The Story of Art Gallery Coffee shop Memories

38 .遙色のPallet〜Baby Pink〜
 目次
「君は金魚と呼ばれているのに、なにゆえ赤いお魚なの〜」
 茶館の二階あるアトリエで、遙はうきうきとスケッチしている。緩やかに身体を揺すり、妙な歌を口ずさんでしまうほどに機嫌が良い。
 エプロンの胸ポケットに入れられた、色とりどりのカラーマーカー。小さなスケッチブックを片手に、くるくると踊り出してしまいそうだ。
「……これこれ、動くでない」
 遙が熱心に見つめているのは金魚鉢。慎吾が夏祭りの屋台ですくってきた一匹の金魚。
 遙は、くすりと笑みを漏らす。
 可愛い浴衣姿の慎吾は、ビニール袋に入れられた金魚を得意そうに見せてくれた。
(我が息子も、逞しくなったものよのう……うふふ)
 かなりの親バカ加減のようだが、本人はまったく気が付いていない。
 るんたった〜と、リズミカルにステップを踏みながら、すらすらすいすいと金魚を描いていく。
「う〜」
 ご機嫌な遙の背後から、声が聞こえる。
「む〜」
 何かを求めるような、すがるような声。
「うむ〜」
 今度は、ちょっと表現豊か。
 その声を聞いている遙は、嬉しくてしょうがない。
(まだよ、まだまだ)
 振り返りたくて、もう堪えきれないくらいうずうずしているのに、遙は知らん顔をした振りで、ちらちらと背後を盗み見ている。
 もう金魚なんか、まったく意識に残っていない。
「うあ゛〜」
(あっ! いけないっ!)
 泣きそうな声になった、もう駄目っ!
「あーちゃーん、ごめんねー!」
 スケッチブックを放り出した遙は、ぽんぽんぽーんと三段跳びでベビーベッドに近づいた。
「はい、良い子ねー」
 両手を伸ばし、ベッドの手摺りに掴まっている彩人を抱き上げる。
「悪いママねー」
 ぷくぷくのほっぺにキス、それから頬ずり。 
 そして、ぎゅーっと抱きしめる。
(ああ、駄目、もう、可愛いっ!)
 両腕に抱きしめた頼りない身体に感じる温もり、ほのかなミルクの香り。
「……うぷうぷ」
 柔らかな彩人の抱き心地を堪能していた遙は、苦しそうな声に気付いて我に返った。
 慌ててぱっと、抱き直す。
「ぷは」
 大きく息を付いた彩人。
 栗色の大きな瞳を見開いて、きょとんと遙を見つめている。
(あああ、駄目、また抱きしめちゃう)
 その時、ぷるぷるっと身体に力を入れた彩人が微かに震えた。
「あ……。やっちゃったみたいねー」
 彩人の様子に気付いた遙は、ひょいっと彩人を右腕に乗せるように抱いて、左手で扉を開けた。
「はいはいはい、おしめ替えようね、あーちゃん」
 とんとんと階段を下りる遙の足はふわふわと、ほとんど床についていない。
(アトリエにも、置いておけば良かったわね)
 茶館を出て、裏の離れに向かう。
 本居はただいま改築中。茶館がすぐ前に建っているので、遙はこの離れで暮らしてもいいのだが、夫の幸一郎はそう思わないらしい。
「あらら、気付かなかったわ。お義父様はお店に出られたみたいね」
 離れには、茶館の店主を務める幸太郎が一人で住んでいる。
 慎吾と彩人を、とても可愛がってくれる幸太郎。みんなで一緒に暮らせば楽しいのにと、遙は思うのだが。
「のらりくらりと掴み所がない親父と一緒だと、落ち着かない」
「誰に似たのかカタブツでね、幸一郎と顔を付き合わせていると肩がこるんだ
よ」
 どうやら、お互いに煙たがっているらしい。
 変わった親子だと、遙は苦笑するしかない。
「はーい、気持ち良いでちゅねー」
 おしめを替えて、取り敢えず離れの居間で一段落。
(……それにしても、やっぱり見れば見るほど)
 遙はそう呟いて、彩人をしげしげと見つめる。
 遙と同じ栗色の髪に、栗色の瞳。特徴が全く同じで、目鼻立ちもよく似ている。このまま大きくなれば、姿は遙と瓜二つになるかもしれない。
 小さな手で、ぺたぺたと畳を叩いている彩人。柔らかな眼差しで彩人を見つめていた遙は、突然ぴくりと背筋を伸ばした。
「先生っ!?」
 ばっと立ち上がり、さっと彩人を抱いて、気配がする台所に向かう。
 遙の師である黒衣の画家、瑠璃子は神出鬼没だ。遙が何処に居るかなんて関係ない、遙の存在を頼りにいきなり尋ねて来る。
 遙は瑠璃子の気配を追って、急いで台所に飛び込むが、きょろきょろしてもその姿はない。
「気のせいかな……」
 膨らんでいた期待がしぼんで、ちょっと肩を落とした遙は、冷蔵庫へ貼り付けられている小さな水彩紙を見つけた。
『遅れちゃったけど、コレお祝い。たくさん召し上がれ(笑)』
 その文面を読んで勢い良く冷凍庫を開けた遙は、がっくりと肩を落とした。
「……やっぱり」
 思わず手を伸ばす、冷凍庫にこれでもかと詰め込まれているのはアイスクリーム。
 水彩紙に書かれている文字は歪んでいる。思いついた悪戯に、笑いを堪えながら書いたのだろうか。
「先生ったら、絵ほどには字が綺麗じゃないものねー」
 憎まれ口を叩いていると「うーうー」と、彩人がアイスクリームに手を伸ばす。
 興味津々の大きな瞳、綺麗な包装が気になるらしい。
「あーちゃんには、ちょっと早いね。ちゅめたいから、しまっておこうねー」
 遙はアイスクリームを冷凍庫へ入れて、ぱたんと扉を閉めた。
 ちょっと寂しい。
 彩人を抱いて居間に戻ると、卓の上にまた水彩紙が置かれている。
『不出来な弟子へ。汚い字で悪かったわね、ムキーっヽ(*`Д´)ノ』
「先生っ! 何処に居るんですかっ!」
 紙を握りしめて遙が叫ぶが、瑠璃子は姿を見せない。やはり、すでに立ち去ってしまったのだろうか。
 画材が詰まったトランクを片手に、何を目的に何処を旅しているのだろう。遙がくすんと鼻を鳴らすと、目の前にふわりと、また水彩紙が舞い落ちて来た。
『体に気を付けなさい、決して無理をしては駄目よ。私を越える才能を秘めた自慢の弟子へ……でも、あんたには絶対に負けないんだからねっ!』
「もう……早く旅に出ちゃって下さい!」
 瑠璃子の負けず嫌いは、相変わらずのようだ。
 遙は握り潰した水彩紙の皺を、丁寧に手で伸ばす。
 ……すると。

