ヴィゼンディアワールド・ストーリー 虹の翼のシルフィード 74.ウェンリー・ホーク(2) |
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フリードの視線の先、湖の岸に立っているのは一人の娘だ。 年の頃はフリードと同じくらいか。柔らかな金色の髪、きれいな翠色をした大きな瞳を見開いて身体を竦ませ、驚いた表情でフリードを凝視している。淡い色合いの長衣、透き通るような薄衣を纏っているその姿はとても可憐だ。そして、両の手に抱えられた籠には沢山の果物。先ほどの悲鳴は彼女のものに違いない。 互いに身動ぎもせず、しばし無言で見つめ合っていた二人だったが、先に動いたのはフリードだった。 「君は、この辺りに住んでいるのかい? 尋ねたいことがたくさんあるんだ!」 慌ててシルフィードの蒼い翼から飛び降り、両手をばたつかせながら勢い込んで迫るフリードから離れるように、娘は僅かに身を引いた。じりじりと後退る娘の強張った表情、フリードを見つめる大きな翠色の瞳は怯えているようだ。 「ぴぴぴぴいっ!」 その途端に、フリードの頭にしがみついていたたシルフィが鋭い鳴き声を上げて髪を強く引っ張った。貴族の男子たる者が、初対面の女性に対してあまりにも不躾だろう、そう言いたいのかもしれない。 シルフィはフリードの薄茶色の髪を咥えて放さない、ぐいぐいと力任せに引っ張り続ける。 「痛い、痛い、痛い!」 頭にシルフィを乗せたまま、ばたばたと身悶えるフリードをじっと見ている娘がさらに身を竦める。 「あっ!」 その拍子に、彼女が抱えている籠から果物が転がり落ちた。 「ぴぴっ!」 娘の声に、悶絶するフリードの頭から、ぱっと飛び立ったシルフィは地面へ落ちて転がろうとする果物の上に留まった。地面を転がる果物を止め、胸を反らせて得意気に「ぴ!」と鳴く。 「分かった、君は偉いよ……」 フリードは、くしゃくしゃになった薄茶色の髪をぱっと払って整える。得意げなシルフィを見て苦笑すると、自分も果物を拾おうと腰を屈めた。 「あ、あの……」 あちこちへ、ころころと転がる果物を、困ったような顔で見ていた娘は我に返ると、自分も果物を拾おうとして足下に籠を置く。 「ごめんね、僕が驚かせてしまったから」 「い、いえ。ありがとうございます」 娘は、やや警戒を解いたのか僅かに表情を和らげた。 フリードは地面に転がる果物を、ひとつ、ふたつと数えながら拾い集める。二人はしばらく一生懸命に果物を拾い掛けた。 「これで五つめ」 果物を目掛けて、さっと伸ばしたフリードの手に感じた温もりと、柔らかな感触。色白で整った指先から、手の甲、腕を視線で辿ると、見開かれているクローディアの翠色をした瞳に気が付いた。 小道へと、影を作るように生い茂る森の木々。風に揺れる葉擦れの音、二人が交わす視線の間に木漏れ日が揺れた。柔らかな光を映して輝く、美しい翠色の瞳が揺れている。フリードと娘は手を重ね合ったままで、しばらくお互いに見つめ合う……。 「あっ!」 「ご、ごめん!」 「い、いえ……」 僅かな間、止まっていた時間が動き出した。二人は同時に顔を赤らめて、その場から飛び退く。頬をほんのりと朱に染めた娘は、フリードの手と触れた右手を胸に抱いて俯いている。 「びぴぴぴぴいっっ!」 真っ赤になって慌てるフリードを目掛け、再び甲高い鳴き声を上げたシルフィは一度体を宙に浮かせた後、猛然と突進する。フリードの肩へ爪を立ててとまり、小さな嘴をいっぱいに開いて思い切り耳たぶへと噛み付いた。 「ぎゃあ!」 髪の毛を引っ張られる程度ではない、あまりの痛みにフリードが飛び上がる。じわりと目尻に滲む涙を拭う、ずきずきと痛む耳たぶをさすっていると……。 「あ、あなたは……。あなたという人は」 背後から響いて来る怒りを押し殺しているような声音に、周囲の温度が一気に低下した。周囲の木々がまるで怖れているかのように、ざわざわと枝葉を揺らす。 