ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


54.第四章 紫水晶の瞳

 目次
新たなる時の流れを求める女神と、緩やかな時の流れを愛する女神の想いが交錯する。
その強大な意志が光となりて激突した時。
長い長い戦いの火蓋が切って落とされた。

静かなる大陸を揺るがした忌まわしき災禍。
創世戦争――。

歴史書に血文字として記された深い悲しみ。
大地を朱に染めた、その激しい戦いを決して忘れてはならない。

金の太陽と銀の月。
古より盛えし水の都。
聖なる王国、美しき皇妃の想い。

そして。
蒼き翼は幻影を駆る冒険者に導かれ、理想郷へと羽ばたく……。


虹の翼のシルフィード 第四章

☆★☆

 贅を尽くされた調度品に、高い天井で輝いている豪奢なシャンデリア、驚くほどに広い邸宅だ。
 壁際には、給仕を務めるメイド達が神妙な顔でずらりと並んでいる。清潔なクロスを広げられた大きなテーブルの上、精緻な細工を施された燭台で揺らめく蝋燭の明かり、その柔らかな光は豪華な食事を演出する為に必要な小道具だ。
 磨き上げられた銀製のナイフとフォークが、上品な陶器の皿に当たって音を立てている。盛りつけられているのは子羊のソテーだ。芳醇な味わいの肉は柔らかく、仕上げには素材の味を引き立てる濃厚なソースが絡められている。そして色とりどりの果物に上質な葡萄酒の瓶。
 これほどの食事を味わえる身分の人間など、そうはいまい。
 だが、食事を続けるホロウリックの表情は険しい。食事を楽しむための心づくしも、まるで彼には届いていないようだ。
 それは無理もない、自らドレープ・アレナに出向いていってシルフィードを取り逃がした。新型機であるヴェスペローパを改造した自慢の機体も、あっさりと撃墜されてしまったのである。そのうえ飼い犬にも手を噛まれ、契約違反を犯したイルメリア・セオルーシェを捕らえようにも、彼女は姿を眩ませてしまい所在が掴めない。
 準備した計画はすべて当てが外れた。骨折り損のくたびれ儲けとは、まさにこのことだ。
 プライドをいたく傷つけられ、まったく面白くない。ナイフで乱暴に切り分けた肉をフォークで突き刺し、無造作に口の中に放り込む。咀嚼をしながら手をワイングラスに伸ばし、味わう事もなく肉と共にのどの奥へと流し込む。
 眉間に刻まれた深い縦皺、ホロウリックはついにグラスをテーブルへと叩きつけるように置いた。
「食事中に陰気な顔を見せるな、魔術師!」
「苛立ちは消化に良くないよ、肉料理なんて食べているのなら尚更だ。それにこれほどの料理なんだ、料理人に感謝することだね。豊穣の女神に祈りは捧げたのかい?」
 口元に穏やかな微笑を浮かべ、涼しげな顔で壁に背を当てているワイズが、いきり立つホロウリックへさらりと言った。
「黙れよ、貴様の顔を見ていると料理が不味くなる。用件があるなら、さっさと言え!」
「それは失礼をしたね。じゃあ、いい機会だから遠慮なく言わせてもらう」
 口調を変えて壁から背を離したワイズは組んでいた両腕をするりと解き、額に掛かる髪を掻き上げた。音もなく絨毯の上を歩き、ホロウリックの前にテーブルを挟んで立つと綺麗な指が並ぶ手をついた。
