ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 36.深紅の乙女 |
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夕暮れが訪れ、夜会が開かれる時刻が迫っていた。 客室に置かれている鏡台の前で、アレリアーネの着替えを手伝うミレーヌが頬を紅潮させている。 「あのぉ。いくらなんでも、絞め過ぎだと思いますぅ」 「まだよ、まだ足りないわ」 背中でコルセットの紐を絞めているミレーヌが困ったように言ったが、アレリアーネは厳しい表情で首を横に振った。 「でも、あんまり絞め付けると、お食事が出来なくなりますよ……」 「私は夜会なんてどうでもいいの。それよりも、気を張っていなければいけないから」 ミレーヌは仕方なく、力を込めて紐を引っ張る。 「はふうぅ……」 アレリアーネの着替えが終わる頃には、ミレーヌは疲れ果てて床に座り込んでしまった。 「うにゅう」と情けない声を出して、ぐったりとしていたミレーヌだったが。ふん! と勢いを付けて立ち上がると、鏡台の前で化粧を確かめているアレリアーネに近づいて櫛を手に取った。 「えっと、アレリアーネ様、髪を梳きます」 「ええ、お願い」 硬い表情を緩めたアレリアーネ。ミレーヌは丁寧にアレリアーネの長い黒髪を梳かす。 櫛を動かすミレーヌは始終無言だ。それは仕事に集中しているからなのだが、夜会でフリードの婚約者に決まるであろうアレリアーネの世話をする事に、抵抗があるのかもしれない。 アレリアーネは気付かれないように、鏡に映る一生懸命なミレーヌの表情を見遣り、微かな笑みを浮かべた。 「ええと、髪は結い上げますよね?」 「いいえ、このままでいいわ。その方が効果的よ、翻る長い髪は存在感を示せるものね」 「え?」 背中まである長い黒髪を、ふわっと手で広げて見せたアレリアーネを、ミレーヌが不思議そうな顔で見ている。 「ありがとう」 椅子を立ったアレリアーネは、振り返ると不意にミレーヌを抱き寄せた。 「あ、あ、あ、アレリアーネ様っ!」 「……ミレーヌ。あなたは、ニーナが大好きなのね」 耳元で囁くアレリアーネ、驚いて体を固くしていたミレーヌは、消え入りそうな声で「はい……」と答えた。 「ありがとう、ニーナを好きでいてくれて。それから安心なさい。フリードの相手は私ではなくて、あなたが大好きなニーナだから」 アレリアーネは、ミレーヌを抱く手に力を込めた。 「あのね。これからニーナは、心配が絶えない毎日を送ると思うの。私が側に居られればいいのだけれど、そうもいかないでしょう。だからあなたに、ニーナの心を支えてもらいたいの」 「え? で、でもぉ、わたしは何にも出来ないから」 「ううん。大丈夫よ、ミレーヌ。私はあなただから、こうしてお願いするの。ニーナの心を支えて頂戴」 アレリアーネは真剣に、ミレーヌへ語り掛ける。その気持ちが伝わったのか、ミレーヌはおずおずとではあるが、アレリアーネの背中へと両腕を回した。 「は、はい……」 ちょっと頼りないが、それは決意を込めた声だった。 「ごめんなさいね、突然」 ミレーヌの体を離したアレリアーネは、その答えをしっかりと胸にしまい、まるで戦いに赴く騎士のように表情を引き締める。 「さあ、運命の舞台へ向かわないとね」 身に纏うのは、燃え盛る炎のような深紅のドレス。ふわりと長い黒髪を翻し、アレリアーネが小さくがつぶやいた。 ☆★☆ 昼を過ぎた頃から、夜会に招待された貴族諸侯が集まり始めていた。 今までにない客の数に、執事のカリナをはじめ使用人達は、料理の準備や部屋の準備やらで大忙しだ。後から到着したセディア家の使用人が手を貸してくれたので、やや遅れながらも夜会の準備はようやく整った。 屋敷の広間では数人の演奏家達が、楽器を手に緩やかな音楽を奏でている。 集まった貴族の面々は皆きらびやかに着飾り、それ以上に言葉を飾りたてて自らの地位や富を誇る。そして互いの腹を探り合い、うわべだけの賛辞を繰り返すのだ。 アレリアーネは広間に満ちている、そんな空気を肌で感じて軽い目眩を覚えた。それでも足を踏ん張り、顔にはにこやかな笑みを張り付けて、次々に挨拶を交わす。 