「あなたは、何をしているのですかっ!」 大地を揺るがす大声は、まるで轟く雷鳴のようだ。 獰猛な獣が発する咆哮のほうが、まだ可愛いのではないかとフリードは思う。恐る恐る振り返ると、腰に手を当てて眦を吊り上げたヴァンデミエールが立っていた。 「フリード・ブロウニングっ!」 そう叫んで硬いブーツで地面を踏み付け、足を踏み出そうとしたヴァンデミエールが「あっ」と、小さな声を上げた。ヴァンデミエールの視線はフリードの後ろへと向けられている。その表情に驚いたフリードが振り返ると、果物籠を抱えた娘が地面に膝をついていた。 「大丈夫か、君っ!」 驚いたフリードが、慌てて娘の元へと駆け寄った。両手を地面に付き背を波打たせ、荒い息を続ける娘の体を支える。まるで小鳥のように華奢な身体は火照っている。フリードは少女の身体を丁寧に抱き直した。 「いけない、熱があります」 慌てて駆け寄ったヴァンデミエールが、娘の汗ばむ額に手の平を当てて眉根を寄せる。 「君、しっかりするんだ。どこか苦しいのか?」 フリードは娘に呼び掛ける。苦しそうな様子の娘は僅かに目を開けて、フリードが着ているフライトジャケットの襟を掴んだ。震える唇が微かに動いて何事かを告げようとする。 その娘の様子に、フリードとヴァンデミエールが耳を澄ました時。 「……あ、あれ? ゴールしたのか?」 少年の間延びした声が聞こえてきた。気がついたのだろう。どうやら、トールの方は心配ないようだ。 「まだ、呼吸が収まりませんね」 「ああ、体が火照っている」 フリードが荒い息をつく娘を背負い、心配気な表情のヴァンデミエールと、しかめっ面で頭を擦るトールが傍らを歩いている。シルフィはフリードの頭の上で時折、娘の顔を覗き込んでは「ぴ」と、小さな鳴き声を上げる。 クローディアと名乗った娘は、目を開けていられなくなったようだ。フリードの背で色白の顔を歪ませ、時折、乾いた唇から苦しげな声が漏れ出る。 フリード達は、クローディアがようように示した方へと歩いている。その方向に、彼女の住まいがあるらしい。 「静か過ぎるよ、何だか変な所だよな」 歩きながら辺りの景色へ視線を巡らせるトールが、両腕をさすりながらぶるっと身震いをした。三人が進む小道は、荒れてはいないが歩き易いわけでもない。 そしてトールが言う通り、穏やかすぎて不安になるほどの静けさなのだ。少年と同じ感想を持ったフリードは、クローディアの体を背負い直すと、ヴァンデミエールへと視線を向けた。 「ヴァンデミエール、ここがどの辺りか分かるかい?」 「はい、少し待って下さい」 フリードの問いに、ヴァンデミエールが難しい表情で口を噤んだ。小さな手でクローディアの背をさすりながら翠色の瞳を空へと向ける。少女はしばらく視線を彷徨わせていたが、溜息をつくと首を横に振った。 「駄目です、私にも見当がつきません」 「そうか」 フリードは残念そうに肩を落としてつぶやく。 少女を責めるつもりなど毛頭ない、ヴァンデミエールはフリードよりも航路図を読むことに長けている。シルフィードの位置を正確に把握している彼女が分からないのなら、フリードはもうお手上げだ。 今はレースの真っ直中。しかも最終工程であり、最後の追い込みを掛けねばならぬ局面なのだ。こうしている間にも、現在一位であるゼルウィーダはゴールを目指していることだろう。 いや、フリードを抜き去ったウェンリーが駆るミスティ・ミラージュが首位に躍り出ているかもしれぬ。そして、フリード達の後方には、テリーとアリエッタのナイトクイーンが、シルフィードとの差を縮めているという。 一刻も早くレースへと復帰しなければならないが、苦しむ娘をこのまま放り出すことなど出来るはずがない。大丈夫だ、まだチャンスはあると自分に言い聞かせ、地面を踏みしめる足に力を込めたフリードが顔を上げる。 背の高い木々が生い茂る森の小道をしばらく進むと、少し開けた場所へと出た。小道が続く先へと目を向ければ、木漏れ日を浴びる小振りな建物が見える。