「こそこそと、裏で穴だらけの画策を巡らせているようじゃないか。要らぬちょっかいは遠慮してもらおう。シルフィードに搭載された動力炉は、君が考えているような代物じゃない」
 すうっと瞳を細くしたワイズの口から、冷気と共に低い声が流れ出してくる。
「僕の目的を、薄汚い金儲けなどで邪魔しないでくれ」
 ワイズが吐いた脅しのような言葉に、ホロウリックのこめかみに青筋が浮かび上がる。
 割れてしまうほどにグラスを強く握りしめ、憤怒の形相でワイズを睨みつけた。
「はっ! 薄汚いだと? 誰のおかげで『SIGUNUM』の量産化にこぎ着けたと思っている、高い生産力を持つボーウェン社の協力があったればこそだろうが。貴様等のようなドブネズミどもに言われる覚えはない!」
 興奮したホロウリックは席を立ち、固めた握り拳でテーブルを激しく叩く。給仕の若いメイド達が身を寄せあって脅えている。その様子を横目で見たワイズは、やれやれと肩をすくめてみせた。
「量産化は僕達の意向じゃない、軍の都合だよ。まったく、君は感情を表に出し過ぎだ、それでは仕事に支障があるんじゃないのかな? そんなことでは僕はおろか、あの皇太子だって出し抜くことは出来ないだろう」
「……なんだと?」
「まぁ、落ち着きなよ。話の続きがあるんだ」
 ワイズは葡萄酒の瓶に手を伸ばすと、瓶に口をつけて旨そうに喉を鳴らす。ふと目を開けてホロウリックを見遣り、瓶を口から離したワイズはテーブルの上で瓶を傾けた。
 瓶の口から流れ出る葡萄酒が滴り、真っ白なテーブルクロスに紅い染みを作っていく。
 その色が想像させるもの。身も凍る冷笑を浮かべる魔術師と、テーブルクロスの染みを交互に見ていたホロウリックがぎりぎりと歯を軋らせる。
「いい機会だから警告しておく。『SYLPHEED』が翼を得て、やっとその姿を現したんだ。下手な横槍を入れるなよ……この猿が」
 魔術師の言葉は鋭い刃のようだ。
「今は大切な時だ、ここでしくじれば今までの苦労が水の泡になる」
 ワイズは空になった葡萄酒の瓶を無造作に放り投げた。瓶は絨毯の上を転がり、壁際で身を寄せあうメイド達が悲鳴を上げる。
「いい酒だったよ、ごちそうさま。僕の話は終わりだ、ゆっくりと食事の続きを楽しんでくれ」
 侮蔑を込めた視線をホロウリックに投げつけたワイズは、さっと身を翻した。今度は痩躯に似合わぬ力強い足どりで絨毯を踏みしめる。
 部屋を退出しようとする魔術師に、執事が慌てて扉を開けようとわずかに動く。
 しかし執事の動きを片手で制したワイズが右手の指を鳴らすと、手も触れていないのに大きな扉が開いた。薄い笑みを浮かべたワイズは歩みを緩めることなくそのまま扉をくぐり、振り返りもせずに去っていった。
「くそっ。おい、新しい葡萄酒を持ってこい、早くしろっ!」
 扉を睨み付けていたホロウリックが声を荒げ、給仕のメイド達は葡萄酒を用意しようと慌てて部屋から駆けだしていく。
 『SYLPHEED』と『SIGUNUM』という、魔術師が造り出した双方の動力炉を手に入れる為には、どんな手でも使ってやる。そうだ、建造中の大規模な設備も稼働準備に入った。間違いなく流れは自分が握っている。
「せいぜい吼えているがいい。今に見ていろ、魔術師め……」
 喉の奥で唸るホロウリックは、そう信じて疑わない。
 ワイズの呪縛から解放され、胸の奥底で胎動する狂気を滲ませた。

