ヴィゼンディアワールド・ストーリー
 虹の翼のシルフィード


59.思い出の軌跡(2)

 目次
 部下に少佐と呼ばれることにも慣れてきた、フランシェスカは胸に留められた銀製の真新しい階級章を指先でそっと触れた。
 王族の身辺警護を職務とする、情報部の下士官であった頃の彼女を重用したのは皇太子キルウェイドである。本来ならば士官学校の候補性でもない限り、上級士官への道など閉ざされているというのに。
 だから皇太子の意に添うために己の力を最大限に発した、この階級章はうず高く積み上げられた屍の上にあるのだろう。
 その屍の数を数えたとて何の意味もない。
 命だけではなく、失われたものは戻らない。分かってはいる、どれほど考えても詮無きことであるのだが。
 ぼんやりとそんな事を考えていたフランシェスカは、小さく頭を振って物思いを打ち消した。
 薄暗い空間には物音ひとつ聞こえない、フランシェスカが身動ぎをする度に、軍服の衣擦れの音が聞こえるだけだ。だがもう数刻もすれば、艦の最終確認をする作業員達の喧噪で満たされることだろう。
 四神が完成すればこの大陸は震撼し、保たれてきた秩序が乱されるのは必至だ。
 だが、それは大きな変革への胎動となるに違いない。
 主が求める世界の姿は。
 そんな想像に思わず身震いしたとき、不意に艦橋へと滞留する空気が揺らいだ。暗殺者として深い闇に生きていたフランシェスカにとって、そんな微かな変化でも感じ取ることは容易なのだ。
「殿下、お疲れ様です」
 気配だけでその主が誰なのかが分かる、振り返ったフランシェスカは姿勢を正して敬礼をした。
「ここに居たのか」
 薄闇の中でも尚、光を放つ淡い銀色の髪。
 皇太子キルウェイドは白い手袋をはめた手を伸ばして、フランシェスカの黒髪を一房、手のひらに掬うようにしてさらりと流す。横を過ぎるキルウェイドの横顔を視線で追いながら、フランシェスカは少しの緊張を感じ、紅く染めた唇を開いた。
「一昨日より、パンドラの姿が見えませんが」
「外に出たいとせがむのでね、それならばと許可を出した。うまくいけば、『SYLPHEED』を連れ帰るかもしれないな」
 愉快そうに答えた皇太子に、フランシェスカがぎゅっと眉根を寄せる。
「そのような事をなさっては!」
「『SYLPHEED』の二の舞になると言うのかい? 心配は要らないよ、ライオネットはここに在る。あの少女は『SIGUNAMU』から離れはしないさ」
 銀髪の裾がわずかに揺れた、フランシェスカの抗議を遮ったキルウェイドは笑ったのかもしれない。
 何を暢気な、と……フランシェスカは足へと力を入れて床を踏みつける。大陸に存在する全ての国家を役者に仕立てた大きな舞台を前にしているのだ、万全を期さなければならない。
 あんな小娘に何が出来るというのだ、フランシェスカは唇を噛んだ。
「子供を煽てるのが、お上手なのですね」
「……煽てる? 私は、あの少女がしたいようにさせているだけだ」
 知らず、口調が剣呑になっていたのかもしれない。
「年端もいかぬ娘に嫉妬か?」
「いえ」
 わずかに振り向いたキルウェイドから、フランシェスカはそっと視線を逸らす。淡い光を湛える紫水晶の瞳に、心の奥底を見透かされるのが怖かった。いや、心の内をさらけ出すという行為は甘美な誘惑でもあるのだが。
 そんな人間らしい思考を閉ざし、フランシェスカはキルウェイドの背中を見つめる。
「アーディアとフィーディアを水の都に向かわせた。トゥエイユハーゲンは滅びたのだ、バルバロック伯爵の末裔が継承者としての任を継ぐとは思えないが……」
「裏切り者の姉妹を信用されるとおっしゃるのですか、いつその矛先を我々に向けるとも限りません」
「あの姉妹が抱く私怨も尤もだ、もとよりそれが条件だったからね」
