ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 51.夢を育む大地 |
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グランウェーバー国の片田舎である、カーネリア領に訪れた季節の移ろい。 強くなり始めた日差し、緑が多い庭園の花壇に植えられた花が様変わりし始めた。庭園の手入れを任されているトムとカナックは麦藁帽子を被り、早朝から草花の世話に汗を流している。 光を受けて色鮮やかに咲く花は、この花壇に集まる子供達のためにとフリードが植えたものだ。 花壇の世話を任されたカナックがじょうろを手にしたままで、先ほどからぼんやりと青空を見つめ続けている。その姿を見ていたトムは、伸ばした腰をとんとんと叩きながらカナックの側に寄ると、後ろ頭を軽く小突いた。 「痛て」 よろよろとつんのめったカナックは、それでもまだぼんやりとしている。小突かれた後ろ頭をさすると、ほうっとため息をついた。 「おい、こら、カナック。ぼやっとしていないで体を動かさないか!」 「おやじさん。フリード様は今、どのあたりなんでしょうねぇ」 どうやらカナックは、フリードの事を考えていたらしい。やれやれと鍬を担いだトムは、ごつごつした手、毎日の力仕事で太くなった指で顎を掻いた。 「ん、そうだなぁ……」 カナックの疑問を受け取ったトムは、そうつぶやいて青い空を見上げる。まだまだ記憶に自信がある頭を回転させて、ウインドシップレースの航路図を頭の中へと思い描いた。 「今頃は、ニーベルン湾を越えた頃じゃないのか?」 ニーベルン湾を越えればその先は大陸五大国のひとつ、長い歴史を持つリィフィート国が見えてくるだろう。トム自身、外国になど行ったことがないので、その景観についてはよく分からないが。 だんだん気温も上がってきた、そろそろ休憩する頃合いか。トムは麦わら帽子を脱いで、襟元をぱたぱたと扇ぐ。 「フリード様は、随分と遠くへ行っちまわれたんですねぇ」 「馬鹿野郎、辛気くさい声を出すな。フリード様はレースが終われば、カーネリアに戻られるんだ。行っちまったままみたいな言い方をするんじゃない」 カナックもよく分かっているのだろうが。どうにも寂しいらしく、背中を丸めて再び大きな溜息をついた。 「カリナが毎日のように新聞を抱えて帰ってくる。レースの状況がどうなっているか、詳しく聞いてみるんだな」 黒髪の執事は毎日のように街へ出掛けて、レースについての記事が掲載されている新聞や情報誌を大量に買い集めてくるのだ。仕事をしながら思案深げにぶつ ぶつとつぶやくカリナの姿は何やら危ない、あれでよく失敗したりしないものだ。お館様にどやされたりはしないかと、トムは冷や冷やしている。 「カリナさん、フリード様が心配でしょうね」 「ああ、毎日そわそわしているさ。それに比べて、ニーナ様は肝が据わってる。うん、たいしたもんだ」 トムが見るところ、ミレーヌと毎日の仕事を一生懸命にこなしているニーナの様子に変わりはない。 おそらく、周囲にそう感じさせないように振る舞っているのだろうが。曇ることがない青玉石の瞳は、いつも美しく輝いている。 「はい、良い奥様におなりだと思います」 「ああ、そうなって欲しいもんだ」 嬉しそうな顔で言ったカナックに、トムが何回もうんうんと肯く。しかしカナックの心配は尽きないようで、また不安げな表情で肩を落とした。 「ウインドシップレースには、熟練の冒険者がたくさん出場しているんですよね? そんな連中を相手にして、フリード様は勝てますかね」 「何を言っていやがる、当たり前だろうがっ!」 眉を吊り上げて大声を出したトムが、弱気なカナックの背中を、ばん! と、叩いた。 「……と、言いたいが。まぁ正直に言えば、それは神のみぞ知るってやつだ。儂等は、フリード様の無事を祈るしかないんだよ」 トムは若い頃から、ブロウニング邸で働いている。 無邪気に笑いながらトムに向かって両手を伸ばす、幼い頃のフリードの姿を忘れない。