木と赤茶けたレンガの様な石を組み合わせて作られた小さな家だ。 「あっ! 見えた! フリード、きっとあの家だよっ!」 「トール!」 叫んだトールが、止める間もなく駆け出し、フリードの頭から羽ばたいたシルフィがその後を追った。 「フリード、早く早くっ!」 家の扉を開けたトールが腕をぐるぐると回しながらフリードを急かす。いくら急かされても、クローディアを背負っているフリードは走ることが出来ない。 「私も先に行きます」 気が急くのだろう、ヴァンデミエールも駆け出す。黒髪を揺らして走る少女の後ろ姿を見遣ったフリードはクローディアを丁寧に背負い直すと歩みを早めた。 小さな家は、クローディアという娘の人となりが分かる、きちんと整理され清潔さを感じる住まいである。家の中へ入ると、ヴァンデミエールはすぐに部屋を見て回る。 「フリード、こっちです!」 少女は寝室であろう部屋を見つけ、手早くベッドの用意をするとフリードを呼んだ。 「ゆっくりと寝かせて下さい」 フリードとヴァンデミエールがクローディアを寝かせている間に、トールが外へ飛び出して行く。ヴァンデミエールは、苦しげに息をしているクローディアの額に手を当てた。手の平に高い熱を感じたのだろう、眉根を寄せて思わず手を引く。 暫くすると、トールが底が深い木の桶に水を満たして戻って来た。それを待っていたようにヴァンデミエールが木桶に満たされた水に布を浸し、しっかりと絞ってクローディアの額に乗せる。 「一人で暮らしているのでしょうか?」 「そうみたいだ。この家に着くまで、人に会うこともなかった」 そう言って、ヴァンデミエールは唇を噛み、フリードは歩いて来た道程の様子を思い出しながら答えた。 「容態が少し落ち着いたら、直ぐにでも近くの街へ飛んだ方が良いかもしれません」 「ああ」 フリードはフライトジャケットのポケットに入れている、シルフィードの起動キーを強く握った。 ヴァンデミエールは何度も布を水に浸して絞り、クローディアの額や頬、首筋へと当てる。 木桶の水がぬるくなる度に、フリードと交代で何度も水を運んでいたトールだったが、疲れてしまったのだろう。いつの間にかベッドの端に突っ伏して、微かに寝息を立てていた。 ☆★☆ フリードの瞼には美しいミスティ・ミラージュの姿が焼き付いている。そして胸中には、ウェンリーの言葉が残っている。 ウェンリーと激しく競い合ったあの時。フリードは滾る血潮と激しい感情に揉まれながら、たったひとつの願いを叫んだ。必ず勝ってみせると体の奥底から沸き上がる衝動のままに叫んだのだ。 それは純粋な想いを確かめた瞬間だった。 だが、ありったけの力を振り絞ったとしても、偉大な冒険者である彼には勝つことが出来なかったのではないのだろうか……。 そんな弱気が意識の隅で頭をもたげてくる。唇を噛むフリードは、強く両手を握りしめていることに気が付いた。 ふと気がつけば、窓から差し込む光の色合いが変わっている。 床へと伸びている濃い藍色の影も、随分と長くなっているようだ。茜色の強い光、その眩しさに瞳を細めたフリードは、椅子から立ち上がると窓辺へと寄り、開け放たれていた木製の戸を閉じた。 夕映え、その茜色の光を浴びていると落ち着かなくなる。それは、程なく降りて来る夜の帳、暗闇に閉ざされることに本能的な恐怖を感じるのかもしれない。 ベッドの端に突っ伏したままで寝ているトールは、目を覚ます様子がない。 広い広い空を駆け、見知らぬ土地を巡る長い行程のレース。危険を伴う重圧に、己の精神力で立ち向かわねばならない。毎日の緊張に、三人とも疲労が溜まっている。ましてや、ヴァンデミエールとトールはまだ幼い。二人共、ここまでよく頑張っていてくれたものだ。 フリードはヴァンデミエールの声にゆっくり振り返ると、眠り続けているクローディアの傍らへと戻り、音を立てないように気を使い椅子へと腰掛ける。クローディアの額に乗せられた布を手に取ると、そっと手で額に触れた。 