☆★☆

 張り詰めた緊張感に、セディア家邸内の空気が軋んでいる。
「まだよ、まだ油断できないわ」
 感覚を研ぎ澄ませて様子を窺うアレリアーネは真剣な表情で息を殺し、カーテンの奥に身を潜めている。鼓動を打つ心臓の音が耳の奥に響く、絶対に見つかるわけにはいかない。
「……来た」
 ぽつりとつぶやきが口から漏れ、自分でびっくりしたアレリアーネは慌てて口元を押さえた。
 カーテンをそっと摘んで隙間から覗くと、きょろきょろとしている老齢の執事クウェルの輝く禿頭が見えた。
「お嬢様、どこにいらっしゃるのです? そろそろ先生がおいでです、出てきて下さいませ」
 アレリアーネは形のよい唇を、きゅっと噛んだ。クウェルの口調は弱り果てて懇願するようだが情に流されてはいけない、ここが踏ん張りどころなのだ。
 淑女としての立ち居振る舞いを身に付けなければならないと、父が呼んだ礼法の教師が屋敷に来る日なのだが。まるで小言のような講義に何の意味があろうかと、アレリアーネはうんざりしている。
 小波を起こす心を持て余す。そんな反発は大人の女性へと近付いているからなのだろうが、当の本人は気付いてはいない。
 だんだんと老執事の声が小さくなってゆく。そろりと顔を覗かせて、廊下に人影がない事を確かめたアレリアーネはカーテンの影から出た。まだ気を緩めることはで きない、全身に緊張を漲らせたまま小走りで廊下を駆け抜ける。屋敷の書庫へ飛び込むと、扉に鍵を掛けて背を預け、やっとひと息ついた。
 後はだんまりを決め込むのみだ。しびれを切らせた教師が帰ってしまうまで、ここに身を潜めていればいい。
「まったく、もう」
 スカートをぱんとはたき、窓際の椅子に深く腰掛けて足を組む。ブロウニング邸で開かれた夜会での一件以来、特に礼儀作法の習い事が厳しくなったような気がしてならない。
 最近は読書をする事もままならぬ、アレリアーネはそれが不満で仕方がない。書庫に立ち並ぶ書棚をぐるりと見渡せば、まだ手に取っていない本がたくさんあるというのに。
 そんなことを考えながら本の背表紙を目で追っていると、今の状況など何処へやら、胸が踊るようだ。椅子から立ち上がったアレリアーネは弾む足どりで書棚の前に立った。
「どれにしようかな」
 本を選び始めると、思わず頬が緩んでくるのが押さえられない。人差し指を柔らかな唇に当てて思案していたアレリアーネは、一冊の本に手を伸ばした。
 背表紙に手を掛けようとして。ふと、隣に並んでいる分厚い本へと気持ちが向いた。
「歴史書……か」
 つぶやきがころりと転がり出た。そういえば歴史書などあまり熱心に読んではいない、人差し指で本の背表紙に触れた瞬間だった。
 アレリアーネの目の前で光の粒子が渦を巻いた。その光の粒子は明滅しながら、あっという間に膨張していく。
(な、何……。これは何なの?)
 慌てて逃がれようとするのだが、膨張するその光の渦に魅入られたように体は自分の意に従ってくれない。
 光が模るもの、それは人、人の姿だ。しかしそれ以上視覚的な情報が蓄積されることはない。異変から逃れることを諦めたアレリアーネは、体にぐっと力を入れて揺らめく光を睨み付けた。
「誰?」
 攻める事により活路を見出そうと、言葉を短剣に替えて高く掲げる。眼前に姿を現したおぼろな光を放つ人影のようなモノに向かって、その切っ先を突き付け た。アレリアーネの鋭い声に人影は驚いたようにゆらゆらと揺らめく。僅かでも隙を見せぬように、アレリアーネはさらに両足へと力を入れた。
「何者? 答えなさい、答えぬならば!」
 再度の誰何、そして警告を発しようとする。だが。
『それは私の台詞だ』
「なんですって?」
 呆れたような声が耳に届き、アレリアーネは眉を顰めた。
『やれやれ、これはどんな余興なのか、やっと本を読む時間が出来たと思ったのだが』
 おぼろな光を放つ人影が、困ったように肩を竦める動作をしてみせた。
 本を読む時間を捻出する事に苦心していると聞き、同じもどかしさを察したアレリアーネの警戒心が僅かに緩む。
『ふむ。今、私の手には歴史書がある。もしかすると、君もそうではないのか?』
「え? ええ……」
 しばらく考えていた様子の人影に問い掛けられた。
 その通りだ。アレリアーネは歴史書を持っている両手に力を込めて、ぐっと顎を引く。
『なるほど、女神の気まぐれであるのか。これは面白い、実に面白い』
 小刻みに震える人影は笑っているのだろう、その動作で感情を読み取る事が出来る。
「名を、名を名乗ったらどうです?」
『うん? お互いの姿形はおぼろげのようだ、名前など知らずともそれほどに困らぬだろう。それよりも』