トムが小さな体を高く抱え上げると、フリードは琥珀色の瞳で空を見つめ「もっと高くもっと高く」と、はしゃいでいた。 あの頃を思えば、逞しく成長なさったものだと感慨深い。 「フリード様。ニーナ様は、ただひたすらにあなたの無事を祈っておられます……」 トムの視線の先に広がる果てない空、その愛する空を駆けるフリードの姿が目に見えるようだ。 トムの予想は当たっていた。シルフィードと共に、ニーベルン湾を渡り終えたフリード。 だが……。 陽の光に温められた土の匂い――。 「それっ!」 筋肉を軋ませた両腕で最上段に振り上げた鍬を、気合いと共に乾いた大地に叩きつける。腕から伝わった振動が体を通り、腰を痺れさせて両足を伝い踏みしめた大地に抜けていく。 「おう、兄ちゃん! 顔に似合わず良い腰つきだ。なかなか頑張るねぇ、たいしたもんだよ!」 トラクターに乗って側を通りかかった髭面の農夫が、麦わらぼうしのつばを撥ね上げると感心したように言った。 「あ、ありがとうございます」 顔に似合わずというのが気になるが。その農夫達に混じって仕事に精を出すフリードは、肩に掛けたタオルで汗を拭い、朗らかな笑顔をみせた。 「端っこはその辺りでいいぜ、後はトラクターで耕せるからな」 「分かりました」 鍬を下ろしたフリードは、力仕事でぎしぎしと軋む腰を伸ばす。 一息ついて見渡せば、遙遠くに地平線が見えている。視界に映るのは空色と茶色の境界線だ。体を温める日差し、踏みしめた土の感触、足下から立ち上る土の匂い。随分と久しぶりだ。 農繁期には、カーネリアの領民達と共に農作業に没頭した。彼らに比べれば微力でしかなかったが、フリードも精一杯に頑張った。 収穫の喜びに湧く皆の顔を思うと、胸が熱くなってくる。 「みんな! そろそろ休憩にしよう!」 たくさんの農夫達が働く大農場に、大きなサイレンが農場に響き渡った。 暑い中での作業、絶妙のタイミングで声を上げたのは農夫達の作業を監督している青年だ。農作業など似合わぬ痩躯、フリードよりも幾分年上だろう。それぞれに休息をとる農夫達を見回した青年は、ふとフリードの方を向くと怪訝な表情で眉を顰めた。 「ところで君。見かけない顔だけど、何処から来たんだい?」 しげしげとフリードの顔を見つめながら、青年が問い掛ける。 「あ」 その一言で、我に返ったフリードの顔がひきつった。 農地の中にぽつんと建っている粗末な作業小屋、その小さな建物の窓はすべて開け放たれている。そうしていないと、天井が低いので熱が籠もってしまうのだ。 「いや。すまなかったね、フリード君。日雇いの人夫さんを運ぶ時に、勘違いがあったようだ」 そう言って、苦笑いした青年の名はミラー・ウィンストン、この広大な農場の管理者だ。 フリードの前には、冷やした薬草茶を満たしたグラスが置かれている。喉を潤すとともに、疲労回復の効能があるらしい。 それはゲートを通過し、ラルゴウの街に到着した際の事だった――。 フリードはトールと二人で、運営委員へ駐機したシルフィードを預ける手続きに向かったヴァンデミエールの帰りを待っていた。 日はまだ高いが、今日の行程はここまでだ。ラルゴウの街で一泊し、明日の早朝に出発という予定になっている。 煉瓦造りの建物の壁に背を当てて大通りの賑わいをぼんやりと眺めていると、次第に周囲が騒がしくなってきた。二人の前に集まってくるたくさんの人々は、若い男達ばかりだ。皆、鍛えられた大きな体をしている。 「ね、ね、フリード。みんな、ごつい体をしているよね」 「人待ち顔だけど、何があるんだろう?」 大柄な男達に囲まれて、フリードとトールはひょろひょろに見えてしまう。 二人が首を傾げながら辺りを窺っていると、数台の大きなトラックが通りの端に停車した。その瞬間にざわめきが広がり、大勢の人々に流れが生じたのだ。 「トール、危ないからこっちに来るんだ」 小柄な少年を心配してトールへと手を伸ばしたフリードだったが、後ろから押されて自分が人の波に飲み込まれた。 「わ、フリード、何処に行くんだよっ!」 「ど、何処って、ぼ、僕に聞かないでくれっ!」 フリードは急流に流されるかの如く、あっという間に運ばれていく。