 それが本心かどうか定かではないが、キルウェイドは事も無げに語る。
 長い時を経てもなお続く、魔術師と魔を狩る者の争い。トゥエイユハーゲンの騎士団を滅ぼしてまで、薄気味悪い魔術師共と手を組むなど、フランシェスカの本心は今でも力を込めて異を唱えたい。
 だが古の術式を巧みに扱う魔術師達の技術は、必要不可欠な要素だということも理解出来る。キルウェイドに従うのであれば、魔術師達の集団であるフェンリルの牙、その仇敵である魔を狩る者トゥエイユハーゲンの騎士団は討たねばなぬ存在だった。
 グランウェーバー軍の介入により、気が遠くなるような泥沼の戦いは幕を下ろした。
 旋律を奏でる事を得意とするキルウェイドは今、その整った指先で人の運命の糸さえも操ろうとしている。彼の瞳は運命の糸車を見つめているのだ、しかしフランシェスカにはその絡み合う糸を見定める力はない。
 だから不安だ、だから恐ろしい。キルウェイドに縋るしかその恐怖から逃れる術はない。
「蒼い翼を持つ機体はシルフィードという名前であったか? すぐにでも捕らえたいところだが、ウインドシップレースの予定航路には聖王国アリアレーテルも含まれる。ここで我等が動いて、かの王国を統べるクレア皇妃に睨まれるのは得策ではない。あのお方は聡い、それに鋭い勘をお持ちだからね」
 大陸最大の国家である聖王国アリアレーテル。民のほとんどが、光の女神と称されるエリスティリアを信仰するという。女帝として国を治めるクレア皇妃が、大陸五大国に及ぼす影響力は絶大だ。
 クレア皇妃だけではない。キルウェイドが進める計画に支障を来すであろう懸念が、フランシェスカにはいくつもある。
「殿下。魔術師ワイズ、ホロウリック・ボーウェン……。そして行方不明のエクスレーゼ様には、くれぐれもご注意なさいますよう」
「姉上か……。危うい綱渡りではあるが、新たなる時の流れを求める為に、越えねばならぬ壁だ」
 紫水晶の瞳を細めてそう答えたキルウェイドは、己に言い聞かせるように小さく頷いた。
「四神は必ず私の想いを酌んでくれる」
 巨大な四隻の戦艦、その中心となる艦はキルウェイド自らがボレアスと名付けた。
 ボレアスはグランウェーバー国が誇る、旗艦ヴェルサネスを凌ぐ火力と装甲を備えている。
 もう暫くすれば極寒の地で荒れ狂う吹雪など、ものともせずにその巨体を灰色の空に浮かべるだろう。進水式など執り行ってやれぬのは惜しい気もするが、それは些末な事であるのだから。
 興奮に体の火照りを覚えたのか、キルウェイドは軍服の襟元を僅かに緩めた。
「フランシェスカ、水の都へ向かった彼に仮面を送ることを忘れないでくれ。素性を隠す白磁の仮面を被っていなければ、彼の腕も鈍ってしまうだろう」
「了解しました」
 背筋を伸ばして敬礼をするフランシェスカの姿勢は揺らぎもしない、それは彼女の忠誠心の現れだ。
 キルウェイドは盤面の上に並ぶ駒を徐々に進めていく。
 猛烈な吹雪に隠され、静かに目覚めの時を待つ四神。キルウェイドの舵取りにより、大陸という巨大な船はその軸先を変えるのだろうか。
 そして彼は、この大陸を何処へ導こうというのだろう……。
 
☆★☆

 賑やかな水の都、リヴァーナの中心街。
 たくさんの観光客に混じって、鼻歌交じりに歩いているのはアリオスだ。
 ナイトクイーンと仮初めの名を与えた愛機は、先程運営委員会に預け渡した。入念に偽装を施された濃紺色の機体は、これまでもクイーンサーシェスだと気付かれる事はなかった。
 レースの真っ最中ではあるのだが、ひと仕事を終えたアリオスは、ちょっと息抜きをしようと思い立ったのだ。
 街をぐるりと見渡して、自由という名の翼を広げる。テリオスとクララを、少々待たせてしまうかもしれないが。ごめんね……と、心の中で手を合わせておいた。