誰もが縁談の事を伝え聞いているのだろう、アレリアーネの周囲に集まる貴族の娘達。 言葉の端々に感じる、羨望や妬み……。アレリアーネは内心で呆れながらも、たおやかな笑顔を絶やすことがない。 屋敷の主であるブレンディアとアルバートがまだ姿を見せていないので、周囲には雑談のざわめきが満ちている。一応の挨拶が済んだところで、アレリアーネはさっと広間を見回したが、ニーナの姿が見えない。 「ニーナは裏方なのね……」そう見当を付けたアレリアーネは、目立たぬようにそろりそろりと後ずさりをして広間を抜け出した。 「もう、面倒を掛けるんだから!」 屋敷の間取りは、ちゃんと覚えている。ぶつぶつとこぼしながら、肩をいからせて廊下をずんずんと歩くアレリアーネは、アルフレッドとの話を思い出していた――。 「お前とフリードの噂で、あちこち大騒ぎさ」 「まったく、耳聡くて下世話な噂に敏感。気分が悪くなりますわ……」 アルフレッドの話は思った通りだ。真偽を確かめるために、探りでも入れに来たのだろうか? それはご苦労な事だ。アレリアーネは組んだ足に肘を付いて、大きな溜息を漏らす。 「それで、お前はどうなんだ?」 「やっぱり……おじさまは私を見て、どう思われますの?」 冷ややかな視線を向けてアレリアーネが反対に問い返すと、アルフレッドは片方の眉を上げて顔をしかめた。 「おい、勘違いするんじゃねぇよ」 珍しく困ったような顔で顎を撫でながら言葉を選んでいたアルフレッドだが、膝をぱん! と叩くとアレリアーネに深々と頭を下げた。 「俺は色恋沙汰には疎いんだよ、だから縁談そのものには興味が無い。頼むから、お前の胸の内を正直に聞かせてくれ。そうでないと、俺も話が出来ねぇんだ」 「おじさま! 顔を上げて下さいっ!」 アルフレッドの表情から、何か切迫した事情を読みとったアレリアーネは表情を改めて、すっと背筋を伸ばした。 「私は、フリードとニーナが交わした約束の見届役ですもの。二人の邪魔をする訳にはいきませんわ。ええ、そんな無粋な真似は出来ません」 「なるほど、ニーナとフリードの約束か」 「ええ、私は二人の幸せを望んでいます」 「ありがとうよ、アレリアーネ」 再びアレリアーネに頭を下げた後、安堵したような表情で頬を掻いていたアルフレッドは、懐からひとつの紙包みを取り出してアレリアーネに差し出した。 「俺に考えがあるんだ、是非ともお前に協力して欲しい。これが成功するか否かで、世界の運命が変わっちまうかもしれねぇ」 「随分と大袈裟な事をおっしゃいますのね」 首を傾げたアレリアーネは紙包みを受け取った、ずしりとした重さを感じて眉を顰める。 「これは?」 「おう。遠慮は要らねぇ、開けてみろよ。協力者へのささやかな贈り物さ」 自慢げに、にっと笑うアルフレッド。訝しげな表情のままアレリアーネは紙包みを開け、中から出てきた品を見て大きく目を見開いた。 「こ、これはっ!」 それは一冊の本だ。しかも、それがただの本ではない事を、本好きのアレリアーネは良く知っている。 「フィレンツィーエの『リトレッジの夜想曲』ではないですか! ど、どうして、古典文学などとは無縁そうに見えるおじさまが、こんな貴重な本を?」 「そこはかとなく失礼だよな、お前……」 本を胸に抱いて、興奮しているアレリアーネ。苦笑したアルフレッドは、辺りをはばかるように声を潜めた。 「聞いて驚け、そいつが全巻揃っているからよ。俺の頼み事は、それくらいの対価が必要だってことさ」 本の表紙を食い入るように見つめていたアレリアーネは、顔を上げて表情を改めた。 「ちょうど私も、方策はないかと考えていたところですの。おじさまのお話をお伺いしますわ、私にお任せ下さいませ!」 そう言って嬉しそうに本を抱いていたアレリアーネは、ふと何かに気が付いたようにジト目でアルフレッドを睨んだ。 「……おじさま、本当に疎いんですのね。この貴重な古書を、賄賂にするつもりだったんですの?」 そうだ――。 『リトレッジの夜想曲』は身分違いの恋……。悲恋を描いた物語だ、それを再現する訳にはいかない。 アルフレッドとの交渉は成立している。だからという訳ではないが、事をうまく運ばなければならないのだ。 