人波から抜け出そうと懸命にもがくものの、大柄な男達はびくともしない。 「ちょっと待って下さい、僕は関係ないんだっ!」 慌てるフリードが叫び声を上げるが、その声は雑踏に掻き消され誰の耳にも届かない。 「後がつかえているんだ、お前も早く乗れよ!」 「いえ、ちょっと、だから僕は、違うんです。あ、あ、あのっ!」 「おら、こちとら忙しいんだ、早く乗れって!」 その一言と共に腕を掴まれたフリードは、トラックの荷台に引っ張り上げられた。 トラックは集まっていた日雇いの労働者を迎えに来ていた。フリードは荷台にぎっしりと詰まった人夫と共に、この農場へと運ばれたというわけだ。しかも久々の農作業に没頭してしまった、フリードは頬を掻きながら乾いた笑いを漏らす。 『ウインストン農場』ミラーはその巨大な規模の農場を、文字通り経営している。 彼は荒れた土地を開墾して広大な農地を生み出した。気候風土の特性を詳しく調査、土地柄に似合った農作物を選定し、効率的な収穫を目指す生育プログラムを練り上げる。 大勢の農夫を雇い入れて作付けから、その世話、刈入れ、収穫した農産物を商品として流通までを一貫して行う。 ミラーは大地を切り開く腕力は無いものの、その痩躯に知力を備えているようだ。 「色々と規定もあるようだが安心してくれ。こちらの手違いだったと、パルムナの街に設置された競技運営委員会に連絡してあるよ。出発は明日の早朝なのだろう? 今夜は泊まっていくといい、君のお連れ二人も了承してくれた。もっとも、女の子の方はかなり不機嫌な声だったがね、宥めるのが大変だった」 不機嫌な女の子とはヴァンデミエールのことだろう。眉をつり上げ、腕を組んで仁王立ちしている姿を想像したフリードは思わず苦笑した。 「君は、農作業の経験があるのかい?」 「はい。自慢できるほどではありませんが」 謙遜ではなく本当の事だ。ミラーは、フリードが披露する失敗談を楽しそうに聞いている 初めて鍬を握ったフリードは力の入れ方すら分からず、まったく使い物にならなかった。領内の畑で働く皆から農作業のなんたるかを教えてもらい、幾分マシにはなったものの。まだまだ一人前と認めて貰った訳ではない。 「……さて、話足りないようだけど。話もこれくらいにしようか、もう夕刻だ」 「すみません。では、お世話になります」 「ああ、遠慮しないでくれ。作業も随分と頑張ってくれたんだ。助かったよ、ありがとう」 ぺこりと頭を下げるフリードに、ミラーは微笑んだ。 湯を使って汗を流した後で食事をご馳走になる、農場で穫れた様々な野菜を使った料理はどれも美味しい。昼間の力仕事のせいだろう、空腹はまさに最高の調味料だ。 あてがわれた来客用の部屋で少し落ち着けば、胸の中で頭をもたげるのは心配だ。 ヴァンデミエールとトール、水と油のような少女と少年が喧嘩をしていなければいいのだが。しかし、仲裁役である自分が不在となるのは、二人にとっても良い機会かもしれないとフリードは思う。 カーネリア領を旅立ったのが遠い昔のように感じられる、あれから幾つ目の夜を過ごしたのだろうか。緊張の連続に強張っていた体も、慣れてきたのかそれほどに苦痛を感じなくなってきた。しかし、ここで気を抜くわけにはいかない、まだレースは中盤戦に突入したばかりだ。 天井を見つめていると、いつまでも頭の中を思考が巡る……。いや、考えるのはここまでだ。 ベッドに体を横たえて目を閉じると、ほどなく心地良い眠りへ誘われる。 フリードはゆらゆらと夢の街を漂い始めた。心の中でフリードが求めているからなのだろう、耳を澄ませばニーナの歌声が聞こえてくる。体にふわりと触れる優しく温かな旋律に、癒され励まされる。 どのくらいの間、そうして夢の街を漂っていたのか。 繰り返される眠りの波間から浮かび上がり、ゆっくりと目を開ける。遠ざかる潮騒のように耳の奥へ残るのは、ニーナが口ずさんでいた恋歌だ。少しの寂しさを感じながら、琥珀色の瞳をカーテンで覆われた窓へと向けた。 体を起こして身支度を調える、宿舎の外へ出るために木の床を軋ませて歩き扉の前に立った。