 『ま・た・ね・♪』

 先ほどと文面が変わっていて、しかも手を振る瑠璃子の似顔絵が描いてあ
る。
 この程度の事は、瑠璃子にとって簡単な事なのだろう。
「はいはい」
 遙は卓に頬杖をつき、皺を伸ばした水彩紙をじっと眺めた。遠くに離れていても、ちゃんと心に留めていて、声を掛けてくれる……。
 そう思うと、とても暖かい気持ちが胸にこみ上げて来る。遙は彩人を抱いて、ゆらゆら揺れながら幸せそうな笑みを浮かべた。
 ふと時計を見ると、彩人にお昼寝をさせる時間になっている。眠気がゆるゆると遙を揺する、アトリエで使うエプロンを外すのも億劫なほど眠い。彩人と一緒にころんと横になって、タオルケットを小さな体に掛けた。
「はーい、あーちゃん。お昼寝しようねぇ」
 言い終わらぬうちに、あくびが出てくる。
 遙は抱き寄せた彩人のお腹をさすりながら、自分も微睡みに身を委ねた。

 ☆★☆

「ふにゃっ!」
 何やら夢を見ていたようだが思い出せない。
 はっ! と目を開けて、時計を見た遙は驚いて飛び起きた。
 すやすやと眠っている彩人をベビーベッドに寝かせ、台所へ飛び込むと急いで夕食の準備に取りかかる。
 指を切ったりしなかったのは幸いだが、寝ぼけているのでお皿を二枚割ってしまった。
 でも頑張った甲斐あって、食卓に並ぶ色とりどりの料理。
 満足げな笑みを浮かべた遙は、アトリエで使うエプロンをしている事に気が付いた。
「あ、いけない」
「てへへ……」と、一人で照れ笑い。
 その時。
「ただいま!」
 元気な声が、玄関から響いて来た。
「お帰り〜」
 遙は、ぱたぱたと出迎える。帰り道で一緒になったのか、夫と長男二人一緒のご帰宅だ。
 玄関で靴を脱いでいた幸一郎と慎吾が、遙を見て硬直した。
「……何?」
 穴が開くほどに見つめられ、二人の視線を浴びる遙は訳が分からない。
 慎吾は何やら脅えたように、遙を避けて居間へ駆け込んで行く。
「あん! ほら慎吾、手を洗ってうがいをしなさいっ!」
「……なぁ、遙」
「え? 何よ、さっきから二人してぇ」
 思わず、ぷっと頬を膨らませる。
 しかし幸一郎は、ゆるい笑みを浮かべるだけで何も答えず、洗面所へ向かい大声で慎吾を呼んだ。
「もう!」
 遙は訳が分からず、どんっ!と、床を踏み鳴らした。

 楽しい夕げ、団欒のひととき。茶館の営業を終えて戻った幸太郎を含め、家族みんなで食卓を囲む。
 幸太郎、幸一郎、慎吾。
 彩人の様子を見ながら食事を続ける遙の顔へ、何故か家族の視線が集中する。その違和感に耐えられず、ついに遙が声を上げた。
「もう、今日はみんな変よ! お義父様まで、私の顔に何か付いているんですかっ!」
 眉を吊り上げた遙に「うん」と幸太郎が、あっさりと答えた。
「え゛?」
 口元を引き攣らせて凍り付く遙。
「お前、今日は何をしていたんだ?」笑いを堪えていた幸一郎が、いきなり吹き出す。
 もくもくと、黙って箸を動かしている慎吾。
(まさかっ!)
 不吉な予感に、遙は慌てて席を立つと洗面所へ飛び込んだ。
 明かりをつけて鏡を覗き込んだ遙は、
「いやあああああああああああっ!」
 家の屋根が吹き飛ぶほどの、大きな悲鳴を上げた。
 鏡へと映った遙の額に『瑠璃子参上!』と、大きく綺麗な字が書いてあった。
 そして顔のあちこちには、色とりどりのカラーマ−カーの痕。瑠璃子が彩人と一緒に、遙の顔へ思うがままに落書きしたのだ。
「せんせい……よっく覚えていてくださいねぇ」
 地獄の底から響くような声を絞り出し、遙は顔の落書きを落とす為に蛇口をひねる。
(ん〜でも、カラーマ−カーのタッチ、いきいきとしてるわね! 大きくなったら、あーちゃんに絵を教えてみようかな?)
両手で石鹸を泡立てながら「うふふ……」と楽しそうに笑う、どこまでも親バカの遙だった。
 
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