 人影の口調は理知的で、その声は静かに響きアレリアーネの心を解きほぐすように優しく触れる。どうやら人影にもアレリアーネの姿は同じように見えているらしい。遠く離れた何処かに居る誰かと思考が繋がりあった。そんな偶然などあり得るのだろうか。
 息をのんだアレリアーネは人影の動きに注意しつつも、言葉の続きを待った。
『君はこの大陸が辿った時の流れを示す、歴史書に興味があるのか?』
 その問に、アレリアーネは僅かに眉を顰めた。
「大陸の歴史を追う事は、流された血に染められた道を辿るという事。ページを繰る事が辛くて、手に取る事はほとんどありません」
『なるほど、知識への欲求を阻害するのは創世戦争か……。凄惨な史実に正面から向き合うのは誰しも辛い。真実を受け入れる事が出来ずに目を逸らしてしまうだろう。だが、しっかりと目を通しておくべきだ、自分が生きている大地に記された軌跡なのだから』
 人影は教え諭すように語る。
『創世戦争が、どのような戦いだったのか分かるか?』
「光と闇が、己の存在を賭けて戦ったと伝えられています」
 答えに迷う事など無い、この大陸に生を受けた者ならば誰もが知っている。
『そうだ。光と闇、己がそのどちらに属するのか。そんな個々の魂……その本質が露わになったのだ。正義と秩序を求め聖なる女神エリスティリアを信仰する 者。自由といういわば奔放な傲慢さを求めて、邪の女神グローヴィアを信奉する者。大陸を二分し、幾世代にも渡り続いた長き戦いだ』
「邪の女神グローヴィアはその身を闇に呑まれ、創世戦争は光の女神エリスティリアの勝利で終焉を迎えた。大陸各地に点在する大戦期に建造された『砦』を基盤として新たな国家が興り、今は五大国としてエリスティリアを奉り大陸の秩序を形成している」
『人々は光を望んだことになる。だが』
 アレリアーネの歴史認識に満足そうな人影だったが、少し声のトーンを落とした。
『大陸を律する現在の秩序も細く頼りない糸でしかない』
 人の選択が、その勝利は正しかったのだろうか。
『嘆かわしいのは人の愚かさだ。あの忌まわしき大戦以降も、どれほどの戦いがこの大陸で起こったのか。いずれも悲しい心の擦れ違いだ。人という生き物がも う少し利口ならば、いくらでも避ける事が出来ただろうに。いくら血が流され尊き命が失われても人は懲りず、精神的に成長する事がない。残念だよ』
 嘆息と共に人影がそう語る。
 大陸の現状は平穏に感じられるのは確かだが……。この平穏が永年と続く事は有り得ないというのだろうか。
「だから人は、大陸が歩んで来た道を振り返らなければならない」
 何かの答えが目の前で閃いた。人差し指を顎に当てたアレリアーネは過ぎ去った時を辿る事に、ひとつの意味を見出す。
『過去について正しい認識を得ることだ。そうすれば、この先に繰り返されるかもしれぬ、同じ悲劇を避ける手だてを見付けられる……。そうだろう?』
 頷いたアレリアーネは、自身の閃きに先回りした人影の意見を肯定する。
『誰しもが心に大きな矛盾抱えているものだ。ふとした事から心の奥底に押し込んでいる闇が暴走し、正しい心を喰らいつくして醜悪な獣となり果てる。まず必要なのは人としての心の在りようなのだ』
 多くの人は心の内に住まう不平や不満など、黒々と渦巻く想いを理性を用いて抑制している。優しさ、思い遣りに包まれた安らぎとは儚い幻。現在の世界、それは虚構でしかないのだろうか。まるで、答えを求めて出口のない迷宮を進むようだ。 
『さて、どうすればいい?』
「私には、私には分かりません」
 頭を振るアレリアーネは、求められた答えの大きさに目眩を起こしそうになった。
『人という存在はまず、己の心を包み守る盾ともいえる殻を破らなければならない。そして己と異なる存在を知覚して受け入れる事だ。繋がりあう……そんな表現が似合うのか』
「そんな。己の心をすべて解放し、他人にさらけ出す事など出来ません。それに……」
 他人のすべてを受け入れられるほど、人の心は広く鷹揚ではない。
 それぞれに個としての心、感情があるからこそ人という存在でいられるのだ、そんな事が出来るのだろうか。アレリアーネの沈黙に懊悩を見て取ったのか、人影が纏う淡い光が強さを増した。
『元より人の命はひとつの存在なのだ。大陸の奥底で脈打つ、命の源泉たる大河ともいえる神秘の力。その流れから切り離され新たな命として産まれ出でるのだから』
 それは大陸に古くから伝えられるお伽話、夢のような話だ。
『そうだ。大陸に命を産み、解き放つ力の脈動を認め、理解しなければならない』
 人影が纏う光は激しく明滅を繰り返す、アレリアーネを置き去りにしたままで己の論理思考に埋没しようとしているのだ。