「裏方なら、きっと厨房に違いないわね」 アレリアーネは躊躇することなく、長い黒髪を翻して厨房へと足を踏み入れた。客に振る舞われる為にたくさんの料理が準備されているが、そんな事はどうでもいい。 「ご苦労様、お仕事中に失礼するわ。ニーナはここに居て?」 突然姿を見せたアレリアーネの姿に、厨房内のシェフ達が驚いた。まさか夜会の主役であるお嬢様が、厨房に現れるなど考えられない。皆一様に目を丸くして、仕事の手を止めている。 「あ……」 聞き覚えがある小さな声に、アレリアーネが反応して顔を向けると、視線の先には棒立ちになっている娘の姿。 使用人の服を着て、エプロンを身に付けている金色の髪をした娘。少し痩せているかもしれないが、間違いなくニーナだ。アレリアーネは硬直している使用人達の間をすり抜けて、ニーナに近づくとその手を取った。 「お忙しいところを、ごめんなさい。ニーナを借りますわ」 「あ、あのっ! アレリアーネ……様」 「では、失礼」 ニーナが慌てたように抗うが、アレリアーネは掴んだニーナの手をぎゅっと握って離さない。唇を引き結んだアレリアーネはニーナを引っ張るようにして、静まり返ったままの厨房から連れ出した。 「お待ち下さい。ア、アレリアーネ様……」 「ニーナ! 私を相手に、なんて言葉遣いをするの!」 「で、でも」 人気がない場所までニーナを引きずって来たアレリアーネは、口ごもるニーナの両肩を掴んだ。厳しい表情で激しく揺さぶる。 「いい加減にしなさい、ニーナ。このうえ、婚約おめでとうございますなんて言ったら、遠慮なくひっぱたくわよ? 時間がないの、私はニーナ・フランネルに話があるのよ」 アレリアーネは、碧い瞳でじっとニーナの顔を見つめた。揺れる青玉石の瞳が、アレリアーネの強い視線を避けるように逸らされる。 「逃げないで! 私の目を見なさい、ニーナっ!」 アレリアーネは、もう一度大きな声を出した。 「あの日の約束を覚えているのでしょう? あなたは心に、フリードへの想いを抱いているのでしょう?」 「で、でも。私はもう、フリードの婚約者ではないから」 「ああっ! もう、じれったいわね。あなたがそんな事でどうするの!」 声を荒げたアレリアーネはいきなり、両手でニーナの顔を挟み込んだ。 「あなたは、フリードと一緒に居たいのでしょう!? はっきりと答えなさいニーナ! ニーナ・フランネルっ!」 アレリアーネの腕を強く掴んだ、ニーナの細い指が震えている。正面からアレリアーネを見つめる、美しい青玉石が濡れて、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。 「……ええ、そうよ」 喉の奥から苦労して声を絞り出したニーナが、アレリアーネを睨み付けた。 「一緒に居たいわ! フリードと、ずっと、ずっと一緒にっ! 厭よ、誰にも渡さない、渡したくないのっ!」 叫ぶように言い放ち、力を失ったニーナがその場に泣き崩れる。自分の心の奥底へと沈めた愛しい人への想い。どんなに我慢していたのだろう、どんなに憔悴していた事だろう。大きな声で叫びたかった事だろう。 肩で息をしていたアレリアーネは、大きく息をついて、しゃくり上げるニーナの側へ両膝をついた。震える体を抱き寄せて、優しく金色の髪を撫でる。 「よく頑張ったわね、ニーナ。あなたの気持ちはよく分かったから……安心なさい」 「……アレリアーネ?」 「大丈夫よ、私に任せておけばいいわ」 頬を濡らすニーナの透き通った涙を、ハンカチでそっと拭ったアレリアーネが微笑んだ。 アレリアーネが大広間の扉を押し開くと、ちょうど父が調子良くしゃべっているところだった。 アルバートは娘の姿に気付くと、すぐに相好を崩し両手を広げてアレリアーネを迎えた。 「何処へ行っていたのだ、アレリアーネ。今宵はお前が主役なのだよ」 嬉しそうな父の顔を見ると、アレリアーネの心がチクリと痛む。「ごめんなさいね、お父様」アレリアーネは心の中で、父に深く詫びた。 今日まで縁談を断らなかったのは、セディア家が縁談を断れば、我先にと名乗り出る家が現れることを憂慮したからなのだ。 父の隣に並んだアレリアーネは、もう一度優雅な仕草で挨拶をした。ぱらぱらと起こった拍手が、次第に大きくなる。