やはり翠色の瞳は閉じられたままであるが、少し落ち着いてきたようだ。 「このままの状態では、彼女を乗せては飛べません。シルフィードから、運営委員会へ連絡をしなければなりませんね」 「そうだね、そうしよう」 「フリード、待って下さい」 椅子から立ち上がったフリードの袖を、ヴァンデミエールがきゅっと掴んだ。 「どうしたんだ、ヴァンデミエール」 「もうすぐ日が落ちます。ここが何処かも分からないのです、暗闇の中をシルフィードへ歩向かうのは危険です」 「でも、連絡をするなら、早い方がいい」 少しでも早く助けを求められれば、熱に苦しむクローディアも楽になれるに違いない。しかし、ヴァンデミエールは黒髪を揺らして首を横に振る。 「今はシルフィードとあなたに頼るしか手はないのですから、危険な行動は避けるべきです。幸い、彼女の様子も落ち着いてきました。明日の朝、日が昇ればすぐにでも」 クローディアを見つめて、しばらく考えていたフリードだったが、ヴァンデミエールの意見に頷いた。 「分かった、そうしよう」 シルフィードで調べれば、ここがどの辺りか分かるだろう。運営委員会へ救援を要請すれば動いてくれる筈だ、大きなウインドシップを手配して、医師とともにこちらへと向かってくれるに違いない。 フリードが納得をしたので、ほっとした表情を見せたヴァンデミエールは、また木桶の水へ布を浸す。 フリードは、クローディアの額に固く絞った布当て、力を付けるように手を握る少女の横顔を、そっと見つめた。 いつも唇を引き結んだままで多くを語らぬヴァンデミエールは、胸に何かを抱えているようだ。少女は、思いつめた表情でフリードを諭すように語る事がある。 その言葉が何を指しているのか、フリードは分からない。 言葉の意味を問うても、悲しげな表情を見せるだけで、ヴァンデミエールは何も答えてはくれない。 ……不思議な少女だと、フリードは思う。 寡黙なヴァンデミエールはどんな重荷を背負っているのだろう。フリードは、ずっとその事を考えているものの、焦りにも似た気持ちだけが胸の中で空回りを続けている。 ヴァンデミエールの顔を見つめていると何故か気が急いてしまうのだ。フリードは両肩を落とした。視線を下に落としてじっと爪先を見つめる、己を責めるような苦い表情が浮かんだ。 「……フリード、お願いがあるのですが」 「ヴァンデミエール!?」 急に話しかけられて驚いたフリードは、弾かれたように顔を上げて少女の顔を見た。ヴァンデミエールは僅かに怪訝な表情をした後、床へと置かれている木の桶へと視線を向けた。 「水がぬるくなってしまいました、汲んで来て貰えませんか?」 「……あ、ああ。分かった」 どうやら思い違いだったらしい、緊張した体の力を抜いたフリードは返事をすると立ち上がった。 「ぴい!」 一声鳴いたシルフィが羽ばたくと、ちょこんとフリードの頭の上に止まった。 頭の上を止まり木代わりにしている小鳥は、お目付け役でも引き受けたつもりなのか。シルフィが頭の上に止まっている事に慣れてしまったフリードは、もう特になんとも思わない。 家の外へ出ると既に夜の帳が下り、辺りは闇に包まれつつある。肌に触れる空気がやけに冷たく感じる。手のひらを息で温め、フリードは家から少し離れた離れた場所にある井戸へと向かった。 木桶を地面に置いて釣瓶の綱を手に取る、トールは水を汲むために何度もこの井戸を往復したのだ、疲れて眠ってしまうのも当然だろう。 そんな優しい少年の心根を思うフリードは、表情を和らげた。 木桶に冷たい水を満たし、家へと戻ろうとした時だった。背中に人の気配を感じたフリードが振り返る。暗闇から浮かび上がる大きな人影に驚いて、闇に慣れはじめた琥珀色の瞳を大きく見開く。 「よう、フリード……」 「ウ、ウェンリーさん!」 そう言って親しげに片手を上げたのは、偉大なる冒険者ウェンリー・ホークだった。 |
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