「このワンピース、クララに似合うかな? あ、こっちのコーディネート、とっても可愛い!」
 アリオスはあっちのウインドウ、こっちのウインドウへと、まるで花から花へと渡る蝶のようだ。クララに似合う可愛らしいワンピース、テリオスに似合う格好いいスーツはないかしらと、足取りも軽やかに華やかな街をゆく。
 整った顔立ちに珍しい金色の瞳。生来の明るい性格もあって、アリオスの存在、その立ち居振る舞いはとにかくよく目立つ。
 盗賊としての正体を隠すために、滞在する街では飲食街で給仕として働いているが、どの店でも人気者の給仕娘となってしまうのだ。
 当初の目的はどこへやら……である。
 だがそれはアリオスが、彼女が抱く願いそのものだ。貧しくてもいい、慎ましくても、ささやかな幸せが欲しい。眩しい光を避け、盗賊として闇の中をさ迷うことなく生きたい。
 アリオスは強く、強く願っている。
「……ふう」
 少々、はしゃぎすぎたのかもしれない。
 歩き疲れて喉が乾いたアリオスは、運河沿いに建つオープンカフェを覗いてみる。
 コーヒーの香りが鼻をくすぐる、テーブルの空き具合と日当たりを確認したアリオスは、緑と赤の生地を張られたパラソルのテーブルを選んだ。
「いらっしゃいませ」
 一息ついたアリオスの元へウエイトレスがやって来た、テーブルの上へと丁寧にメニューを置く。手櫛で長い髪を梳いたアリオスは、金の瞳を細めてメニューをちらりと見ると、指先でとんと表紙を叩いた。
「ん、あのね……」
「はい?」
 きょとんとした顔をしたウエイトレスの娘。
 アリオスはメニューを開くことなく、にっこりと微笑んでウインクをひとつ。
「心安らぐ水の都のカフェに似合う、おすすめのメニューをお願い」
 アリオスの注文に、ウエイトレスの娘は顔をほころばせた。
「かしこまりました、少々お待ちください!」
 アリオスに向けて深くお辞儀をした後、軽やかにスカートを翻す。爽やかなその振る舞い、自分が住む街を愛し、誇りに思っているのだろう。
「うふふ、おすすめはどんなメニューかな?」
 ウエイトレスの背に軽く手を振って見送った。テーブルに肘を突いて、組んだ両手に顎を乗せる。小さな羽をふわりと広げた風の精が、アリオスの頬にそっと唇を寄せた。
 降り注ぐ日差しを和らげるパラソル、僅かに小首を傾げるアリオスの姿はキャンバスに描き留めたくなる。絵心を刺激するほどに美しい姿だ。
 穏やかな眼差しで運河を行き交う小舟を眺める、ゆっくりと流れてゆく時間。
 瞳に映る景色に見とれていたアリオスは、急に不機嫌そうな表情で椅子に背を預けると脚を組んだ。
「何者なのか知らないけれど……」
 柔らかく伸ばした指先で、テーブルの縁をついっと撫でる。
「そこの貴女、いいかしら?」
 いつからそこに居たのだろうか。
 青と赤の布が張られたパラソルの下のテーブルには、人影があった。
 金色の瞳をすうっと細めたアリオスは、優雅に脚を組み替えて肺へと空気を吸い込んだ。
「憩いの時間を邪魔しないで欲しいね。それとも、ここで一戦交えるつもりなのかい?」
 鮮やかに彩られたアリオスの唇からこぼれ出たのは、一転して乾いた口調、物騒な言葉だった。
 隣のテーブルで、アリオスと向かい合うように座る女性……アリオスの言葉を受けて、長い髪がふわりと揺れた。大きなつばの黒い帽子がその表情を隠している、形の良い唇の端が歪んだ。ブラウスとスカートは、鮮やかな白と黒のコントラストだ。
 身に纏うのは華やかさでも、艶やかさでもない。
 女性から放出される明らかな敵意が、アリオスの肌をちりちりと灼く。
 不安定な沈黙は静かな言葉で破られた。
「大地を舐め尽くした凄まじい炎の色、天空から降り注ぐ恐ろしい光の矢を。私は決して、決して忘れはしない」