その拍手の中、正装に身を包んだブレンディアとフリードが広間へと入って来た。 さらに大きくなる拍手、アルバートは片手を挙げて皆の拍手を制し、家主であるブレンディアが前に進み出て、アルバートの隣に並ぶ。 「皆様、ようこそお集まり下さいました。平素より当家に対して皆様の並々ならぬご助力、心より感謝しております」 視線を巡らせ、ゆっくりとした口調で丁寧に日頃の礼を述べるブレンディアが頭を垂れる。己の責務に真摯であり、受けた恩義への礼を丁寧に述べるその姿は、やはり領主にふさわしい。 「諸侯の皆様に、正式にお伝えする事がございます。当家のフリードと、セディア家の令嬢、アレリアーネとの……」 「お待ち下さい、おじさま」 ブレンディアの言葉を遮り、アレリアーネが前に進み出た。漲る生気、凛とした表情、強い決意を秘めた碧い瞳。深紅のドレスに身を包む、薔薇の乙女。 「申し訳ありません。失礼かとは存じますが、それは私から申し上げます」 驚いたブレンディアだったが、口を噤むとアレリアーネに場所を譲った。 「皆様。ようこそおいで下さいました」 全身に受ける視線に怯むことも無い。最上級の笑みを浮かべて、アレリアーネは堂々と胸を張った。 アレリアーネとの約束で、すべてを委ねているフリードは身動ぎひとつしない。真剣な顔で、ただじっとアレリアーネを見つめている。 「逢魔時を過ぎ……魅惑的で静かな夜です。今宵は私が身に纏う深紅のドレスのように、熱い炎を感じて頂きますわ」 アレリアーネの言葉の意味が解らない者達は、言葉を発する事が出来ない。 「お集まりいただいた皆様も、よくご存じでしょう。フリード様とフランネル家の一人娘、ニーナ嬢の婚約が決まっていた事を……」 アレリアーネがふと表情を曇らせると、居並ぶ婦人達はその雰囲気を察し、口元をそっと隠して微かな囁きを交わす。 「ア、アレリアーネ、何を言い出すんだ!」 「お父様、大切なお話なのです。少しの間、どうかお許し下さい」 ざわめき始めた広間。 アルバートが慌てて止めようとしたが、父へと振り返ったアレリアーネは、強い口調で父を黙らせた。 気まずい雰囲気に、広間が水を打ったように静まり返る。 それを待っていたように、アレリアーネが朱に染めた唇を開く。「そうよ、しっかりと私を見ていなさい」胸に右手を当てて、少しばかり俯いた。 「ブ、ブレンディア……」 困り果てたようなアルバートは、隣のブレンディアに救いを求めるように目を向けた。しかし、眉根を寄せた厳しい表情のブレンディアは瞑目し、口を開こうとはしない。アルバートはただおろおろと頭を抱えて、娘の後ろ姿を見つめている。 「穏やかな日々、交わされた幼い日の約束。私は二人の輝く笑顔を、とてもよく覚えています」 顔を上げて人々へ視線を戻したアレリアーネは、ゆっくりと両腕を大きく広げた。胸に抱く大切な思い出を、人々へ誇らしげに掲げるようなその仕草。 「ですが……フランネル家を襲った思いがけない不幸。お互いに惹かれ合う二人は、突然に引き裂かれる事になったのです」 アレリアーネは沈痛な面もちで、視線をゆるりとフリードに向ける。 「ブレンディア様のご決断。それは断腸の思いであったと、私は思っています……」 フリードとニーナの婚約解消は、ブレンディアの望むところでは無かったと、あくまで周囲への多大なる影響を考慮した上での致し方無い決断であったと、人々に強く印象付ける。 勝負はここからだ。 アレリアーネは自らを、わがままな貴族の小娘だと演じ切らなければならない。 「フリード様は、今でもニーナを心より愛していらっしゃいます。そうですわね、フリード様」 射貫くような視線を向けられたフリードが肯き、その視線を迎え撃つかのようにアレリアーネを見つめ返す。フリードの強い意志を見届けたアレリアーネは、自分を見ているたくさんの瞳と視線を合わせるように広間全体を見渡して、自分の体を強く抱きしめた。 「私は、愛する方の心すべてが欲しいのです!」 荒れ狂う嫉妬の炎に堪えるかのように、身体を抱く手に力を込める。引き攣る両手が震え、手の甲に腱が浮き上がった。 「私は我慢出来ません。命尽きる日まで添い遂げる方の心に、少しでも他の誰かを想う気持ちがあるなんて……」 考えただけでもおぞましい、アレリアーネはそう言わんばかりに激しく首を横に振った。