忌々しそうに見送ったアレリアーネは、どん! と足を踏みならした。 「あらあら、ご機嫌斜めね」 「お、お姉様! そ、そこにいらしたのですか?」 「もぅ、失礼な妹ねぇ……」 上品な笑みを湛えているのは、アレリアーネの姉フィリアーネ。おっとりとした笑顔、姉は早々に貴族の次男が婿入りすることに決まっており。セディア家は安泰、本人ものほほんとしている。 「お父様はね、フリードを気に入っていらっしゃるから、嬉しいのよ」 「ですから、それは分かります! 私が言いたいのはですね……」 先ほど父に言いそびれた文句を姉にぶつけようとすると、フィリアーネはさっとレースのハンカチを取り出して、目頭に当てた。 「うう、遠くにいらっしゃるお母様も、草葉の陰でお喜びになっているでしょうね。貴女の美しい花嫁姿が見られないなんて……」 肩を震わせて声を詰まらせる姉。アレリアーネのこめかみの辺りに浮き上がった、太い血管がぎりりと軋んだ。 「草葉の陰って。お母様は、生きていらっしゃいますっ! それにどうかしら、あのお母様が家族の事なんて、これっぽっちも考えているわけがありません」 母の名はフェリシアという。物見遊山……旅行好きで、娘達が成人すると、これまで我慢していた欲求を解き放つように各国を飛び回っている。 ぐしゅっと鼻をすすったフィリアーネは、妹の抗議をぽやんとした顔で聞いていたが「そうだったわね」と言って笑った。 「お姉様ぁ〜」 アレリアーネは、全身に脱力感を感じて情けない声を出した。この家族は絶対におかしい、よくも貴族だなどど言えるものですわ。などと自分の事は高い高い棚に上げて、アレリアーネは憤慨する。 「貴女とフリード、とてもお似合いだと思うのだけど?」 「何度も言わせないで下さい。フリードには、ニーナがっ!」 妹の抗議をさらりとかわし、瞳を細めたフィリアーネは「うふふ」と小さく笑うと、ぽやぽやしていた表情を改めた。姉の表情の変化に、アレリアーネはびくりと背筋を伸ばして身構える。 自分を見つめる姉の瞳は、先ほどまでとはまるで迫力が違う。 「貴女にはそれが分かっているのでしょう、アレリアーネ。心に想う大切な事があるのなら、ここで憤ってなどいないで頭を使いなさい。貴女にしか出来ない事が、必ずあるはずです。大切な思い出を壊したくないのなら、精一杯の努力をしなさい」 フィリアーネは強い口調でそれだけ言うと、またほやんとした笑顔を浮かべた。 「いいわね?」 「わ、分かっていますわ、言われなくたって」 アレリアーネは俯いて爪を噛むと、悔しそうに小さくつぶやいた。 (それにしてもあの二人、いったい何をやっているの?) ☆★☆ アレリアーネは自室へと戻り、持て余した気持ちを整理しようとする。読みかけの本に目を向けても、とても手に取る気になどなれない。この部屋にある本は物語という旅だ、手に取った本を開けばその旅への扉が開かれる。 まだまだ、魅惑的な旅が自分を待っているというのに。 (私がフリードと結婚なんて、いきなりそんな話をされても。……ああ、そうではなくてっ!) そんな事を、ぼんやりと考えていたアレリアーネは、我に返ると、ぶんぶんと頭を振った。 「あの二人、本当にもどかしい。フリードも情けないわ。ニーナを連れて、遠くに逃げてしまえばいいのに」 何やら物騒な事を考えたアレリアーネだったが、すとんとソファに腰掛けて綺麗な足を組んだ。ついでに腕組みをして考える。姉に言われなくても分かっている。あの日、温かな光の中で交わした約束、美しいニーナの歌声、少しも色褪せる事が無い二人の笑顔を思い出した。 「……うん」 しかし、何をどうすればよいのか妙案は浮かばず、苛立たしさは募るばかり。いっそ裏から手を回して二人を駆け落ちさせようかなどと考えていたアレリアーネは、バルコニーに立っている大きな人影に気が付いた。 「だっ、誰っ!」 もしや賊っ? 叫び声を上げようとしたアレリアーネだったが、それが見知った顔だと気が付いてソファを立った。 「よう」 「どちら様ですの?」 アレリアーネがわざとらしく問うと、バルコニーで軽く手を挙げた背広姿の男が、情けない顔でがっくりと肩を落とす。 「冗談ですわ。お元気かしら、アルフレッドおじさま」 その姿に笑いを堪えながら、大きな窓の鍵を開けて微笑む。 「お前が言うと、本気かどうかわからねぇよ」 「あら、それはどういう意味ですの?」 片方の眉を上げたアルフレッドは「言ってもいいのか?」と、ばかりに意地悪そうな笑みを浮かべる。しかし、アレリアーネはそんなアルフレッドを前にしても怯んだりしない。 「一歩足を踏み出せば、頭の中に空想の世界が広がっているお嬢様だからな」 「随分と失礼な事をおっしゃいますのね」 可愛らしく、むくれてみせるアレリアーネ。「へへ、けなした訳じゃねぇよ」部屋に入ったアルフレッドは、宥めるようにひらひらと手を振った。 「久しぶりだな」 「ええ」 機嫌を直したアレリアーネは、軽く会釈をして答えた。 諸侯の間では胡散臭い男と思われているアルフレッドだが、アレリアーネはそう思わない。安寧を貪る大半の貴族達と違い、事業を興し精力的に生きている姿を好ましく思う。 まぁ、ここ数年は苦労しているらしいと、アレリアーネも噂に聞いているが。 アルフレッドは騒動を呼び込む体質なのかいつも周囲は騒がしく、たくさんの人が翻弄される。しかし不思議と誰も不幸にならず、何となく丸く収まってしまうのだ。 ちょっと危険で、不思議な魅力を持っている男性。アレリアーネは、アルフレッドをそう評している。 そして彼が訪れた理由は……おそらく。 「もしかして、私とフリードの縁談を聞きつけたのですか? 良い耳をしていらっしゃいますわね、おじさま」 「相変わらず勘が良いじゃねぇか、貴族のお嬢様とは思えねぇ」 「褒められたと思っておきますわ。それにしても、堂々と玄関から入ってこられないなんて。訳ありと思った方がよろしいかしら?」 ソファに座るアルフレッド、アレリアーネは注意深く探るような口調で言った。 「まったく、お前には感心するよ。なぁに、お前の気持ちを聞きたいんだ。相談はそれからさ」 表情を改めたアルフレッドは、真剣な面持ちで口を開いた。 |
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