「待って、私にはまだ!」
 混乱するアレリアーネが手を伸ばすも、朧な人影には触れる事さえ叶わぬ。
『個である存在は孤独だ、あまりにも儚くて脆い。ならば、心、感情、すべての個が互いの価値観を等しく理解し共有する。そうすれば脆弱な個は拠り所を得て、孤独に苛まれる事もなかろう』
 アレリアーネの声などもう届いていないのか、尚も自己の理想を検証する人影が徐々に薄れて霞みゆく。
『計画に綻びなど無い。私の望むものは、そこに……』
「貴方は誰、誰なの!?」
 一瞬、ほんの一瞬だった。
 人影のイメージがアレリアーネの瞳に映る。憂いを帯びた秀麗な顔、印象的な紫水晶の瞳。だが、その言葉を最後に人影は消え去ってしまった。
 気が付けば、歴史書は震える手をすり抜けて足下に落ちていた。アレリアーネは慌ててしゃがみ込み歴史書を手に取る。
「答えて! 貴方は誰なの!?」
 しかし偶然の出会い、その瞬間は過ぎ去ってしまったようだ。いくら呼び掛けてもアレリアーネに返される答えはなかった。
 視点が定まらず、ふらふらと歩くアレリアーネは書庫から出た。まるで眠り覚めたばかりのようだ。人影が語る言葉が頭の中でぐるぐると回っている。喉が酷く渇いて仕方がない、執事のクウェルを呼ぼうと居間へ入った時だった。
「まぁまぁ、アレリアーネ。ここに居たの!」
 弾むように上擦った声が、アレリアーネを迎えた。
「お、お母様……」
「ただいま、ちょうど今帰ったところなの」
 我に返ったように目を見開いたアレリアーネに、母であるフランソワがぱたぱたと手を振って見せた。言われてみれば、その姿はまだ旅支度のままだ。何しろ一年のほとんどを旅行に費やすという変わり者、母の顔を見るのは随分と久しぶりだ。
 そんな母に救われたのかもしれない、暴風にざわめいていたアレリアーネの心が凪いだ。
「可愛い娘の顔が見たくて、帰るなり荷物を放り投げて来たのよ」
 にっこりと笑う母の言葉に、アレリアーネの目が半眼になる。
「娘が可愛いのならば、外国をほっつき歩いていないで下さいませんか? これでは何の相談も出来ません」
 頬を膨らませてソファに腰を下ろし、拗ねたように両膝を抱えたアレリアーネの姿を見たフランソワの表情が、ぱっと明るくなった。
「まぁまぁまぁ、アレリアーネ! もう、何て可愛いのっ!」
 両腕を大きく広げて突進したフランソワが、アレリアーネにがばっと抱きつく。
 強く抱きしめられて、息が出来ぬ苦しさにじたばたともがくアレリアーネが目を白黒させた。
「あ、あらあら、どうしたのっ!?」
 驚いたフランソワが腕の力を緩めると、ソファにばったりと倒れたアレリアーネが青い顔で空気を貪る。
「お、お、お母様! わ、私を殺すおつもりですかっ!」
 胸に手を当てて、肺一杯に空気を吸い込んだアレリアーネが怒鳴ると、人差し指を咥えたフランソワがしゅんとしてしまった。まったく、これではどちらが娘か分からない。
「言い過ぎましたわ。ごめんなさい、お母様……」
「あらあらあら、まあまあまあっ! それでこそ私のアレリアーネよっ!」
 乱れた長い黒髪を整える、何がそれでこそなのかさっぱり分からない。こめかみを押さえ頭痛に耐えているアレリアーネの隣に、すとんと腰を下ろしたフランソワがぺったりと身を寄せた。
 慈愛溢れる瞳で、アレリアーネの横顔をじっと見つめていたフランソワが「うふふ」と意味ありげな笑い声を漏らす。
「お、お母様、な、なんですか?」
「貴女は素晴らしい舞台を演じたようね?」
 ぱたっ……。
 瞬時に顔を真っ赤にしたアレリアーネが、再びソファに倒れる。クッションを両手で抱きしめて顔を埋めたアレリアーネが、恥ずかしさにうねうねと身悶えを繰り返す。
「ああ、もう、残念ね……。私、フリードをとても気に入っていたのよ?」
「も、もう、そ、そ、そのお話を、し、し、しないで下さい……」
 くぐもった声で切れ切れに訴える、アレリアーネの長い黒髪をフランソワが優しく撫でた。
「よく頑張ったわね、私のアレリアーネ。貴女はフリードとの賭けに負けてしまうかもしれない。でもそれは、貴女が心から望む結末なのよね」
「お母様……」
 母の思わぬ言葉に、アレリアーネの双眸から涙が溢れ出した。
「そんな褒め方をされると、私、私……」
 こんなにも母の温もりが恋しくなるなど。
 あの人影が語った思想に感じる危険と恐怖がそうさせるのだろうか。アレリアーネはこぼれ落ちる涙をそのままに、母に抱きつくと温かな胸に顔を埋めた。
 
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