頭に思い描く景色への期待に大きく深呼吸をすると、取っ手を握る手に力を込めて扉を押し開く。 夜明け前の光景――。 横たわっている夜は、そろそろ帰り支度を始める頃合いか。薄闇を彼方へと追いやろうとする朱色がじわりとその範囲を増す。鮮やかな色彩に琥珀色の瞳を見開いた。 広大な農場を思うがままに風が渡ってゆく、まるで絵画のような光景に誘われたフリードはぎゅっと土を踏みしめる。 肺に溜まっていた息を静かに吐く。代わりに冷やされた大気を吸い込むと、自らの存在も眼前に広がる世界に同化したような気持ちになった。 昼と夜を分かち合う太陽と月。 一日の中でも、世界は目まぐるしくその姿を変えてゆく。目覚め始めた大陸、眼前の景色に見とれていると。 「随分と早起きなんだね」 耳に届いた静かな声に、フリードはゆっくりと振り返る。 そこには、ミラーが立っていた。 「ぐっすりと眠れたかな? もっとも苛酷なレースを戦っている君のことだ、どんな場所でも眠れる剛胆さを持っているのだろうけど」 日の出を待つフリードに歩み寄ったミラーが、悪戯っぽく笑う。 「ウインドシップレースか、僕には想像も出来ない世界だ」 フリードの傍らへと立ったミラーは、慌ただしく去りゆく月を見上げて溜息をついた。 「人は夢を追い、空を見上げるものだ。どんなに望んでも手が届かなかった空を駆ける術を人は手に入れた。もっとも、夢を手に入れられるかは、また別の話だけどね」 夢と現実の境界に、ふと肩を竦める。 組んでいた両腕を解いたミラーはしゃがみ込み、右手で土を握って目を細めた。彼の優しい微笑みは大地へ注がれる深い愛情込めた囁きだ、その呼び掛けに答えがあるのではないかとフリードは思わず耳を澄ます。 ミラーの表情を見れば、彼が歩んで来た道が平坦ではなかったのだと感じられる。 ラルゴウの街に流れ込む支流を遡る、その源泉の巨大な河川は度々氾濫を起こしていたのだが、気が遠くなるような年月に渡る治水工事によりようやく安定した。 もとより水も豊富で肥沃な土地だ、灌漑事業が進むにつれて農地はさらに広がりつつある。そう、彼が推し進める農場経営は、まだ始まったばかりなのだ。 「僕達は、すべてを受け止めてくれるこの大地の上に立っている。腹に力を入れてしっかりと踏ん張り、目を閉じて耳を澄ますんだ。そうすれば瞼に感じるのは陽の光、耳に聞こえるのは風の音、そして心臓の鼓動が足の裏から大地に伝わる。この世界とひとつになれる」 手の平からこぼれる、養分を多く含む豊かな土。 命を育むその土にまみれ、その温かさを全身で感じて欲しいとミラーは語る。思い描くのは大陸の未来、そして人の未来だ。その力ある口調に、フリードはじっと耳を傾ける。 この大地に根付いている、壮大で逞しい夢だとフリードは思う。 「僕達は精一杯に生きて、また大地へと還るんだ」 フリードは肯く。 命を全うして体を離れた魂は、大陸を巡る巨大な意志へと溶け込みひとつとなる。そして再び真白き無垢な魂となり、新たな命となるべく天上へと向かう。 そんな輪廻を、人は信じている。 死生観というものが何であるのかなど、まだ想像するには遠く及ばない。まずはしっかりと生きることだ、考えている余裕などない。 「永遠に続く命ではないからこそ、今を真剣に生きるんだ。夢を追い求め、掴み取るために。様々な想いを繰り返しながら……ね」 立ち上がったミラーは数歩前に進み、両腕を大きく広げた。 「僕は、この大地を染める美しい黄金色を夢見ていた」 その姿に感じるのは与えられた生の喜びを享受し、命の尊さを見つめる者の輝きではないだろうか。 ミラーが話し終えるのを待っていたように、宵闇のカーテンが引かれ始める。闇の天空を謳歌していた月は大きく傾き、空が白み始めた。 ……朝日が登る。フリードは目を細めて、同じように両手を広げて大きく深呼吸した。 「どうやら、迎えが来たみたいだね」 大気の振動と共に、フリードの耳に響くのは聞き慣れた轟音だ。 フリードに向かって、ミラーが手を差し出す。 「応援しているよ、頑張れ」 「ありがとうございます」 カタチは違えども夢を追う者同士だ。 