 黒いレースの手袋をはめた手を、きつく握りしめる。女性は微動だにしない、しないのだが。アリオスへと向けられているのは剥き出しの……殺意だ。
「あの瞬間に、私達の前に地獄の扉が現れた」
「なんだって?」
 つぶやいたアリオスの背筋にじわりと汗が浮かび、体に緊張が漲る。鋭い視線を黒い帽子の女性へと向けた。
 幾つもの可能性が次々と脳裏に閃く。
「あたし達を連れ戻しに来た、騎士団の追っ手なのかい?」
「ふん……。私はお前達双子を、バルバロック伯爵家の末裔を恨みの炎で焼き焦がす為に生きている」
 紅く染められた唇が空気を震わせて、紡ぎ出されたその名が耳朶を打った瞬間。
 アリオスの眼前に抜き身の大剣が姿を現した。ほのかな光を帯びた刀身が小刻みに震動している。大剣は己の柄を手に取ってくれとばかりに、アリオスを急いているようだ。
「お待たせしました!」
 緊張感を漲らせる二人の間に割って入ったのは、美味しそうなケーキをトレイに載せた先程のウエイトレスだ。
「あ、ありがとう」
「こちらのハーヴティーは街の特産品です、爽やかな香りをお楽しみ下さい。濃厚なクリームチーズをたっぷりと使ったチーズスフレには、ベリーのジャムを添えました」
 アリオスは焦りを浮かべた表情で、しどろもどろに返事をする。
 運んで来た品の説明をしているウエイトレスの娘は楽しそうだ、どうやら目の前に浮かんでいるアリオスの剣は見えていないらしい。
「私の名はアーディアという、覚えておくがいい」
「アーディア?」
「……そうだ」
 わずかに椅子が軋んだ音と共に気配が消えた、アリオスは大剣の柄を見つめたまま重い吐息を吐き出す。
「あ、あら? お客様がいらしたような気がしたのに」
 アーディアが座っていたテーブルには、彼女が被っていた黒い帽子だけが、ぽつんと残されている。
 ウエイトレスの娘はきょろきょろしていたが見間違いだと思ったのか、「どうぞごゆっくり……」アリオスへと丁寧に会釈をすると首を傾げながらカウンターへと戻っていった。
 黒い帽子の女、名はアーディアと言うらしい。
 気を利かせて退いたのか、それとも名を告げるためだけに現れたというのだろうか。
「まったく」
 目の前に浮かんでいる大剣をひと睨みしたアリオスは不機嫌な表情のままで腕を伸ばし、震動を続ける刀身を指先で弾いた。
「姿を消しな、お呼びでないよ」
 アリオスとてあの日の光景は忘れてはいない、思い出せば恐怖に体が竦んでしまう。
 これが逃れられぬ現実なのか。平穏な日々など、訪れることは永遠に無いのかもしれない。
 何かを失ったような痛みが、アリオスの胸をきつく締めつける。
「それが私達の贖罪だとでも? 冗談じゃない……」
 俯いたアリオスは、金色の瞳をそっと閉じた。

 テリオスとクララは、手を繋いで街の通りをのんびりと歩く。
「なぁクララ、姉さんが戻ったら街で買い物をしような。何か食べたいものはあるか?」
 料理が得意なテリオス。肉を焼いてもスープを作っても、その料理を一口食べれば頬が落ちそうだ。そんな美味しい料理を作り出すテリオスは魔法使いだとクララは思う。
 どんな我が儘も聞き入れてくれる青年に、ささやかなおねだりをしてみようとクララが考えていると。
 石畳を踏みしめるテリオスの長い足がふと歩みを止めた、クララは銀の瞳を持つ端正な顔を見上げて小首を傾げる。
「コ、コレット……。コレットなのか?」
 つぶやいたテリオスは驚愕に表情を凍り付かせていた。
「テリオス?」
「そんな、まさか……」
 クララは繋がれた手に力を入れて引いてみるが、独り言をつぶやくテリオスは棒立ちのまま、クララに答えることはなかった。
 
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