ばさりと翻る長い黒髪。堪えられぬ心を表すように眉を寄せた苦悶の表情、誰もが言葉を発する事無くアレリアーネを見つめている。 まるで舞台で演じる女優のように、アレリアーネの言葉と仕草は人々の心を惹きつける。 しかし、アレリアーネが演じるのは舞台劇などでは無い。見えざる力を込められたコトノハが告げる想いは、一途で真剣なものだ。それは、広間で立ち竦む者達の心を揺らす。 「フリード様に、命を賭けて頂こうと思いますの。未練などみっともないですわ、はっきりと白黒を付けましょう」 顔を上げたアレリアーネは、微かな狂気さえ閃かせて小さく微笑む。 ついに、舞台は最高潮へと向かうのだ。 「フリード様は類い希なる才能、ウインドシップの操舵術を身に付けていらっしゃいます」 魔力を放つようなアレリアーネの妖艶な笑みに、誰もが心を奪われているようだ。 「ここカーネリアの地は、今年開催されるウインドシップレースのスタート地点」 ざわり……。 事の成り行きを予想する事が出来たのだろう、小さな声が上がった。 「これは最後の機会です」 もう誰も、アレリアーネから目を離す事が出来ない。 「フリード様に、ウインドシップレースへと出場していただきます!」 大きくなるざわめきを掻き消してしまう、アレリアーネの強い声が広間に響いた。 「見事レースを制して帰還すれば、再びニーナとの婚約を。もしも途中で断念し、うなだれてカーネリアに戻るような事になれば、きっぱりと諦めて下さいませ。そして私が生涯、貴方を優しく慰めますわ……そう、冥府の扉を開くその日まで」 形の良い唇に人差し指を当てたアレリアーネがふと見せた、慈愛深き表情と共に存在する残酷な笑み。誰もが息を飲んで、成り行きを見守っている。 「貴方がこの勝負に勝てば、家を無くした可愛そうなニーナを妻に娶る事が出来るのです。いかがです? この賭けに乗る気はありまして?」 鋭い棘を持つ、深紅の薔薇のようなドレス。 アレリアーネが胸元に忍ばせていた光を弾くそれは、間違いなくウインドシップの起動キーだ。 「ああ、望むところだ」 「これで私も、嫉妬の炎に身を焦がさずにすみますわ」 フリードは迷うことなく、挑戦的なアレリアーネの言葉と共に起動キーを受け取った。賭けを承諾したフリードに、広間のざわめきがいっそう大きくなる。 「か、賭だと? 何を馬鹿な事を! フ、フリード! アレリアーネ、どうしたんだ。お前達は自分が言っている事が、分かっているのか! ブレンディア、黙っていないで何とか言ってくれ!」 髪を振り乱す、父の声が裏返っている。 フリードが起動キーを握りしめた拳を突き出すと、静かに目を開けたブレンディアが口の端を上げ、大きく肯いた。敵同士のように向かい合い、火花を散らし睨み合う父と子の姿。 これでもう止められない、ここからは新たな物語の始まりなのだ。アレリアーネは、体中の力と感情のありったけを込めて叫んだ。 「皆様。フリード様が命を預ける翼を、ご覧下さいませっ!」 アレリアーネが勢い良く右腕を振ると、窓際に立つカリナがパチリと指を鳴らした。屋敷の広間にあるすべてのカーテンと窓が次々と開いた。誰もが闇の中に目を凝らす。窓の外、中庭を覆う暗闇の中に何かが見える。 その時、目映い光が人々の視界に弾けた。ばさりと音を立てて翻った闇色の大きな布が宙を舞う。 強い光の中に浮かび上がったのは、大型トレーラーの荷台に積まれた一機のウインドシップの姿だ。 まるで隼を思わせる姿、純白に染められた機体。クチバシのような形状の機首、機体の後方、左右に装備しているのは双発の動力炉。二枚の尾翼が天に向かって伸びている。そして風に乗るのではなく、風を切り裂くように鋭い蒼色の翼――。 「こ、この機体は……」 銀色に輝く起動キーを強く握り、息を止めてその美しい機体を見つめるフリード。 感嘆の声が、あちこちから上がった。 充分に人々の興味を引きつけて、アレリアーネが大きく息を吸う。 「蒼穹へと羽ばたく翼の名は、シルフィードと申します!」 アレリアーネの声に、広間に満ちていた興奮は最高潮に達した。 |
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