ミラーの手を握るフリード、二人は固い握手を交わす。空を振り仰ぐと青い燐光を排出させるシルフィードの翼が、登り始めた朝日を受けて煌めいた。 ☆★☆ 両手で抱えているのはたくさんの新聞だ、扉を開いて屋敷内に入ったカリナを迎えたのはニーナだった。 「お帰りなさい、カリナさん」 「あ、ニーナ様」 大量の新聞紙を抱えているので挨拶もままならない、カリナは気まずさに頬をひきつらせる。 「あの、手伝います」 「いえ、とんでもありません。これは私事ですので、ニーナ様に手伝っていただくなど!」 普段からは想像する事が出来ないカリナの慌てぶりに、ニーナがくすりと笑みを漏らした。 「お願いがあるんです」 ちょっと上目遣いのニーナが封筒を胸に抱いている、カリナはニーナの頼み事をすぐに察した。 「手紙を出したいのですね?」 「はい」 答えたニーナがはにかんだ。 ブロウニング邸に来る以前から、ニーナには文通相手がいるらしい。カリナは時々、ニーナからその文通相手への手紙を預かる。 ニーナにとって大切な友人のようだ。相手のことを詮索するつもりはないが、相手の名はペンネームなので誰なのかよく分からない。それで手紙が届くのかと思うのだが、相手側が何かの工夫をしているのだろう。 「分かりました。明日、また街へ出る用事がありますので。その時に投函しておきます」 「ありがとう、カリナさん」 ニーナは一通の手紙を、両手が自由にならないカリナの上着のポケットに、そっと入れた。 ぺこりと頭を下げたニーナがぱたぱたと駆け出す。仕事の途中なのだろうか、ミレーヌを待たせているのかもしれない。ニーナの背をを見送ったカリナは、たくさんの新聞を抱え直して自室の扉を開いた。 カリナの部屋は使用人達の部屋とは別棟にある。自室にいても、すぐに主の呼びかけに応えられるようにと、優秀な執事は常に気を張っている。 黒い上着を脱いで皺に注意しながら壁際に吊したカリナは、ニーナから預かった手紙を懐のポケットへそっと入れた。そして早速、買い求めてきた新聞を机の上に開く。 「先頭集団では、激しく順位が入れ替わっている……」 机の上に大量の新聞を積み上げているカリナは、既に切り抜いた記事を整理しながら大きな地図に何やら熱心に書き付けている。 「シルフィードの順位に関する記事が、だんだん増えてきている。まだ上位の集団に追いついてはいないが、これなら程なく先頭集団に入れるはず」 眉根を寄せた難しい顔で、今後のレース展開を予想してみる。 シルフィードがスタート時に見せた、信じられない光景を思い出すと胸が躍るようだ。心にまとわりつく不安を吹き飛ばすように、大空へと飛翔した蒼き翼。 カリナは切り抜いた記事を、厚手の紙へと丁寧に張り付けていく。 「フリード様……」 そんな作業を飽くことなく続けていたカリナは、ふとスタート前にみんなで写した一枚の写真に目をやった。闘志を感じさせるフリードの表情、僅かばかりの不安を抱いているように感じるものの、琥珀色の瞳は真剣だ。 ウインドシップレース。これはフリードが挑む戦いだ、決して手を貸すことなど出来ぬ。カリナはそれがとてももどかしい。いや、寂しいのだろう。これまでいつも側にいて、見守ってきたというのに。 だが、巣立ちの時が来ていたのかもしれない。 思えば、フリードはカーネリアの森に迷い込んだ子供達を、自らが救いに行くと言い出した。あの頃にはもう、フリードは自分の足で歩き始めていたのだろう。 椅子の背もたれに体を預けたカリナは、黒縁の眼鏡をそっと外した。人差し指と親指で、目頭を摘むように揉んでみる。目の奥に心地よい刺激を感じる、少し疲れているのかもしれない。 「駄目ですね、こんな事では」 苦笑したカリナが、作業を再開しようとした時。 (ああ……。そうだ、カリナ・プロヴァンス。いつまでも、お行儀がよい執事を続けてはいられないよ) 嘲笑うかのような声が響き、表情を凍り付かせたカリナが勢いよく振り返る。 しかしそこには、ただ夜の静寂があるだけだった。 |
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